藤田嗣治 / Tsuguharu Foujita
20世紀初頭で最も重要な日本人前衛画家
概要
生年月日 | 1886年11月27日 |
死没月日 | 1968年1月29日 |
国籍 | 日本、フランス(1955年に帰化) |
表現形式 | 絵画、版画、彫刻 |
ムーブメント | エコール・ド・パリ |
関連人物 | モンパルナスのキキ、アメデオ・モディリアーニ、パブロ・ピカソ |
関連サイト | WikiArt(作品) |
レオナール・ツグハル・フジタ(藤田嗣治 1886年11月27日-1968年1月29日)は、日系フランス画家。戦後パリへ移り1955年にフランス国籍を取得し、日本国籍を抜く。
フジタは、日本画の技術と西洋絵画を融合させ、エコール・ド・パリのメンバーとして活躍した画家で、「20世紀初頭の西洋において最も重要な日本人芸術家」として評価されている。20世紀初頭のパリ芸術黄金時代に、日本人画家として唯一活躍した前衛画家である。
藤田作品の特徴は、人肌をそのままカンバスにしたような乳白色の色、そして裸婦、猫、自画像を作品の多くの主題にしていることである。藤田は美しい女性や猫を非常に独創的なスタイルで描く画家として大きな名声を獲得するようになった。
第二次世界大戦に入ると藤田は日本に帰国し、戦争記録画家として活躍する。しかし、戦後戦争責任追及を受けて日本での立場が危うくなったこともあり、アメリカへ移り、次いでパリへ移る。フランス国籍を取得し、ランス大寺院で君代夫人ともどもカトリックの洗礼を受ける。洗礼名レオナルド・フジタ。
1930年にニューヨークで出版した20枚のエッチング版画を収録した『猫の本』は、過去に出版された猫に関する本で最も人気があり、現在は希少本とされている。
重要ポイント
- エコール・ド・パリのメンバーとして活躍
- 乳白色の美しい女性や猫をおもなモチーフとして描く
- 第二次世界大戦時は日本で戦争記録画家として活躍
略歴
幼少の頃から画家を目指し東京美術学校へ
藤田嗣治は、1886年、東京市牛込区新小川町で、父嗣章、母政の次男として生まれた。医者の家で4人兄弟の末っ子だった。
1893年、東京高等師範学校附属小学校に入学。このころから絵を描くことが好きで、すでに才能をしめした。1900年、14歳のときに、パリ万国博覧会に日本の中学生代表の一人に選ばれて水彩画を出品。
医者か軍人のどちらかになることを希望する父の意向を知り、同じ家に住む父に手紙を郵送し、画家になることを訴えた。すると父は黙って返書を手渡し、その中にはただ十円札五枚が入っていた。それで油絵具一式を買い、はじめて油絵を描いた。
中学に通うかたわら、ひそかに暁星学校夜間部でフランス語を学ぶ。本多錦吉郎の画塾「彰技堂」に通い、森鴎外のすすめで1905年に東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)西洋画科に入学することになった。同級生に岡本一平、池部均、田中良、長谷川、近藤浩一路らがいた。
1910年、東京美術学校卒業。卒業成績は30人中の16番。その卒業制作を、黒田清輝は"悪い作品例"に挙げた。
卒業後、和田英作に従って、開設直後の帝国劇場の舞台装置、背景などの制作を手伝う。このころから三年続けて文展に出品するが連続落選する。
1912年、写生旅行の木更津海岸で知り合った、当時東金高等女学校教師の鴇田登美子と二年余の恋愛のすえ結婚。しかし、1913年、結婚およそ半年後の6月18日、"30才までは面倒みてやる"との父の約束で、新妻を残して単身パリへわたる。
第一次大戦前夜、パリで前衛画家として活動
1913年、モンパルナスに居住をかまえると、アメデオ・モディリアーニ、フェルナン・レジェ、ジュール・パスキン、シャイム・スーティンと知り合う。彼らを通じて特にアンリ・マティス、パブロ・ピカソ、フアン・グリスと親交を深めた。
あたかも第一次世界大戦前夜で、ピカソやキスリングがようやく売れだしたころだった。20世紀芸術がいっせいに開花する芸術の都パリの舞台は、モンマルトルから次第にモンパルナスへ移っていった。詩人や画家たちの騒がしいたまり場、本部となる「キャフェ・ラ・ロトンド」もその一角になった。
パリ到着2日目、いち早く知り合ったチリ人オルティス・デ・サラーテに連れられて、フジタはピカソのアトリエを訪れている。そこでピカソ自身の作品や、ピカソに見せられた税官吏アンリ・ルソーの絵に衝撃をうける。アパートに帰って、「恩師黒田清輝先生ゆずりの絵の具箱をたたきつけた」という。
藤田の回顧録では藤田がパリに着いてから二日後にピカソと会ったと書いているが、最近の研究では、藤田が日本の妻に送った手紙によれば、ピカソと会うまで数ヶ月間はブランクがあるとされており、自伝は脚色されている部分があるという。
第一次世界大戦勃発すると退去命令が出たが、赤十字の志願看護夫をつとめたりして、フジタは戦時下のパリにふみとどまる。日本からの送金とだえ、どん底の貧窮生活に陥るが、ひたすら画業にはげむ。しきりにキュビスム風の制作を試み、構図の問題を追求する。こうして描きためた500枚ほどの作品を、結局暖をとるためや炊事のために燃やしてしまう。ただ、15.6枚はのこした。
パリで個展デビュー、次第に売れ始める
大戦末期のパリ。ひどい貧窮生活がつづく。絵具をとく油もなく、グラッシュやパステルで描いたりする。フジタのトレード・マークとなるおかっぱ頭も、理髪店へ行く金がなくて、手さぐりで自分で切ったことにはじまったという。
モンパルナスに群れる女流画家の一人、フエルナンド・バレーと結婚。「カフェ・ド・ラ・ロトンド」で二人は出会った。彼女は当初、言い寄る藤田を完全に無視していたが、次の朝早く、藤田は一晩で作った青いコサージュを持ってフェルナンドの部屋に現れる。フェルナンドは藤田に興味を持ち始め、13日後に結婚した。
フジタの才能を見抜いたバレーは、自分は描くのはやめて、献身的にフジタの絵を売り歩く。だが、どの画商にもみ見なれぬ東洋人の絵は断られたという。
1917年6月、伝説的なパリ、ラ・ボエシー街のシェロン画廊でのフジタの最初の個展。ピカソの友人ですぐれた評論家アンドレ・サルモンが、この新人日本人画家のために異例の長文の図録序文を書いた。
同画廊と以後7年間の契約。ただし、毎月450フランの支払いを受ける代わりに、毎日、水彩、ガッシュ各2点は納める義務だった。だが、困窮の中で制作にはげんできたフジタによって、それは画期的なことだった。落ち着いて、その義務以上に数多くの作品を描いた、という。
1918年、第一次世界大戦が終わり、パリの芸術舞台はモンパルナスへ。藤田ははじめモンパルナスの5番通りにスタジをかまえており、そこで彼は給湯可能な浴槽を購入して設置したとき、周囲から羨望を受けたという。多くのモデルが藤田のこの浴槽を楽しむために藤田の部屋にやってきたという。
11月、シェロン画廊で第2回個展。評論家F・ミオマンドルは「純粋でナイーブな優美さ」と評し、フジタの名は急激に広まる。それから数年内に、特に1918年の展覧会のあとに藤田は美しい女性や猫を非常に独創的なスタイルで描く画家として大きな名声を獲得するようになった。
この頃に、マン・レイの恋人だったモンパルナスのキキと知り合い、藤田のために彼女は外の庭でヌードになりモデルを務めるようになった。1920年の秋のサロンにキキをモデルにした最初の《裸婦》を出品。かねてから苦心のすえ独創した乳白色のカンバス、ヨーロッパ画家の思い及ばぬデリケートな鉄線描の見事さが浮かび上がらせる『すばらしい深い白地』の裸体画は、批評家を魅了した。パリをわかせ、フジタの名声は決定的となる。
1922年の《裸婦》は、異常な好評を得た作品で、サロン・ドートンヌで8000フランで買いとられ、一大センセーションを巻き起こし、藤田を有名にした作品で、同時にエコール・ド・パリを代表する画家の一人として確固たる地位を築きあげた。2013年にはニューヨークのクリスティーズで120万ドルで落札された。
1918年に南フランスを遊覧展示をするが、これは詩人のレオポルド・ズボロウスキーによる企画で、藤田と妻、シャイム・スーティン、モディリアーニ、エビュテンヌらが同行したという。この遊覧展示はあまりうまくいかず、藤田に同行したグループは、パリの画廊から藤田が借りた前金で旅をしなければならなくなった。最終的には旅の資金がすべてなくなり、家主はグループの芸術品での支払いを拒否し、旅の荷物をすべて没収した。
1920年代、パリ黄金時代
1921年、サロン・ドートンヌ審査員に推される。"裸婦と猫のフジタ"は、おかっぱロイド眼鏡、チャップリンひげの派手な私生活の話題とともに、爆発的人気を呼ぶ。
猫と裸婦は藤田のトレードマークとなったモチーフだ。猫について藤田は、「画室にいるときモデルがないと猫を描くのである。サイン代わりに猫を描くこともある」と語る。猫は藤田の分身ともいえ、実際に自画像では、藤田と猫はいずれもぴったり寄り添って描かれる。また、猫は女性をあらわすともいう。「可愛がればおとなしくしているが、そうでなければ引っ掻いたりする。ご覧なさい、女にヒゲとシッポをつければ、そのまま猫になるじゃないですか」と藤田は話している。
裸婦については、鈴木春信、喜多川歌麿にヒントを得て、「肌というもっとも美しきマチエールを表現」しようと「その物が既に皮膚の味を与える様な質のカンバス」を考案して描いていたという。
パリの良き時代、群れる芸術家たちの夜会、仮装舞踏会、大勢で街に繰り出して夜を徹してその乱痴気さわぎが、連夜のようにくりひろげられる。フジタは酒を飲まなかったが、いつもスターであった。そして、どんなに夜遊びをつづけても、朝早くから画架に向かい、一定の時間、早いスピードで描いて、一日といえど制作の手を休めることはなかった。
南米旅行と日本への帰国
1924年、フジタを世に出したとされるフェルナンド・バレーと別れる。ベルギー生まれ、ユキと愛称されたリューシー・バドードとパリ2度目の結婚。フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥと結婚。しかし、詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり、その後離婚する。
収入増大し、豪華な生活。ルーブル美術館が銅版画1点を収蔵。しかし、税金滞納(80万フラン)の請求を受け、生活が行き詰まる。
1929年、9月、ひそかにユキとパリを離れて17年ぶりの帰国。熱い歓迎をうけ、多くの話題をまく。
パリへ戻ると切りつめた生活の中で、文学少女で遊蕩になれたユキが、のち第二次世界大戦下ナチ収容所で死んだ前衛詩人ロベール・デスノスにかたむく。1932年11月、ユキに一通の別れの手紙をのこして、カジノ座の踊り子、マドレーヌ・ルクーと中南米への旅へ出る。ブラジルに4ヶ月滞在。リオデジャネイロで個展。
1933年3月、アルゼンチンに入る。ブエノスアイレス、ロザリオ、コルドバで個展。さらにボリビア、ペルー、キューバを回り、11月、内覧直後の北川民次のいたメキシコに行く。メキシコに7ヶ月滞在後、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア、とアメリカを経て、11月、横浜港に着く。次姉の嫁ぎ先、東京、高田馬場の中村緑郎邸にマドレーヌと寄寓。
1934年銀座に開店1年目の日動画廊で個展。中南米旅行中制作の60余点が、開催3日で全点売れる。
ドレーヌがシャンソン歌手として売り出すが、突然フランスに帰る。堀内君代との交際はじまる。1936年6月、マドレーヌが急死。来日したジャン・コクトーと再会。12月、堀内君代と結婚。1937年、日中戦争が始まる。パリ行きの心動くが、戦時体制深まり日本に留まることになる。1938年、10月、海軍省嘱託として中支に派遣され、漢口攻略戦に従軍。同行の石井柏亭、中村研一らと上海一帯に遊ぶ。
1939年4月、突然、すでに敵国のフランス行きを決意し、君代夫人と横浜を発つ。アメリカ経由で5月パリに着く。新たな絵画の道を切り開くためであった、という。"パリ逃亡7年"を記者団に追求されたフジタは、いきなりステテコ姿で踊りだし、新聞は"世界を踊り回ってきたフジタ、世界一周の最もおそいレコードを作る"などと報道した。
9月、第2次世界大戦勃発。
戦争記録画家として日本で活動
1940年5月、陥落寸前のパリを脱出、高野三三男らと最後の便船状見丸で、渡仏1年余で3度目の日本帰国する。帰国のさい、あいかわらずのフジタ・スタイルに、こんどは、すでに戦時体制深まる日本の新聞記者から、"スパイ、何しに帰ってきた"と毒づかれたりした。トレード・マークだったおかっぱ頭を切り、角刈りになる。陸軍省嘱託として2ヶ月中国に向かう。
戦争記録画制作のため、1942年3月、陸軍省からシンガポール、5月、海軍省から南方に派遣される。将官待遇のフジタを首班に、伊原宇三郎、中村研一、宮本三郎、寺内万次郎、猪熊弦一郎、小磯良平、中山巍、田村孝之助、清水登之、鶴田五郎、川端龍子、山口蓬春、福田豊四郎、吉岡堅二、堂本印象の作家が同行、別に向井潤吉、鈴木栄二郎、高光一也、田中佐一郎、南政善の5氏が報道班員として現地徴用され合流した。
12月8日、その成果を公開する朝日新聞社主催、上野美術館における大東亜戦争美術展に、フジタは「12月8日の真珠湾」「シンガポール最後の日(ブキテマ高地)」「二月十一日(ブキテマ高地)」を出品。陸軍航空本部に「テンガー飛行場夜間爆撃」、海軍省に「アリゾナ型撃沈の図」を献納。
1943年、「シンガポール最後の日」ほかに対し朝日文化賞。陸軍美術協会主催国民総力決戦美術展(9月)に「アッツ島最後の攻撃」。第6回文展(10月)に「嵐」、第2回大東亜戦争美術展に「天皇陛下伊勢神宮に御親拝」「ソロモン海域における米兵の末路」「ニューギニア戦線」を出品。
空襲が激化し、神奈川県津久井郡小淵村藤野に疎開する。戦争協力洋画界の重鎮として、戦争責任を追求されるこれらの戦争記録画は、一方で生死をつらぬく壮絶なリアリズム描写だった。当時フジタの作品にたいし、"皇軍は美しく描くべきだ"と批判が向けられていた、といわれる。とくに「哈爾哈河の戦斗」制作で、ひそかにもう1枚の厭戦的なすさまじい作品をかくし描いていたという秘話が、いまは語り伝えられて有名である。
戦争責任追求を逃れアメリカへ
1945年8月、疎開先の神奈川県相模湖奥の農家で敗戦の日を迎える。自分の戦争画や関係資料を焼く。昨日までの各界大物がぞくぞく戦犯として逮捕されはじめる時期である。
1946年春、疎開先から東京都練馬区小竹町に帰る。占領軍GHQ所属出版・印刷担当者として敗戦の日本に進駐したフランク・E・シャーマンの訪問をうける。彼はかねてよりエコール・ド・パリの巨匠フジタの熱烈なファンであった。原爆によるフジタ死亡説世界に流れていたが、シャーマンは、東京進駐以来のあこがれの巨匠の行方を探し、ようやくその所在を突き止める。
文化界にも戦争責任追及は波及し、寄り付かなくなった日本人とは逆に、シャーマンはしばしば訪問、フジタの日本脱出の協力を約束。シャーマンの意見で、まずアメリカに渡ることを決め、1949年3月10日、羽田空港に姿をあらわし、あとからの君代夫人の出国をシャーマンに託し、アメリカに発つ。
有名な「絵かきは絵に誠実に、絵だけを描いてほしい。仲間ゲンカをしないで下さい。一日も早く日本の画壇が、意識的にも、経済的にも国際水準に達することをいのる。」といいのこし、再び日本の土をふむことはなかった。5月、君代夫人を迎え、約1年ニューヨークに滞在。コモール画廊で近作個展。
レオナルド・フジタとしてカトリックの洗礼を受ける
1950年2月、英国を経てパリに着く。新聞記者にフランス永住の決意を語り、因縁の地モンパルナスに近いカンパーニュ・プルミエール街に住みつく。かっての洋服屋で、すでにパリの有名画商ポール・ペトリデスと契約、渡仏第1回個展。50点全部売れる。
1953年、かつてのモンパルナスの女王、フジタやキスリングの名作のモデルだったキキ死す。有名画家として葬儀参列はフジタだけだった。
1955年、フランス国籍を取得。正式にパリ市民となる。日本芸術院会員を辞任、東京の戸籍をぬく。ジャン・コクトーとリュシー・ベイユ画廊で「海龍」展。この頃から裸婦や猫をあまり描かなくなる。日本的なるのと異質の粘着力のある緻密な形象へ。
1959年、ランス大寺院で君代夫人ともどもカトリックの洗礼を受ける。洗礼名レオナルド・フジタ。かねて尊敬するレオナルド・ダ・ビンチにあやかったという。夫人はマリー・クレール。洗礼第一作「聖母子像」を同寺院に寄贈。
1966年、2年の準備を費やし、自ら設計したパリ東北150キロのランス、ノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂が10月に完成。6月から9月まで、壁画だけでなく、ステンドグラス、彫刻、芝生の石の構成まで昼夜兼行で制作。「チャペル・フジタ」と呼ばれる。
1968年、1月29日午前1時15分、81歳で死去。フランス国営放送は、フジタがピカソ、モディリアーニらと両次大戦間の"パリジャン"として、いかにモンパルナスを愛し、いかに芸術の都パリを活気づけたか、そして"モンパルナスの歴史は、こうして少しずつ死んでゆく"と深い哀悼のニュースを流す。2月3日、ゆかりのランス大寺院で盛大な葬儀。ノートルダム・ド・ラ・ベル礼拝堂に埋葬。
■参考文献
・1977年 藤田嗣治展図録
・生誕120年 藤田嗣治展図録
・1968年 藤田嗣治追悼展図録