最後の審判 / The Last Judgment
システィーナ礼拝堂の祭壇壁画
ミケランジェロの《最後の審判》は、ルネサンス時代の終わりに作られた西洋美術の最高傑作の一つであり、その価値は今なお衰えることがないです。作品は、キリストの再臨と全人類に対する神による最後の裁きを描いており、死者たちが著名な聖人たちに囲まれたキリストによって裁かれ、それぞれの運命に降りかかる様子が描かれています。本記事では、《最後の審判》の詳細な内容を解説し、作者が持つ意図を明らかにします。ミケランジェロの偉大なる作品を知り、美術史を学ぶ上で重要な一作として研究する上で必要な情報をお届けします。
目次
1.概要
2.解説
2-1.全体の構図
2-2.人物
4.裸体画論争
4-1.破壊命令
5.批評
5-1.当時の人々の批評
6.修復と再発見
6-1.「イチジクの葉運動」の検閲
7.準備
7-1.イエスの復活を描きたかった?
7-2.油彩・フレスコ論争
7-3.『聖母被昇天』の破壊
概要
作者 | ミケランジェロ |
制作年 | 1536年-1541年 |
メディウム | フレスコ |
サイズ | 13.7 m × 12 m |
所蔵者 | バチカン市国、システィーナ礼拝堂 |
《最後の審判》は、1536年から1541年にかけてミケランジェロが、バチカン市国のシスティーナ礼拝堂の祭壇後方の壁一面に描いたフレスコ画。盛期ルネサンスからマニエリスムの時代への転換期の作品とみなされており、また西洋美術の最高傑作の一つである。
キリストの再臨と全人類に対する神による最後の、そして永遠の裁きが描かれている。死者たちが、著名な聖人たちに囲まれたキリストによって裁かれ、それぞれの運命に降りかかる様子が描かれている。
上段では、天国の住人たちに、新たに救われた者たちが加わる。下部では、ミケランジェロは伝統画に従って、左側上に救われた者が昇天し、右側下に呪われた者が堕ちていく姿を描いている。
この絵は当初から賛否両論で、賞賛も多かったが、宗教的、芸術的な理由による批判もあった。裸体の量と筋肉質のスタイル、そして全体の構図が論争の的となった。たとえば、従来のキリスト像とかなり異なり、ギリシア神話のアポロン像をモデルにしており、ヒゲがなく、筋肉質で、裸であることなどが挙げられる。
300人以上の人物が描かれているが、男性や天使はほとんど裸体で描かれている。物議をかもし、その多くは、後に修正され、ドレープやイチジクの葉で部分的に隠された((イチジクの葉運動)。近年の洗浄と修復により、その一部は残っている。
《最後の審判》は、芸術と人類の思想史におけるひとつの時代の終わりと転換点を示している。ミケランジェロ自身が《イグヌディ(ヌード)》で高らかに宣言した、ヒューマニズムとルネサンス初期の力強く自信に満ちた人間は、混沌とした苦悩のビジョンに置き換えられ、呪われた者、祝福された者の両方に、新しい時代の迷いと不安を反映した確信のない完全な欠如を投げかけている。
この作品はフレスコ画だが、天井画作品に比べてモノクローム性が強く、肌と空の色調が重要な要素を占めているのが特徴である。また、反宗教改革のムードを反映し、壁面の面積を拡大した結果、最終的に暗い色調の画題に置き換えられたと考える学者もいる。
しかし、最近の洗浄と修復の結果、従来よりも幅広い色調があることが明らかになっている。オレンジ、緑、黄色、青などが全体に散りばめられており、複雑な情景に活気を与え、統一感を出している。
1522年、システィーナ礼拝堂の入口壁に描かれたドメニコ・ギルランダイオの《復活》が損傷し、1525年には祭壇の火事でペルジーノのフレスコ画が損傷を受けたと思われる。クレメンス7世は、この二つの壁を修復するために、ミケランジェロに新しいフレスコ画を依頼する計画をたてたという。
1534年、ミケランジェロはフィレンツェを離れ、ローマに戻り、そこで当時のローマ教皇クレメンス7世(ジュリオ・デ・メディチ)から、システィーナ礼拝堂の祭壇壁の手直しを依頼され、巨大フレスコ画の《最後の審判》を描くことになった。
なお、当初は教皇クレメンス7世からの依頼で制作が始まったが、教皇パウロ3世の時代に完成したこともあり、最終的にはパウロ3世の強い修正論が最終的な形に影響したと思われる。
重要ポイント
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解説
全体の構図
《最後の審判》は、伝統的な構図を意図的に避けているが、3つの基本領域は維持されている
- 雲の上で受難の道具を持つ天使たち。
- 祝福の中にあるキリストと聖母。
- 天使たちが黙示録のトランペットを奏でる終末、肉体の復活、正しい者の天国への昇天、呪われた者の地獄への落下。
伝統的な西洋絵画の構図では、上方の秩序ある調和のとれた天上世界と、下方の地上圏で起きている騒然とした出来事が対比され、コントラストが強いのが一般的である。
しかし、ミケランジェロの作品では、画面全体の人物の配置やポージングから不安や興奮が感じられ、この秩序があいまいな状態になっている。
これに対して、美術史家のシドニー・ジョセフ・フリードバーグは、画面に描かれる登場人物たちの「複雑な反応」に対して、「巨大な力が無力になり、霊的な不安に縛られたもの」と解釈しているという。
すべての人物たちが、中央に描かれたキリスト像の周りを巨大な回転運動で回っているような印象を受ける。画面の中心には、最後の審判において個々の判決が下される際のキリストが描かれており、呪われた人々を見下ろしている。これはダンテの『神曲』の影響を受けているとも思われる。
復活した人々の動きは、伝統的なパターンを反映している。彼らは左下の墓から起き上がり、ある者は空中の天使(ほとんどは翼がない)に助けられ、またある者は雲に乗った天使に引っ張られながら、上へ上へと上昇している。
一方、呪われた者たちは、右側を通り過ぎていくものだが、その様子はまったく描かれていない。ただ、中央下方に人影のないエリアがある。
人物
キリストは髭を生やしておらず、「古代ギリシア神話のヘラクレス、アポロ、ジュピター・フルミナートルの概念から合成された」もので、特に教皇ユリウス2世がバチカンに建てたベルヴェデーレ・アポロ象が下地になっていると思われる。
また、ミケランジェロも知っていただろうピサのカンポサントの『最後の審判』のポーズとも類似している。
手を上げているのは、復活したキリストが磔にされたときの傷を見せる「聖痕の誇示」の仕草であり、ミケランジェロ画でも見られる。
キリストの左側には母である聖母マリアが描かれている。マリアから見て、右下に頭を下げ救われた者たちのを向いているが、そのポーズは諦観を感じさせる。死者のために嘆願するという伝統的な役割は、洗礼者ヨハネとともにこのデイシスは、以前の絵画でよくみられたモチーフである。
キリストを取り囲むのは、聖人やその他の選民である多数の人物である。
キリストと同じようなスケールで、左側には洗礼者ヨハネ、右側には天国の鍵を持つ聖ペテロが描かれており、彼はおそらくもう必要なくなったであろう手にしている天国の鍵をキリストに返している。ペテロの左上はパウロとみなされている。
主要な聖人の何人かは、殉教の証拠である属性をキリストに見せているように見える。これは、聖人がキリストの大義に仕えぬ者たちへの天罰を求めたと解釈されたが、聖人自身が自分の判決に確信が持てず、最後の瞬間にキリストに自分の苦しみを思い出させようとしたと解釈するのが一般的である。
他に著名な聖人としては、ペトロの下に聖バルトロメオが描かれおり、彼は殉教の属性である自分の皮膚を手にしている。皮膚に描かれた顔は、通常、ミケランジェロの自画像であると認識されている。
画面右下は地獄エリアに相当するが、キリストから見て左下に憂鬱な自画像に視線を向けていることから、絵画からミケラジェロ自身の罪悪感と救済願望の両方があらわれている。
そのほかにも、著名な聖人が描かれているだろうが特定が困難なものが多い。
ミケランジェロの無名の公認伝記作家アスカニオ・コンディヴィは、十二使徒がすべてキリストの周りに描かれているが、「ミケランジェロは聖人たちの名前を特定させようとせず、おそらくそうすることは困難だっただろう」と述べている。
右上、天に昇っていく集団の中に、抱き合いながらキスをしている3人の男性カップルがいる。
古典神話や『ダンテ』において、冥界に魂を運ぶ攻撃的なカロンが漕ぐ船で、地獄の入り口のそばに連れて行くのが一般的な表現であるが、ミケランジェロの作品にもカロンが画面下に描かれている。カロンは堕ちた者たちを櫂で威嚇しているが、これはダンテの発送から直接借用したものである。
キリスト教の伝統的な悪魔であるサタンは描かれていないが、もうひとりの古典的な人物であるミーノスは、ダンテの『地獄篇』における役割である、地獄に堕ちた者たちの入場を監督している。ミーノスは、教皇庁でミケランジェロを批判していたビアッジョ・ダ・チェゼーナが描いたという説が一般的である。
中央のカロンの上には、雲に乗った天使たちが、7人は(黙示録のように)ラッパを吹き、他の者は救われた者と呪われた者の名を記した書物を手にしている。
ほかの作者との違い ルネサンスからマニエリスムへ
「最後の審判」は大きな教会でフレスコ画を飾る際の伝統的な題材でだったが、東端の祭壇の上に設置するのは異例だった。
伝統的な配置場所は西側の壁で、教会の奥にある正門の上にあり、信徒が帰るときにこの話を思い起こさせるようにするために飾ってあった。
アレーナ礼拝堂にあるジョット作品のように内部に描かれることもあれば、エクステリアの彫刻ティンパン作品として作られることもある。
「最後の審判」は、ロジェール・ファン・デル・ウェイデンのボーヌ祭壇画をはじめ、フラ・アンジェリコ、ハンス・メムリング、ヒエロニムス・ボスなども手がけているが、ミケランジェロの構図は、西洋の伝統的な描写を反映しながらも、新鮮で独創的なアプローチで描かれている。
伝統的な絵画では、ミケランジェロ版と同じ用にほぼ同じ位置に「威厳あるキリスト」が描かれている点は変わらない。
キリストを中心に天使や聖人、下部の裁きを受ける死者など、多数の人物を配置した構図である。
復活した人々が墓から起き上がり、裁きに向かうように、裁きの行列は通常、左下(鑑賞者側)から始まる。 ある者は審判を受け、そのまま上方へ上昇して天国へ行き、ある者はキリストの左手に渡り、右下の地獄に向かって堕ちていく。
地獄に堕ちた者は、悪魔に連れ去られる屈辱の印として裸で描かれる。ときには復活したばかりの者も裸で描かれるが、天使や天国にいる者は通常は服を着ており、その服が集団や個人のアイデンティティを示す主な手がかりとなっている。
しかし、キリストは、通常、他の人物とのスケール感が違うように目立つように描かれ、天国と地獄のコントラスがもっと明確なのが一般的である。
しかし、ミケランジェロ版は、キリストとほかの聖人や庶民の大きさがが同じだったり、あとで他人の手により修正されてはいるものの裸の男性が非常に多い。
この誇張された人物表現などは、ミケランジェロがルネサンス芸術を超えてマニエリスムという新たな芸術様式を開拓したことを意味している。そのため、ルネサンスからマニエリスムの転換点とみなされる。
また、上部の整然とした人物群と、下部の混沌とした熱狂的な場面、なかでも地獄に続く右側との間に強いコントラストがある(ボスの絵画などが典型的)が、ミケランジェロ版は画面全体にわたって、コントラストが感じられない。
ミケランジェロの描いた布は、風に吹かれているように見えることが多いが、本来の審判の日にはすべての天候が止むとされている。
復活した人たちの状態はまちまちで、骸骨の人もいるが、ほとんどは肉がついたままの姿になっている。
キリスト教を題材にした絵に異教徒の神話に登場する人物を混ぜることには異論もあった。カロンやミノス、翼のない天使の像のほか、非常に古典化されたキリストが疑われた。
ヒゲのないキリストは、実はその4世紀ほど前にようやくキリスト教美術から姿を消したばかりだったのだ。しかし、ミケランジェロが描いたヒゲのないキリスト象は、まぎれもなくギリシア神話のアポロン像である。また、キリストが玉座に座っていないのは聖書に反する。
トランペットを吹く天使は、黙示録では「地の四隅」に立ってラッパを吹くのにたいして、ミケランジェロ版すべて一つの塊になっている。
ミケランジェロの描いた布は、風に吹かれているように見えることが多いが、本来の審判の日にはすべての天候が止むとされている。
復活した人たちの状態はまちまちで、骸骨の人もいるが、ほとんどは肉がついたままの姿になっている。
裸体画論争
破壊命令
フレスコ画が完成してから20年後の1563年、トレント公会議の最終会議で、数十年前から教会内で強まりつつあった芸術に対する反宗教改革の姿勢を反映した言葉の形がついに制定された。公会議の法令は、次のようなものである。
「あらゆる迷信は取り除かれ、...あらゆる淫乱は避けられなければならない。そのように、図像は欲望を刺激する美しさで描かれたり飾られたりしてはならず、...無秩序なもの、不適切なもの、混乱しているものは見られず、不敬なもの、不適切なものもない、聖なるものが神の家となるのだから。これらのことがより忠実に守られるように、聖なるシノドスは、ビショップによって承認された像を除いて、免除の如何にかかわらず、いかなる場所、あるいは教会にも、異常な像を置くこと、あるいは置かせることを許さないことを布告する」。
「使徒礼拝堂の絵は覆い隠すべきで、他の教会の絵も、卑猥なもの、明らかに虚偽のものが描かれている場合は、破壊すべきである」。
しかし、ヴァザーリらによる擁護により、絵の破壊は免れたという。
1573年、パオロ・ヴェロネーゼは、当時『最後の晩餐』と呼ばれていた絵(後に『レヴィの家の饗宴』と改名)に「水夫、酔ったドイツ人、小人、その他の不条理」を描いたことを正当化するためにヴェネツィアの異端審問に召喚され、同等の礼儀違反があるとしてミケランジェロを巻き込もうとしたが、記録にあるようにすぐに審問官に却下された。
Q. 主の最後の晩餐において、「水夫、酔ったドイツ人、小人、その他の不条理」を表現することは、あなたにとって適切だと思いますか?
A. もちろん、そうではありません。
Q. ではなぜそうしたのですか?
A. あの人たちは晩餐会が行われていた部屋の外にいたのだと仮定して、そうしたのです。
Q. ドイツや異端がはびこる他の国々では、常識のない無知な人々に誤った教義を教えるために、不条理に満ちた絵を使って聖カトリック教会のものを誹謗し、嘲笑することが習慣になっていることを知らないのですか?
A. それが間違っていることには同意しますが、私の師から与えられた例に従うことが私の義務であると、これまで述べてきたことを繰り返します。
Q. では、あなたの師匠は何を描いていたのですか?このようなものでしょうか?
A. ローマの教皇庁礼拝堂で、ミケランジェロは聖母マリア、聖ヨハネ、聖ペテロ、そして天上の宮廷を表現しています。
Q. 『最後の審判』では服を着ていると考えるのは誤りであり、服を描く理由はなかったということがわからないのでしょうか。しかし、これらの図像の中に、聖霊に触発されていないものがあるでしょうか?水夫も、犬も、武器も、その他の不条理もない。...
ダニエレ・ダ・ヴォルテッラによる修正
しかし、批判に応え、公会議の決定を実現するための何らかの行動は不可避となった。
描かれていた性器は、1564年にミケランジェロが亡くなった後、マニエリスムの画家ダニエレ・ダ・ヴォルテッラによって、おそらく大部分が布で覆われるように塗り替えられた。
ダニエレは「ミケランジェロに対する誠実で熱烈な崇拝者」であり、修正を最小限にとどめたため、追加修正するよう命じられることもあった。そのトラブルから、「ブリーフメーカー」を意味する「イル・ブラゲットーネ」というニックネームが付けられた。
また、聖女カテリーナの大部分と、その背後にいる聖ブレーズの姿全体をノミで削り取り、完全に描き直されている。
これは、原画ではブレーズがカトリーヌの裸の後ろ姿を見ているように見え、二人の体位が性交を連想させるためである。
修正版では、ブレーズが聖カテリーナから離れ、キリストに向かって上を向いている。
芸術的批評
当時の人々の批評
道徳的、宗教的な批判だけでなく、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画のときにはほとんど見られなかった、純粋な美的感覚に基づく批判も当初からかなりあったという。
ミケランジェロ批判の最初の波を起こしたのは、ピエトロ・アレティーノとその友人のロドヴィーコ・ドルチェという、ヴェネチアの多作な人文学者である。
アレティーノは、ティツィアーノと同じようにミケランジェロと親しくなろうと近づいたものの拒絶されていた。
1545年、アレティーノの逆上し、ミケランジェロに、今では不誠実な慎重さの例として有名な、最後の審判に関する批評手紙を書いているが、これはもともと批評を公衆に見てもらうために書かれた出版物である。
なお、アレティーノは、実は完成した絵を見ておらず、すぐに市場に売りに出された1枚の版画を購入して、それをもとに批評を行っている。
アレティーノは「庶民派気取り」のつもりだったが、少なくとも版画を買う人々は、無修正の絵画を好んだようである。
ドルチェは、アレティーノが亡くなった翌年の1557年に、友人アレティーノとの共作と思われる対話集『アレティーノ』を出版し、ミケランジェロを批判している。
神学者たちの主張の多くが繰り返されたが、宗教というよりむしろ礼節において、フレスコ画で特殊で非常に人の目につく場所での、裸体の多さは容認できないと強調した。
ドルチェはまた、ミケランジェロの女性像は男性と見分けがつきにくく、彼の人物は「解剖学的な展示主義」を示していると不満を述べた。
この点で、ヴァザーリなどミケランジェロ支持派も論争に惨禍し、ミケランジェロとラファエロの長期に渡る修辞的な比較が展開された。
ラファエロは、ミケランジェロに欠けている優雅さと礼儀正しさの模範とされ、その優れた資質をヴァザーリは「テリビルタ」、つまりその芸術の凄み、崇高さ、(文字通り)恐怖を引き起こす品質と呼んだ。
ヴァザーリは、1568年に出版された『生活』第2版の時点で、このミケランジェロ批判の見解に一部同意するようになったが、フレスコ画の装飾性や「人物の驚くべき多様性」など、攻撃側が挙げたいくつかの点について(それらには触れずに)明確に擁護し、「神の直接的影響」、「教皇と彼の "将来の名声 "への信用」と断言したのであった。
修復と再発見
「イチジクの葉運動」の検閲
《最後の審判》は当初、色彩、特に細部の表現に焦点が当てられていたが、何世紀にもわたって表面に蓄積された汚れによって、それらはほとんどわからなくなってしまった。
壁にはめ込んだことで、祭壇にあるろうそくのすすが絵に付着してしまったのが汚れのおもな原因である。
1953年(11月)、バーナード・ベレンソン氏は日記にこう記している。
「天井が暗く、陰鬱に見える。《最後の審判》はなおさらだ。これらのシスティーナのフレスコ画が、今日ではオリジナルではほとんど楽しめず、むしろ写真ほうが楽しめるということを、心に決めるのはいかに難しいことだろうか」。
その後、フレスコ画は、1980年から1994年にかけて、バチカン美術館のポストクラシックコレクションの学芸員であるファブリツィオ・マンチネッリとバチカン研究所の修復師長であるジャンルイジ・コラルッチ氏の監督のもと、システィーナ丸天井の修復と並行して修復された。
修復の過程で、「イチジクの葉運動」によって検閲された裸体の約半分が解除された。数十年の煙と汚れの下に埋もれていたディテールの数々が、修復後に明らかになったのである。
ミケランジェロは裸体の人物像を多く描いたことで、不道徳で猥雑であると非難されたのである。そして『最後の審判』の裸体を隠そうという「イチジクの葉運動」と呼ばれる一種の検閲運動が開始された。
完成前のパウロ3世との内覧会で、教皇の式部官ビアッジョ・ダ・チェゼーナが次のように述べたとヴァザーリは伝えている。
「これほど神聖な場所に、これほど恥ずかしく身をさらけ出す裸の人物が描かれているのは非常に恥ずべきことであり、教皇庁の礼拝堂のための作品ではなく、むしろ公衆浴場や居酒屋のための作品であった」。
これに対して怒ったミケランジェロはすぐに、記憶していたチェゼーナの顔を、ロバの耳(愚かさを示す)をつけた冥界の裁判官ミノス(絵の右下端)にして、その裸体には蛇を巻きつけた。
これを見たチェゼーナが、ローマ法王に訴えたところ、法王は「地獄までは管轄外だ、だから絵はそのままでいい」と冗談を言ったという。
ミケランジェロは不仲だったチェゼーナを地獄の裁判官ミノスとして『最後の審判』に描いた。ロバの耳をつけたミーノスのフレスコ画が、巻きつき蛇に生殖器を噛まれていることが発見されたのである。
教皇パウロ3世自身は、この作品を依頼し保護したため一部から批判を受け、《最後の審判》を完全に除去しないまでも修正するよう圧力を受け、それは彼の後継者たちの時代にも続いた。
制作のための長い準備
イエスの復活を描きたかった?
《最後の審判》は長い時間をかけて構想された作品だった。
ミケランジェロはローマ教皇ユリウス2世よりシスティーナ礼拝堂の天井画を描くよう命じられ、1508年から1512年にかけて『創世記』をテーマにした作品を完成させている。
それから20数年経ち、1534年に教皇クレメンス7世に祭壇画の制作を命じられ、後継のパウルス3世の治世である1535年から約5年の歳月をかけて1541年に『最後の審判』が完成した。
おそらく、1533年に初めて計画がもちがあがっていたと思われるが、その時はミケランジェロにとって魅力的な仕事ではなかった。1535年4月までに壁の準備が始められたが、絵を描き始まるまでに1年以上かかっている。
多くの手紙や他の資料では、当初の主題は「復活」であったと記されている。これはイエスの復活ではなく、キリスト教の終末論における最後の審判における死者の一般的な復活の意味で常に使われていた可能性が高いようである。
1530年代前半のミケランジェロのデッサンには、イエスの復活が描かれているものが多くあり、彼自身はイエスの復活を描きたかったのかもしれない。
これは、当時のカトリック側における反宗教改革の雰囲気を反映しているためで、もっと憂鬱な主題に置き換えたかったと考える学者もいる。
なお、ヴァザーリによれば、ミケランジェロは当初、もう一方の端の壁にも「反逆の天使の滝」を描くつもりだったという。
油彩・フレスコ論争
この壁の準備の問題で、ミケランジェロはセバスティアーノ・デル・ピオンボとの20年以上にわたる友情を終わらせている。
ピオンボは、教皇とミケランジェロを説得して、彼の好む漆喰に油彩という技法で絵を描くことを推奨した。この頃に、ミケランジェロのデザインで、ピオンボが実際に絵を描くという話が持ち上がったのかもしれない。
ヴァザーリによると、ずっと何も話さなかったミケランジェロが、フレスコ画にすることを激しく主張しはじめ、フレスコ画の下地として必要な粗いアリッチョで壁を塗り直させたという。
このときミケランジェロがつぶやいた、「油絵は女性のための芸術であり、フラ・セバスティアーノのようなのんびりした怠け者のための芸術だ」と言ったのは有名な話である。これ以降、2人の関係は、ピオンボが死ぬまでずっと冷え切ったままだった。
ミケランジェロは作業を始める前に、窓をレンガで塞ぎ、フレスコ画とデッラ・ローヴェレの紋章を取り除き、壁を何層もの漆喰で覆った。これは、ひび割れやカビを防ぐためと、礼拝堂の中央に向かって壁を傾斜させて視覚効果を高めるためである(その結果、ミケランジェロの描いた裁判官の姿がより大きく見えるようになった)。
その結果、壁とそこに描かれたフレスコ画は、2枚のモザイクの石版(ルショット)のような形になったのである。当初は2人の助手がいて、青色を中心とした絵の具を挽いた。この色は、ラピスラズリという宝石を粉にして作られたものである。
『聖母被昇天』の破壊
《最後の審判》の当初の計画は、図面に示されているように、既存の祭壇画を残して回り込み、モーゼとキリストのフレスコ画の下で構図を止めることであった。
新しいフレスコ画は、システィーナ礼拝堂の天井画とは異なり、既存の美術をかなり破壊する必要があった。
ミケランジェロが《最後の審判》を描くより前、祭壇画としてペルジーノの《聖母被昇天》が描かれており、ミケランジェロは当初ペルジーノの画を残すプランを提案していた。
しかしこの案はクレメンス7世により却下され、祭壇の壁面の漆喰を完全に剥がされてペルジーノの画は完全に失われた(スケッチのみが現存する)。
『聖母被昇天』を撤去することが決まると、聖母被昇天としばしば関連する主題である「聖母戴冠」のタペストリーが依頼された。18世紀、おそらく1540年代からそれまでは重要な典礼の際に祭壇の上に掛けられていたようである。
このタペストリーは縦長で、4.3×3メートル(14.1×9.8フィート)あり、現在もバチカン美術館に収蔵されている。
1582年の版画には、使用中の礼拝堂と、ほぼこの形の大きな布が祭壇の後ろに掛けられ、その上に天蓋がかかっている様子が描かれている。布は無地であるが、天井の下の絵も省略されており、自ら立ち会わず、版画や記述から判断した可能性が高い。
なお、フレスコ画の上には、サンドロ・ボッティチェリの監督下でフィレンツェの画家たちが描いた数人の教皇像があり、その両脇には、キリストとモーセの生涯を描いた2つのサイクルの冒頭シーンを描いた四つ葉が描かれている。
■参考文献
・https://fr.wikipedia.org/wiki/Le_Jugement_dernier_(Michel-Ange)、2022年1月6日アクセス
・https://en.wikipedia.org/wiki/The_Last_Judgment_(Michelangelo)、2022年1月2日アクセス