· 

【作品解説】マン・レイ「アングルのヴァイオリン」

アングルのヴァイオリン / Violon d'Ingres

芸術とアイロニーの共鳴


マン・レイ『アングルのヴァイオリン』,1924年
マン・レイ『アングルのヴァイオリン』,1924年

マン・レイの《アングルのヴァイオリン》は、1924年に制作されたシュルレアリスムを象徴する写真作品です。クラシックなヌード写真に弦楽器のf字孔を重ねる大胆な発想は、伝統的な美の枠を超え、アートとアイロニーの融合を体現しています。この作品は、フランス語の成句「趣味」を意味するタイトルにもユーモアが込められ、マン・レイ独特の創造性と遊び心を感じさせます。

概要


作者 マン・レイ
制作年 1924年
表現媒体 銀塩写真
サイズ 29.6 cm × 22.7 cm
所蔵 パリ国立近代美術館

マン・レイの写真作品『アングルのヴァイオリン』(1924年)は、シュルレアリスムを象徴するユニークな作品です。

 

この写真は、画家ドミニク・アングルの名作『ヴァルパイソンの浴女』と、モデルで恋人だったモンパルナスのキキにインスパイアされて制作されました。マン・レイはアングルの作品を深く敬愛し、その要素を新しい形で写真に取り入れました。

 

この作品は、1924年6月にシュルレアリスムの雑誌『Littérature』で初めて公開されました。写真には、背中を露わにしたキキのヌードが写され、彼女の背中には弦楽器のF字孔が描かれています。このF字孔によって、彼女の体はまるで楽器のような印象を与えています。

 

この作品は、キキの写真にF字孔を描き加え、その上から再撮影するという手法で制作されました。実際に彼女の体に直接描かれたり、物理的に装飾を加えたりはしていません。

 

これにより、古典的なヌード表現に独自のひねりを加え、伝統的な美術表現を新たな視点から再解釈しています。《アングルのヴァイオリン》は、シュルレアリスムの創造性とマン・レイの革新的なアプローチを象徴する作品といえるでしょう。

 

ドミニク・アングル『ヴァルパイソンの浴女』,1808年
ドミニク・アングル『ヴァルパイソンの浴女』,1808年

作品制作の流れ


最初の写真《アングルのヴァイオリンのための習作》では、彼女は横顔で撮影され、顔と胸が見える構図でした。

 

しかし最終的な作品では、アングルの女性モデルを思わせる形で、ヌードで腰掛け、やや左を向き、背中を見せた姿に描かれています。

 

彼女の腕は見えず、頭には東洋風のターバンを巻いています。この写真が現像された後、マン・レイはプリント上にヴァイオリンのf字孔を描き、それを再度撮影しました。こうして現在の作品が完成したのです。

『アングルのヴァイオリンのための習作』,1924年
『アングルのヴァイオリンのための習作』,1924年

キキとヴァイオリン—タイトルに隠された関係性


マン・レイが《アングルのヴァイオリン》というタイトルを選んだ背景には、フランス語特有のユーモアと多層的な意味が込められています。

 

このタイトルは、一見するとアングルのヌード表現と楽器を重ね合わせた単純な発想のように思えますが、実は「アングルのヴァイオリン」というフランス語表現には「趣味」という隠れた意味が含まれています。

 

この表現は、画家アングルが趣味でヴァイオリンを弾いていたことに由来します。彼はアトリエに訪れた客人に無理やり演奏を聴かせていたと言われ、それが転じて「へたの横好き」「余技」を指す成句となりました。

 

マン・レイは、この言葉を用いることで、自身の作品に対してユーモアを交えた皮肉を込めています。つまり、「名画を写真で再現するなんて、まるで自分の趣味のようなもの」という軽妙な自己批評です。

 

さらに、このタイトルはキキとの関係にも重ね合わせることができます。マン・レイにとってキキは、恋人でありながらも一種の「趣味」、本気ではない遊びのような存在だったのかもしれません。この二重の意味合いが、作品全体に複雑で深い解釈の余地を与えています。

アート市場


2022年5月14日、クリスティーズ・ニューヨークにおいて、マン・レイの《アングルのヴァイオリン弾き》のオリジナルプリントが1240万ドルで落札されました。この結果、同作品は写真作品として史上最高額を記録しました。


マン・レイに戻る

 

●参考文献

Le Violon d'Ingres (Ingres's Violin) (Getty Museum) 

・マン・レイ展「私は謎だ。」図録 巌谷國士