工藤哲巳 / Testumi Kudoh
インポ哲学
概要
工藤哲巳(1935年-1990年)は日本の前衛美術家。抽象絵画やポップ・アートの影響を受けた作品が特徴で、「読売アンデパンダン展」に出展して徐々に著名な美術評論家から評価を高める。
60年代初頭の前衛美術ムーヴメントで活躍するものの、篠原有司男や赤瀬川原平などのネオ・ダダイズム中心グループからは距離を置いて単独行動。1962年発表の「インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生」を作品に最後にパリに旅立つ。
パリで敢行したハプニング「インポ哲学」で注目を浴び、パリで本格的に活動。ヨーロッパの人間中心主義(ヒューマニズム)を批評、攻撃し、従来の人間像の解体を主張し、ヨーロッパ知識人の代表であるウジェーヌ・イヨネスコをモチーフにした批判的オブジェ作品が有名。
70年代後半から、攻撃的な作風から一転内省的な作風に変化する。鳥籠や水槽、植木鉢を用いた自画像のオブジェ作品が中心となる。80年代にアルコール依存症を患い入院。
退院後は、長年使用してきた鳥籠やイヨネスコの顔、ペニス、電子部品も全く使わなくなり作風が激変。糸玉やオープンリールを使った抽象的なオブジェやとなった。1990年、結腸癌のため、東京都千代田区の三楽病院で死去。享年55歳。
略年譜
年 | |
1935年 |
・2月23日、大阪の病院で出生、戸籍上の届出は、兵庫県加古郡加古川町字生駒町61番地。本名は「哲美」だが、幼少時に病弱であったため、通名を「哲巳」とする。 ・父工藤正義(1906-1945)は、青森県五所川原市出身の画家で、東京美術学校卒業後、兵庫県立加古川中学校、大阪府立堺中学校で美術教師を務める。新制作派協会で活躍、同会の小磯良平を師と仰いだ。岡山県出身の母(旧姓野間)淑子(1906-1974)は、岡山県女子師範学校を卒業後、東京に出て太平洋画研究所に通い、翌1932年に長女玲子が生まれる。 |
1942年 | ・父正義、療養を兼ねて故郷に疎開。父の実家から五所川原市七ツ館国民学校に通う。 |
1943年 | ・正義は、青森県師範学校の教授に就任する。 |
1945年 |
・10月、父正義死去。享年39歳。その後、青森県師範学校の非常勤講師となった母淑子とともに弘前に移り住み、朝陽小学校、弘前第四中学校に通う。 |
1949年 |
・母の郷里岡山に移り、丸の内中学校に転校。 |
1950年 |
・4月、岡山操山高校に入学。美術部に属し、同級生の吉岡康弘(後年、写真家、映画撮影監督として活躍)と出会う。父の恩師であった小磯良平に個人指導を受ける。 |
1953年 |
・東京藝術大学の受験に失敗し、上京、阿佐ヶ谷洋画研究所に通う。 |
1954年 |
・東京藝術大学に入学。ラグビー部に所属。林武教室に入るが、教授に反発。 |
1957年 |
・在学中より、都内の画廊で個展を二度、同級生によるグループTUCHI第一回展を開いた。ハプニングのはしりとも言える制作実演を盛んに行なう。「融合反応」や「増殖性連鎖反応」など原子物理学や生物学、集合論などに触発された作品を制作。 |
1958年 |
・卒業直前の代10回読売アンデパンダン展への出品作が、アンフォルメル運動の推進者であるフランスの美術評論家ミシェル・タピエによって、激賞される。 ・3月、東京藝術大学を卒業。 |
1959年 |
・第12回読売アンデパンダン展出品作「増殖性連鎖反応(B)」を美術評論家の東野芳明が「ガラクタの反芸術」と評したことから、「反芸術」が1960年代の前衛美術を代弁する言葉となった。9月22日、栗原弘子と結婚。 |
1962年 |
・第14回読売アンデパンダン展に大作「インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生」を出品し、物議をかもす。 ・第2回国際青年美術家展(汎太平洋展)で大賞を受賞し、その奨学金により、5月4日パリに渡る。以後、パリを拠点にヨーロッパで活躍。ジャン=ジャック・ルベルがパリで企画した展覧会兼示威行動「破局の精神を祓いのけるために」で敢行したハプニング「インポ哲学」で一躍注目される。 ・以後、1960年代を通して、「あなたの肖像」「インスタント・スパーム」「ヒューマニズムの壜詰」「あなたは変態しつつある」「『脱皮』の記念品-郷愁病用-あなたの居間に」「放射能による養殖」などの連作を次々と発表し、ヨーロッパの人間中心主義(ヒューマニズム)を批評し、従来の人間像の解体を主張する。と同時に、「ヒューマニズムの腹切り」や「ゆるやかな出来事」と題した攻撃的かつ挑発的なハプニングを展開する。 |
1964年 |
・ハーグ市立美術館の「新しいリアリストたち」展に出品。フリッツ・ベヒトらオランダのコレクターが工藤の作品を収集し始める。 |
1965年 |
・パリで初めての個展をギャラリーJ(パリ)で開く。 ・ジェラール・ガシオ=タラボ企画の「現代芸術における物語的具象」展(ギャラリー・ユーロップ、ギャラリー・クルーズ(パリ)、アラン・ジュフロワの企画の「オブジェククトゥール」展(ギャラリーJ(パリ)他巡回)に出品。 |
1967年 |
・ジェラール・ガシオ=タラボ企画の「世界への問いかけ-26人の異議申立者」(パリ市立近代美術館)、ハラルド・ゼーマン企画の「サイエンス・フィクション」(ベルン・クンストハレ)に出品。 |
1969年 |
・6月8日、一時帰国(翌年の2月25日まで)。千葉県房総の鋸山に巨大な岸壁レリーフ「脱皮の記念碑」を制作。その制作風景と工藤のそれまでの歩みをたどった記録映画「脱皮の記念碑、工藤哲巳の記録」を、吉岡康弘の撮影・構成で作成。 |
1970年 |
・デュッセルドルフ・クンストフェラインで回顧展。ルーマニアに生まれフランスで活躍した劇作家ウジェーヌ・イヨネスコの映画『泥』の舞台美術を担当。ヨーロッパの知識人の代表として、イヨネスコを攻撃する作品の制作を開始。 |
1972年 |
・2月23日、長女紅衛が生まれる。 ・アムステルダム市立美術館で個展「環境汚染-養殖-新しいエコロジー-あなたの肖像」を開き、「あなた方の家族の部屋」や「イヨネスコの部屋」などと命名された4部屋による意欲的な展示を行った。 ・同年、ミュンヘン・オリンピックに際して開かれた「美術の桟橋」に参加。 |
1974年 |
・母淑子死去。享年68歳。墓参のため、家族と帰国。岡山、青森などを訪ねる。 |
1975年 |
・「=工藤哲巳・吉岡康弘=岡山の生んだ異才とその周辺」(天満屋葦川開館、岡山)のため、一人で帰国。この頃から、それまでの攻撃的、挑発的作風としては一転して、内省的かつ自画像的な「危機の中の芸術家の肖像」の連作が始まる。工藤は40歳になる頃である。工藤の作風の転換の年といえる。 |
1976年 |
・「プログラムされた未来と記録された記憶との間での瞑想」や「パリの仏陀」の連作が始まる。 |
1978年 |
・ドイツ学術交流基金(DAAD)により、一年間ベルリンに招待され、滞在制作。 |
1979年 |
・「遺伝染色体」をテーマにした連作を集中的に制作。 |
1980年 |
・6月24日-7月31日、アルコール依存症治療のため、パリ郊外の病院に入院。 |
1981年 |
・7月21日、家族と共に帰国。軽井沢の高輪美術館での「マルセル・デュシャン展」のオープニングに出席。 ・9月、草月流家元の勅使河原宏のすすめで、草月美術館で個展。「遺伝染色体」の連作と「記憶の独立」「人生カセット」など色彩豊かな糸を巻きつけた抽象的な新たな作風による近作・新作が展示される。 ・11月から渋谷の日本会館に滞在し、色紙の連作を制作。 ・「1960年代-現代美術の転換期」(東京国立近代美術館ほか)に出品。 ・1980年代は、シンポジウム、講演会、対談を多数こなし、パフォーマンスを青森、東京、名古屋、岡山などで行なう。 |
1983年 |
・7月5日、家族とともに帰国。10月から青森県弘前市大原に部屋を借り、父正義の遺作展を準備する。この頃より、パリと日本を半年ずつの生活が始まる。 ・「現代美術の動向Ⅱ 1960年代-多様化への出発-」(東京都美術館)に出品。 |
1984年 |
・「工藤正義回顧展」を弘前市立博物館で開催。 ・「津軽文化褒賞」受賞、同時に妻弘子へ「内助功労賞」。 |
1985年 |
・「再構成:日本の前衛1945−1965」(オックスフォード近代美術館ほか)に出品。 ・夏過ぎ頃より、喉に痛みを感じる。飲酒を再開。 |
1986年 |
・個展「ひとりの作家の歩んだ道 工藤哲巳の世界」(弘前市立博物館)を開催。 ・「前衛芸術の日本」(ポンピドゥー・センター,パリ)に出品。 ・年末頃、医師の診察を受ける。 |
1987年 |
・2月、精密検査のためパリ赤十字病院へ入院。喉頭癌の診断。投薬治療で4月まで入退院を繰り返す。 ・5月、毎日パリ郊外のヌイイ病院で放射線治療を受ける。 ・10月東京藝術大学に就任。上野桜木に住む。 |
1990年 |
・2月28日、入院。結腸癌の手術。 ・11月12日、結腸癌のため、東京都千代田区の三楽病院で死去。享年55歳。 |