【美術解説】村上隆「ハイとロウの境界を曖昧化するスーパーフラット」

村上隆 / Takashi Murakami

ハイとロウの境界を曖昧化スーパーフラット


村上隆『727』(1996年)
村上隆『727』(1996年)

概要


生年月日 1962年2月1日
国籍 日本
活動場所 埼玉県(日本)
表現形式 絵画、彫刻、版画
ムーブメント スーパーフラット
関連人物 奈良美智Mr.Blum&Poeシェイカ・アル=マヤッサラリー・ガゴシアン
関連サイト

Kaikai Kiki

Artsy(作品・略歴)

artnet(作品・略歴)

村上隆(1962年2月1日生まれ)は、国際的に幅広く活動している日本の美術家。絵画や彫刻などのファイン・アートが活動の中心ではあるが、ほかにもファッション、グッズ販売、アニメーション、映画など、従来においてはコマーシャル・メディアと見なされている領域でも積極的に活動している。

 

村上は、美術史において「ハイ」と「ロウ」の境界線を曖昧にした表現「スーパーフラット」で評価されている。浮世絵や琳派など日本の伝統美術と戦後の日本のポップカルチャーの平面的な視覚表現に類似性や同質性を見出し、それらを1つの画面に圧縮している。

 

また、スーパーフラットは、戦後の日本社会で発生した無階層的で一様な大衆文化も表しているという。

 

村上の芸術キャリアは美術史上においてかなり特異な存在である。活動初期から日本の美術業界のマーケットに絶望していた村上は、戦略的に欧米を中心とした美術市場で、芸術家としての自己を確立することを決める。

 

さらに、欧米の美術市場で自己を確立したあと、逆輸入する形で日本での活躍を試みた新しいタイプの芸術家だった。これは、海外で評価されたものは積極的受容しがち日本の国民性を理解した上での行動であると思われる。(草間彌生や奈良美智など以前から逆輸入型の芸術家はたくさんいるが、戦略的ではない。)

 

彼はアートをビジネスとしてとらえており、芸術家であると同時に有限会社『カイカイキキ』の代表であり、多くの人を雇用して芸術を生産する経営者である。絵若手芸術家のキャリア育成や『GEISAI』などのアートフェアの企画・運営、中野ブロードウェイに画廊『Hidari Zingaro』、バー『Bar Zingaro』など多数の店舗を経営している。

 

2020年7月19日、日本で最も有名なYouTuberのヒカキンが村上隆の作品《ドラえもんありがとう》を購入したことを明らかにした

チェックポイント


  • 「ハイ」と「ロウ」の境界線を曖昧にした「スーパーフラット」
  • 欧米美術市場への戦略的なアプローチ
  • 芸術家であると同時にビジネスマン

略歴


初期作品


村上隆は日本の東京の板橋区で生まれ育った。幼少の頃から漫画やアニメの大のファンで、将来はアニメーション産業で働くことを志望していたという。

 

二浪ののち、東京藝術大学に入学。アニメーターになるために必要な技能を習得しようと入学したが、最終的には日本画を専攻することになった。1986年に東京藝術大学美術学部日本画科卒業、1988年に同大学大学院美術研究科修士課程修了(修了制作次席)する。

 

その後、村上は島国根性的で政治色の強い日本の芸術業界に幻滅し、現代美術の方向へ転向する。しかし村上は日本の現代美術の状態に対しても不満だった。日本の現代美術は「欧米トレンドの模倣」であると強く感じたという。マーケットが成立していない点も不満だった。

 

1991年に個展『TAKASHI, TAMIYA』を開催し、現代美術家としてデビューする。村上の初期作品の多くは社会批判や風刺の精神が強かった。 

 

同年、東京の細見画廊で開催された『賛成の反対なのだ』は、『天才バカボン』のキャラクター「バカボンのパパ」が体現する「真実の曖昧さ」を媒介に、現代の日本の天皇制に潜む主体性や責任の所在の空洞化を批判する試みだった。

 

また、同年開催された『ランドセル・プロジェクト』は、ワシントン条約で取引が禁止されている稀少動物の皮で作られたランドセルを学習院御用達のメーカーに作らせることにより、条約自体の恣意性を強く意識させ、子どもの象徴であるランドセルに政治的要素が忍び込んでいることを暗示した。

 

1992年の『大阪ミキサー計画』は「ハイレッド・センター」のパロディ化したフォーマンス・アートで、ほかに「首都圏清掃整理促進運動」を大阪梅田地下街で再現した。また同年、彼自身のポップ・アイコン『DOB(ドブ)くん』を発表する。

 

しかし、これら彼の初期作品の大半は日本で受け入れられることはなかった。

 

1993年に、東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程を修了(PhD)。論文「意味の無意味の意味」を提出。これは東京芸術大学における日本画科初の博士号修得である。

村上隆『Signboard TAMIYA』(1991年)
村上隆『Signboard TAMIYA』(1991年)
村上隆『ランドセル・プロジェクト』
村上隆『ランドセル・プロジェクト』

ニューヨークへ


1994年に村上は、ロックフェラー財団の「アジアン・カルチュラル・カウンシル」から支援を受け、1年間ニューヨークのMoMA PS1の国際スタジオプログラムに参加する。

 

滞在中、村上は、アンゼルム・キーファージェフ・クーンズといった、特にシミュレーショニズムの西洋現代美術家に影響を受ける。また同時期にニューヨークに小さなスタジオを建て、そこに、のちの「ヒロポンファクトリー」のメンバーたちと集団で制作を行う。なお「ヒロポンファクトリー」は「カイカイキキ」の前身である。

 

この頃にアート・ワールドにおいては芸術活動の背骨となる中心的概念を作る必要があると強く思い始める。中心的概念の創造は、ヨーロッパやアメリカの主要なギャラリーや施設で展示活動を行うのに必要だった。

 

そこで、ポップとオタクを合わせた「PO+KU ART」のコンセプトを元にアニメやフィギュアなどオタク文化に近接したアート作品を発表し始める。 

戦略的アプローチ


村上は、戦後日本における堅実で持続性のある美術市場の欠乏に対して、早くから不満があることを表明していた。

 

そうしたことから、最初から戦略的に欧米の美術市場(アート・ワールド)で芸術家として自己を確立することを決める。欧米で確立後、日本へ逆輸入する形で活躍しようとするアートワールドにおいて新しいタイプの芸術家だった。

 

また、日本文化や日本の歴史をルーツとした芸術制作は、国際的に見ても新鮮であり、表現として有効だったため、帰国後、村上は日本独自の表現とは何かと深く探求し始める。

 

そして、ハイアートとロウアート(特にアニメや漫画)の境界線を理解した上で、意図的に両方をごちゃ混ぜにする表現を提案した。村上はこれが自身の作品における重要なコンセプトとなると感じる。

 

以後、村上作品における「かわいい、明るい色、アニメ風キャラ、フラット、光沢、フィギュア」といった要素は、こうしたコンセプトのもとに戦略的に作品に引用されることになる。たとえば、ホノルル美術館に所蔵されている作品で『コスモスボール』などが代表的な作品である。

村上隆『コスモスボール』(2000年)
村上隆『コスモスボール』(2000年)

スーパーフラット


2001年1月から3月にかけて村上は、ロサンゼルス現代美術館による19人の企画のグループ展『スーパーフラット』を企画・開催。同タイトルのカタログ上で村上は『スーパーフラット』理論を掲載。この展示は2000年に渋谷パルコギャラリーで開催した『スーパーフラット』の展示を基にしている。

 

参加作家は青島千穂、ボーメ、ヒロ杉山、グルーヴィジョンズ、金田伊功、町野変丸、森本晃司、Mr.、村上隆、中ハシ克シゲ、奈良美智、大井成義、佐内正史、sleep、鈴木親、タカノ綾、竹熊健太郎、富沢ひとし、20471120。

 

スーパーフラット理論の核は、今日の日本のマンガやアニメにおける平面性は日本の美術における平面表現の延長にあるものだというもの。さらに、スーパーフラットは戦後日本の無階級社会や一様で均質的なポップカルチャーを現すものでもあるという。

 

このスーパーフラット理論は、村上作品における芸術理論の核であり、2002年のパリ、カルティエファウンデーションでの『ぬりえ』展、2005年のニューヨーク、ジャパンソサエティでの『リトルボーイ』展をはじめ、その後の展示において、さらに深く探求する中心的概念となった。

 

『スーパーフラット』展は、2001年7から10月にウォーカー・アート・センター(ミネアポリス)、11月から2002年3月にヘンリーアートギャラリー(シアトル)に巡回。また、これらの展示では、日本のあまり知られていない文化を海外に紹介することにも貢献した。

 

『リトル・ボーイ』展は、2005年にニューヨークのジャパン・ソサエティで開催された村上隆が企画するグループ展で、10人の日本人アーティストのセレクションを取り上げた展覧会である。“リトル・ボーイ”の由来は、広島に落とされた原子爆弾のニックネームからきている。原爆の影響によって日本人は幼児的で特殊な奇形的文化を形成。さらにこのような文化を生み出したきっかけはアメリカにもある、というのが村上の主張である。

ヒロポン・ファクトリーとカイカイキキ


1996年に、村上はより大規模な制作を行うためにワークショップ「ヒロポン・ファクトリー」を創設する。当時は村上の回りに集まってきた若者たちの集団というかんじで、それまでのボランティアシステムから、少しづつギャラを払い始めた。

 

ヒロポン・ファクトリーは、宮﨑駿のスタジオ『スタジオ・ジブリ』のようなアニメやマンガの制作スタジオをモデルにしており、絵画、版画、彫刻などのファインアート作品を集団で制作していた。

 

2001年にヒロポン・ファクトリーは有限会社「Kaikai Kiki」に名前を変更して法人化した。

ルイ・ヴィトンとコラボレーション


2002年にデザイナーのマーク・ジェイコブスの招待で、村上はルイ・ヴィトンと長期的なコラボレーションを開始。ハンドバッグシリーズのデザインを行なった。

 

以前にも三宅一生や滝沢直己といったファッションデザイナーとコラボレーションをしていたけれども、ルイ・ヴィトンでの作品は、ハイアートとコマーシャリズムの境界線をぼかした出来事として、大きな評判と名声を獲得することになった。

 

さらに、ルイ・ヴィトンとの仕事は、母国日本において村上の一般大衆層への知名度を上昇させるきっかけとなった。また、2003年に、黒地あるいは白地にモノグラムをカラフルに配した「モノグラム・マルチカラー」を発表。

現在


2007年から2009年にかけて、村上の初回顧展『村上隆回顧展(C)MURAKAMI』がロサンゼルス現代美術館から始まり、ニューヨークのブルックリン美術館、フランクフルトのクンスト近代美術館、スペインのビルバオ・グッゲンハイム美術館へと巡遊して開催。展示ではルイ・ヴィトンとコラボレーションした作品などが注目を集めた。

 

2008年、村上は『Time』の『最も影響力のある100人』の一人として選ばれた。

 

2010年9月、フランスのベルサイユ宮殿で展示を行なった3人目の現代美術家となった。日本人としては初めてである。

 

2012年2月、村カタールのドーハで個展『Murakami Ego』を開催。100メートルもある壁に福島原発事故後の日本の人々の苦しみを描いた新作が話題となった。

 

2013年4月、長編映画作品『めめめのくらげ』で映画監督としてデビュー。

 

2015年、森美術館で個展『村上隆の五百羅漢図展』を開催。翌年3月に成果として平成27年度(第66回)芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。

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