真珠子 / Shinjuko
ジャパニーズ・ガーリー・アート
概要
生年月日 | 1976年8月3日 |
国籍 | 日本 |
表現媒体 | 絵画、イラストレーション、アニメーション、インスタレーション |
ムーブメント | ヘタウマ |
関連サイト | https://blog.goo.ne.jp/yanoki83 |
真珠子(1976年8月3日生まれ)は、日本の画家、イラストレーター、映像作家、インスタレーション作家。熊本県天草出身。
2004年に原宿「LAPNET」での個展を期にアーティストとしての活動を開始。以後、日本の少女文化シーンを中心に表現活動を行っている。
最もよく知られている作品はアニメーション「パピヨンよし子」(2004年)。オートマティック的に描かれた自由な線と独特なリズム感で少女の内面世界を描いた作品である。
2006年に熊本市現代美術館で個展を開催。シュルレアリスティックなインスタレーション形式で、以後、彼女の中心的な表現形態となる。インスタレーションを発展させた個展ではほかに、故郷の天草や渋谷パルコで開催されたメイド喫茶風個展「よかにゃ~♡みぞかちゃん」(2012年)などがある。
個展
2016年 真珠子個展「通りゃんせ通りゃんせ-わたしの通過儀礼-」(台北・マンガシック)
2013年 真珠子個展「リボンヶ丘-もしもし、-子どものわたしへ-」(東京・ヴァニラ画廊)
2012年 真珠子個展「よかにゃ~♡ みぞかちゃん」(東京・LOGOS GALLERY ロゴスギャラリー)
2011年 真珠子個展「花びらうらない」(東京・ヴァニラ画廊)
2010年 真珠子個展「おねえさんはリボン狂」(東京・パラボリカ・ビス)
2010年 真珠子個展「おとめだち」(東京・カオリ座)
2007年 真珠子個展「姫すごろく『寵姫 花形姫』~私が姫じゃない理由って?~」 (東京・ラップネットショップ)
2006年 真珠子個展「Ready for Lady」(熊本・熊本市現代美術館ギャラリーⅢ)
2004年 真珠子個展「やんちゃなおしおき秘宝館」展 (東京・Lapnet Club)
二人展・グループ展
2015年 「ニセ・ザ・チョイス展」(東京・ビリケンギャラリー)
2015年 増田賢一&真珠子展「私の30代-真珠子39歳-」(東京・バー星男)
2014年 増田賢一&真珠子展「真夏のオフィーリア」(東京・バー星男)
2014年 「夜想アーバンギャルド展」(東京・パラボリカ・ビス)
2014年 「現代日本のエロティックアート展Vol,2」(パリ・エロティック・ミュージアム)
2013年 増田賢一&真珠子展「むしのたれぎぬ」(東京・バー星男)
2012年 「南宇都宮石蔵秘宝祭」(栃木・悠日)
略歴
幼少期
真珠子(旧姓:松下佳代)は1976年8月3日、日本の西部に位置する熊本県の天草市で、公務員の父と茶屋を経営する母のあいだで三人姉弟の長女として生まれた。ほかに弟と妹がいる。
真珠子は小学生のころまでは嫌なことが多かった。すごく恥ずかしがり屋だったため、周囲に自分の気持ちをうまく言えず先生や周囲の大人たちを困らせていた。小学生のころから現在と同じくらいの背たけだったため、ランドセルを背負ってブルマ姿で帰っているとすごく目立ち、変な視線で見られた。
そんな小学生時代が嫌いで、中学生になり「変わろう」と決意する。テニス部に入ることにしたものの上下関係が厳しくあまり面白くなかった。
中学校卒業後は天草高校に入学して美術部に所属。高校時代の美術部は楽しかった。それまでは、ふで箱にセサミストリートの絵柄が入っているだけで、他人から「異端」扱いされていたのに、美術部に入ると「異端」と見なされていたものを否定する人はだれもいなかったのだったから。
何を話しても何をしても「ああそうだよね。そういうこともあるよね」と、「自由」を受け入れてくれたのが美術部だった。いつも最終バスの時間まで部室に居た。美術に対する目覚めはこの頃から始まる。このころにできた人間関係は現在でも続いており、たとえば1つ上の先輩が、造形作家のなかむらきりんだ。
この頃、以後、人生に影響を与える大きな作家、竹久夢二に出会う。やなせたかし監修の『美少女の伝説』という大正ロマンの叙情画を集めた画集がきっかけだった。最初は竹久夢二になりたかったが、よくよく考えると自分は女だから、夢二に捉えられた女のほうになりたいと思った。しかし、やはり夢二でもありたいと思うし、夢二に見られる側にもなりたいという思いがあった。夢二の三番目のモデルのお葉の日傘を差して桟橋に座っている写真が気に入り、それを模写して描いていたようである。
また図書館で『太陽』の寺山修司特集で衝撃を受ける。その後、江戸川乱歩、横尾忠則、谷崎潤一郎、太宰治あたりを知るようになり、幻想耽美の世界に興味を持ち始めるようになる。
シュルレアリスムとの出会い
真珠子は高校二年生のときにシュルレアリスムの世界に遭遇する。
当初、作家になろうと思い文学の道へ進もうと考えていたもが、寺山修司や横尾忠則らのアングラ文化を通じてシュルレアリムに出会い、影響を受け、本格的に美術の世界に目覚めることに。
そうして、自分自身でもシュルレアリスムを描きたくなり、シュルレアリスムの技法の1つである「オートマティスム(自動記述)」に挑戦する。オートマティスムとは、直接浮かんだ言葉やイメージをなんら修正せずにキャンバスに描いていく方法である。アンドレ・マッソンやジョアン・ミロが利用する美術スタイルである。
十字架の立体ボックス、月、花、虫、焼けただれた人間、引きずりおろそうする無数の手、燃えるような黄色の背景、こうした要素を1つのキャンバスに集約させた絵を描いて高校美術展に応募すると見事入選。シュルレアリスムを通じて人生で初めて他人に伝えたいことが伝わったという。そこで文学よりもシュルレアリスム絵画のほうが自分には向いているかもしれないと確信する。
入選をきかっけに、真珠子は絵の道へ進むことを決意。高校三年の六月から本格的に美大受験のために、東京の「すいどーばた美術学院」へ夏期講習を受けに行き、美大受験に挑戦。京都の美大を希望していたもののすべて失敗。結局、芸術学部のある大阪成蹊女子短期大学へ進むことになった。
教職時代
短大卒業後、真珠子は、地元の天草に戻り、県立高校の美術講師に就く。
あまり語られることのない側面だが、この頃の「教師癖」は、現在の「真珠子学園」にまで続いている。真珠子が教職を好むのは何か教えたいというよりも、教えられる必要がある普通の仕事ができないため。
自宅から歩いて10分の勤務先に赤のユーノス・ロードスターで通勤し、話題になったようだ(ちなみに運転のレベルは何も無い所でタイヤをパンクさせ、水道管を破壊する程度のものである。)
学校から特に細かな指導要綱を渡されることはなかったので、自分の好きな授業をすることにする。そこで、デッサンなど教科書的な授業よりも「頭を柔らかくする」ような哲学的な授業をすることにし、有名人の写真に落書きしたり、コラージュをしたり、ストッキング工場からもらってきたペロっとした切れ端をただ置いとくだけなど、いわゆる現代美術館で子ども向けにおこなわれがちなワークショップをしていた。期末テストでは、絵の中に隠れているうさぎを探す「うさぎを探せ」という特殊なテストだったとか。
また高校教師は非常勤の立場で午前中の授業のみだったため、午後の空いてる時間には、2歳からの子どものための美術教室「こども造形教室」を開く。教えていたら、子どもの親も教えて欲しいということになりはじめ上は70歳の人まで幅広く教えることになった。
教師時代を通じて、自分だけでなく作品の鑑賞者に対する気持ちのようなものを持ち始めるようになり、「個人」と「社会」と「世界」の関係を考え始めるようになった。当時は21歳で、生徒とは2歳とか3歳しか年齢差がないため、生徒だけでなくその親をどれだけ惹きつけられるかどうかということを考えていたのが1つの理由。
また、子どもたちを相手にしていることで、それまで見えなかった子どもたちが抱えている問題(家庭の問題など)にぶち当たることになったことも、鑑賞者に対する気持ちを持ち始めたきっかけだった。そうして親御向けの個人新聞「おかあさまだより」「造形教室だより」を発行するようになる。
高校講師を3年間、同時期に「こども造形教室」を2年半こなし、それでもやはり作家になる気持ちを捨てきれず講師をやめ上京することに。こどものときからいつか大人になったら東京にいるんだと思っていたという。全校生徒の前で ”生活とは生きること活かすことです。私は自分を生かします。” と言って辞職。
上京と結婚
2000年に上京。仕事は、当初バイトをしていたが、「昨日覚えたことは翌日忘れる」性格のため、たびたびクビになる。
やはり絵の仕事で稼ごうとおもい、30社ほどを営業する。しかしまったく連絡は来なかった。3ヶ月に一度くらいは描きためて営業に回っていた。
しかしそのころ、マガジンハウスの秦氏に「あなたの絵は人の文章につける絵(イラストレーション)ではなくて、あなたの絵に文章がつくようなタイプ。イラストレーターとして器用になるのではなく、自分の世界を追求していっったほうがいいのでは?」といわれて、アーティストの方向に切り替えたという。
初めての展示は、デザインフェスタギャラリーの3人グループ展だった。田舎から原宿というだけで、そうとうときめいた。
そして上京した年(2000年)の暮れに、現在の夫である増田賢一に出会う。たまたま高校の美術部の先輩のなかむらきりんに誘われて、増田の作品展を見に行ったのが出会いのきっかけだったという。 当初はモデルの仕事がやりたくて訪問。「モデルやりたいでーす!」と軽いノリでいったが、もちろんスルーされた。しかし、そのあと「どうやってモデルとか探されるんですか?」と相手の話をよく聞きつつ、同時に「モデルします、したいです」と希望を出してコミュニケーションしていくと、「ああ・・・。どこのホテル行きますか?」とうまくいった。
モデル希望だったが、増田の女性の内面にまで追求する写真にひかれたようになり、付き合い始める。年明けからつきあい始めて2回目のデートのときに一生の付き合いになるとプロボーズされ、6月には天草に挨拶に行っていたという。男の人は、なぜ付き合ってすぐ「結婚して」と言わないのか不思議に思っていたので、増田氏の申し込みはまさに理想であった。そこから増田との生活に切り替わる。
やんちゃなおしおき
真珠子は20歳ごろに友人に、「二十歳までは、親の作った顔。だけど、二十歳からは、自分で顔を作っていけるんだよ。」と聞かされ、自分がこれから、どんな顔になっていくのかとても楽しみだったと2001年10月の日記に書いている。そこで、真珠子が作った顔が色濃く現れ始める「やんちゃなおしおき」開設以後のポートフォリオ(顔)をたどることにする。
2001年に真珠子は、現在の公式サイトである「やんちゃなおしおき」を開設し、そこに描いた絵をアップロードして発表するようになる。初期は女の子の絵のスライドショー、自撮り写真、日記「こねこ私小説」が中心。このとき、まだ真珠子というペンネームは使用しておらず本名で活動をしていた。
なお、「やんちゃなおしおき」というサイト名は、98年3月に「ヌード」という名古屋のファッションショーのフライヤーをデザインしたときに、一緒に制作した受付で販売した絵本「やんちゃなおしおき」に由来している。これまで何事も深く考えたことはなく、根気のない性格だったものの、面倒なウェブサイト制作を通じて3時間悩めるだけの根気力がついたという。
2002年2月に、お茶の水山の上ホテルにて写真家の増田賢一と「アダムとイブも」2人展&結婚式を開催。このときに初めて映像作品を制作して発表する。「アリス物語」「白髪幼女」「華嫁」「ネリーランド」「そらとぶこら」「天狗を抱く少女」の6作品が会場で上映された。名前が松下佳世から変わり、「「松下佳世」で、どうしても出来なかったことを、これからは、いっぱいやっていくつもりだーーーーーー」と決意する。
結婚とともに渋谷から引っ越す。その後はしばらく、バルテュス、森山大道、澁澤龍彦、戸川純、沢渡朔、マリアクローチェ、青い部屋など、サブカルチャーやアートに関する文化や美術コンテンツを大量に吸収するようになる。作家活動としては西荻窪にあるギャラリーボックスニヒル牛にグッズを置きにいくぐらいのもの。ただ、ニヒル牛をきっかけにほかのイラストレーション作家たちと交流が始まっている。
青い部屋
2002年春ぐらいから、戸川昌子がオーナーをつとめるシャンソニエ青い部屋へ通い始める。青い部屋のオールナイトパーティーのときに付けた数行の感想文に真珠子らしい感性が集約されているので紹介しておきたい。
「犬の、被りもの姿で、オルガンを弾いていたジョンさんの声は、とてもかわいらしくて、保護本望が、芽生えたし、エミ・エレオノーラの激しさは、思った以上で、圧倒されっぱなし。戸川昌子の娼婦の歌が、なんかとてもリアルだった。生身の人間ってすごいと思った。何だか良くわからないけれど、ウソがない。偽れないもの。最後に、ずっと司会をやっていたソワレさんが、愛の賛歌を弾き語り!中性的で、ふしぎな声だった。」
その後、おもにシャンソン歌手のソワレ目的で青い部屋へ月1で通い始める。この頃に真珠子と出かけると、必ず青い部屋行きになってしまうほど、はまり始めたようだ。ソワレに絵や作品を見てもらったら「青い部屋オーディションに出ない?」と声をかけられ、2002年9月17日の「青い部屋オーディション」に参加。音楽にあわせて作った映像「白髪幼女」「ネリーランド」「華嫁」「アリス物語」を上映する。
また、2002年の秋に青い部屋の映像イベント「夜宴キネマ-Film competition-」に映像作品「アリス物語」を出品したところ、審査員だったサエキけんぞうやヴィヴィアン佐藤から高評価を得る。サエキけんぞう賞を受賞し、ヴィヴィアン佐藤に詩画集を見せると、「アハハハハハハ!!!」と大笑いされる。
この2002年の青い部屋のイベントへの積極的な参加、ならびにそこでの評価を機に真珠子は、東京のアンダーグラウンドカルチャーでその名を広げていくことになる。周囲にたくさんクリエイター関係の人が集まり始め、真珠子の芸術人生は大きく変化し始めたといって間違いないだろう。
真珠子誕生
2002年11月、西荻窪カフェギャラリーサバナにて初個展「毎日少女 365日産まれました ポストカード展」を開催。123種類のポストカードを中心に、詩画集「セーラー姉妹」、額入り絵、マグカップ、アリスブラ、りぼんこシュミーズ、アリスパンツ、セーラー娘Tシャツなどさまざまなグッズで構成されたもので、現在までいたる真珠子が得意とするインスタレーション表現がよく発揮されている。
当時、一日一枚絵を描いていたため「毎日少女」というタイトルを付けている。なお当時は原画を飾る勇気がなかったため、ポストカードの展示にしたという。この展示に漫画家のやまだないとが来廊し、激励されたおかげで、それから毎月何か発表することを考えるようになる。
2003年2月に原宿デザインフェスタギャラリーで「続★むぎゅむぎゅ少女 映像絵画展」を開催。この映像会から映像作品に本格的に取り組みはじめ、映像中心の展示会を開催したり、映像イベントに出品するようになる。映像作家としての真珠子が形成され始めるのはこの頃である。
2003年5月に宍戸留美CD-ROM写真集「Ruminescence ルミネッセンス」のジャケット絵を担当。イラストレーターとしての初めての仕事だった。
2003年5月にPNをこれまでの本名から真珠子に改名。飼っていたハムスターの名前パールからの由来としている。以後、真珠子名義で活動を行うようになる。この頃の真珠子の絵は、現在のような幼女を崩したようなものではなく、バルテュスや竹久夢二を彷彿させる女子高生的なイラストに、真珠子の詩がつけられたものだった。現在よりも耽美的な雰囲気である。
中央線文化
2003年6月に西荻窪「ニヒル牛」にて「やんちゃなおしおき映像会」を開催。この頃から中央線文化が真珠子の作家活動の流れに明確に流入するようになる。中野のタコシェにポストカードをはじめとしたグッズを置き始めるようになり、新宿のロフトプラスワンの自主映像イベントに参加する。新宿ゴールデン街へも出入りするようになる。
2003年10月には高円寺のギャラリーショップ「ハト市場」の展示に参加し、駕籠真太郎やタンケンとの交流が始まる。駕籠真太郎やタンケンは青い部屋によく出入りしていたこともあり、この時代は青い部屋のアンダーグラウンド文化と高円寺文化が絡まり合っている時期だった。また、この頃から映像作品の制作と同時に、のちにアニメ活弁につながるVJにも取り組み始める。
女流興行師
2003年12月、青い部屋で真珠子プロデュースイベント「花嫁ナイト~ ウエディングドレス毎日着てちゃ駄目ですか?今夜はあなたのお嫁さん」を開催。かとうけんそう(俳優、漫画家)、白蛇マリー(女優)、駕籠真太郎(漫画家)、武いさを(緊縛師)、ソワレ、タンケン、錦織恵子、Sango,はちこ、イーエル、和完らが参加。映像あり、音楽あり、唄あり、縛りあり、キラキラケーキあり、相談あり、笑いあり、涙ありのサブカルイベントだった。青い部屋での真珠子関連のイベントでは、おそらくこれが一番最大のものである。
このときの真珠子のイベントプロデュース才能は、のちに自分の個展でよく活かされる。個展では祖父江慎をはじめ、毎回、誰かしら著名人を招いてトークショーを行ったり、自身の音楽ユニットの演奏会を開いたりしている。この能力は、青い部屋時代に自然と身についたものだろう。
聖少女ちおちゃん
2004年は真珠子にとって全作家活動にとって重要な年である。2003年から続く青い部屋や中央線の流れを組むアンダーグラウンド文化を中心に、原宿少女文化やアートアニメーションにも足を踏み入れた時期である。
2004年3月には漫画「聖少女ちおちゃん」を自費出版する。これは真珠子が不定期に発行していたフリーペーパー「よちよち通信」に連載していた愛人教育マンガをまとめたもので、真珠子の唯一漫画作品である。
聖少女のちおが繰り広げる愛するパパとの愛人生活という内容で、愛人、教師、パパ、成熟、嫉妬、猫など真珠子の心に奥底に眠っている無意識的なキーワードをつなぎあわせて作ったような作品になっている。作品内の名言「パンツくらいはきなさい!!」は、真珠子の父親が真珠子の絵を見たときに漏らした感想「パンツぐらいはかせたらどうなの」から由来。デザインフェスタやタコシェなどで販売され、2015年の現在もタコシェで販売されているロングセラー作品である。
特にメディアで話題になったり、何かの賞を受けて注目を集めた作品ではないものの「聖少女ちおちゃん」をきっかけにして真珠子のファンになった人はかなり多い。唯一「聖少女ちおちゃん」を強くプッシュしていたのはタコシェで、2006年に彼女の個展&フェアを店内で開催している。
パピヨンよし子
2004年5月、アニメーション作品の代表作となる「パピヨンよし子」が完成。5月30日に八丁堀リトルシアターで開催した「真珠子少女群映像ショウ」で初公開された。
「パピヨンよし子」は、蝶にあこがれている少女が鼻歌にのって芋虫と遊び、踊り、歌うシュルレアリスム・アニメーションで、これまでの映像作品では一番良い評判を得る。増田賢一によれば「めずらしくきっちりした仕上がり」だという。
また「パピヨンよし子」をNHK BSのアート番組のデジタル・スタジアムに投稿すると、7月放送分の田中秀幸セレクションの回で採用される。さらに「今週のベストセレクション」に選出され注目を集め始める。
当時のデジタル・スタジアムナビゲーターの中谷日出は、「イモムシと女の子というモチーフってすごく面白い。一緒に飛んでますしね。線のラフさは、かなり子供っぽい感じで、そこが魅力。こういう絵を描く人はイラストではよくいますが、アニメーションにまで発展させる人は少ない」という選評をしている。
さらに、1か月後、アニメーション作品「愛され戦士少女」が佐藤可士和セレクションに選出される。以後、定期的に真珠子のアニメーションの作品がデジタル・スタジアムや関連イベントなどで紹介されるようになる。
アニメーション作家としての真珠子の知名度やキャリアは、デジタル・スタジアムの出演をきっかけに大幅にアップし、ドイツ、ハンガリー、ベルギー、ポルトガルなど世界各国の映像祭で作品が上映されるようになる。これまでは、サブカルチャーやアンダーグラウンド関係で名を知られていたが、映像作品は特に、美術業界や美大生にも影響を与えてるようになった。
原宿ガール
2004年8月、原宿フォレットのLAPNET CLUBで個展「やんちゃなおしおき秘宝館」を開催。パピヨンよし子で使用した原画や聖少女ちおちゃんの生原稿の展示などインスターレション形式で展示。
8月6日から11日までの1週間という短い展示だったものの、このときグウェン・ステファニーの関係者がたまたま立ち寄り、真珠子の作品に興味を抱く。そしてグウェン・ステファニーの自身の初ソロアルバム「Love.Angel.Music.Baby」の歌詞カードに真珠子の絵の採用を決める。
真珠子の絵には、元々、原宿のアナーキーでキッチュなガーリーカルチャーの要素があったが、グウェン・ステファニーの「Love.Angel.Music.Baby」のイメージと相まって決定的となる。
その後、実際に真珠子が原宿という場所を意識した大きな活動はしてはいないものの、橋口いくよの小説「原宿ガール」や増田セバスチャンの自伝「家系図カッター」などの表紙絵を担当したこともあり、原宿少女文化のカラーが強くなる。
このイメージを後押ししたのは当時のブックデザイン担当していた祖父江慎の力によるところが大きい。また、「やんちゃなおしおき秘宝館」前後に、LAPNET CLUBでイラストレーターのNEKONOKOが主催するグループ展に頻繁に参加していることから、NEKONOKOの力の大きさも注意したい。
なお真珠子の原宿少女文化の系譜は、その後、「ネオ・コス」や「SHIBUYA GIRLS POP、真珠子展「よかにゃ みぞかちゃん」へと続いていき、また「ジャパニーズ・ガーリ・アート」というキャッチコピーが真珠子に与えられ、真珠子は活動を展開するようになる。ジャパニーズ・ガーリー・アートというコピーが明確に現れて時期は不明だが、真珠子展「よかにゃ~ みぞかちゃん」の宣伝告知文で、まずはっきりと現れている。前身となる「ジャパニーズ・ガーリー・ポップ」というコピーが、2007年に原宿LAPNET SHIPで開催された真珠子個展 姫すごろく「寵妃 花形姫」の宣伝告知文で使われている。
2004年に真珠子は、アンダーグラウンドの交差点、アート・アニメーションの交差点、原宿少女文化の交差点といったように、文化地理的に重要な位置に立つことができた。今後は、この3つの文化円が交わった部分をうまく自己の中に組織できれば、つまり、この3つの円を解体するのでなく、3つの円の共通項を見出し、すべて調整することができれば、真珠子は多大な文化的アジテーターに成長する力を持ちうるだろう。
熊本市現代美術館で美術家デビュー
2006年に真珠子は、故郷の熊本にある熊本市現代美術館ギャラリーⅢにて、個展「真珠子展 Ready for Lady」を開催する。ギャラリーⅢは、おもに熊本県とゆかりのある美術家の展示を行う美術館企画のスペースで、展示の広さは130㎡。この広大なスペースをフルに使い、また8月、9月と2ヶ月にわたって個展が開かれたことから、本個展を本格的な美術家(現代美術家)としてのデビュー展とみなしてよいだろう。それまでは、商業ギャラリーやカフェギャラリー、雑貨店での個展であり、イラストレーターの個展だった。
個展では「パピヨンよし子」をはじめ、やはり最も評価の高い映像作品を中心としたインスタレーション形式の展示。スペースが広いこともあり、多くの巨大なオブジェ作品が展示されたことが新鮮だった。またこれまでの真珠子作品を熊本県民に初めて紹介する回顧展でもあった。
個展タイトルの「Ready for Lady」のコンセプトは、レディ(大人)になってから改めて子どもに戻るための準備をする装置で、会場に入った瞬間に、真っ逆さまに少年・少女に戻ることができる装置(作品)を用意したというもの。大人になってから子どもに戻るというのは、リアルに現実社会に関わって生きていく大人であれば、当然のことだった。このコンセプトは実は20歳のときから温めていた案で、10年越しでようやく実現できたという。
8月5日にはワークショップ「人生コラージュ」を開催。雑誌の紙を素材にしたコラージュのワークショップだった。ワークショップを行う際に真珠子が避けたかったこととして「「ハイ!鉛筆持って!さあ、絵を描こう!」という意識的な美術行為。真珠子自身、制作は記憶のコラージュに他ならなく、そのコラージュ制作時に発生する偶然性や奇跡などの不思議な出来事を体験できるワークショップを開催したかったという。なお、このワークショップは大人限定の参加で、その理由は上記のコンセプト「Ready for Lady」の「大人になってから子どもに戻る」からきている。
「真珠子展 Ready for Lady」のキュレーターは金澤韻。彼女はもともとは東京藝術大学の大学院でマンガの研究をし、熊本市現代美術館では学芸員としてマンガ関係の仕事に携わっておりサブカルチャーへの造詣が深かった。特に、諸星大二郎や大友克洋や高野文子あたりのニューウェーブ系作家の影響を受けており、そのあたりの芸術感性が真珠子作品にリンクしたのではないかと思われる(ここはあくまで私の推測)。本人談によると、真珠子は完全に自分で見つけてきて、ゼロの段階から上司にプレゼンして展覧会が決まった初めての作家だったという。
なお彼女は、その後、川崎市市民ミュージアムに移動し、やはりマンガとファインアートの中間を進むような作家横山裕一の個展「横山裕一 ネオ漫画の全記録」を企画しており、ほかにマンガ家で美術家の近藤聡乃関連の仕事もしている。
また、「真珠子展 Ready for Lady」は、美術家としての本格的な個展と同時に、真珠子にとっての初の熊本里帰り個展でもあった点も大きく。その影響は、個展以降に定期的に開催される天草大陶磁器展への参加や、天草文化史への関心などに現れ始める。
海母
2007年から2009年にかけて真珠子は、これまでの都会的で前衛的な作風から背を向けるように、日本の伝統文化に関心を移し始める。描かれる女性の多くが着物姿に振袖用のヘアスタイルとなり、それに合わせて支持体も変化。屏風、扇子、長襦袢などに絵を描くようになる。プライベートでも着物を着て出かける機会が増え、三味線稽古や着付け教室に通い、歌舞伎、花魁、遊郭、寄席などに関心を持ち始めた。
また、東京に出てくるときに「サヨナラだけがジンセイだ。」と唱えて、記憶の奥底に抑圧してきた天草のことを思い出すようになる。8月に真珠子は、天草で行われるアートプロジェクト「アーティスト・イン・レジデンス in AMAKUSA」に参加。これは天草とゆかりのあるアーティストを天草に招いて、一定期間滞在してもらいながら、地元作家との共同制作行うというもので、その招聘作家の一人として真珠子は選ばれる。真珠子は丸尾焼窯元で約3週間の陶芸の滞在制作を行うことになった。
この天草での滞在制作時に、真珠子の立体作品の代表作ともいえる「海母」が誕生する。「海母」は、「海子」と呼ばれる表面に顔が描かれた1000個以上の小さな天草陶石を、母体となる陶石にくっつけた母子一体のプリミティブ性あふれる作品である。真珠子はこの作品について「自分は毎日赤ちゃんを作っている」「海母は愛の象徴」だと説明している。
「海母」は、天草市が所蔵しており、毎年、11月に開催される天草大陶磁器展で数日間限定公開・展示される。なお海子の一部「海子353号」は真珠子ショップで購入することが可能。
3週間の滞在制作が終了し、いったん東京に戻ったあと、11月に再び天草へ移動する。11月には開催される「天草大陶磁器展」に参加するためだった。
「天草大陶磁器展」は、天草の陶磁器産業を振興するためののまちづくり事業として、毎年11月に開催される陶磁器フェスティバル。また8月の「アーティスト・イン・レジデンス in AMAKUSA」で滞在制作した陶芸作品を展示・公開するイベントでもある。真珠子が制作した「海母」はこのときに初めて公開・展示された。
以後、2012年まで毎年、天草の陶芸イベントに参加するようになり、また帰郷するたびに、隠れキリシタン文化やろうけつ染め、女性人身売買の歴史などのほかの天草の郷土文化にも関心を抱いていった。
幻想耽美
2010年前後に真珠子を取り巻く文化的環境はが変化しはじめる。映像作家として活躍するきっかけとなり、また長期的にアート・アニメーションのプロモーション活動を後押ししてくれていた「デジタル・スタジアム」は2009年放送終了。
真珠子のアンダーグラウンド文化活動の母体ともいえる渋谷「青い部屋」も、2010年に43年の歴史に終始符を打ち閉店した。めまぐるしく変わる文化環境変の時期においても、真珠子はうまく新しい活動を展開していった。
2009年1月、同じ天草出身の芸術家で人形作家の清水真理に出会う。彼女とは偶然にも同じ天草高校出身、美術部出身だった。この清水との縁をきっかけに、真珠子のアンダーグラウンド的な芸術活動の一端は、幻想耽美系へと移行し始める。
幻想耽美系という言葉を簡単に説明しておくと、美しくも退廃的なエロティック・アートを中心とした文化で、代表的な美術家としては山本タカト、金子國義、清水真理、恋月姫、丸尾末広、トレヴァー・ブラウン、メディアでは夜想やアトリエサード、画廊とはヴァニラ画廊、スパンアートギャラリーなどが挙げられる。ゴスやゴシック・ロリータなどともつながりの深い文化である。
2010年7月に、真珠子は清水真理プレゼンツという形で、幻想耽美系の総本山ともいえる浅草橋の夜想ギャラリーパラボリカ・ビスで、個展「おねえさんはリボン狂」を開催。パラボリカ・ビスの一室を使ったインスタレーションだった。また、この頃から幻想耽美系周辺の人達にも徐々に知られていく。「同郷の大好きで、大尊敬している先輩、人形作家の清水真理さんのお力でこのような運びとなりました・・・」と日記に記載しているように、幻想耽美系への架け橋になっていたのは、間違いなく清水真理である。
翌年2011年には、エロティックアートの画廊で有名な銀座ヴァニラ画廊で、個展「花びらうらない」を開催し、2013年にも銀座ヴァニラ画廊で、個展「「リボンヶ丘」~もしもし、子どものわたしへ~」を開催。また、ヴァニラ画廊が企画するイベント「サディスティック・サーカス」にアニメ活弁で参加している。ほかに幻想耽美系との関わりでは、初台にある幻想耽美系の画廊・珈琲Zaroffで、2011年から「真珠子学園」を定期的に開催している。
ソワレの店
青い部屋は閉店したものの、青い部屋のアンダーグラウンド文化を色濃く引き継ぐ場所やサロンのようなものがいくつか誕生する。真珠子は、もっぱらソワレと関わりのある場所で、音楽活動やパフォーマンスなど美術以外の活動を行うようになる。
ソワレが支配人が勤める渋谷のSARAVAH東京、ソワレが経営する新宿ゴールデン街のシャンソンバーソワレ、また新宿二丁目のスナックバー星男が真珠子が活動を行う中心的な場所である。なお真珠子は2010年から2012年の約2年半、新宿ゴールデン街のソワレでママとして勤めている。
アニメ活弁
「デジタル・スタジアム」が2009年に放送終了し、映像関係の強力なプロモーションメディアが消失するものの、真珠子はアート・アニメーションをさらに発展させたアニメ紙芝居活弁を発表する。
アニメ紙芝居活弁とは、紙芝居のアニメーション版で、アニメーションを手元で操作しつつ、生でセリフやナレーションを入れていく表現方法である。再生時間や内容が常に固定している通常のアニメーションと異なり、そのときどきで再生時間や演出も変化するのが特徴で、非常にライブ生が高く、また身体性とのつながりが深い表現である。これまで定期的に行ってきたVJの経験がよく活かされているといえだろう。
アニメ活弁は、2011年に「国際舞台芸術ミーティング in 横浜 A Woman is a Woman is a Woman」で初公開された。このイベントは真珠子(美術家)、小林エリカ(作家/漫画家)、おやつテーブル(ダンス)、指輪ホテル(演劇)など女性作家たちのパフォーマンスイベントだった。真珠子のアニメ活弁は、美術関係者に大変な好評を博し、その後、真珠子の個展をはじめ、さまざまなイベントで何度も上映されている。
なお、このイベントに真珠子を招待したのは指輪ホテルの芸術ディレクター羊屋白玉だが、指輪ホテルの看板女優である岡崎イク子は天草出身で、真珠子と同じ「天草大陶芸祭」に参加しているという偶然的なつながりがある。
ネオ・コスとSHIBUYA GIRLS POP
アンダーグラウンド文化、アート・アニメーション、そしてもう一つの真珠子の活動の柱である「原宿少女文化」の流れは、2010年以降はおおよそ「ネオ・コス」と「SHIBUYA GIRLS POP」へと引き継がれていく。
2010年に真珠子は、原宿のファッションイベント「ネオ・コス展」に参加する。ネオ・コスとは、大きめのリボンやメイドキャラのようなワンピースなど秋葉原のコスプレに日常的なファッション要素をミックスしたファッションスタイルに焦点を当てた展示企画展。女の子たちの為のカルチャーを発信するメディアMIGと、WALL(HP.FRANCE)の共同企画である。
ネオ・コス展では、新進気鋭のデザイナーの限定商品の販売だけでなく、若手現代アーティストの作品、ライブペインティング、秋葉系アイドルのパフォーマンスが行われた。2010年10月5日からラフォーレ原宿で始まり、11月に福岡PARCOへ、翌年関西へ巡回展を行った。
真珠子は「ネオ・コス展」で、同じ天草出身の富田麻衣子のブランドmaimialloとコラボレーション作品を出展。真珠子の物語「おねえさんはリボン狂」の絵や文がぎっしりとプリントされている真珠子ドレスを制作・展示した。ほかに、現代美術家の愛☆まどんなとライブペインティングも行った。
ネオ・コス展のほかの参加作家やブランドは、galaxxxy、初恋てろりすと、MIKIOSAKABE、カオスラウンジ、POTTO、BALMUNG、mochasse!、YOSHIKO、smoooch、veveroparuuu、syrup、poem by rabbit、maimiallo、shojonotomo、SHAMPOOOOO、5TOY、hanamizz、RBT、TABINARY、EMELAM、JUNYA SUZUKI、TAKASHI NISHIYAMA、愛☆まどんな、ファンタジスタ歌磨呂、渡辺真子、MAXU・MAXU、須藤絢乃、riya、小川恵子、サイトウケイスケ、YSK、ガルペプシ、はまぐちさくらこ、夢眠ねむなど。
また同時期に、アート、ミュージック、ファッションなどさまざまなジャンルに渡る新しい「ガールズ・ポップ・カルチャー」を渋谷から世界に発信するプロジェクト「SHIBUYA GIRLS POP」と関わりを深める。プロデューサーは加藤カトリーヌ。SHIBUYA GIRLS POPをきっかけに、マルイシティ渋谷や大盛堂書店など、街頭で積極的にライブペインティングを行うようになる。
2011年4月には、ポップシュルレアリスムシーンで、キュレーター活動や執筆活動を行っている「Sweet Streets」のCAROと、SHIBUYA GIRLS POP共同主催の「magical girls」に参加する。ポップシュルレアリスムとは、個人の内面を重視する表現の「シュルレアリスム」と、没個性的で表層的な「ポップカルチャー」という対極にある要素を融合させた美術様式、および文化で、ロサンゼルスを中心に2000年代から続いているムーブメントである。代表的な作家はマーク・ライデン、オードリー・川崎など。
ネオ・コスやSHIBUYA GIRLS POP周辺の人脈を中心に、真珠子はそれまで養ってきた原宿少女文化に新たなカラーを要素をミックスし発展させていった。
ほかに、のちに伏線となる出来事を列挙すると、2009年にひっそりと真珠子のトレード・キャラクター「みぞかちゃん」が産声を上げている。みぞかとは天草弁で「かわいい」という意味。ポルトガル船で天草にやってきたという設定である。
また、2010年から2011年頭には、ネオ・コス展で制作した真珠子ドレスを来て、真珠子の歌にあわせて踊る「真珠子ガールズ」が誕生し、何度かSARAVA東京のイベントで披露maimialloとファンションコラボレーションをし始めた頃から、真珠子の関心はファッション関係とのコラボレーションに向かうことになる。
田舎と都市の融合「メイド喫茶 みぞかふぇ」
2008年から毎年11月に開催される「天草大陶磁器展」のために、天草に戻って制作・展示を行っている真珠子だが、2011年には非常にインパクトの高い展示を行った。
それが天草初のメイド喫茶「メイド喫茶 みぞかふぇ」である。みぞかふぇは、真珠子が2009年に産みだしたキャラクター「みぞかちゃん」に扮したメイドさんが、給仕をする喫茶店兼真珠子の個展である。
事の発端となるのは、2010年に天草に帰郷したときにある14歳の1人の少女から、「コスプレに興味があっても、天草でコスプレを一緒にしてくれる友達がいないし、コスプレができる場所もない。」と相談を受けたこと。彼女の姿は、田舎の天草で鬱屈し、東京へ逃げるように飛び出した真珠子の姿と重なり、次の陶磁器展でコスプレできる場所を作ることを約束したという。
天草陶芸を紹介する天草大陶磁器展の関連イベントの1つとしてメイド喫茶を開くため、当然ながら、秋葉原にあるようなメイド喫茶をそのまま天草に設置するわけではなく、さまざまな展示工夫が行われた。たとえば、メイド喫茶で使用する湯呑みは真珠子制作の天草陶芸が、カフェ会場のセットには天草の竹やぶが、菓子や茶は真珠子の母親が経営する茶屋「お茶の松下園」の商品など、天草とゆかりのある土着の原材料や生産品が使用されたメイド喫茶となった。
しかしその一方、メイドさんが着るみぞかちゃんのコスプレ衣装は、真珠子がここ一年の活動を集約した原宿・渋谷・秋葉原的なキラキラした派手なピンクの衣装という、天草文化とは対極にある(この年、セブンイレブンが初めて天草にできて行列ができたほどの田舎)ようなものであり、展示会場は、横尾忠則や寺山修司のアングラの世界観を彷彿させるシュルレアル・インスタレーションとなった。
よかにゃ~ みぞかちゃん展
天草で開催し、話題を呼んだ「メイド喫茶 みぞかふぇ」は、3ヶ月後の2012年1月に東京でも開催する。企画タイトルは「よかにゃ~ みぞかちゃん展」。場所は渋谷PARCO内ロゴスギャラリー。展示形式は天草のときと同じく、絵画、オブジェ、映像を中心としたインスタレーション形式にメイド喫茶を融合させたものとなった。
ただ、東京では東京でしかできない事をしようと考えていたため、天草の土着的イメージは最小限に抑えられ、2004年に開催した「やんちゃなおしおき秘宝館」や「ネオ・コス展」などの延長にある都会的で快楽原則を爆発させたようなピンク中心のビジュアルイメージの展示となった。
湯呑みには、展示に合わせて限定生産された祖父江慎と真珠子のコラボレーションデザインマグカップが利用され、展示オブジェは天草陶石が支持体だった「海母」から、ピンクの巨大な龍のぬいぐるみに変更、みぞかメイドちゃんは、東京でよく真珠子を応援してくれる総勢20名による女性(ドラァグクィーン含む)に助けを借りたものとなった。
なおこの展示期間に、新しいキャラクターのあやとりシスターズが産まれた。本展DMで描かれている3人は、みぞかちゃん、ほしかちゃん(天草弁で「欲しい」という意味)、うまかちゃん(天草弁で「美味しい」という意味)で、それぞれあやとりシスターズの1人であるという。
また、あやとりシスターズといつも遊んでいるのが巨大なピンクのぬいぐるみの龍で、この龍は、真珠子が幼い頃に祖父から聞かされた龍の話から由来している。天草島原の乱で勢いにのる天草四郎率いる天草一揆軍の攻撃を受けるも、ついに落城できなかった富岡城のふもとに潜む龍だという。
祖父江慎との活動
真珠子は2007年から、グラフィックデザイナーの祖父江慎と多数の仕事、および活動をしている。
これは、もともと祖父江が真珠子の絵を見て「スゴイ人が出てきたなぁ」と注目をするようになったのがきっかけという。
祖父江が装丁、真珠子が装画を担当したおもな出版物としては
・香山リカ「ポケットは80年代がいっぱい」(2008年)
・橋口いくよ「原宿ガール」(2008年)
などがある。
また、自主制作でのコラボレーション作品の代表作としては、2012年に渋谷パルコ ロゴスギャラリーで開催された真珠子展「よかにゃ~♡みぞかちゃん」で、数量限定販売されたコラボレーションデザインマグカップがある。このマグカップは限定100個生産され、1日半で完売された。ほかには、2010年2月にカオリ座で開催された真珠子個展で15部限定で作製された版画「火遊び安全お札」、2012年にイソップ製菓から発売された『天草南蛮みぞか巻』のロゴシールのデザインなどがある。
真珠子のイベントにも祖父江は多数出演している。2011年から定期的に開催されていた「真珠子学園」では、祖父江は校長先生の役割を担っていた。
音楽活動
2006年にロックバンド母檸檬の企画「しゅみぃず一枚でツッカケて、乙女花園」で真珠子は歌手としてデビューする。
成瀬晃一が演奏し、両サイドで母檸檬の水子と花女がパフォーマンス、バックに真珠子の映像を流し、真珠子が松田聖子の曲を歌う内容だった。
これをきっかけとして、真珠子は音楽活動にも力を入れ始める。2006年9月に中野で月に一度で現れる乙女の秘密基地「喫茶ポペイロ」で歌謡ショーと映像を上映。このとき共演した漫画家あや野と2007年2月にアートおままごと音楽ユニット「てンぬい☆」を結成し、不定期にライブ活動を行うようになる。
2008年には熊本市現代美術館のグループ展「ピクニックあるいは回遊」で関連イベントでソロでの真珠子歌謡ショーを開催。また2012年にソロミュージックCD「真珠子がうたう子ども歌」、ミュージックアニメDVD「大すき大すき大すき」を自主制作で販売。
なお、真珠子歌謡ショーは料金10000円で出張可能である。だいたいこういう感じ。子守唄出張も可能。
作品解説
関連記事
略年譜
■1976年
・熊本県で生まれる。
■1992年
・天草高校美術部入部。
■1996年
・大阪にて女の子を描き始める。
■1997年
・県立高校講師。こども造形教室開設。
■1998年
・2月 名古屋のファッションショーのフライヤーデザイン。その受付で「やんちゃなおしおき」という絵本を売る。
・10月 熊本の情報誌、「熊本ハイカラ」の星占いの絵担当。
■1999年
・7月 熊本市の画廊喫茶「フルカワ」にて陶芸作家助村絢子氏と「白いくちびる」2人展。
・10月 熊本県立美術館分館にて「1960(イクロオ)」展参加。
■2000年
・東京へ上京。
・12月 原宿デザインフェスタギャラリーにて、中村靖浩氏(写真)、山口由晃(漫画)らと「SPANK POSSIBIRILTY」3人展。
・増田賢一と出会う。
■2001年
・9月、真珠子公式サイト「やんちゃなおしおき」を開設準備。9月13日開設、10月1日一般公開。毎日絵を描いてサイトにアップロードするようになる。
■2002年
・2月 お茶の水 山の上ホテルにて写真家 増田賢一氏と「アダムとイブも」2人展&結婚式。このとき、初めて動画を発表。「アリス物語」「白髪幼女」「華嫁」「ネリーランド」「そらとぶこら」「天狗を抱く少女」、6作品。
・渋谷から足立区へ引っ越す。
・10月 渋谷のシャンソニエ「青い部屋」にて「夜宴シネマ」にアリス物語出展 サエキけんぞう賞受賞。
・11月 西荻窪カフェギャラリーサバナにて「毎日少女〜365日産まれました〜ポストカード展」初個展。ヲ山敬子と出会う。詩画集:やんちゃなおしおき「セーラー姉妹」Tシャツ、アリスプラ、パンツなどを販売。
■2003年
・2月 原宿デザインフェスタギャラリーにて「続★むぎゅむぎゅ少女 映像絵画展」個展。映像会を本格的にやり始める。新作映像「Look Of The Love」「珊瑚はまだゆめみ頃」。
・4月19日(土)・20(日)第17回デザインフェスタ「愛され戦士少女 やんちゃなおしおき 映像会」出展。新作映像「愛され戦士少女」。写真集「ルミネッセンス」。
・5月 宍戸留美CD-ROM写真集(写真撮影:増田賢一)「ルミネッセンス」ジャケット絵:真珠子。
・6月27日(金) ニヒル牛謝肉祭 やんちゃなおしおき映像会「うそなき」。
・7月2日(水) 青い部屋ロリータシャンソンバーにて「やんちゃなおしおき」映像を上映。
・8月3日(日)ヲ山敬子氏と「乙女と少女の花園露店」 IN デザインフェスタG フロント。セーラー服を着て、初のライブペインティング。
・8月15日(金) 青い部屋夏祭りにてポストカード屋さん
・10月3日(金)〜8(水)高円寺オルタナティブ展参加。ハト市場。
・10月13日(祝)「コワレモノ侍」にてVJ担当(高円寺20000V)。駕籠真太郎氏の絵とのコラボレーション動画をVJ素材とする。DJ:駕籠真太郎(音頭)
・11/20(木)〜25(火) 西荻窪MADOにて「鳴子と初音」全原画個展。
・12月1日(月)〜10(水)
真珠子展「200人の女の子揃えました壁画展」。最終日10日は「真珠子の花嫁ナイト〜毎日ウェディングドレス着てちゃ駄目ですか?今夜はあなたのお嫁さん〜」花嫁の狂気イベントを主催。
新作映像:「花嫁少女」「キスをちょうだい」(作詞・曲・唄:ソワレ)
■2004年
・2月26日 ルミルミ☆ナイトでVJとして参加。橋口いくよに出会う。
・5月8日〜9日 デザインフェスタに参加。助村絢子&真珠子と「女猫(にょびょう)」3人展
・5月30日 少女曼荼羅にて真珠子少女映像ショー
。「パピヨンよし子」を初公開して好評を得る。
・6月 橋口いくよと交換日記を始める。
・7月31日 「パピヨンよし子」が、NHKのアート番組「デジタルスタジアム」田中秀幸セレクションに当選、ベストセレクションに選ばれる。
・8月6日〜11日まで、原宿フォレット「LAPNET CLUB」にて個展「やんちゃなおしおき秘宝館」を開催。
・8月 ミニコミ漫画「聖少女ちおちゃん」を出版。
・9月10日〜15日 真珠子と作品展「日暮里えれじぃ夜燕」(会場:高円寺ハト市場)。
・雑誌「イラストレーション」2004年度チョイス年度賞入賞。
・NHKのアート番組「デジタルスタジアム」佐藤可士和セレクション入選。
・デジスタアウォード2004出演。
・NO DOUBT(ノー・ダウト)のボーカル、グウェン・ステファニー初ソロアルバム「Love.Angel.Music.Baby」歌詞カードに起用される。