彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも / The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even
独身者と花嫁のエロティックな出会い
概要
作者 | マルセル・デュシャン |
制作年 | 1915-1923年 |
メディウム | 修正レディ・メイド(油彩、ガラス、鉛の箔、ヒューズ線、埃など) |
サイズ | 277.5 cm × 175.9 cm |
コレクション | フィラデルフィア美術館 |
《彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも(通称:大ガラス)》は、1915年から1923年の8年の制作期間にわたって制作されたマルセル・デュシャンのオブジェ作品である。
この作品は、鉛の箔、ヒューズ線、埃などの素材と2つのガラスパネルを使って制作されたものであり、偶然の要素、透視図法、緻密な職人的な技術や物理学、言語学的な要素が集約された非常に複雑な作品である。
上パネルの「花嫁」と下パネルの9人の「独身者」のエロティックな出会いを表現している。1926年にブルックリン美術館で展示されたあと、作品移動中にガラスにひびが入り、デュシャンが修正したものが現在フィラデルフィア美術館に所蔵されている。
この偉大なる作品『大ガラス』を真っ先に理解して評価したのはアンドレ・ブルトンだった。ブルトンは批評時は、『大ガラス』を図版でしか見たことがなかったが、ためらうことなくこの作品を現代美術の最高峰に位置づけた。ブルトンは記す。
「この作品では、処女の領域、あるいは官能性、哲学的思弁、スポーツ競技の精神、科学の最新情報、叙情性やユーモアの辺境を駆けめぐる途方もない狩りの戦利品を見のがすことはまず不可能だろう。」
ブルトンはこの傑作にいたるまでのデュシャンの絵画とオブジェを手短に回顧し、ついでメモをふんだんに引用しつつ、花嫁が「(悪意の片鱗も覗く)空白の欲望」を始動させ、独身者たちが焦がれつつ従順にそれに応じるめくるめく複雑な動きをの連続を経て、「飛沫の幻惑」から今にも起こりそうでありながら、けっして成就することのない花嫁の裸体化にいたるまでの概略をたどってゆく。
偉大な独創性をそなえたこの作品は、20世紀の生んだ最も意義深い傑作のひとつであるだけでなく、未来の世代に対する予言的な記念碑であるとブルトンは結論付ける。
なお本作のために膨大な制作メモが残っているが、そのメモをまとめたものが《グリーンボックス》である。そのため、グリーンボックスを解読することと本作を解読することは同じである。
作品解説
大ガラスは上下ふたつのパートからなっており、上半分を花嫁の領域、下半分を独身者機械と呼ぶ。また両者の間には、花嫁の衣装と呼ばれる部分がある。
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独身者機械の物語には3つの独立した系がある。
それぞれどこからともなくやってくる照明用ガス、水の落下、チョコレートを出発点としている。
このうちチョコレートの系はどこから来るのかわからないが、チョコレートをチョコレート磨砕器が挽くと、ミルク・チョコレートとなって沈殿する、というだけのものである。これには、「独身者は自らそのチョコレートを砕く」という自発性の格言が付随している。
また、水の落下の系は、水車を含んだ往復台と関連しているように思われる。往復台は、「緩慢な生、堂々巡り、オナニズム……」といった連祷をつぶやきながら左右に往復運動を繰り返す。同時に、往復台とチェーンで結ばれたベネディクティン酒の瓶の重なりも、上昇・下降を永遠に反復しながら希望と絶望とを行き来する。
独身者機械の主役は、照明用ガスの旅である。ガスは、空洞の9つの雄の鋳型の内側にとどまり、それぞれの雄の形態を与えられる。この部分には制服とお仕着せの墓場という別名があり、それぞれの鋳型には、警官、カフェのドア・ボーイ、駅長など、制服とお仕着せを着る9つの職業の名前が付けられている。
鋳型にとどまったガスは、頭頂部につながっている毛細管と呼ばれる細い管に導かれる。そして、この細い管を通り抜けている間に、固い針のような個体に変わる。固体化したガスは、一点に集中する管の出口のところで解放され、空気よりも軽い薄片の霧のような状態に変わり、上昇しようとする。
だが、最初に漏斗に捉えられてしまう。漏斗には細かい無数の穴があいており、ガラスはそれを通り抜けるが、ひとつ通り抜けるとさらにつぎの漏斗が待っている。こうして半円状に並ぶ7つの漏斗を通り抜けている間に、ガスは方向感覚を喪失し、それとともに状態を変える。
無気力な蒸気となったガスは、たがいに寄り集まって液体状になり、水を混入したグリセリンを思わせる濃い液体になる。液体となったガスは、渦巻きのような形の滑り台状の排出の平面を滑り降り、その出口で撥ねを飛ばす。水滴となったガスは、なおも上昇しようとし、今度は眼科医の表を通り抜ける間に、めまいを起こす。
そして鏡の反射によって、ただの映像として花嫁の領域に到達する。これは、9つの射点と呼ばれ、下手な射撃のように、9つの穴がバラバラに散っている。また、液体ガスの撥ねかかりは、花嫁の衣装の上に乗っている重力の中心の軽業師の働きに、ひいては花嫁の裸体化にも関係してくることになる。
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一方、独身者たちによる裸体化と平行して、花嫁の領域では、「欲望する花嫁が自発的に想像した裸体化」が進行し、それによって花嫁の開花が起こる。「非常に弱いシリンダーつき内燃機関は花嫁の表面的機関である。そしてそれは、愛のガソリン、花嫁の性腺の分泌物によってそして裸体化の電気火花によって作動される。言ってみれば、花嫁は独身者たちによるこうした裸体化を拒否せず、これを受け入れさえする。なぜなら花嫁は愛のガソリンを供給し、そしてその性的快楽への激しい欲望を、火花を散らしながら発展させることによってついには完全な裸体化に貢献するからである。
こうして花嫁と独身者たちの両者の欲望によって、花嫁は裸にされ、開花を遂げるわけだが、それにもかかわらず両者の真の出会いと結合は果たされない。かげろうのようなかすかなイメージにまで身を細らせ、あしたの露と消えていく独身者たちをよそに、ただ空しく、欲望に火照った花嫁の裸体だけが、処女のまま残る……。(「美術手帖」2011年5月号)
澁澤龍彦批評「マルセル・デュシャンあるいは悪循環」
私がデュシャンと同じく、営々黙々として「独身者の機械」にたわむれているというタイプの人間であることを、つとに見ぬいていたらしいのである。
急いでお断りしておくが、私はなにも自分をデュシャンのような天才に比較しようとしているのではない。ただ、精神生理的な面において、端もなくも同じ傾向を有していることを自認しているというだけのことだ。
デュシャンくらい、一生涯かけて1つのテーマを固執した芸術家も珍しいものではないだろうか。それでは、デュシャンの一生を呪縛したく観念上のテーマとは、いったい何だったろうか。それは、「独身者の機械」にほかならなかった。と規定しておきたいのである。
デュシャンの80年の生涯には、他の多くの画家におけるように、進歩とか発展とかいったことが少しも認められず、彼は若年において固着した1つの悪循環にも等しいテーマから、死ぬまで逃れることができなかった。いや、デュシャン自身は、自分自身を決して繰り返さないという決意があったろうし、この決意を作品として実行に移したという自負もあったであろう。
ミシェル・カルージュの定義によれば、この「独身者の機械」とは、「性愛を死のメカニズムに変形する幻想のイメージ」ということになる。要するに、男女の性の結合を機械の運動のアナロジーとして眺めることによって、一般的には愛と多産を結果せしめるものと考えられている性の運動を、むしろかえって孤独と死と不毛の観点から捉えようとする試みなのである。
ふつうの機械が合理性と有用性の原則に基いて活動するものとすれば、「独身者の機械」は逆に、不可能性と非有効性に基いて活動する。無意味さをその活動の本質としている、といってもよいだろう。つまり、なにものをも生産せず、なんらの有用な成果をも生まないのである。
この「独身者の機械」のイメージは、必ずしもデュシャンのみの専有ではなく、19世紀以後の近代文学、すなわちポー、リラダン、ジュール・ヴェルヌ、ジャリ、アポリネール、ルーセル、カフカなどの作品中にもあらわれる。日本の作家に例を求めるとすれば、さしずめ稲垣足穂と江戸川乱歩の名があげられる。
もっとも、これらの文学者の作品では、「独身者の機械」のイメージはあくまで部分的にしか認められず、それが総体的な形で表現されているのは、まさに「独身者の機械」という別名をもつところのデュシャンの「大ガラス」においてのみなのである。
「大ガラス」は、一見したところ、わけの分からぬ判じ物のような、一種の複雑なアッサンブラージュの形になっているものが多い。そうかと思うと、避雷針だとか、時計だとか、自転車だとか、汽車だとか、ダイナモだとかいった、単純なメカニズムのなかに隠されている場合もある。
私たちが夢のなかで見るような、一種のあり得べからざる妄想機械、あるいは機械の幻影だといってもよいのだろう。ただし、それが性のアナロジーになっていなければならないので、「独身者の機械」には必ず、そのなかにセックスの活動のシステムをふくんでいることが要求される。たとえ男女の両性が認められようとも、現実にはなんの成果をも生まない孤独なセックスの活動のシステムである。
「大ガラス」の大部分を形づくっている、ガラスという近代的な材料のことを問題にしたい。東野芳名は、デュシャンのショウ・ウィンドウに対する偏愛について語りながら、「いわばショウ・ウィンドウは、欲望にみちた視線が吸収され、同時に遮断される場である」といったが、ボードリヤールもまた、ガラスの「近接とへだたり、親密さとその拒絶、コミュニケーションと非コミュニケーション」について語っている。
また、ブルジョアジーの新しい道徳が確立された1830年頃から、同性愛とマスターベーションが急速にブルジョワ社会に広がりだしたという事実を、ここで私は指摘しておきたい。むろん、その反面では、この悪習を禁止するために、かつての司祭に代わって性の監視人となった医師が、純潔と生殖のモラルを大々的にキャンペーンしはじめるのである。
このような性的抑圧の風潮のなかで、あのビアズレーやパスキンやロップスやロートレックなどの、孤独な快楽のメタファーがふくんだ絵画作品が誕生したのだった。デュシャンの「大ガラス」を準備したものには、前に述べた機械崇拝のほかに、こうしたブルジョワ社会の深層構造もあったということを記憶しておけなばならぬ。
「オナニズムと無神論とは密接な関係がある」といったような意味で、デュシャンのなかに、ニーチェ思想と似たところがあるような気がしてならないのである。ニーチェ思想といっても、この場合のそれは、遊戯する幼児という観念を好んだニーチェ後年の思想だ。
幼児の遊戯は役に立たぬもの、無用のもの、無償のものだから、ニーチェにとっては精神の最高段階をあらわす観念にほかならなかった。役に立たないからこそ、それが最高の価値をなすのである。そしてニーチェはしばしば、この遊戯する幼児という気に入りの観念を、みずから回転する車輪によって表象しようとした。みずから回転する車輪は、自己目的でしかありえず、動機や意図がまったくない。
純粋な遊びにほかならないからだ。なんと、これは「独身者の機械」によって表象されたオナニズムの原理によく似ているではないか。
デュシャンが回転する物体をとりわけ好んだのは、「大ガラス」の下半分の「独身者の機械」に出てくる「チョコレート磨砕器」や「水車」によっても明らかであるし、またスツールの上に自転車の車輪を逆さに取り付けたレディメイドのオブジェ「自転車の車輪」や、同心円の円盤をモーターで回転させる「回転半球」や「ロト・レリーフ」のような装置によっても明らかであろう。
自閉症児がしばしば回転する物体に助けを求めることから、次のような結論をしている。「彼らにとって、ぐるぐるまわる物体は悪循環を意味するのであって、この悪循環は憧れから発して恐怖へ、怒りへ、絶望へと向かい、そして憧れが新たに始まったとき、それはふたたび完全に一巡を終えるのである」と。
ここまで、読んできた読者は、そもそもデュシャンの作品には、どんな芸術的思想的もしくは哲学的な意義があるのか、と。それに対して私はこたえるだろう、なんの意義もないのだ、と。なんの意義もない無償の想像力のたわむれだからこそ、これほど私たちの心を惹きつけるのだ、と。
■参考文献
・「美術手帖」2011年5月号
・マルセル・デュシャン展 高輪美術館 西武美術館