【美術解説】ヴィクトル・ブローネル「自らの未来像を予測して的中」

ヴィクトル・ブローネル / Victor Brauner

自らの未来像を予測したシュルレアリスト


概要


生年月日 1903年7月15日
死没月日  1966年3月12日
国籍 ルーマニア
表現媒体 絵画
ムーブメント シュルレアリスム

ヴィクトル・ブローネル(1903年7月15日-1966年3月12日)はユダヤ系ルーマニア人の画家、シュルレアリスト。キュビスムをへて、1932年シュルレアリスムに転じる。


幼年期をルーマニアのブカレストで過ごす。父は心霊学の愛好家で、こっくりさんや魔法の実験に凝っていたという。

 

ある時期、ブローネルはその絵のほとんどすべてに、片方の眼を傷つけた1人あるいは多数の人物を描いていた。それは彼の自画像でもある場合もあった。この強迫観念のようなテーマは、やがて彼の身に現実に起こった。1938年、画家仲間の友人の家で喧嘩が起こり、オスカル・ドミンゲスの投げたガラスの破片が、彼の左の眼球に深く突き刺さり、ブロオネルは片目を喪失する。

 

彼は喧嘩の当事者ではなく、それは全く偶然の出来事にすぎなかった。しかしそれより6年も以前に、彼は「眼球を摘出した自画像」なるポートレイト作品をみずから描いていたのである

ヴィクトル・ブローネル「眼球を摘出した自画像」(1931年頃)
ヴィクトル・ブローネル「眼球を摘出した自画像」(1931年頃)

略歴


ブローネルはルーマニアのピアトラ・ネアムツで、木材加工職人の息子として生まれた。生まれてから数年間、家族とともにウィーンに移動して定住し、小学生時代をそこで過ごす。

 

1914年に家族とともにルーマニアへ戻ると、ブローネルはブライラの福音主義の学校へ通う。この頃、動物学に関心があったという。

 

1916から1918年までブカレストにある国立美術大学に通う。この頃、ポール・セザンヌの画法で風景絵画を始めた。その後、前衛芸術運動が起こると、ダダイスム、抽象絵画、表現主義などに影響を受けるようになった。

 

1924年9月26日に、ブカレストにあるモーツァルトギャラリーで最初の個展を開催。この時代にアイレリー・ボロンカと出会い、ともに雑誌『75HP』を出版する。

 

1925年にパリにはじめて旅行、1927年にパリから戻る。1928から1931年までブローネルはダダイズムやシュルレアリスムといった前衛芸術の雑誌に記事を投稿。

 

1930年にパリに移り、コンスタンティン・ブランクーシに出会い、写真技術を教わる。同時期にルーマニアの詩人ベンジャミン・フォンダーヌやイヴ・タンギーと仲を深める。タンギはのちにブローネルをシュルレアリスムグループへ紹介した。ブローネルはこの時期、アルベルト・ジャコメッティやタンギーが住んでいる同じ建物に住んでいたという。またこの頃に「眼球を摘出した自画像」を描いている。

 

1934年にアンドレ・ブルトンは、ピエール画廊でのブローネルの初個展のカタログの序文を執筆。

 

1935年にブローネルはブカレストに戻り、ルーマニア共産党に短期間参加する。同年4月7日にモザート・ギャラリーで個展を開催。

 

1938年にフランスに戻る。同年、8月28日オスカル・ドミンゲスとエステバン・フランセーズの喧嘩に巻き込まれ、オスカル・ドミンゲスの投げたガラスの破片が、彼の左の眼球に深く突き刺さり、ブロオネルは片目を喪失彼は左目を喪失。同年、ブローネルはジャクリーヌ・アブラハムに会い、のちに結婚。この頃「狼男」や「キメラ」と呼ばれる絵画シリーズを制作。

 

1940年にフランスにナチス・ドイツが侵入すると、パリからフランス南部のペルピニャンに退避。そこは人里離れた場所だったが、マルセイユに避難したほかのシュルレアリストと連絡をとりあった。

 

1941年にマルセイユに移るが、深刻な病気にかかり入院する。

 

1959年にモントマルにアトリエを構える。1961年に再びイタリアを旅行。同年ニューヨークのボドレイ・ギャラリーがブローネルの個展を開催。その後、ノルマンディーのヴァレンゲビルに居を移し、残りの生涯の多くをここで過ごす。

 

1966年、ブローネルはヴェネツィアの年2回のフランスを代表する展覧会に選ばれ、ホール全体が展示に利用された。同年、長い闘病の末。死去。モンマルトルの墓地に埋葬された。彼の墓碑には「Peindre, c'est la vie, la vraie vie, ma vie"」と綴られている。


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