小麦畑 / Wheat Fields
目次
概要
《小麦畑》はフィンセント・ファン・ゴッホが、宗教的な学習や説教、自然とのつながり、肉体労働者への感謝、他者に安らぎを与える手段を提供したいという欲求から生まれた数十点の絵画シリーズ。
1885年にオランダで制作された《麦束》から、1888-1890年にフランスのアルル、サンレミ、オーヴェル・シュル・オワーズで描かれたカラフルでドラマチックな作品まで、彼の芸術家としての成長を示す麦畑の作品シリーズ。
「ゴッホと神』の著者であるクリフ・エドワードは、次のように述べている。
「ゴッホの人生は統合の探求であり、具体的にはゴッホが関心を持った「宗教」「芸術」「文学」「自然」の観念をいかに統合するかであった」。
プロテスタントの牧師を目指していたものの、結局、聖職に就くことができなかったゴッホは、人生の意味について最も深い感覚を表現し、伝える手段として芸術に目を向けはじめた。
ゴッホは、絵を描くことを天職と考えるようになった。「(世の中に対して)ある種の恩義を感じ、感謝の気持ちから、絵や図形の形で何らかの記念品を残したい」と思うようになったという。
またゴッホは、パリからアルルへ向かう際、都市生活から脱却し、畑で働く労働者たちとともに働き、「自分の芸術と人生に、農村の労働に見合った価値を与える」ことを目指したのだった。
ゴッホは、麦畑を描いた一連の作品において、象徴主義や色彩を用い、彼の深く感じた精神的な信念、肉体労働者への感謝、自然とのつながりを表現したのである。
なぜ小麦畑を主題としたのか
牧師から芸術家へ
ゴッホは若い頃、労働者のための牧師になりたいと宗教的な天職を追求した。1876年、イギリスのアイルワースに赴任し、メソジスト教会で聖書講座を開き、ときには説教もした。
オランダに戻ったゴッホは、正式に聖職に就くための勉強、信徒としての勉強、あるいは宣教師のための勉強をしたが、どれも最後までやり遂げることはできなかった。
父の援助でベルギー南部のボリナージュに赴き、炭鉱労働者の看護と伝道を行った。そこでゴッホは、わずかな給料で半年の試用期間を得て、古いダンスホールで説教をし、聖書学校を設立して教えた。
しかし、彼の熱意と禁欲主義は、その職を失うことになった。彼の自罰的な貧しい生活の中に神の癒しを見出すという信念は、苛酷な労働条件で労働者が死に、抑圧され、労働争議が巻き起こっていた炭鉱の町において人を惹きつけることはなかったためだ。
その後、9ヶ月間、社会と家族から離れ、教会の体制を拒否しながら、「神を知る最良の方法は、多くのものを愛することです。友人、妻、何か、好きなものを愛せば、(そして)神についてもっと知るための道を歩むことになる」というのが、私の口癖です。しかし、人は高尚で真剣な親密な共感をもって、力強く、知性をもって愛さなければならない」と、自分なりのスピリチュアリティのビジョンを模索しはじめた。
1879年、彼は人生の方向転換を図り、「神と人間への愛」を絵画で表現できることに気づいた。
ゴッホにおける小麦畑の解釈
聖書のたとえ話に惹かれたゴッホは、麦畑を人間の生命の循環のメタファーとしてとらえ、成長を祝うと同時に、自然の力の影響を受けやすいことを認識した。
●聖書の種蒔きと刈り入れの象徴について、ゴッホは聖書のレッスンでこう教えている。
「人は、自分がすでに学んだことを人生から得ることを期待していません。むしろ、人生は一種の種まきの時期であり、収穫はここにないことをより明確にわかりはじめる」
●ゴッホにおける『種をまく人』のイメージは、幼少期から聖書の教えの中でゴッホにもたらされたものである。
「ある種蒔きが種を蒔きに出かけた。種をまくと、ある種は道ばたに落ち、鳥が来てそれを食べてしまった。他の種は土のあまりない岩場に落ちたが、土の深さがないのですぐに芽を出した。日が昇ると焼け焦げて、根がないので枯れてしまった。他の種はいばらの中に落ち、いばらが伸びてそれをふさぎ、穀物を実らせなかった。他の種は良い土に落ちて穀物を実らせ、育って増え、三十倍、六十倍、百倍の収穫を得た」。
●ゴッホは、神の国に到達するための闘争の象徴として、掘り出し機と工作機を使った。
●特に「善神である太陽」に夢中で、太陽を信じない者を異教徒と呼んだ。後光の差す太陽の絵は彼の絵に多く見られる特徴的なスタイルで、ドラクロワの『テンペスト中に眠るキリスト』の日輪になぞらえて、神的なものを表現していた。
●ゴッホは嵐をその回復力の高さから重要視しており、「純粋な空気のより良い時代とすべての社会の若返り」を象徴していると考えていた。ゴッホはまた、嵐は神を現すものだとも考えていた。
農民、肉体労働者、社会的弱者
ゴッホに大きな影響を与えた「農民」という主題は、1840年代にジャン=フランソワ・ミレーやジュール・ブルトンらの作品から始まった。1885年、ゴッホは農民の絵を近代美術への最も重要な貢献と位置づけた。
ミレーやブルトンの作品を「高貴なもの」という宗教的な意味を持ち、「麦の声」と表現している。
ゴッホは大人になってからも、人に仕えること、特に肉体労働者に仕えることに関心を持っていた。若い頃、彼はベルギーのボリナージュで炭鉱労働者に仕え、奉仕した。それは、宣教師や労働者のための牧師になるという彼の使命に近づくように思えた。
ゴッホが好んだ作家や画家に共通しているのは、貧困や社会的弱者に対する感傷的な姿勢であった。ゴッホは農民の絵について、弟のテオにこう書いている。ゴッホは、労働者をどのように献身的に絵画として描くか考えた。
「耕す農夫のように、自分が合理的なことをしているという確信を持って、自信をもって絵に取り組まなければならない。犂を後ろに引きずる人。馬がなければ、自分が馬である」。
自然からインスピレーション
ゴッホは、想像による抽象的な習作よりも、自然からインスピレーションを得ることを好んでいた。彼は抽象的な研究をするよりも、こう書いている。
「私は自然をよく知るようになった。私は自然をよく知っている。私は誇張したり、時にはモチーフを変えたりするが、それでも、私は絵の全体を作り上げることはしない。それどころか、私はそれがすでに自然界にあることを発見しました、それだけが解きほぐされなければなりません」
ゴッホは、種まき、収穫、麦束など、農民と自然のサイクルの密接な関連に特に関心を持った。 耕すこと、種をまくこと、収穫することは、自然のサイクルを圧倒しようとする人間の努力の象徴と考えたのである。
「種をまく人と麦束は永遠を、刈り取る人と大鎌は取り返しのつかない死を表している」。発芽と再生を促す暗い時間は、『種まく人』や夕暮れの麦畑として描写されている。
ゴッホはテオに「自然、土、草、黄色い麦、農民が私にとってあるもの、言い換えれば、あなたが人々への愛の中に、働くだけでなく、必要なときにあなたを慰め、回復させるものを見出すことを望む」と書いている。
また、人間と自然とのつながりを探るゴッホは妹ウィルに「発芽力が麦一粒にあるように、愛は我々のうちにある」と書いている。
ゴッホは自然に魅了されて制作に没頭すると、自分というものを見失うようなことがあったという。
「自然があまりにも美しいこの頃、私は恐ろしいほどの明晰さを持ち、もはや自分自身を意識することはなく、絵は夢のように私の前に現れる」。
小麦畑の色彩
小麦畑は、ゴッホが色彩を試すことができる題材であった。オランダで制作したくすんだ灰色の色調の作品に飽きたゴッホは、より創造的で色彩豊かな作品を求めていた。
パリでゴッホは、エドガー・ドガやジョルジュ・スーラなど、フランスを代表する画家たちと出会い、色使いや技法に多大な影響を受けた。
それまで地味で暗かったゴッホの作品は、「色彩の輝き」を放つようになった。その色使いは劇的で、ゴッホは「表現主義者」と呼ばれることもあった。
ゴッホはパリで色彩や技法について多くを学んだが、南仏は彼の「ほとばしる感情」を表現する機会となった。
南仏の太陽が降り注ぐ田園風景の効果に啓発されたゴッホは、何よりも自分の作品が「色を約束する」ものだと報告した。
ゴッホは、作品に強度をもたらすために、補色と対照色を使い分け、それは作品の時代とともに進化していった。
ゴッホは2つの補色の結婚、その混ざり合いと対立、2つの同族の魂の神秘的な振動の活気と相互作用に言及した。補色の使用例として、『種まく人』では、金色と紫色、青色とオレンジ色の対比で、作品のインパクトを強めている。
春はライムグリーンとシルバー、小麦の成熟期はイエロー、ベージュ、そして光沢のあるゴールドと四季を映し出した。
小麦畑の絵の制作時期
ヌエネンとパリ
ゴッホが南仏に移る以前に、小麦を題材にした絵は数点しかない。
最初の作品《畑の中の麦の束》は、1885年7月から8月にかけて、オランダのヌエネンで描かれた。ここでは土地に重点が置かれ、労働は「膨らんだ小麦の束」によって示唆されている。
この作品は《ジャガイモを食べる人々》の数ヶ月後に制作されたもので、作家のアルバート・ルビンが言うように、ゴッホが芸術と人生の灰色から肉体的にも感情的にも芸術的にも自由になろうとし、ヌエネンを離れて、より「想像力に富んだ、より彼に適したカラフルな芸術」を発展させていた時期であった。
ゴッホは、アメリカの詩人ウォルト・ホイットマンが書いた、一本の草の中にある美しさについての詩に特に感心し、パリで麦の穂を描き始めたのである。
1887年には《ひばりのいる麦畑》を制作しているが、色使いや光と影の処理に印象派の影響が見られる。筆致は、小麦の茎のなど、対象を映し出すように描かれている。
この作品は、風に吹かれる麦、飛ぶひばり、空の流れから筋を引く雲などの動きを反映している。
収穫された小麦が残した土地と、風の力を受けて成長する小麦の姿は、私たちが生活の中で圧力を受けるように、生命のサイクルを映し出している。
ここに描かれた生命の循環は、悲劇的であると同時に慰めでもある。刈り取られたあとの小麦の無精ひげは、避けられない死のサイクルを反映し、小麦の茎、飛ぶ鳥、風にそよぐ雲は、絶え間ない変化を反映している。
アルル時代
ゴッホが南仏のアルルに移り住んだのは35歳くらいのとき。そこで彼は絶頂期を迎え、最高傑作を生み出した。《ラ・クラウの収穫》など、日常生活のさまざまな側面を描いた。
ゴッホの絵の中で最もよく知られているひまわりの絵は、この時期に描かれたものである。彼は絵画のためのアイデアを維持するために継続的に働いていた。
この時期は、ゴッホが人生で最も幸福だった時期のひとつと思われる。彼は自信に満ち溢れ、明晰な頭脳を持ち、一見満足しているように見える。
弟のテオに宛てた手紙には、「現在の絵画は、より繊細に、より音楽のように、より彫刻のようにならないように、そして何よりも色彩を約束するものだ」と書かれている。
その説明として、ゴッホは、音楽のようであるということは、心地よいということだと説明している。
444日足らずの間に、ゴッホは約100枚のドローイングを描き、200枚以上の絵画を制作した多作な時代である。しかし、それでも200通以上の手紙を書く時間とエネルギーがあった。
農夫が炎天下で作業するペースを考慮して素早く描く一方で、筆をキャンバスに置くずっと前から絵のことを考える時間を送ってもいた。
この時代のゴッホの作品は、印象派、新印象派、日本美術(ジャポニズム参照)など、さまざまな影響を受けた集大成的な作品である。鮮やかな色彩とエネルギッシュなインパストの筆致が特徴的な作風に発展した。
1888年5月
《小麦畑の農家》と《アルル近郊の小麦畑の農家》はどちらも1888年5月に作られ、ゴッホは当時、次のように説明している。
「黄色や紫の花が咲き乱れる野原に囲まれた小さな町、それは美しい日本の夢です。」
1888年6月
この円盤は、ウジェーヌ・ドラクロワの『テンペストの中で眠るキリスト』の光輪を模したもので、ゴッホは神聖なものを表現することを意図している。
ゴッホは、成熟した小麦畑に対する小麦の種まきという生命の循環を描いており、そこには沈む太陽のような死があるが、同時に再生もある。太陽は再び昇る。小麦は刈り取られたが、種を蒔く人は新しい作物のために種を植える。遠くの木から葉が落ちたが、また葉が生える。
『種をまく人』では、ゴッホは画面に強度をもたらすために補色を使用している。耕された畑には青とオレンジの斑点が、種をまく人の背後にある春の小麦には紫と金色が使われている。ゴッホは象徴的かつ効果的に色を使い、この作品の色について語ったとき、こう言った。現実の色がどうであろうと、私は気にすることはない。
ゴッホはミレーの『種をまく人』に触発され、この作品の後にいくつかの作品を描いている。ゴッホは1883年に1点、この作品以降に6点の「種をまく人」を描いている。
6月後半には10枚の「収穫」シリーズに取り組み、色彩や技法を試した。1888年6月21日、ゴッホは弟のテオに「私は今、炎天下の中、麦畑で一週間一生懸命働いている」と書いている。
ゴッホは、一連の小麦畑を「...風景、黄色、古い金色、素早く、素早く、急いで、まるで炎天下で黙々と刈り取ることだけに専念する収穫人のように」と表現している。
アルピーユ山麓を背景にした《麦畑》は、低い地平線を背景に広大に広がる平野の風景である。
キャンバスのほぼ全体が小麦畑で埋め尽くされている。手前には黄、緑、赤、茶、黒などの緑色の小麦があり、より成熟した黄金色の小麦を際立たせている。遠くにはアルピーユ山脈が見える。
ゴッホは《アルル近郊の麦畑》についてこう書いている。
「夏の太陽...町の紫、天体の黄色、空の緑青。麦は古金、銅、緑金、赤金、黄金、黄銅、赤緑のすべての色相を持つ」。
この作品は、ミストラル(強風)が吹き荒れる時期に制作された。ゴッホはキャンバスが飛ばされないように、イーゼルを地面に打ち付け、ロープでキャンバスをイーゼルに固定した。
《アルル:麦畑からの眺め(麦畑とその背景のアルル)》は、このシリーズのもうひとつの作品で、収穫を表現している。手前には収穫された小麦の束が互いに寄り添っている。画面中央には、収穫の様子が描かれている。
ゴッホ自身が名付けた《収穫》、あるいは《モンマジュールを背景にしたラ・クラウの収穫》は、水平な平面で構成されている。前景には収穫された小麦が横たわっている。
中央には干し草の山、梯子、荷車、そして投石器を持った男によって、収穫のための活動が表現されている。背景は、ターコイズブルーの空を背景にした紫紺の山々である。
ゴッホは、"田舎暮らしの本質 "を描くことに興味を持っていた。6月、ゴッホはラ・クローの風景について、「海のように美しく、果てしない」と書き残している。
彼の最も重要な作品の一つであるこの風景画は、17世紀オランダの巨匠、ルイスダールやフィリップス・コニンクの絵画を思い起こさせる。
サン・レミ
精神病院での麦畑
1889年5月、ゴッホはプロヴァンスのサン・レミーの近くにあるサン・ポールの精神病院に自発的に入所した。ゴッホはそこで、隣接する独房をアトリエとして使用することができた。
彼は当初、精神病院の敷地内に閉じこもり、部屋から見える世界、例えば蔦に覆われた木々、ライラック、庭の菖蒲などを(鉄格子なしで)描いていた。
開放された鉄格子からは、サン=レミで何度も描かれた麦畑を見ることができた。 塀の外に出て、麦畑やオリーブ畑、糸杉など、「プロヴァンスらしい」風景を描いたのである。この年、彼は約150枚のキャンバスを描いた。
ゴッホは、サンポール病院の独房から見える麦畑を描いた作品群に取り組んだ。アトリエの部屋からは、壁で囲まれた麦畑が見えた。その向こうにはアルルからの山々が見える。精神病院に滞在中、彼は囲われた麦畑と遠くの山々の景色を12枚ほど描いている。
5月、ゴッホはテオにこう書いている。「鉄格子の窓から、囲いの中の四角い麦畑が見える。ヴァン・ゴエンのような遠近法で、その上には朝日が輝いて昇っているのが見える」。
石壁は額縁のようになり、小麦畑の色の変化を見せるのに役立っていた。
糸杉と麦畑
糸杉のある麦畑の絵は、ゴッホが精神病院を退院できたときに描かれたものである。ゴッホは糸杉と麦畑をこよなく愛し、そのことをこう書いている。
「私はあなたに伝えるべきニュースがないのです。ただ、麦畑も檜も、クローズアップして見る価値があると思うだけで、毎日同じことの繰り返しで、何も考えつきません」。
7月初旬、ゴッホは弟テオに、6月に描き始めた作品『糸杉のある麦畑』について手紙を書いた。
「糸杉と麦の穂、ポピー、スコッチ・プレードのような青空の絵がある。手前は厚いインパストで描かれている。そして、猛暑を表す太陽の下の麦畑は、非常に厚く描かれている」。
ゴッホはこの風景画を彼の「最高の」夏の絵のひとつとみなし、その年の秋に、構図がよく似た油絵をさらに2点描いている。そのうちの1枚は個人コレクションに収蔵されている。
ロンドンのナショナル・ギャラリーが所有している1889年9月に描かれた《麦畑と糸杉》は、『Janson & Janson 1977』の p.308によると、次のように描写されている。
「畑は嵐の海のようであり、木々は地面から弾けるように生え、丘と雲は同じように波打つ。一筆一筆が、混じりけのない強い色の長いリボンの中で、大胆に浮かび上がっている」。
また、ロンドンのテート・ギャラリーに所蔵されているとされる、1888年9月に制作された《糸杉と麦畑》の青緑色の空の別バージョンも存在する。
そのほかの麦畑
ゴッホは、6月に描いた《糸杉と緑の麦畑》をこう表現している。
「黄色に色づいた小麦畑が、ブラックベリーと緑の低木に囲まれている。畑の端には小さな家があり、背の高い地味な糸杉が、紫のような青みがかった遠くの丘と、ピンクの筋が入った忘れな草の色の空に対して際立っている。その純粋な色合いは、すでに重く、パン生地の暖かい色合いを持つ焦げた穂と対照的である」。
10月、ゴッホは《囲われた麦畑と耕作者》を制作。
《山岳風景の中の麦畑》は、 1889年11月下旬から12月上旬にかけて描かれた。11月、現在バージニア美術館が所有する《サンポールの背後にある麦畑》は11月に描かれた。
オーヴェル・シュル・オワーズ
1890年5月、ゴッホはサン・レミからパリに向かい、弟テオとテオの妻ヨハンナ、生まれたばかりの赤ちゃんフィンセントと3日間の滞在をする。
ゴッホは、過去のパリでの経験とは異なり、もはや街の喧騒に慣れなくなっており、絵を描くには落ち着かないことに気づいた。
弟のテオと画家のカミーユ・ピサロは、ゴッホのためにオーヴェルに住むホメオパシー医で芸術のパトロンであるポール・ガシェ博士に紹介状を書き、オーヴェルに行く計画を立てた。
ゴッホはオーヴェルのオーベルジュ・ラヴーの宿で部屋をとり、ガシェ博士による世話と監督下になり「何か別の兄弟のように」の親密な関係になった。
しばらくの間、ゴッホは上達したように見えた。彼は非常に安定したペースで絵を描き始め、部屋には完成した絵すべてを置くスペースがほとんどなかった。
5月から7月29日に亡くなるまで、ゴッホは1日に1枚以上、約70枚の絵を描き、多くのデッサンを描いた。ゴッホはオーヴェールの教会などオーヴェールの町周辺の建物や肖像画、近くの野原などを描いている。
ゴッホがオーヴェルに到着したのは晩春、なだらかな丘に広がるエンドウ豆畑と小麦畑が収穫の時期を迎えていた。フランスやブリュッセルから出稼ぎに来た労働者が収穫のためにこの地に集まり、賑わいを見せていた。田舎暮らしが好きだったゴッホは、オーヴェールの田園風景の美しさを強く印象づけた。
ゴッホは弟にこう書いている。「古い茅葺き屋根と、前景の花盛りのエンドウ豆畑と、背景の丘の上にあるいくつかの小麦の、君が好きそうな習作があるんだ」。
小麦畑シリーズ
ゴッホは、7月中旬から下旬にかけてこの地方で行われる小麦の収穫をテーマに、13枚の大きなキャンバスで水平方向の風景を描いている。
このシリーズは、《曇天の麦畑》に始まり、収穫間近の《カラスのいる麦畑》、収穫後の《麦束》、《麦畑のある風景》と続く。
そして、収穫後に描かれた《麦束》、最後に《干し草のある野原》(個人蔵)である。
《緑の麦畑》は5月に制作された。また、《白い家のあるオーヴェールの麦畑》は6月に制作された。この絵は、おもに大きな緑の小麦畑である。背景には、壁と木の後ろに白い家がある。
《雨上がりの麦畑》の舞台となったオーヴェールの郊外の畑は、黄色、青、緑の「ジグザグのパッチワーク模様」を形成している。
ゴッホが母に宛てた最後の手紙には、この作品に必要な、とても穏やかな気持ち、「丘のようにどこまでも続く麦畑のある広大な平原、繊細な黄色、繊細な柔らかい緑、耕されて草が生えた土地の繊細な紫、花をつけたジャガイモの緑の規則的な斑点、すべてが青、白、ピンク、紫の繊細な色合いの空の下にある」と記されている。
この絵は「曇天のオーヴェールの麦畑」とも呼ばれていた。
ゴッホは画家で友人のポール・ゴーギャンに《麦の穂》について、「緑とピンクの光沢の下にある、緑青の茎の長い、リボンのような葉の麦の穂、わずかに黄ばんだ、花の埃っぽい仕方で縁が薄いピンク色になった麦の穂以外の何者でもない。下には茎に巻きつくピンクの蓼(たで)が描かれています。賑やかでありながら静寂に包まれた背景で人物画を描きたい」と説明している。
《麦畑とヤグルマギク》では、一陣の風が黄色の茎を波立たせ、青い背景に「溢れ」ていくように見える効果を表現している。小麦の茎の頭は、背景の丘の青に飛び込んで、自分自身を切り離したように見える。
ゴッホの『雷雲の下の麦畑』(別名『曇天の麦畑』)には、田園風景の寂しさと、それが "健康で心豊かである "という度合いが描かれている。
ゴッホ美術館が所有している《カラスのいる麦畑》は、1890年7月、ゴッホの人生の最後の数週間に制作され、多くの人がこれが彼の最後の作品だと主張している。
しかし、《木の根》が彼の最後の絵であると主張する人もいる。細長いキャンバスに描かれた《カラスのいる麦畑》は、麦畑の上にカラスがたくさんいるドラマチックな曇り空を描いている。
風が吹き抜ける麦畑が、キャンバスの3分の2を占めています。誰もいない道が観客を絵の中に引き込んでいく。ゴッホが好んだ作家の一人、ジュール・ミシュレはカラスについてこう書いている。
「ゴッホはあらゆるものに興味を持ち、あらゆるものを観察している。私たちよりもはるかに完全に自然の中で、自然とともに生きていた古代人は、人間の経験がまだ光を与えてくれない100の不明瞭な事柄について、非常に思慮深く賢明な鳥の指示に従うことは、決して小さな利益ではないことを発見していた」。
この絵の制作についてゴッホは、田園風景が持つ回復力によって強力に相殺された悲しみと空虚さを描くのに苦労はしなかったと書いている。なおこの絵がゴッホの人生の終わりを迎える悲しみと感覚の両方を表現していると考えているものは多い。
ゴッホが死と再生・復活の象徴として用いたカラスは、視覚的に観客を絵の中に引き込んでいる。赤と緑のコントラストで描かれた道は、バニヤンの『巡礼の旅』に基づく説教で、巡礼者が道のりの長さに嘆きながらも、旅の終わりには永遠の都が待っているので喜ぶという比喩だと考えられている
ゴッホの最後の作品のひとつである《穀物が積まれた畑》(バイエラー財団、スイス、リエーン)は、《麦畑とヤグルマギク》など、このシリーズの他の作品よりも硬質で、同時に抽象的な作品である。2つの大きな麦の山が「廃墟」のように画面いっぱいに描かれ、空を切り取るかのようである。
同じく7月に描かれた《オーヴェールを背景にした麦畑》はジュネーヴ美術歴史博物館の所蔵品である。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Wheat_Fields、2022年6月13日アクセス