オスカル・ドミンゲス / Óscar Domínguez
デカルコマニー技法の発明者
概要
オスカル・M・ドミンゲス(1906年1月3日-1957年12月31日)はスペインの画家。シュルレアリスト。
ドミンゲスは、美術史において1936年にシュルレアリスムのオートマティスム技法の1つであるデカルコマニーを発明、普及させたことで評価されている。
デカルコマニーとは、紙などの表面(ガラスが使われたこともある)に薄く広げたガッシュを、キャンバスなどの別の表面に押し付け、獣、人物、岩の多い風景を連想させる奇妙な形を作った。
アンドレ・ブルトンによって考案されたオートマティスムは、シュルレアリスムにとって、芸術を通して潜在意識をチャネリングする手段として重要なものであった。
ドミンゲスのスタイルは、マックス・エルンスト、ハンス・ベルメール、レメディオス・バロ、オランダの詩人で翻訳家のガートルード・パペなど、多くのアーティストに影響を与えた。
経歴
スペイン・カナリア諸島のテネリフェ島のサン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナに生まれる。タコロンテの祖母のもとで過ごした幼い頃に発病した大病で顔の骨格や四肢の変形が進行が原因で、絵画に専念するようになる。
1927年、農産物貿易商である父親の事業を監督するため、初めてパリに行く。21歳でパリに出ると、まずレ・アールの中央市場で父のもとで働き、夜はキャバレーで過ごし浪費した。
その後、いくつかの美術学校に通い、ギャラリーや美術館を訪れる日々を送る。
1928年、兵役のためにテネリフェ島に戻り、翌1929年にパリに戻る。
1931年に父親が亡くなったため、広告用のイラストレーションで生計を立てはじめる。
前衛的な画家に急速に惹かれるようになる。イヴ・タンギーやパブロ・ピカソの影響を受けていることが初期作品からわかる。彼の最初のシュールレアリスム絵画は1932年に描かれた。
1933年にシュルレアリスムの理論家アンドレ・ブルトンや詩人ポール・エリュアールと出会い、1年後の1936年にはコペンハーゲンやロンドン、テネリフェで開催されたシュルレアリスム展に参加。また、ドミンゲスは、パリのアトリエ17で活動していた。
1934年、パリのグループに参加。アンドレ・ブルトンは、「カナリア諸島の熱烈で芳しい口笛」と彼を紹介した。ドミンゲスは1940年までこのグループの展覧会に参加した。
占領下時代にはマルセイユのヴィラ・アイル・ベルに滞在し、有名な「クロック・フルーツ」を手がけた。
1941年末、パリで友人の詩人ロベール・リウスと合流し、メイン・ア・プリュムというグループの活動に参加し、主要なイラストレーターのひとりとなった。
この間、ギャルリ・ルイ・カレで初の個展を開催し(1943年、ポール・エリュアールの序文)、ピカソの影響をますます受けた作品群を発表した。戦後、この絵画的進化により、彼はブルトンから追放されることになる。
1957年12月31日、ドミンゲスは浴室で手首を切って自殺した。愛人関係にあったマリー・ロールは、彼をモンパルナス墓地のビショフスハイム家の霊廟に埋葬するよう手配した。
なお、25歳のときにドミンゲスが描いた自画像は、手が変形し、リストカットした姿の作品で、未来の自身を予言していた。
市場
2000年以降に再評価が高まる。1937年の油絵《The Infernal Machine》は2000年6月8日、パリのドルーオ・モンテーニュで277万FF(404,375米ドル)で落札された。
1933年の油彩画『ロマの肖像』は、2014年2月4日にロンドンのクリスティーズで902,500英ポンド(1,469,270米ドル)で落札された。