趙無極 / Zao Wou-Ki
中国水墨画と前衛芸術を融合させた画家
概要
生年月日 | 1921年2月13日 |
死没月日 | 2013年4月9日 |
国籍 | 中国、フランス |
表現形式 | 絵画、ドローイング |
ムーブメント | 抽象表現主義 |
影響を受けた作家 | パウル・クレー、アンリ・マティス、パブロ・ピカソ |
趙無極(ピン音: Zhào Wújí;1921年2月13日-2013年4月9日)は中国の画家。のちにフランス市民権を取得。パリのアカデミー・デ・ボザールの会員。中国の伝統水墨画と近代美術様式を融合させた画家として評価されている。
江蘇省鎮江市丹徒区に住む宋朝の王族の名家に生まれる。幼少期から書道を学び、彼は恵まれた教育環境に育ったという。1935年から1941年まで趙は上海に隣接した杭州の中国美術学院(China Academy art)にて絵画を学ぶ。
1948年に妻で作曲家の谢景兰とともにパリのモンパルナスへ移り、エミール・オットン・フリースの授業を受ける。フランスで初開催した個展では、ジョアン・ミロやパブロ・ピカソから称賛された。趙と妻の二人はパリで芸術キャリアを積み重ねていたが、二人の間に生まれた子どもは中国で暮らしている趙の両親のもとで育てられた。1950年代なかばに二人は離婚。
1957年に趙はアメリカへ移り、ニューヨークのアートシーンに近い彼の弟である趙武圍の住んでいるアメリカのニュージャージー州に滞在する。そこで、趙は当時流行していたポップ・アートに関して興味を持つ。またこの頃にフランツ・クライン、マーク・ロスコらアメリカ抽象表現主義の作家たちと知り合う。アメリカ滞在中に趙は、弟の家で7枚の絵画を制作しているが、その年(1957年)の作品点数は比較的少ないほうである。のちに、デトロイト美術館へ弟から最も大きな絵画作品が寄贈された。
趙は6週間ほどアメリカに滞在したあと、東京、その後香港を旅行する。香港で趙は二番目の妻となる女優の陈美琴と出会う。趙の影響で彼女は彫刻作家として成功するが、1972年に彼女は41歳で精神疾患が原因で、睡眠薬のオーバードーズで自殺。1977年に趙は三度目の結婚をしている。
趙の作品はパウル・クレーからの影響が強く、大量のカラーがキャンバス上に炸裂したような抽象作品である。ニューヨーク旅行中にマーク・ロスコやグランツ・クラインらと出会ったこともあり抽象表現主義スタイルの作家とみなされているが、趙自身は印象派作家のほかに、アンリ・マティス、パブロ・ピカソ、ポール・セザンヌから影響を受けているという。
作品名はその作品を完成させた日付けを付けおり、三連画や二連画作品が多い。
詩人アンリ・ミショーとの出会いは、彼に中国の伝統的な水墨画の技法を見直すきっかけとなった。その後、趙はパリのアカデミー・デ・ボザールの会員となり、生存中に欧米のアートシーンで最も成功した中国人画家の1人とみなされるようになった。
2013年12月1日、サザビーズ北京で趙の作品は約1400万ドルの値を付けた。
2013年4月9日、スイスの自宅で死去。92歳だった。