【美術解説】ワシリー・カンディンスキー「純粋抽象絵画の創立者」

ワシリー・カンディンスキー / Wassily Kandinsky

純粋抽象絵画の創立者


「円の中に円」(1923年)
「円の中に円」(1923年)

概要


生年月日 1866年12月16日
死没月日 1944年12月13日
国籍 ロシア、のちにフランス
表現媒体 絵画
運動 ドイツ表現主義抽象
関連サイト

・公式サイト

WikiArt(作品)

The Art Story(概要)

ワシリー・ワシリエヴィッチ・カンディンスキー(1866年12月4日-1944年12月13日)はロシアの画家、美術理論家。美術史においてカンディンスキーは、ピエト・モンドリアンカジミール・マレーヴィチとともに純粋抽象絵画の理論の創始者として知られている。代表的著作は抽象芸術を理論化した『芸術における精神的なもの』

 

カンディンスキーはモスクワで生まれ、オデッサで子ども時代を過ごし、グレコフ・オデッサ美術大学に入学する。卒業後にモスクワ大学に入学し、法律と経済を学び、タルトゥ大学でローマ法に関する教授職を受け持っていたが、教職を捨て30歳を過ぎてから絵を本格的に学び始める。

 

1896年にカンディンスキーはミュンヘンに移る。アントン・アズべの私立学校で美術を学び、次いでミュンヘン美術院で学ぶ。1911年にはフランツ・マルクとともに「青騎士」を結成し、ドイツの前衛芸術運動で活躍しはじめる。

 

カンディンスキーにおける形態と色彩の分析はシンプルさや装飾性を表現するものではなく、画家自身の内面表現である。科学的で客観的観察に基づいたものではなく主観的で経験的な表現だった。

 

カンディンスキーは作品を通じて、内面に直接働きかける色彩への意識を強め、現実の外形の代わりに色彩の「響き」によって精神的な内容を伝えることを思い描いていた。1910年から1913年までの間に描かれた「コンポジション」シリーズはカンディンスキーの代表的な精神的表現である。

 

カンディンスキーはロシア象徴派の神秘的・包括的な世界観や、1908年から関心を持ちはじめた神智学からの影響が大きい。

 

第一次世界大戦が勃発すると、1914年にモスクワに戻る。当初、モスクワにおいて前衛芸術はウラジーミル・レーニンによって「革命的」として認められており、カンディンスキーは政治委員などを務めていた。しかし、ヨシフ・スターリンが台頭するにつれて、モスクワ共産主義の中ではカンディンスキーの抽象美術理論は疎んじられるようになった。

 

スターリンが共産党書記長に就くと、1921年にドイツへ戻り、1922年から1933年にナチス政権により閉鎖されるまでバウハウスの美術学校で教鞭をとる。その後はフランスへ渡り、生涯をそこで過ごすことになった。

 

1939年にフランス市民権を獲得し、最も重要な前衛美術家の1人として地位を確立する。1944年にヌイイ=シュル=セーヌで死去。孫は音楽学者のエレクシア・イヴァノヴィッチ・カンディンスキー。

重要ポイント


  • 純粋抽象絵画理論の創始者
  • ドイツの前衛芸術運動「青騎士」のメンバー
  • カンディンスキーの抽象表現は内面表現である
  • 抽象絵画の理論書『芸術における精神的なもの』が有名
  • 神智学から多大な影響を受けている

芸術における精神性に関して


『芸術における精神的なもの』
『芸術における精神的なもの』

1912年に出版したカンディンスキーの著書「芸術における精神性」で彼は、「印象」「即興」「構成」の3つの型の絵画を定義した。

 

「印象」はその出発点として現実の外観から受けた描きかたを基盤としているが、「即興」や「構成」は内面を基盤としたイメージの表現をしており、また「構成」においては「即興」よりも形態的な観点を基盤とした表現だという。

 

カンディンスキーは人間の精神的生活と山を比較し、芸術家には作品で人々を精神的な意味で山の頂点へと導く使命があり、山の頂点へ導くのは限られた芸術家だけだという。その山はピラミッドのような精神的な山である。退廃している時代に、人間の魂はピラミッドの底に沈み、人類は霊的な生活を無視して現実、外観の成功のみ求めるようになる。

 

色の美しさに魅了されているときの人の目は、美味しいものを食べるときの喜びと同じような感覚がある。この感覚は、色が内面に対して直接働きかけるとき、すなわち「内部共鳴」を起こしたときにより深いものとなる。「内部共鳴」はカンディンスキー芸術における理論であり、形態の自律であり、色のハーモニーだった。

 

赤は暖かい色で活気に満ちている。赤という色自体に力強さがあり、運動がある。赤色に黒を混ぜると茶色になり、硬い色になる。黄色を混ぜるとオレンジになり温かみが増し、また赤色の周囲に照射する動きを表現する。赤に青が混じると紫色になり、孤独感を増す。紫は「クールな赤」といえる。赤と緑は光の三原色であり並置すると大きなコントラストを形成する。

 

ただし、カンディンスキーの抽象絵画は完全に対象を失ってはいない。対象を完全に失った絵画は装飾に陥る恐れがあるという理由から、対象すべてを否定することはなかった。カンディンスキーは「絵画と装飾の間には精神的な内容の有無」があるという根本的な違いがあると考えていたからである。そのため、カンディンスキーの作品は、最後の晩餐、大洪水、黙示録の騎士など宗教的主題や教会の塔のモチーフの強調がされている。


市場価格


2012年にカンディンスキーの1909年作《即興8の習作》が、クリスティーズのオークションに競売にかけられた。虹色がかった村で一人の男が剣を地面に突き刺している抽象性と具象性が混じった作品で、2300万ドルで落札された。

 

この絵はもともと1960年以来スイスのヴィンタートゥール美術館に貸し出されていたもので、その後、ヴォルクアート財団によってヨーロッパのコレクターに売却されたものだった。

 

《即興8の習作》以前に、カンディンスキーの作品が競売にかけたられたのは1990年にサザビーズのオークションである。当時、彼の1914年作《フーガ》が2090万ドルで落札された。

 

2016年11月のクリスティーズのオークションで、カンディンスキーの1935年作《硬くて曲がる》が2330万ドルで落札され、これまでのカンディンスキーの作品で最高価格となった。この作品はソロモン・R・グッゲンハイムが1936年にカンディンスキーから直接購入した絵画だったが、1949年以降展示されたことがなく、その後、1964年にソロモン・R・グッゲンハイム美術館からオークション経由でコレクターに売却され、個人蔵となっていたものだった。

《即興8の習作》1909年
《即興8の習作》1909年
《フーガ》1914年
《フーガ》1914年
《硬くて曲がる》1935年
《硬くて曲がる》1935年

略歴


若齢期


ワシリー・カンディンスキーは1866年12月4日、モスクワで母リディア・ティチーヴァと、紅茶商人の父ヴァシリー・シルヴェストロビッチ・カンディンスキーとの間に長男として生まれた。モスクワにいる子供時代、カンディンスキーはあらゆるものに関して関心を抱いた。

 

のちにカンディンスキーは、子供のときに色彩に対して特に興味をもったと話している。彼が最初に覚えた色彩は青々とした明るい緑、白、洋紅色、黒、黄土色だと述べている。色における象徴性と心理学は大きくなってからもずっと彼を魅了し続けた。

 

1871年に両親が離婚すると、カンディンスキーは推理小説やおとぎ話の中の内面的世界に逃避した。

 

1886年にモスクワ大学に入学。法律から経済まで、あらゆる学問を学んだ。1889年にカンディンスキーは民族学研究サークルに入り、モスクワ北部にある街ヴォログダへ調査旅行をする。旅行中にロシア農民の文化の不変的なな印象を収集。カラフルに装飾された家や家具、民族衣装に感銘を受ける。

 

この旅行の後、カンディンスキーは、ロシア教会やバイエルン地方の数えきれないほどのバロック様式の礼拝堂や教会に入るときに、いつでもまるで絵画の中にいるような感じを覚えたという。その感覚は『Looks on the Past』で反映されており、この経験や地方のフォークアートの研究は、初期作品の多くに影響が見られる。

 

数年後、カンディンスキーは作曲するように絵を描く方法に気が付き始める。音楽は絵画のように具体的に何かを模倣したり、再現することなく、純粋な音の連鎖だけで人を感動させる。こうした、純粋芸術としての音楽を絵画においても色彩を通じて再現できると確信した。「色はキーボードで、目はハンマー、精神は多くの弦からなるピアノだ」と語っている。

 

1892年、カンディンスキーは法律国家試験に容易に合格し、モスクワ大学の講師資格を与えられた。そこで彼はその時大学でただ一人の女性「聴講生」だった彼の従姉妹のアーニャ・チミアキンに気づく。彼は試験に合格した後の1892年に彼女と結婚した。

 

教職を得ているものの、カンディンスキーは大学教授としての招聘を含む学者としての道と、不安定な芸術家生活とのいずれかを選択するという決断に直面した。1896年、30歳のときに、カンディンスキーは、ミュンヘン大学に入学するために法律学や経済学の教職の仕事を諦める。

 

同年、モスクワを離れる前に、彼はモネの展覧会を見る。そこで特に《積みわら》の印象派スタイルに影響を受ける。この絵を前にしたカンディンスキーは強い感動を覚えながらも、それが何を描いたものかわからなかったという。つまり、絵というものは具体的に何を描いたか分からなくても、純粋な色や形態だけでも成りうると確信した。

 

1896年、モスクワを離れて妻とミュンヘンに移動。アントン・アッベ絵画学校に通う。そこでアッベは印象派様式や分割派の描写技法を学んだ。

 

アッベの授業のあと、カンディンスキーはアカデミーの入学試験を受けるが失敗する。その後、フランツ・フォン・シュトゥックの門を叩き、パウル・クレーやハンス・プルマンが学んでいる絵画クラスに入る。カンディンスキーは、シュトゥックが彼にモチーフの構成の仕方を教える。

 

 

ミュンヘン時代


学校では一般的に難しいと思われていることは、カンディンスキーにとっては簡単だった。この時代にカンディンスキーは、画家であると同時に理論家としても成長をしはじめる。

 

現在残っている絵画は、この頃から増え始めた。多くは風景画や人物画で、後期印象派を踏襲したスタイルだった。しかし、大部分はポートレイトのような特定の人物に焦点を当てた人物絵画は描いてはいなかった。

 

この時代の代表作としては《日曜日(昔のロシア人)》(1904年)が挙げられる。印象派スタイルでロシアの町の街の壁の前にいる貴族とロシア農民が描かれた作品である。また《馬上の二人》(1907年)は、優しく女性を抱きながら馬の背に乗る男性が、ロシアの街を背景にキラキラ光る川を渡る絵である。これら初期作品では点描方法が中心だが、フォービスムの影響も現れはじめている。色合いは、対象の性質を現すのではなく、カンディンスキー自身の体験を表現するために使われていた

 

おそらく、1900年代の最も重要な作品となるのは《青騎士》(1903年)だろう。緑の草原の丘陵を白馬に乗った青いマントの男性が猛烈なスピードで駆け抜けている絵である。絵画の前景には無定形の黒みのある青い影が広がっており、背景には秋の木々の影が対応するように描かれている。

 

1906年から1908年までカンディンスキーは、欧州旅行にかなりの時間を費やしてすごした。その後は、ムルナウというバイエルンにある小さな町に定住することにる。1908年にアニー・ベサントとチャールズ・ウェブスター・レードベーターの『思いは生きている』という本を購入。1909年に神智学協会に参加し、オカルトやスピリチュアリティに関心を持ち始める。

 

《青い山》(1908-1909)はこの時代に描かれたもので、抽象化の方向へ向うきっかけになった作品である。青い山は2つの大きな木が隣接している。1つの木は黄色で、もう一つは赤色である。画面下には3人の騎手と数人の歩行者が行列を作って進んでいる。騎手が来ている服やサドルは単一色で、騎手も歩行者も具体的には描かれていない。そのフラットな平野と輪郭の描き方は、おそらくフォービスムから影響を受けたものだと思われる。

《日曜日(昔のロシア人)》(1904年)
《日曜日(昔のロシア人)》(1904年)
《馬上の二人》(1907年)
《馬上の二人》(1907年)
《青騎士》(1903年)
《青騎士》(1903年)
《青い山》(1908-1909年)
《青い山》(1908-1909年)

青騎士時代


この時代からカンディンスキーの絵画は大きく、その表情豊かな色合いは形状や線と独立して評価されるようになった。音楽は抽象絵画を生み出すのに重要だった。音楽は外の世界を表現しないが、即時の方法で内面の感情を表現する方法だったが、カンディンスキーは強く音楽に影響を受け、作品中に音楽用語をよく使っている。

 

絵画に加えて、カンディンスキーは絵画理論家であったことを忘れてはいけない。西洋美術史における彼の影響は、おそらく彼の絵画作品以上に、絵画理論のほうが大きいだろう。

 

カンディンスキーは、ミュンヘンを本拠期とする表現主義のグループ「ミュンヘン新芸術家協会」を創設し、1909年に初代理事を務める。しかしながら、グループはカンディンスキーの、既成の芸術概念を覆す急進的な思想とかみあわなかったため、1911年には解散。

 

その後、アウグスト・マッケやフランツ・マルク、アルベルト・ブロッホ、ガブリエレ・ミュンターらと「青騎士」を結成。機関誌『年鑑青騎士』を発行する。カンディンスキー自身の姿勢を明らかにし、好ましい作品を紹介する本だった。文明化した芸術だけでなく、原紙芸術とデザイン、宗教芸術、音楽、詩、劇などである。さらに新しい表現手段を希求しようとロシア、フランス、イタリアからの寄稿も掲載された。

 

1911年には論文『芸術におけるスピリチュアル』を出版。美術理論家としてのカンディンスキーの出世作である。

 

カンディンスキーは、絵画において色はオブジェや形態の視覚的説明から離れて、色自体が自律的になると考えた。また、絵の目に見える内容を直接に人間の内面生活に結びつけようとした。このためには、抽象性は重要ではなく、むしろ絵画的手法を、画家の内なる感情的あるいは精神的な強い衝動と調和させることが大切で、芸術をこのように用いれば、物質社会の誤った価値観を強める代わりに、人々が精神的世界に目覚めるのを助けるだろうと考えた。

 

この、いわゆる「純粋芸術」の思想は国際的、特に英語圏において大変な衝撃を与えた。1912年に『芸術とスピリチュアル』は、ロンドンの芸術誌『Art News』で、ミハエル・サドラーが『芸術におけるスピリチュアル』を取り上げる。そして、1914年に『芸術とスピリチュアル』の英語版がサドラーによって翻訳出版されると、カンディンスキーの国際的な関心はどんどん大きくなっていった。

 

パーシー・ウインダム・ルイスが編集長を務める『ブラスト』や、アルフレッド・オレージの週刊文化新聞『ニューエイジ』でも、本から引用掲載が行われた。1924年には日本語訳が東京で現れ、この他、フランス語、イタリア語、スペイン語の翻訳が出版されている。

 

1910年に、カンディンスキーは、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで芸術連盟の展示会に参加。『The Art News』で、スペンサー・ゴアによる展示レビューで、カンディンスキーの作品は優れた作品として評価された。

 

カンディンスキーのサドラーへの関心は、また英語句美術のコレクションに入るきっかけとなった。サドラーの父やミハエル・サドラーは、ミュンヘンでカンディンスキーに会ったあと、1913年制作の抽象絵画『Fragment for Composition VII』やいくつかの版画作品を購入した。これらの作品は、1913年から1923年の間にリード・アーツ・クラブの施設や大学に展示された。

 

1916年にニーナ・アンドレエフスカヤと出会い、翌年結婚。

『年鑑青騎士』
『年鑑青騎士』
カンディンスキーの初期のコレクターであり、カンディンスキーの著書の翻訳ことミハエル・サドラー。
カンディンスキーの初期のコレクターであり、カンディンスキーの著書の翻訳ことミハエル・サドラー。

《騎士》(1911年)
《騎士》(1911年)
《Composition 6》(1913年)
《Composition 6》(1913年)
《Squares with Concentric Circles》(1913年)
《Squares with Concentric Circles》(1913年)

ロシアに戻る


1918年から1921年まで、カンディンスキーはソヴィエト連邦の文化的政治の仕事に携わり、美術教育と協同したり、美術館の改装を行なった。この時代、形態や色彩の分析を基盤とした芸術教育に時間を費やしていたため、制作はほとんどしなかった。

 

彼はまたモスクワ芸術文化研究所の設立を助けた。しかし、カンディンスキーの芸術における精神性や表現性は最終的には、あまりに個人的で中産階級的だとされ、研究所の急進的なメンバーから拒絶されることになった。

 

1921年、芸術文化研究所を去る。カンディンスキーはドイツに招待され、建築家のヴァルター・グロピウスワイマールが設立するバウハウスに携わることになる。

 

 

バウハウス時代


1922年からバウハウスで教官を務める。カンディンスキーは、芸術初心者向けの基礎デザイン授業から高度な美術理論授業まで幅広く授業を行なった。ほかに絵画教室やワークショップなどを行ったり、ゲシュタルト心理学要素のある色彩理論を発展させた。

 

色彩の授業で彼は、ゲーテから借用した原理である黃と青の対照性を強調し、神智学やオカルトの研究に由来するいくつかの特徴づけでこれを発展させた。特に点と線に関する研究は、彼の二冊目の重要な理論書『点と線から面へ』(1926年)へ結実することになった。

 

曲線や角ばった線と相反する響きをかもしだす直線への力の作用についての研究は、バウハウスでも議論されたゲシュタルト心理学の研究と同時に行われた。幾何学的要素は教育と絵画の両方で、重要性を増していった。特に、円、半円、角度、直線、曲線などが重要だった。

 

この時代はまた非常に生産的な時代でもあった。「コンポジションの時代」や「円の時代」と呼ばれるもので、カンディンスキーのワイマール時代の主要な作品は《コンポジション8》(1923年)や、2メートルにも及ぶ作品《黄・赤・青》(1925年)である。

 

これらの作品は、いくつかの主要な形態で構成されている。黄色の長方形、斜めの赤十字、大きなダークブルーの円、波状、または黒の直線、カーブ線、モノクロームの円などが散在して、繊細で複雑な色とフォルムの構成となっている。初期の作品は、色彩と形態の本質的演出法が特徴だったが、この時代の作品は知的に制作されている。

 

また、カンディンスキーは、パウル・クレー、リオネル・ファイニンガー、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーとともに『青い4人』の一人でありさまざまな講演活動を行なった。1924年にアメリカで講義や展示を行った。

 

しかし、右翼政党の攻撃により、1925年にバウハウスはワイマールからデッサウへ移転。さらに、ナチスのバウハウスに対する中傷攻撃が始まると、1932年にデッサウからベルリンに移転。1933年に閉鎖されるまでその場所にあった。その後、カンディンスキーはドイツを去り、パリへ移動した。

《コンポジション8》(1923年)
《コンポジション8》(1923年)
《黄・赤・青》(1925年)
《黄・赤・青》(1925年)
《さまざまな円》(1926年)
《さまざまな円》(1926年)

パリ時代


パリの芸術界はカンディンスキーに対して、冷静に用心深い反応を示した。このような態度の原因は抽象絵画をフランスでは評価しない傾向にあったためである。フランスで好まれた様式は印象派と立体派の中間だった。

 

カンディンスキーは、ジョアン・ミロ、ジャン・アルプ、アルベルト・マニュエリを賞賛し、かれらの展覧会のオープニングに足を運んだ。こうしたことをのぞけば、カンディンスキーは普段は、パリのアパートに隠遁的に生活しながら、リビングをスタジオにして作品制作を続けた。

 

このようなつつましい生活は、彼に表現方法に変化をもたらした。これまでと異なり、非幾何学的なしなやかで有機的な形態が作品中に表れるようになった。一見すると微生物を表現しているようにみえるが、実際は、カンディンスキーの内面人生を表現している。

 

色彩の用い方が大きく変化し、以前では決して見られなかった色彩の配合を用いている。さらにそれらの多彩さの中にスラブ民藝への影響も見られる。原色を基調とした色調や色彩のコントラストは見られなくなった。

 

この時代のカンディンスキーの絵画からは「冷たいロマンシティシズム」や晩年の叡智といったものは見られない。それどころか、がむしゃらで騒然として原生的である。草間彌生作品のような「多彩なアンサンブル」は、カンディンスキーがかつて協調していた幾何学フォルムと構成的構造は立場を失ったように見える。

 

第二次世界大戦勃発前の最後の大作『コンポジションⅩ』では神秘的で夢想的な絵の世界を創造している。

 

ナチスの前衛芸術に対する弾圧が強まると、ベルリンからの旧友は彼に、ドイツの美術館から彼の絵画が除去されたことを告げた。カンディンスキーは「退廃的芸術家」とみなされた。パリにナチスが侵攻したが、カンディンスキーは外国に行くことを拒絶し、パリを去ることもしなかった。占領下の困難な状況下でも、カンディンスキーの支援者である画廊のオーナー、ジャンヌ・ブシェーにささえられ、1944年にパリで最後の展覧会が開催された。

 

1944年12月13日、動脈硬化によって死去。

《緩やかな上昇》(1934年)
《緩やかな上昇》(1934年)
《多彩なアンサンブル》(1938年)
《多彩なアンサンブル》(1938年)
《Composition X》(1939年)
《Composition X》(1939年)

■参考文献

Wassily Kandinsky - Wikipedia

・西洋美術の歴史8 20世紀 中央公論新新社