【映画解説】スタンリー・キューブリック「映画史において最も偉大であり後世に影響を与えた監督」後半

スタンリー・キューブリック / Stanley Kubrick

映画史において最も偉大であり後世に影響を与えた監督


映画『2001年宇宙の旅』より。
映画『2001年宇宙の旅』より。

概要


生年月日 1928年7月26日
死没月日 1999年3月7日
国籍 アメリカ
表現媒体 映画
代表作

・『突撃』

・『スパルタカス』

・『ロリータ』

・『博士の異常な愛情』

・『2001年宇宙の旅』

・『時計じかけのオレンジ』

・『バリー・リンドン』

・『シャイニング』

・『フルメタル・ジャケット』

・『アイズ・ワイドシャット』

略歴(後半)


『ロリータ』:後期キューブリックへの移行的作品


キューブリックとハリスは次作『ロリータ』(1962年)の制作をイギリスで行うことにした。イギリスでの映画制作は、プロデューサーの権限が強く監督自らが自由に作品を扱えないハリウッドと異なり、あらゆる面においてキューブリック自身で完全に管理できる権限を与えた

 

また、イギリスではアメリカ映画に対抗するため、1957年からイギリス映画産業を支援するイーディ税が導入され、プロデューサーがアメリカ人でもスタッフの80%以上がイギリス人だった場合、政府から制作費の支援が受けられるメリットもあった。

 

代わりに2人は映画プロデューサーのエリオット・ハイマンが設立した制作会社アソシエーテッド・アーティスツ・プロダクションズから100万ドルの製作資金を受ける契約を結び、キューブリックが希望する芸術創造の自由の許可が記載された条項に署名を行った。

 

『ロリータ』はキューブリックにとって初めてのブラック・コメディ作品で、ウラジミール・ナボコフによる同名の小説『ロリータ』の改作で、中年の大学教授が12歳の少女に夢中になる話である。

『ロリータ』でロリータ役を演じたスー・リオン(1967年)
『ロリータ』でロリータ役を演じたスー・リオン(1967年)

ピーター・セラーズ・ジェームズ・メイソン、シェリー・ウィンターズ、スー・リヨンらが出演したロリータ』はキューブリック作品の中では移行的作品として位置づけられ、学者のジーン・ヤングブロッドによれば「自然主義的映画からのちのシュルレアリスム映画へのターニングポイント」と話している。

 

キューブリックはカメレオンのように変化する俳優ピーター・セラーズに深く感銘し、撮影時には彼に即興的に荒々しく自由に演技する機会を与え、3台のカメラで彼を撮影した。

 

『ロリータ』は1960年10月から1961年3月にかけてエルストリー・スタジオで、約88日の撮影、制作費200万ドルをかけて製作された。

 

キューブリックはロリータの母役シェリー・ウィンタースに難しい演技指導が原因で頻繁にもめ、ある時点で彼女はほぼ解雇状態になっていたという。その後のキューブリックの俳優に対するサディズム的な厳しい演技指導はここからはじまる

 

また、その挑発的な内容のため『ロリータ』は社会的に物議をかもしたキューブリックの最初の映画ともなった。

 

キューブリックは最終的にはハリウッドの自主規制コードの検閲を遵守し、ナボコフの小説ですでにわかりきっているハンバートとロリータの関係におけるエロティックな側面などの要素を除去することを余儀なくされた。

 

映画は公開時は商業的に成功したものの『スパルタカス』に比べると大成功とはいえず、興行期間中の興行収入は370万ドルで終わった。

『博士の異常な愛情」:風刺的なブラック・コメディ映画


キューブリックの『博士の異常な愛情』(1964年)は風刺的なブラック・コメディ映画である。

 

1950年代に米ソ冷戦が激しくなるにつれ、キューブリックは核戦争問題に夢中になりはじめる。ロシアから発射される核ミサイルのターゲットになりそうなニューヨークでの生活を恐れ、オーストリアへ移住することも考えたという。

 

キューブリックは、これら米ソ冷戦と核戦争に関する軍事関係や政治関係の研究書を40冊以上読みふけった結果、「誰も本当の事は何も知らず、全体の状況はばかげていた」という結論に達したという。

 

小説『レッド・アラート』の映画化の権利を購入したあと、キューブリックはその著者ピーター・ジョージと協働で脚本を書きはじめる。当初は真面目な政治スリラーの話しだったが、キューブリックは主題に対して「真剣に接する」ことをやめ、むしろ最も真剣に接する必要がある部分はコメディになるだろうと考えた。

 

その後、キューブリックとジョージは『レッド・アラート』のプロットを宇宙人によって製作された映画内の映画という設定で風刺的な作品になるよう脚本を一度書き直したが、このアイデアは没となり、最終的には「奇怪なブラックコメディ」として製作することになった。

 

撮影が始まる直前、キューブリックはジャーナリストで風刺作家のテリー・サザーンをスタッフに加え、脚本を性的暗喩が満載のブラックコメディへと最終的な形として編集した。

映画研究家のエイブラムスは『博士の異常な愛情』について、「独特な種類な不条理主義者」の持ち主という新たなキューブリックの才能を発揮した作品と評価している。

 

サザーンは最終的な脚本に大きく貢献したため、映画のオープニンタイトルでピーター・ジョージの名前と一緒にクレジットされた。しかし、脚本におけるサザーンの功績は、のちにキューブリックとピーター・ジョージとの間に亀裂をもたらした。

 

映画原作者、また脚本として10ヶ月も必死に協働してきたピーター・ジョージよりも、短期間参加しただけのサザーンのほうが『ライフ』誌などのメディアや、オープニングクレジット(ピーター・ジョージの上)で大きく取り上げられていたためだった。

 

キューブリックは『博士の異常な愛情』に制作費200万ドルをかけ、「世界で一番重要なビジュアルエフェクトスタッフ」を起用した。また、政治的・技術的などさまざまな面でアメリカでの制作は無理はあり、イギリスで行われた。

 

15週間におよぶ撮影が行われ1963年4月に終了。その後、キューブリックは編集に8ヶ月を費やした。

 

ピーター・セラーズは再びキューブリックの映画に出演することに同意し、映画内で3人の異なる役を演じた。映画が公開されると『博士と異常な愛情』は多くの論争を巻き起こした。

 

『ニューヨーク・タイムズ』の映画批評家ボズレー・クラウザーは『アメリカの全国防システムに対する不信や侮辱だ。私が今まで観た映画の中で一番心を打ち砕く悪趣味なジョークだ」と当惑した感想を話した。また、劇場プロデューサーのロバート・ブラスタインは「ユウェナリスのような風刺」と批評した。

 

キューブリックはこれらの批評に関して「風刺家とは人間の本質について非常に懐疑的な見方をしている人のことだが、またその本質をいくらか笑い飛して楽観主義へ導く性質もある。とはいえ冗談は残忍かもしれない」と話している。

 

今日『博士と異常な愛情』は映画史において最も刺々しいコメディ映画の1つとみなされている。アメリカン・フィルム・インスティチュートによるアメリカ映画史ランキングで39位、アメリカン・コメディ映画史ランキングで3位に選ばれている。

 

また、2010年のイギリスの『ガーディアン』紙によるコメディ映画史ランキングで6位に選ばれている。

『博士の異常な愛情』のトレーナーのキューブリック(1964年)
『博士の異常な愛情』のトレーナーのキューブリック(1964年)

『2001年宇宙の旅』:人類の進化の過程を美術的に表現


キューブリックはSF作家アーサー・C・クラークの小説『幼年期の終わり』に影響を受け、次作品『2001年宇宙の旅』(1968年)の制作にとりかかる。完成するまでに5年かかったという。

 

『幼年期の終わり』は、優れた宇宙人が古い自己を排除しようとする人類を手助けする「人類の進化」と「宇宙人による人類の飼育」を主題とした物語である。

 

1964年4月、キューブリックはニューヨークでクラークと会合した後、月面で発見された人類の異変体に警告する四面体に関するクラークの別の短編小説『前哨』(1948年)を融合した物語の提案を行う。

 

同年、クラークは『2001年宇宙の旅』の小説の執筆にとりかかり、脚本はキューブリックとクラークの協働で行われた。

 

『2001年宇宙の旅』は、「ある知性的存在から他の知性的存在への分泌」を主題とし、時間尺度が大きく異なる2つの空間が平行、交差して物語が展開する内容である。

 

「猿」から現生人類の次の進化段階にあたる「スターチャイルド」までの人類のさまざまな段階における移行の様子を描いており、各移行時には、謎めいた地球外知的生命体によって作られた黒い人工物「モノリス」に導かれる。

 

また、宇宙において人類の敵となるのは、宇宙人ではなく宇宙船を操縦する人工知能「HAL」という名前のスーパーコンピュータである。モノリスに触れた猿が道具を使いはじめ、敵対する同じグループと道具を使って闘うシーンがあるが、これはのちに人類が生み出した人工知能が人類の敵になることを暗喩している。

 

キューブリックは『2001年宇宙の旅』を制作するにあたって、さまざまな研究をした。特に未来がどうなるかということについて、具体的、正確に把握するために膨大な時間を費やした。

 

キューブリックは宇宙船の詳細を知るため、NASAにレインジャー計画で使った宇宙船レインジャー9号の実機観察の許可を求めた。

 

撮影は1965年12月39日に開始し、イギリスのMGM-British Studios(ボアハムウッド)を中心拠点にして進められた。月面のモノリスの発掘シーンから撮影ははじまった。翌1966年5月までに俳優の演技シーンを撮り終えたが、SFXシーンの完成までさらに1年半以上を費やした。

 

また、1967年初頭にはアフリカ大陸のナミブ砂漠まで足を運んで砂漠を撮影し、その年の後半に冒頭の猿のシーンや人類の夜明けシーンの編集を完成させた。

 

特殊効果チーム班は映画を完成させるため同年末まで必死に働き続け、製作費は予定の600万ドルを大きく超過し1050万ドルに達した。

 

『2001年宇宙の旅』はスーパー・パナビジョン70カメラを使った70mmシネラマ・スペクタクル撮影が行われ、上映時には鑑賞者にキューブリックの想像力と科学を融合した画期的な視覚効果体験を与えた。

 

本作は1968年のアカデミー賞特殊視覚効果賞を受賞、1969年にキューブリックにとって唯一のオスカー視覚効果賞をもたらす作品となった。

 

『2001年宇宙の旅』50周年記念70mmプリントが登場。2018年は、第71回カンヌ国際映画祭のクラシック部門でプレミア上映され、欧米各地の70mm上映館やフィルムアーカイブで巡回上映されており、日本国内では国立映画アーカイブのみで上映された。

『クリスチャン・サイエンス・モニター』紙のルイズ・スウィーニーは映画について、明るさ、色、パターンの鮮やかな組み合わせを見ながら宇宙を移動していくシーンを見て「究極の旅」と評価した。

 

キューブリックは『ローリング・ストーンズ』誌のインタビューで映画コンセプトについて「最も深い心理学的レベルでは、映画プロットは神の探求しており、ついには神の科学的な定義とほぼ同じくらいのものを仮定した。映画は形而上学的な概念を中心に展開しており、詩的な概念に対する人々に組み込まれた抵抗を弱めるため、あらゆる現実的なハードウェアとドキュメンタリー的な感覚が必要だった」と話している。

 

『2001年宇宙の旅』は1968年に公開されたが、台詞の少なさや、ゆっくりした展開、一度見ただけでは理解できない難解なストーリーのため、公開直後は批評家たちからあまりよい評判は得られなかった。

 

以前のSF映画とまったくことなり、SF映画のお約束から逸脱しており、また以前のキューブリックの作風とも明らかに異なるものだった。

 

しかし、時間が経つにつれゆっくりと人気を博し、公開から4年後の1972年末までに全世界で3,100万ドルの興行収益に達した。

 

今日、『2001年宇宙の旅』は全映画史における最も偉大であり、後世に影響を与えた映画作品の1つと広く認識されており、映画史上のベスト・ランキング、オールタイム・ベストなどでは、必ずと言っていいほどランクインしている。

『2001年宇宙の旅』に終盤に登場するベッドルームモデル。
『2001年宇宙の旅』に終盤に登場するベッドルームモデル。

『時計じかけのオレンジ』:若者の退廃とポップ・エロチカ


『2001年宇宙の旅』が完成した後、キューブリックは、低コスト短期間で制作するプロジェクトを模索しはじめた。

 

1969年末、アレックスの性格に基づいて法執行機関による暴力と実験的治療による研究を主題とした映画『時計じかけのオレンジ』に取り組む。

 

キューブリックは、『博士の異常な愛情』でテリー・サザーンと協働しているときにアンソニー・バージェスの同名の小説『時計じかけのオレンジ』の本を紹介されたが、当時は若者のストリート言語であるナッドサット言葉を理解するのは難しかったのため関心がなかった。

 

しかし、1969年ころ、若者の退廃に関する映画を制作するのは非常にタイムリーなことだとキューブリックは感じる。当時、アメリカの映画業界「ニュー・ハリウッド運動」と呼ばれる若者たちの性と反抗を中心とした映画が盛んに制作されていたころで、キューブリックもその影響を受けていた。

 

『時計じかけのオレンジ』は1970年から1971年にかけて200万ポンドの制作費で制作された。

 

キューブリックは映画でシネマスコープを使うことをやめ、1.66:1のワイドスクリーンフォーマットを利用することにした。バクスターの言葉でいえば「スペクタクルとインティマシーの間で許容できる妥協」で、また、構図の美しさを増すため「厳密なシンメトリカル・フレーミング」をキューブリックが好んだためである。

 

『時計じかけのオレンジ』は「ポップ・エロチカ」の時代に焦点を当て、巨大なプラスチック製の男性性器が現れるのが印象的である。キューブリックは「やや未来的」な感覚を鑑賞者に届けること意図したという。

『時計じかけのオレンジ』で見られる「ポップ・エロチカ」の一例。
『時計じかけのオレンジ』で見られる「ポップ・エロチカ」の一例。

リンゼイ・アンダーソン監督による『If もしも....』(1968年)で主役を演じたマルコム・マクダウェルの存在はアレックス役として重要だった。たぶんマクドゥエルがいなかったら映画を作っていなかっただろうとキューブリックは公言している。

 

ティーンエージャーの暴力を描いたため、『時計じかけのオレンジ』における映画内における暴力とその賛美は物議をかもした。

 

1971年のクリスマス直前に公開され、イギリスとアメリカの両国で成人向き映画(X指定)を受けた。批評家の多くは映画内の暴力描写は風刺的であるとみなしており、少なくとも1ヶ月前に公開された『わらの犬』よりも暴力的ではなかったと批評している。

 

『時計じかけのオレンジ』の影響を受けたコピーキャット犯罪が多数発生し、キューブリックのもとには多数の脅迫状が寄せられ、キューブリックの要請で1973年にすべての上映が禁止された。

 

そのためイギリスは法的なまったく上映できなくなり、キューブリックが亡くなったあと、2000年になってからやっと上映できるようになった。

 

映画検閲官のジョン・トリベルヤンは個人的に『時計じかけのオレンジ』について「たぶん、これまで見た芸術映画で最も素晴らしい作品で、暴力描写はサディスティックなスペクタクルというよりも知的な主張と思うが、多くの人はそのことを理解していない」と話した。

 

映画に対して否定的な喧伝がメディアに多くされたにも関わらず『時計じかけのオレンジ』は監督賞、作品賞、編集賞、脚本賞の4つのアカデミショーにノミネートされ、1971年のニューヨーク映画批評家協会賞ではベストフィルムに選ばれた。

『時計じかけのオレンジ』のためのキューブリックの宣伝用プロフィール写真(1971年)
『時計じかけのオレンジ』のためのキューブリックの宣伝用プロフィール写真(1971年)

『バリー・リンドン』:18世紀の実際の世界観を忠実に再現


『バリー・リンドン』(1975年)は、18世紀のアイルライドの悪党や野心家を描いたウィリアム・メイクピース・サッカレーのピカレスク小説『バリー・リンドンの運』の改案である。

 

ワーナー・ブロスのジョン・キャリーは1972年に、キューブリックが有名なハリウッド・スターたちに接触し、ハリウッドでの興行が成功することを条件に、映画制作のために250万ドルの投資を行いことに同意した。

 

以前の映画のように、キューブリックと美術班は映画制作のために事前に膨大な研究を行い、またキューブリックは物語の背景となる18世紀に関する知識がほとんどなかったので、専門家の元へ相談に行った。

 

18世紀の世界でも特に芸術作品やロケーションに関する膨大な写真を撮影し、また絵画は映画内でその時代・地域で活躍した巨匠作品のレプリカを細心の注意を払って複製した。

 

映画自体は1973年秋からアイルランド国内で撮影され、170人のスタッフと110万ドルの制作費が費やされた。

 

アイルランドで撮影を決めた理由はイギリスにはすでになくなった18世紀時代の建物がまだ多く残っているためである。

 

しかし、アイルランドでの製作は当初から問題があった。当時、北アイルライドを含む政治的問題や大雨に悩まされ、またイギリス軍の撮影を行っていたため1974年の新年にIRA(アイルランド共和軍)から脅迫を受けた。

 

キューブリックは正体を隠しながらダン・レアリーの港から船で家族とともにイギリスへ脱出し、イギリスで撮影を再開した。

 

バクスターは「バリー・リンドンは彼の芸術性の完成度を高めるため同じシーンを20〜30回もリテイクを行うほど細部に細心の注意を払ったことで悪名高い映画である」と話している。

 

キューブリックと撮影監督のジョン・アルコットが『バリー・リンドン』で使用した撮影や照明技術は非常に革新的なものだった。インテリアのシーンでは衛星写真で使うためにNASAが開発した高速f/0.7 Zeissカメラレンズを特別に改造したもので撮影された。このレンズのおかげで多くのシーンで、照明を使わずロウソクの光だけを撮影することが可能となり、18世紀の実際の室内を再現したような映像を創り出すことができた。

 

また、戦闘シーンの多くは、リアル感が鑑賞者に伝わるようハンディカメラで撮影された。

『バリー・リンドン』はフランスで多くの動員があったが、興行的には失敗でアメリカではわずが950万ドルの売上しかなく、ワーナーズ・ブロスが目標として3,000万ドルには遠く及ばなかった。3時間という上映時間の長さが多くのアメリカの批評家や鑑賞者たちを遠ざけたのがおもな理由とみなされている。

 

しかし、『バリー・リンドン』は7つのアカデミー賞にノミネートされ、芸術賞、撮影賞、衣装デザイン賞、楽譜賞の4つの賞を受賞した。

 

キューブリックの映画の多くと同じく、『バリー・リンドン』の評価も時間が経つごとに評価が高まり、現在は特に映画関係者や批評家のなかでキューブックのベスト作品の1つとみなされている。

『シャイニング』:リテイク地獄から生まれたホラー映画


『シャイニング』(1980年)はホラー小説家スティーブン・キングの同タイトルのベストセラー小説の改作である。

 

『シャイニング』はキューブリックと関わりのある唯一のホラー映画ではない。キューブリックは『シャイニング』以前、『エクソシスト』(1973年)や『エクソシスト2:異端者』(1977年)の両方の監督を熱望していたが、製作日時の都合で監督を辞退している。

 

1966年にキューブリックは「鑑賞者の悪夢に対する恐怖心につけ込むシリーズ作品を含め、世界で最も恐い映画を作りたい」と友人に話してもいた。

 

『シャイニング』は、ロッキー山脈の孤立した巨大なホテルに冬期管理人をつとめるために移ってきた作家(ジャック・ニコルソン)が主人公である。彼はホテルでシェリー・デュヴァル演じる妻や超能力を有する子どもダニーと冬を過ごすことになる。ホテル滞在中、家族はジャックが狂人へと変貌していく姿やホテルで発生する超常現象の両方の恐怖に遭遇する。

 

キューブリックは俳優たちに脚本を無視して自由にアドリブで演じるように指導した。即興的なアドリブを重視した結果、ニコルソンの「Here's Johnny!(お客さまだよ!)」やタイプライターに向かって座っていて、急に怒りを妻に解き放つシーンなどさまざまな名セリフやシーンが生まれた。

 

しかし、特にキューブリックの完璧主義の側面がにじみ出た『シャイニング』では、キューブリックはよく同じシーンを70〜80回撮り直しをした。俳優の演技が自然な狂気性または恐怖じみたものになるまで、リテイクを何度も行った。

 

「メイキング・ザ・シャイニング」で映画撮影当時の過酷な状況が伺える。

なかでもデュバルは撮影時に意図的に孤立させられ、精神的に疲弊状態に追いやられてた。野球バットのシーンで127回もリテイクが行われた。その後、デュラルは撮影の極端なストレスで抜け落ちた髪の毛の塊をキューブリックに贈ったという。

 

ほかに、幽霊のようなバーテンダーがいるバーのシーンは36回、また、ダニーを演じたダニー・ロイドと料理人ハロラン役のスキャットマン・クローザースのやり取りは148回リテイクされた。

 

オーバールック・ホテルの上空撮影はオレゴン州のフッド山にあるティンバーラインロッジで撮影され、ホテル室内シーンは1978年5月から1979年4月にかけて、イギリスのエルスツリー・スタジオで撮影された。

 

印象的な双子の姉妹のシーンは、友人の知り合い写真家ダイアン・アーバスの作品《一卵性双生児》から影響を受けている。

 

事前に映画の全セットの厚紙のモデルが作られ、大規模な照明を利用するための電気配線工事だけで4ヶ月もかかった。

 

キューブリックはこの時期に新しく発明されたステディカム・カメラを利用する。これまでのカメラと異なり、手持ちでカメラをスムーズに自由な角度に切り替えて動かせるため、従来のカメラ・トラッキングでは不可能だったカメラが入り込むのが難しい場所でもよく使われた。手ブレが起きづらい点も従来のカメラと異なった。

 

ダニーが廊下を三輪車で走るシーンなどがステディカムで撮影された代表的なシーンである。ステディカム発明者のギャレット・ブラウンによれば、『シャイニング』はステディカムの特性を最大限に活用した最初の映画だという。

 

1980年5月23日に公開されてから5日後、キューブリックは、ホテル支配人のアルマン(バリー・ネルソン)がホテルから逃げのび病院に保護されたウェンディ(シェリー・デュヴァル)を見舞う最後のシーンのカットを命じている。

 

これについてキューブリックは映画のクライマックスにおける館内の鑑賞者の興奮を見たあと、その部分は不必要であると感じたためと話している。

 

『シャイニング』は公開一週間だけで100万ドルの収益をあげ、最終的にはその年の末までにアメリカだけで3,090万ドルの興行収入となる大成功作品となった。公開当初は批判的な反応もあり、また原作者のキング自身が映画に対して批判的で、キューブリックを嫌った。

 

『ニューヨーク・タイムズ』の記者ジャネット・マスリンは、「巨大建築をスクリーンを通して恐ろしいお化け屋敷のような窮屈で閉所恐怖症的なものへ変えてみせたキューブリックならではの不気味な演出」と賞賛した。

 

『シャイニング』は現在では古典ホラーとみなされるようになり、アメリカ映画研究所はスリラー映画史において同映画を27位とランク付けしている。

『シャイニング』撮影時のキューブリックとジャック・ニコルソン。
『シャイニング』撮影時のキューブリックとジャック・ニコルソン。
『シャイニング』撮影時のキューブリックとシェリー・デュヴァル
『シャイニング』撮影時のキューブリックとシェリー・デュヴァル

『フルメタル・ジャケット』:ベトナム戦争のニュース映画


キューブリックは1980年に友人で作家のジョン・ル・カレを通じて作家のマイケル・ハーと出会い、彼のベトナム戦争に関する著作『派兵』に関心を持つ。ハーは最近マーティン・シーンの『地獄の黙示録』(1979年)の脚本を書いていた。

 

キューブリックはまたグスタフ・ハスフォードの小説ベトナム戦争小説『ショート・タイマーズ』にも関心があった。

 

『フルメタル・ジャケット』(1987年)を製作・撮影するビジョンを念頭に、キューブリックはハーとハスフォードの2人に別々に脚本を依頼した。キューブリックは最終的にハスフォードの小説は「残酷なまでの真実」であり「ベトナム戦争に関する最良のフィクション」とわかり、小説の発表直後に映画の撮影をはじめた。

 

撮影は1985年8月から1986年9月の間、キューブリックの家から半径30マイルの範囲内ですべて撮影された。制作費は1,700万ドルだった。危うく命を落としかけたR・リー・アーメイを巻き込むジープ事故で、5ヶ月間製作を中止しスケジュールがずれこんだ。

 

『フルメタル・ジャケット』はほかのベトナム戦争映画とビジュアル的な側面で大きく異なり、ロンドン・ドックランド地域のベックトンにある荒廃したガス工場をベトナムの廃墟化した街フエに見せかけて撮影している。

 

約200本のヤシの木が北アフリカから40フィートのトレーラーを介して1本1000ポンドの費用で輸入され、また、映画撮影用の何千本ものプラスチック製の植物が香港で注文され輸入された。

 

キューブリックは自然光を利用して映画をリアルに見せ、また、ステディカム撮影の安定性を無くし撮影することで「ニュース映画」のような演出を行った。

 

ミシェル・クリメントによれば、この映画には皮肉的な音楽の選択、非人道的な男性描写、リアリズムを実現するための細部への注意など、キューブリックのトレードマーク的な特徴が含まれているという。後半、皮肉的な対位法としてアメリカ海兵隊は破壊され荒廃した街中をミッキーマウス・クラブの主題歌を唄いながらパトロールしている。

 

『フルメタル・ジャケット』は1987年6月に公開され、公開から50日間だけで3,000万ドル以上の興行収入を上げたが、前年に公開されたオリバー・ストーンの『プラトーン』の大ヒットによって、本作の影は薄くなっってしまった。

『アイズ・ワイド・シャット』:遺作となったエロティックな白昼夢


キューブリックの最後の映画『アイズ・ワイド・シャット』(1999年)はマンハッタンのカップルを描いた性的な叙事作品で、主演はトム・クルーズとニコール・キッドマンである。この物語はアルトゥル・シュニッツラーの1926年のフロイト派の小説『夢物語』を基盤にしている

 

キューブリックは「説明が難しい本だ。幸福な結婚の性的な曖昧性を探求し、また性的な夢と現実に起こりかねない事象を同一視している。シュニッツラーの作品はすべて心理学的に素晴らしい」と話している。

 

キューブリックは70歳近かったが、1999年7月16日の公開予定に間に合うように、15ヶ月間ずっと制作の日々を過ごした。映画に関する情報を完全に機密にしながら、フレデリック・ラファエルと脚本を書き、1日18時間働いた。

 

『ロリータ』や『時計じかけのオレンジ』と同じく、『アイズ・ワイド・シャッド』は公開前に検閲に直面することになった。公開の数ヶ月前に未完成状態のプレビュー版をプロデューサーや主演者たちに送っているが、プレビュー版を編集し終えた数日後の1999年3月7日、キューブリックは急死。

 

キューブリックは決して公開された最終版を見ることはなかったが、彼はワーナー・ブラザース、トム・クルーズ、ニコール・キッドマンとプレビュー版を鑑賞しており、伝えられるところでは、キューブリックはワーナーズのエグゼクティブのジュリアン・シニアに「これまでで一番の作品だ」と話したという。

 

当時、この映画に対する批評はさまざまあったが、これまでのキューブリック作品の大半よりも好ましいという評価は得られなかった。ロジャー・エバートは4つ星評価で3.5評価をくだし、「逃したチャンスや回避した機会に関するエロティックな白昼夢のようだ」と批評している。