シュルレアリスムと共産主義
シュルレアリスムは芸術運動と同時に左翼政治運動だった
概要
ブラック・ライブズ・マターやプロテスト・アート、政治メッセージの強いバンクシーなどのストリート・アートが現代美術の主流になりつつある。
このような現代の美術傾向に対して根拠もなく「政治と芸術は区別すべき」と批判する人は多い。しかし、歴史を振り返ると芸術運動と政治運動は密接に連動している。
シュルレアリスムは、1924年に芸術運動のマニフェストを発表して以来、アンドレ・ブルトンを中心に、空想や夢を追求してきた。一方、フランス共産党の政治課題は物質的現実に根ざしたマルクス主義の政治理論に基づく社会革命を求めていた。
シュルレアリスムと共産主義は、実は同じ源流にあると考えられている。どちらも人間の不幸に対する反応であり、どちらも社会革命によって人類を不幸から救い出そうとしていた。
シュルレアリスムは、非論理的で奇抜だと言われているが、その芸術哲学は、解放の追求を優先する人間の状態についての信じられないほどのマルクス主義的分析から動機を得ている。しかし、経済的自由を求めるマルクス主義とは対照的に、シュルレアリスムが目指すのは、資本主義社会が文明や進歩を装って抑圧してきた心と想像力を解放することを目指していたことだ。
つまり、表現の自由、言論の自由である。こうした点で、表現や言論の自由のない中国共産党や旧ソ連圏、現代におけるビッグテックの検閲行為とは価値が少しことなる。共産主義は経済問題を重視し、シュルレアリスムは表現や言論の自由を重視している。
数ある芸術運動の中でもシュルレアリスムは特に政治色が強いのが特徴だった。シュルレアリスムは国際的な政治勢力、おもにトロツキスト、共産主義者、アナーキストらと連携して発展していった。
シュルレアリスムは、ある地域では芸術的実践と評価され、ある場所では政治的実践として評価され、さらに別の場所では、芸術と政治の両方を超越するものと評価された。
1930年代、シュルレアリスムの思想は芸術的思想として、また政治的変革のイデオロギーとしてヨーロッパから北米、南米(1938年にチリでマンドラゴラグループの設立に関与)、中米、カリブ海、アジアへと広がっていった。
山田Note ・ブラック・ライブズ・マターやプロテスト・アートはアートである。 ・シュルレアリスムは共産主義運動だった。 ・共産主義だが経済的自由より表現の自由を重視していた。 ・一国社会主義ではなく国際的な世界同時革命を目的としていた。 |
マルクス主義・共産主義とは
1848年に出版された『共産党宣言』で、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは、資本主義の下での生活を総括して非難し、最終的に社会的・経済的な革命を求めた。
マルクスは、歴史は階級闘争によって定義され、抑圧者と被抑圧者が絶えず対立する永遠のヘーゲル弁証法であると主張している。
資本主義と資本主義的生産様式は、ブルジョアジーがプロレタリアートに対して権力を行使する、つまり生産手段の搾取的な所有者と支配者が、賃金労働者を利用して個人的な利益を得るという、この抑圧的なスキームの根源である。
このため、資本主義社会における一般人(プロレタリアート)の生活は悲惨なものとなる。必然的に「機械の付属品」となり、ブルジョア階級の奴隷となる。現代ならビッグテックの付属品のようなものといえるだろう。このような状況では、人生の魅力は失われ、人間は決して真の自由を得ることはできない。
マルクスの『マニフェスト』は、このようなブルジョア階級の悲惨な状況に対して、プロレタリアートが共産主義革命によって、自らを隷属させる社会的・経済的条件を解体し、既存の権力構造を強制的に打破して、すべての人間に完全な自由を与えるという解決策を提示しているのである。共産主義革命が成功した後、社会は根本的に抑圧と対立から解放される。
歴史
シュルレアリスムと共産主義運動
シュルレアリスムと政治的勢力の関係は、ダダイズムの分裂騒動に端を発している。ダダイズムの分裂は、無政府主義者と共産主義との間の分裂であり、ブルトンらのシュルレアリスムは共産主義者の政治を支持していた。
シュルレアリスムは、積極的に政治的な理想や活動と結びつけようとした。たとえば、1925年1月27日の宣言では、パリに拠点を置くシュルレアリスム研究局のメンバー(ブルトン、アラゴン、アルトーをはじめとする20数名)が、革命政治への親和性を宣言している。
アンドレ・ブルトンの信奉者たちは共産党とともに「人間の解放」のために活動していた。
しかし、ブルトン派は、芸術活動より政治活動を優先しなかったので、1920年代後半になると芸術優先派と政治優先派で対立が生じた。その結果、ルイ・アラゴンを筆頭にブルトンと密接に関係していた多くのシュルレアリストが、共産主義者たちとより密接に政治活動に参加するためブルトン派と決裂した。
1925年、パリのシュルレアリスムグループとフランス共産党の極左勢力は、モロッコでフランスの植民地主義に対抗するリフ族の蜂起のリーダー、アブド・エル・クリムを支援するため結集した。
作家であり駐日フランス大使であったポール・クローデルに宛てた公開書簡の中で、パリのグループはこう宣言している。
「我々シュルレアリスムは、慢性的で植民地的主義的な帝国主義戦争を、内戦に変えることに賛成すると宣言した。このようにして、我々は、我々のエネルギーを、革命、プロレタリアートとその闘争に委ね、植民地問題、ひいては人種問題に対する我々の態度を明確にしたのである」
当初はやや曖昧だったが、1930年代には多くのシュルレアリストが自らを共産主義と自認するようになった。
アンドレ・ブルトンとその仲間たちは、しばらくの間、レオン・トロツキー(世界同時革命派でありスターリンの一国社会主義革命論と対立)やトロツキーの国際左翼反対派を支持していたが、第二次世界大戦後になると、アナーキズムに対しても受容する姿勢が見られるようになった。
シュルレアリスムにおける共産主義の関係における最も重要な文書は、ブルトンとディエゴ・リベラが共同で出版した『自由な革命的芸術のためのマニフェスト』である。ブルトンとディエゴ・リベラの名前で出版されたが、実際にはブルトンとレオン・トロツキーの共著である。
1938年、アンドレ・ブルトンは妻で画家のジャクリーヌ・ランバとともに、亡命しているトロツキーに会うためにメキシコを訪れる。トロツキーはディエゴ・リベラの元妻グアダルーペ・マリンの客として滞在していた。そのとき、ブルトンはリベラの妻で画家のフリーダ・カーロとその作品に出会い、カーロを「生まれながらの」シュルレアリスムの画家であると断言した。カーロは共産主義者であり、晩年期は積極的に共産主義に奉仕する絵画を制作した。
また、クレヴェルが中心となって起草し、ブルトン、エリュアール、ペレ、タンギー、そしてマルティニークのシュルレアリストであるピエール・ヨヨットとJ.M.モネロが署名した「殺人的人道主義」(1932年)の反植民地革命とプロレタリアの政治は、おそらく後に「黒いシュルレアリスム」と呼ばれるものの元となる文書である。
1940年代にマルティニークで行われたエイメ・セゼールとブルトンの接触こそが、「黒いシュルレアリスム」と呼ばれるものの伝達に大きく貢献した。
政治(共産主義)と距離を置いたシュルレアリストたち
しかし、ウォルフガング・パーレンのように、政治から完全に距離を置こうとした芸術家もいた。
彼はメキシコでトロツキーが暗殺された後、反シュルレアリスムの美術雑誌『DYN』を発行し、芸術と政治の分離を提唱した。政治と芸術の分離思想は、次の抽象表現主義者たちの世代たちの基盤的な思想となった。
サルバドール・ダリは、資本主義とフランシスコ・フランコのファシズム独裁政権を支持していたが、この点では共産主義だったシュルレアリストたちと政治の立ち位置がかなり異なる。実際、ブルトンやその仲間たちは、ダリはシュルレアリスムを裏切り、脱退したと見なしていた。
ベンジャミン・ペレ、メアリー・ロー、ファン・ブレアはスペイン内戦に参加したが、ダリはスペイン内戦の戦禍を逃れて国外へ逃亡した。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Surrealism、2021年7月23日アクセス
・https://openworks.wooster.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1019&context=blackandgold、2021年7月23日アクセス