【美術解説】ウィレム・デ・クーニング「抽象表現主義で描かれた女性像が人気」

ウィレム・デ・クーニング / Willem de Kooning

抽象表現主義で描かれた女性像が人気


ウィレム・デ・クーニング『インターチェンジ』(1955年)
ウィレム・デ・クーニング『インターチェンジ』(1955年)

概要


生年月日 1904年4月24日
死没月日 1997年3月19日
国籍 オランダ、アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント 抽象表現主義
関連人物 パブロ・ピカソ、アーシル・ゴーキー、フランツ・クライン
関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

ウィリアム・デ・クーニング(1904年4月24日-1997年3月19日)はオランダ出身、アメリカの画家。抽象表現主義運動で活躍。

 

第二次世界大戦後、前衛集団「ニューヨーク・スクール」のメンバーとして知られるようになり、クーニングはアクションペインティング形式で抽象表現主義的な絵画を制作。

 

2017年現在、マーケットに流通している作品ではクーニングの絵画が最も高額。2015年11月にデヴィッド・ゲフィンからケネス・C・グリフィンに個人間取引されたウィレム・デ・クーニングの『インターチェンジ』は3億ドルの値を付けた。

 

妻は同じ抽象表現主義でニューヨーク・スクールメンバーのエレーヌ・デ・クーニング。

略歴


オランダからアメリカへ密航


ウィレム・デ・クーニングは、1904年4月24日オランダのロッテルダムで生まれた。父レーンデルト・デ・クーニングとコーネリア・ノベルは1907年に離婚、デ・クーニングは最初に父親、のちに母親と住んでいた。

 

1916年に学校を去り、職業画家の会社に徒弟として働きながら、1924年までロッテルダム美術応用科学大学の夜間クラスに通う。現在、この学校はウィレム・デ・クーニング大学になっている。

 

1926年にクーニンはアルゼンチン向けのイギリス貨物船に乗って密航し、8月15日にバージニア州のニューポート・ニューズに上陸し、アメリカを旅する。その後、ニュージャージ州ホーボーケンのオランダ・シーメンス教会の家に滞在しながら、家屋塗装の仕事を見つける。

 

1927年にマンハッタンに移り、西44通りで制作スタジオを持ち、大工、家屋塗装、商業芸術などの仕事で生活を始めた。

師匠ゴーキーとの出会い


手間が空いた時間に絵を描きはじめ、1928年にニューヨークのウッドストックの芸術コロニーに参加。マンハッタンで活動する前衛美術家たちとも交流を始め、スチュアート・デイヴィス、アーシル・ゴーキー、ジョン・D・グラハムらと知り合う。デ・クーニングはこの3人を"三銃士"と呼んだ。

 

ミシャ・レズニーコフの家で初めてゴーキーに会ったとき、デ・クーニングはすぐに仲良くなり、その後、少なくとも10年は彼から影響を受けている。バルクーム・グリーンは「デ・クーニングはゴーキーを崇拝していた」と話しており、またアリストデモス・カルディスは「ゴーキーはデ・クーニングの師匠」と話している。

 

1938年ごろの作品『想像上の兄弟とのセルフポートレイト』を描いているが、この絵の源泉となっているのはゴーキーと考えられている。この人物のポーズは1936年頃のピーター・ブサと写っているゴーキーの写真とそっくりである。

ウィレム・デ・クーニング『想像上の兄弟とのセルフポートレイト』(1938年)
ウィレム・デ・クーニング『想像上の兄弟とのセルフポートレイト』(1938年)
ピーター・ブサと写っているゴーキー(左)の写真。
ピーター・ブサと写っているゴーキー(左)の写真。

1939年のニューヨーク万国博覧会


デ・クーニングは1934年に『芸術家連盟』に参加し、1935年にニューディール政策時に発足した公共事業促進局の連邦美術計画の仕事を受ける。ブルックリンのウィリアムスバーグ・ハウスをはじめさまざな装飾壁画のデザインに応募。

 

いずれのデザイン案も採用されなかったが、ニューヨーク近代美術館で開催された「アメリカ芸術の地平線」展に参加したときに、当時のデザインスケッチの一部が展示された。なお、この展覧会はデ・クーニングにとって初めてのグループ展でもある。

 

1937年、デ・クーニングにアメリカ市民権を所有していないこと発覚、連邦美術計画は彼を追い出す。その後、フルタイムの画家として仕事をはじめるようになる。

 

同年、デ・クーニンは、1939年のニューヨーク万国博覧会のファーマシー・ホールで壁画の一部を割り当てられる。この仕事でデ・クーニングは、これまでのアメリカリアリズム絵画と全く異なる新しいイメージを描き、多くの注目を集めるようになった。

1939年のニューヨーク万国博覧会のファーマシー・ホールで壁画。
1939年のニューヨーク万国博覧会のファーマシー・ホールで壁画。

結婚と初期ポートレイトシリーズ


デ・クーニングの妻エレーヌ・フロイドとは、ニューヨークのアメリカ美術学校で出会った。当時彼女は14歳の中学生だった。彼女との以後生涯、アルコール依存、貧困、恋愛、喧嘩、別れをともなう不自然なパートナーシップが始まる。二人は1943年12月9日に結婚。

 

1930年代から1940年代初頭のデ・クーニングの絵画は、幾何学もしくは有機的形態や強い色味の抽象静物画が中心だった。友人のデービス、ゴーキー、グラハムの影響が見られ、ほかにハンス・アルプ、ジョアン・ミロ、ピエト・モンドリアン、パブロ・ピカソの影響も見られる。この頃からデ・クーニングは、立っているもしくは座っている男性のポートレイト絵画の最初のシリーズを始める。

 

また、アメリカリアリズム絵画の形象的スタイルでモノクローム調の作品を作っていた若手画家フランツ・クラインに出会い、デ・クーニングはその影響を受ける。クラインは若く死んだが、デ・クーニングの最も仲の良い芸術家友人だった。クラインの影響は、この時代のクーニングのカリグラフィックなブラックなイメージに現れている。

ウィレム・デ・クーニング『二人の立っている男』(1938年)
ウィレム・デ・クーニング『二人の立っている男』(1938年)
ウィレム・デ・クーニング「座っている男性」(1939年)
ウィレム・デ・クーニング「座っている男性」(1939年)

黒と白の絵画シリーズ


1946年までに、デ・クーニングは黒と白の絵画シリーズを始める。これは1949年まで続いた。この時代の1948年、チャールズ・エゴン・ギャラリーで初個展を開催している。その個展は黒と白の大型作品を中心に構成されたものだった。デ・クーニングの黒絵画は、その技術、ミクストメディア、フォルムの点でみても抽象表現主義の歴史で重要である。

ウィレム・デ・クーニング「無題」(1948年)
ウィレム・デ・クーニング「無題」(1948年)

女性ポートレイトシリーズ


デ・クーニングの代表的な作品である女性シリーズは1950年から始まる。シリーズの頂点となる作は1953年の「女性6」である。女性シリーズはピカソの後期作品の影響が色濃く、攻撃的に鋭く身体造形を部分的に破壊している。

 

デ・クーニング絵画における女性像は、欲望、欲求不満、内面的な葛藤、喜びなどが反映されており、それ以前の男性像とは異なる。女性像はデ・クーニングの芸術キャリアだけでなく人生において最も重要なシンボルである。

 

第二次世界大戦後の歴史とアメリカのフェミニズム運動に関する歴史的文脈を通じても、美術館にとっては重要な作品とみなされている。さらにこの時代の絵画のメディウム(油彩、エナメル、木炭)は、ほかの時代のクーニング作品とは異なる点も注意したい。

ウィレム・デ・クーニング「女性6」(1950-1952年)
ウィレム・デ・クーニング「女性6」(1950-1952年)
ウィレム・デ・クーニング「女性5」(1952-1953年)
ウィレム・デ・クーニング「女性5」(1952-1953年)
ウィレム・デ・クーニング「女性3」(1953年)
ウィレム・デ・クーニング「女性3」(1953年)