サルバドール・ダリ / Salvador Dalí
偏執狂的批判的方法を確立したシュルレアリスト
サルバドール・ダリは、シュルレアリスム運動で最もよく知られた芸術家です。約70年にわたる芸術家としてのキャリアを積み、生涯を通じて、夢のようなイメージや故郷カタルーニャの要素を作品に取り入れることで知られる、象徴的なスタイルを確立していきました。彼の作品は今日でも多くの現代美術のクリエーターに影響を与え続けています。そんなダリの生涯を追っていきましょう。
目次
1.概要
2.作品解説
3.略歴
3-1.幼少期
3-2.パリの前衛美術家たちと合流
3-4.ルイス・ブニュエルとの共作
3-5.偏執的批判的方法
3-6.ブルトンとの対立
3-7.ニューヨークで活躍
3-9.科学志向とカトリック回帰
3-10.晩年
4.略年譜
概要
生年月日 | 1904年5月11日 |
死没月日 | 1989年1月23日(84歳) |
国籍 | スペイン |
タグ | 絵画、彫刻、ドローイング、著述、映像、写真 |
代表作 |
・記憶の固執(1931年) ・茹でた隠元豆のある柔らかい構造(1936年) ・聖アントワーヌの誘惑(1946年) ・超立方体的人体(磔刑)(1954年) |
公式サイト | |
関連サイト |
サルバドール・ダリ(Salvador Domènech Falip Jasin Dalí i Domènech、1904年5月11日 - 1989年1月23日)は、スペイン・カタルーニャ出身のシュルレアリスムの巨匠として知られている画家である。
印象派やルネサンスの巨匠に私淑して絵画の腕を磨いたあと、シュルレアリスム運動に参加する。1931年8月に完成した代表作《記憶の固執》のように、時計とカマンベールチーズの二重像を重ねて描く「偏執狂的批判法」という新しい概念を確立し、シュルレアリスムの代表的な存在となった。
絵画だけでなく、芸術の枠を超えた活動を行った。ダリは、絵画、グラフィックデザイン、映画、彫刻、工芸、写真などからなる幅広い芸術作品のポートフォリオを持ち、ときには他のクリエイターの協力を得て作品を制作している。
また、他のシュルレアリストよりもメディアで認知されることに重きを置いていた。特にアメリカでは、『タイム』誌の表紙を飾るなど、セレブリティとしての地位を確立した。その奇抜な性格は、彼の成功を増幅させ、世間の注目を集め、その奇抜な人格が彼の芸術的業績を覆い隠してしまうほどであった。
しかし、シュルレアリスムの創設者であるアンドレ・ブルトンは、ダリの商業的な作品や活動や、フランコやヒトラーといった独裁者への加担をほのめかす政治行動に疑問を持ち、ダリをグループから疎外することもあった。晩年のいくつかの作品の品質と真偽についても論争があった。
ダリの人生と作品は、ジェフ・クーンズやダミアン・ハーストといった他のシュルレアリスト、ポップアート、現代アーティストに重要な影響を与えた。
スペインのフィゲレスにあるダリ劇場美術館と、フロリダ州セントピーターズバーグにあるサルバドール・ダリ美術館が、ダリの作品に特化した2つの主要な美術館である。
重要ポイント
- シュルレアリスム運動の代表的な存在
- 芸術の枠を超えた幅広い活動で多くの人から注目を集めた
- 偏執狂的批判的方法を発明した
偏執狂的批判的方法とは?
あるものが別のものと重なりあうイメージ
サルバドール・ダリによって開発された偏執狂的批評技法は、簡単にいえば、あるイメージが別のイメージに似ており、それら複数のイメージを重ね合わせ、融合させることを特徴とするものである。
偏執狂的批判方法で制作された代表的な作品としては《水面に象を映す白鳥》や《ナルシスの変貌》が挙げられる。
《水面に象を映す白鳥》は、一見すると水辺に3羽の白鳥が描かれていますが、よく見ると水面の反射は象を連想させるものになっている。さらに、鳥の背後にある枯れ木が水面に映り込み、象の足元を再現している。
《ナルシスの変貌》では、画面左側に湖を見つめるナルシスが描かれ、右側にナルシスと同じような形態で三本の指に挟まれた卵が、偏執狂的批判的方法で描かれている。
作品解説
・フィゲラス付近の近景(1910年)
・キャバレーの情景(1922年)
・パン籠(1926年)
・欲望の謎 わが母、わが母、わが母(1929年)
・部分的幻覚-ピアノの上に出現したレーニンの6つの幻影(1931年)
・テーブルとして使われるフェルメールの亡霊(1934年)
・ガラの肖像(1935年)
・引き出しのあるミロのヴィーナス(1936年)
・燃えるキリン(1937年)
・浜辺に現れた顔と果物鉢の幻(1938年)
・アメリカの詩(1943年)
・白い恐怖(1945年)
・球体のガラテア(1952年)
・サンティアゴ・エルグランデ(1957年)
・システィナの聖母(1958年)
・クリストファー・コロンブスによるアメリカの発見(1958−1959年)
・亡き兄の肖像(1963年)
・ペルピニャン駅(1965年)
・魚釣り(1967年)
・幻覚剤的闘牛士(1970年)
・ツバメの尾(1983年)
・かたつむりと天使(1977-1984年)
・運命(2003年)
ダリの美術館
略歴
幼少期
スペインの美術の巨匠ことダリ(本名:サルバドー・ドメネク・ファリプ・ジャシン・ダリ・イ・ドメネク)は、1904年5月11日午前8時45分、スペイン、カタルーニャ地方のフランスとの国境に近いポルタ県内のフィゲラスという町で生まれた。
“サルバドール”という名前の兄(1901年10月12日生まれ)がいたが、ダリが生まれる9ヶ月前、1903年8月1日に胃腸炎で亡くなった。サルバドール・ダリという名前は、亡くなった兄の名前に由来している。
ダリがまだ5歳のとき、両親は彼を兄の墓地に連れて行き、自分が亡くなった兄の生まれ変わりであることを告げられる。このことはダリに大きなショックを与えた。
というのも、「兄の生まれ変わりであること」から両親は自分を可愛がってくれるようになったと錯覚したのである。
自分自身は愛されていないのだと傷つき、こうしてダリは兄の姓を名乗ることを決意し、以来、サルバドール・ダリとして知られている。
ダリの父はミドルクラスの公証人で、厳格で気の短い性格だった。幼いころダリは父から梅毒の病気の写真を見せていたという。この梅毒のイメージがトラウマになり、ダリは性的なものに対する深い恐怖を植え付けられることになった。
画家であった母親は、ダリの芸術的表現を常に褒め称え、励ましてくれた。1921年2月に肺がんで倒れ、ダリがまだ16歳のときに母親はこの世を去った。この時のことを「人生で最も悲惨な体験」と語っているのは有名な話で、この出来事が結果的にマザーコンプレックスを生むことになった。
ダリには3歳年下の妹、アナ・マリアがいた。彼女は《窓辺の少女》など、ダリの初期の作品に登場する。ガラと出会うまで兄妹は親密だったが、しだいに関係が悪くなる。1949年、マリアは兄の伝記『妹の見たダリ』を発表し、兄弟間のトラブルを引き起こした。
1916年、美術学校に入学し、芸術教育を開始。その年の夏休みに印象派画家のラモン・ピショットの家族たちとカダケスやパリを旅行し、近代美術の世界を知り、刺激を受ける機会を得た。
翌年、ダリの父は自宅でダリの木炭デッサンの個展を企画した。1919年にフィゲラスの市民劇場で開催された合同展が、ダリの最初の公開制作と言われている。
パリの前衛美術家たちと合流
1922年、ダリはマドリードにある王立サン・フェルナンド美術アカデミーの学生寮レジデンスへ入学する。このときからすでに、彼の驚くべき、奇抜で型破りな作風が明らかになり、アカデミーに衝撃を与えた。
ダリは19世紀末のイギリス上流階級のファッションや振る舞いを生涯、模倣し続けた。その特徴は、大柄な髪、濃い口ひげ、そして正装のウエストコート、ホース、ブリーチズであった。この
この頃のダリは、フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(詩人)、ルイス・ブニュエル(映画監督)という二人の芸術家と知り合うことになる。
ダリとロルカの極めて親密な友情は、ロルカが肉体関係を要求するまでにエスカレートしたが、ダリは断固としてこれを拒否した。ダリは女性恐怖症だったが同性愛者ではなかった。
ルイス・ブニュエルとは、のちにシュルレアリスム映画の傑作『アンダルシアの犬』を共同制作したあと、関係に亀裂が入る。
また、この頃パリで流行りつつあったピカソを中心とした前衛芸術運動キュビズムに興味を持ち、キュビズムの実験を試みる。1924年、スペインではダリ以外にはキュビスムの手法が使われていなかったため、ダリは大きな波紋を投げかけた。スペインでキュビズムを精緻に表現したのはダリが最初だと言われている。
またダダイズムに触発され、ダダ的な変わった創作技法を試みている。そして1925年、バルセロナのダルマウ画廊で主要な個展を開催した。
1926年、大学進学を中断することを決意。この年、パリに旅立ったダリは以前から高く評価していたパブロ・ピカソと出会う。ピカソはジョアン・ミロからサルバドール・ダリの評判を聞き、ダリに好感を抱くようになった。
そして、ダリは1924年から始まったシュルレアリスム運動に影響を受け、自身も運動に参加する。特にパブロ・ピカソ、ジョアン・ミロ、イヴ・タンギー、ジョルジュ・デ・キリコ、マックス・エルンストなどから多大な影響を受け、彼らの影響が色濃い作品を多数制作した。
ダリは、芸術の最前線に身を置きながら、伝統的な芸術作品からインスピレーションを得て、それを自らの創作に反映させた。ラファエロ、ブロンズィーノ、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ、フランシスコ・デ・スルバラン、フェルメールなど、著名な古典巨匠から影響を受けている。
ミューズでありマネジメントであるガラ
1929年8月にダリは彼のミューズであり、のちに妻となるガラと運命的に出会う。彼女はロシアからの移民で、ダリの10歳年上で、すでに詩人のポール・エルアールと結婚していた。ガラは、ダリの芸術の源泉であり、また、よくダリの仕事を管理する有能なマネージャーだった。
ダリが成功しなかったときに、しばしばダリの作品を後押しした。やがて1934年、30歳のダリは世界各地から巨額の印税を手にするようになった。
ダリが人妻と恋愛関係にあったことを考えると、父親は非常に不満で、彼を勘当する。ダリの父親は、パリのシュルレアリストがダリに悪影響を与えていると考え、1948年まで父子が再会することはなかった。
このような背景があり、ダリとガラは1929年から夫婦として暮らし始め、1934年には伝統的な結婚式を挙げずにいたが、互いに結婚の意思を固めてたが式は挙げていなない。同棲から30年近く経ってから正式な結婚の儀式を行い、二人の関係を正式なものにしたのである。
ルイス・ブニュエルとの共作
1929年、ダリはパリに戻り、ルイス・ブニュエルとのコラボーレション作品『アンダルシアの犬』を制作する。この作品は、ブニュエルとダリが互いに潜在的な観念を定式化し、それを集大成したものであった。映像は破片をつなぎ合わせたもので、明確な筋書きはない。
『アンダルシアの犬』でダリが担った役割は、ブニュエルの脚本とイメージのバックアップであった。監督を務めていたのは主にブニュエルであったにもかかわらず、ダリはのちにイメージや脚本だけではなく、撮影に大きな影響を与えたと断言している。にもかかわらず、この主張には具体的な証拠がない。
偏執狂的批判的方法
1929年、ダリはプロの画家として重要な個展を開催する。ジョアン・ミロの紹介で、ダリはその後、パリのモンパルナスを拠点とするシュルレアリスム集団の正式メンバーになった。
すでにダリの作品はシュルレアリスムに大きな影響を及ぼしていた。彼らは、「偏執狂的批評法」と呼ばれるダリの概念を素直に受け取り、潜在意識の奥底にアクセスして傑作を生み出すことを可能にしたのである。
1930年、ダリはポルト・リガトの近くに漁師の小屋を確保する。以後40年、ガラが死去するまでダリが住処として、またアトリエとしていた建物である。
最初は1部屋だけの漁師小屋にすんでいたが、その後増築したり、近隣のコテージや離れを買い取ってつなげていき、その結果、段々畑の間に12段の屋根を持つ巣ができたという。
一般的に名前は《ポルト・リガトのダリの家》とよばれている。あの横尾忠則も訪れたことがある。
1931年にダリは決定的な作品《記憶の固執》を完成させる。この作品には、抽象的な柔らかい物体、懐中時計、蟻のモチーフが含まれており、しなやかで柔軟な時計は、規律性、剛直性、決定論的意味をもつ「時間」の棄却を例示している。
剛直性に対する拒絶という考えは、長く引き伸ばされた風景や群がる蟻の前に無力な時計でも見て取れる。
ダリは性的に非力であり、時間が経つにつれて弱っていく物体への不安に怯えていた。この絵の中心にある白い物体は、ダリの自画像であり、彼の様々な構図に登場する。
ブルトンとの対立
アンドレ・ブルトンをはじめ、シュルレアリストの多くが共産主義思想と関わりをもっていくなかで、ダリは政府と芸術の関係から適度に距離を置きながら、はっきりしない態度を示していた。
ブルトンはダリがヒトラーの国家社会主義を礼賛していると非難したが、ダリはブルトンの非難に対して「ヒトラーを肯定はしないが、批判もしない」と反論している。
1970年の自伝でダリは共産主義の思想を捨て去り、アナーキズムとモラリストの両方の思想と述べている。
それでもダリの政治的傾向は完全には理解されず、フランコ将軍やヒトラーへ親近感を示すファシストと見なされていた。
ダリはシュルレアリスムを、政治とは無関係の成果を生み出す芸術表現と考え、ファシズムに対して発言することを拒み、以後1934年に運動から追放された。これに対してダリは「私はシュルレアリスムであり続ける」と弁明している。
ニューヨークで世界的なスターとして活躍
前衛美術商ジュリアン・レヴィの支援を受け、ダリはアメリカ、特にニューヨークへ渡り、代表作である「記憶の固定」を発表しました。この展覧会は、ダリがニューヨークで絶大な評価を受けるきっかけとなった。
《記憶の固執》はこのときはじめて公開され、さらに購入され、やがて、ニューヨーク近代美術館に収蔵された。
その後、ダリはアメリカのニュースで頻繁に取り上げられるようになる。富裕層が集まる「ソーシャル・レジスター」主催の「ダリ・ボール」では、スペイン系カタルーニャ人の画家がガラスのチェストウェアで登場して注目集めた。
同年、ダリとガラはコレクターで有名なカレス・クロスビーが開催するニューヨークの仮面舞踏会パーティに参加。
当時「リンドバーグの赤ちゃん誘拐事件」が広まっていた時期に、そこでダリはガラに血塗れの赤ちゃんの死体を模したドレスを着せ、頭にリンドバーグの赤ちゃんの血まみれの模型をのせて悦に入っていたという。
このダリの行為は、マスコミから激しい非難を浴びた。しかし、この事件はダリによれば、ガラは頭にリアルな子どもの人形を結びつけてはいたが血塗られてはおらず、頭にアリが群がり、燐光を発するエビの足で体がはさまれていたものだったという。
1936年、ダリは「ロンドン国際シュルレアリム展」に参加。このときちょっとした事件が起こる。ダリは潜水服に身を包んだ姿で、ビリヤードのスティックを持ち、ロシアのボルゾイ犬を2匹引き連れて現れ「 Fantômes paranoiaques authentiques」という講演会を開く。
このとき潜水服の酸素供給がうまくいかず、ダリは窒息状態に陥る。幸い、いち早く事態に気づいた観客が、スパナを使ってヘルメットを脱がせ、ダリを危機から救ってくれた。しかし、その時、ダリは空気不足で絶体絶命の危機にあった。
この時期、ダリにとって大きな恩人となったのが、尊敬するイギリスの詩人で富豪のエドワード・ジェイムズだった。
彼はダリのさまざまな作品に投資し、ダリを美術界に導いた。さらにジェームズは、《ロブスター電話》や《唇ソファ》などの革新的なコラボレーション作品を発表し、シュルレアリスム運動に長期的な資金援助を行った。
1939年のニューヨーク国際博覧会で、ダリは博覧会のアミューズメントエリアにて、シュルレアリスムパビリオン「ヴィーナスの夢」を披露する。このパビリオンには、奇妙な彫刻や彫像、裸体のモデルなどが展示されていた。
同年、アンドレ・ブルトンはダリにサルバドール・ダリの名前をもじったアナグラム「Avida Dollars(ドルの亡者)」というあだ名を付けたという。
これは、ダリの作品が次第に商業主義に向かい、評判と金銭的な利益を得ることで評価を得ようとしたことを強調する皮肉だった。シュルレアリストたちは、ダリが亡くなるまで、ダリと議論を戦わせた。
「我が秘められた生涯」と文筆的才能
第二次世界大戦が始まると、ダリとガラは紛争から逃れるためにカリフォルニアに渡り、終戦までの8年間をそこで過ごした。
1940年6月20日、フランスのボルドーにいたポルトガル人官僚アリスティデス・デ・ソウザ・メンデスが発給した無料ビザにより避難することができたという。
一方、ダリは精力的に執筆活動を続け、1941年にダリは「Moontide」というジャン・ギャバン主演の映画企画を立てる。そして1942年に自伝『わが秘められた生涯』を刊行。ダリは本の中でダリの文才の発揮の裏には、ガラの大きなマネジメント力があると話している。
「ガラは、私には話すだけでなく文章を書く才能があると言い、グループの人々の想像をはるかに超えた、哲学的に深い意味をもつ文章を書けるということを皆に知らしめようと、とりつかれたように奔走した。ガラは私が書きちらしたそのままでは意味をなさない、ばらばらの走り書きをかき集め、たんねんに読み込み、なんとか読める<系統だった形>にまとめた。さらに、すっかり形の整ったこの一連のメモを理論的で詩的な作品にすべく、忠告を与えて私にまとめさせ、『見える女』という本をつくりあげた。これは私の初めての著書であり、「見える女」とはガラのことだった。しかし、この本で展開した考えゆえに、やがて私は、シュルレアリスムの芸術家の絶え間ない敵意と不信の只中で、戦うこととなった。」
また『わが秘められた生涯』でダリが、共産主義者でアナーキストだったルイス・ブニュエルについて「ブニュエルは無神論者だ」と書いたのが原因で、ブニュエルは当時在籍していたニューヨーク近代美術館から追放されることになった。
その後、ブニュエルはハリウッドに移住し、1942年から1946年までワーナー・ブラザーズの吹き替え部門で働くことになった。
科学志向とカトリック回帰
戦争が終わると、1949年にダリはスペインのポルトリガトの自宅に戻り、そこで残りの人生を過ごすことになる。当時のスペインはフランコ独裁体制で、ダリはフランコ将軍に近づく。このことはシュルレアリストや知識人たちから非難を浴びた。
戦後、ダリは自然科学や数学の知識を深め、それを美術に取り込んでいったが、それは1950年代以降に発表された作品に見ることができる。たとえばサイの角状のモチーフを主題とした作品(《記憶の固執の崩壊》など)をよく描いているが、ダリによればサイの角というのは対数螺旋状に成長する素晴らしい幾何学芸術だという。
その一方で、科学とは正反対にカトリックに回帰する。そうして、カトリック的な世界観と近代科学が融合した作品が現れ始める。代表的なのが純潔と聖母マリアというテーマとサイの角を結びつけた傑作《自分自身の純潔に獣姦される若い処女》だろう。ほかにもDNAや4次元立方体にも関心を持ち始める。ハイパーキューブを主題にした作品「磔」などが代表的な作品といえる。
晩年
1968年にダリはガラのためにプボル城を購入してプレゼントする。これはガラの別荘であり、当初、暖かい時期の短期滞在を目的としていた。、1971年頃からガラはプボル城にひきこもりがちになる。一度行くと数週間は一人でこもって出てこなくなった。この行動は、ダリとアマンダ・リアとの関係が原因との報道もあるが、詳細は不明である。
ダリによれば、書面を通じたガラの許諾なしにプボル城へ出向くことは固く禁じられる。ガラの生前はダリさえもほとんど入ったことはなかったという。このように、何十年にもわたって彼の芸術生活の礎となってきたガラとの別れは、画家に苦悩に満ちた退屈な日々を強いることになった。
1980年、76歳になったダリは体調を崩し始めた。右手の震えはひどく、パーキンソン病の兆候であった。その原因について、ガラは、ダリが神経系に有害な安全でない薬を服用していたことを明らかにしている。
1982年、ダリはフアン・カルロス1世 (スペイン王)から「プボルのダリ侯爵」の貴族の称号を与えられる。プボルはジローナ県プボルの町にある中世の古い古城の名前である。ダリが生前、妻ガラに贈ったものである。わずかな期間だったが、ガラが死去したあとダリはプボル城に移ったため、プボルという称号が与えられた。
1982年6月10日、ダリの最愛の伴侶であったガラが87歳でこの世を去る。この事件をきっかけに気力が萎え、ダリはさまざまな自殺未遂を繰り返すようになる。そして、ポルトリガトのダリの自宅から、彼はガラが以前住んでいたプボル城に移り住む。
体調だけでなく経済問題も発生した。それまでダリの資金はガラが管理していたが、ガラが亡くなると、自分の資金は自分で責任を持たなければならない。しかし、ダリには、外の世界での経験が浅く、お金に関してガラのような知恵はなかった。非常にルーズで人に際限なくお金を貸し、踏み倒されて借金まみれになっていった。
1983年5月、ダリはルネ・トムの数学的破局論の影響を受けた最後の作品「スワロウ・テイル」を完成させる。これで絵描きとしてのダリの人生は終わりになる。
翌年には、プボル城で謎の火災事件が発生し、ダリは火傷を負うという悲惨な事態に見舞われます。自殺を図った可能性が高いとされている。
1988年11月、ダリは心不全により病院へ搬送された。ペースメーカーは入院前からすでに身体に埋め込まれていた。1988年12月5日、フアン・カルロス1世 (スペイン王)が病院に見舞いにも訪れた。
1989年1月23日、ダリは好きなレコード「トリスタンとイゾルデ」を聴きながら、84歳で死去。遺体はフィゲラスにあるダリの劇場美術館の地下に埋葬された。
略年譜
■1904年
・5月11日フィゲラスに生まれる。父親は公証人サルバドール・ダリ・クシ、母親はフェリッパ・ドメネク・フェレス。
■1908年
・妹アナ・マリアが生まれる。
■1917年
・父が家でダリの木炭デッサンの展覧会を開く。
■1919年
・フィゲラス市立劇場(後のダリ劇場美術館)のコンサート協会の展覧会に出品する。
■1920年
・小説『夏の夕方』を書きはじめる。
■1921年
・2月に母親が死去。翌年、父はダリの母親の妹であるカタリナ・ドメネク・フェレスと再婚する。
■1922年
・バルセロナのダルマウ画廊で開催されたカタルーニャ学生会主催の学生のオリジナル絵画コンクールに出品する。ダリの作品「市場」は大学長賞を受賞する。
・マドリードでサン・フェルナンド王立美術アカデミーに通い、学生寮に暮らしながら、のちに知識人や芸術家として活躍する友人たち(ルイス・ブニュエル、フェデリコ・ガルシア・ロルカ、ペドロ・ガルフィアス、エウへニオ・モンテス、ペピン・ベヨなど)と親しく交流。
■1923年
・教授であった画家のダニエル・ヴァスケス・ディアスに反対する学生デモを扇動した理由で、美術アカデミーを放校される。
・フィゲラスに戻り、ファン・ヌニュスの授業に出席、版画の新しい方法を学ぶ。
■1924年
・秋に美術アカデミーに戻り、再授業を受ける。
■1925年
・マドリードでの第一回イベリア芸術家協会展に出品し、ダルマウ画廊で初個展を開催する。
■1926年
・マドリードでのカタルーニャ現代美術展や、バルセロナのサラ・パレスでの第一回秋のサロンなどに出品。
・パリへ旅行しピカソに会う。
・再び美術アカデミーを放校される。フィゲラスに戻りを絵を描くことに専念。
■1927年
・ダルマウ画廊で2回目の個展を開催し、サラ・パレスでの第2回秋のサロンにも出品。
・フィゲラスの兵役につく。
・フェデリコ・ガルシア・ロルカの『マリアナ・ピネダ』の舞台装置と衣装を担当。
■1928年
・ダルマウ画廊での前衛芸術の宣言展に参加。
・ルイス・モンターニュとセバスチャン・ゴーシュとともに、『マニフェスト・グロッグ・カタルーニャ反芸術宣言』を発行。
■1929年
・ジョアン・ミロを通じてシュルレアリストのグループと交流。
・ルイス・ブニュエルとの共同制作である映画『アンダルシアの犬』を編集。
・夏はカダケスで過ごし、画商ゲーマンス、ルネ・マグリットとその妻、ルイス・ブニュエル、ポール・エリュアールと妻のガラ、その娘セシルなどがダリのもとを訪ねる。
・パリのゲーマンス画廊で個展を開催。
・ガラとの恋愛関係が原因で家族に亀裂が入る。
■1930年
・ブニュエルとの共同制作の第2作目、『黄金時代』がパリのスタジオ28で上映される。
・シュルレアリスム出版がダリの本『見える女』を出版。
■1931年
・パリのピエール・コル画廊で個展を開催。『記憶の固執』を出品。
・コネチカット州ハートフォードのワーズワース文芸協会で行われたアメリカ合衆国で初めてのシュルレアリスムの展覧会に参加。
・『愛と思い出』という本を出版。
■1932年
・ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊での、シュルレアリスム:絵画、ドローイング、写真展に参加する。
・ピエール・コル画廊での2回目の個展を開催。
■1933年
・パリの『ミノトール』誌の創刊号に「ミレーの<晩鐘>」の強迫観念のイメージの偏執狂的批判的解釈」という本の序章が掲載される。
・ピエール・コル画廊でのシュルレアリストのグループ展に出品、3回目の個展も開催する。
・ニューヨークのジュリアン画廊で個展開催。
■1934年
・イブ・タンギーとアンドレ・ガストンとの立ち会いのもと、ガラと入籍。
・パリのグラン・パレのアンデパンダン展における50周年記念展に参加。この展覧会に参加することを拒否した他のシュルレアリストたちの意見を無視しての参加だった。これがブルトンのグループから離れるきっかけとなる。
・ロンドンのツェンマー画廊にて個展を開催。
・ガラとともにアメリカを訪れる。
・『ニューヨークが私を迎える』という冊子を発行。
■1935年
・ノルマンディー号でヨーロッパに戻る。
■1936年
・ロンドンで開催された国際シュルレアリスム展に参加。
・ニューヨーク近代美術館での幻想芸術ダダ・シュルレアリスム展に参加。
・『TIME』誌の表紙を飾る。
■1937年
・2月にハリウッドでマルクス兄弟に会う。
・ダリとガラがヨーロッパに戻る。
・パリのレヌー・エ・コル画廊でハーポ・マルクスの肖像画と映画のために2人で描いたデッサンを展示。
■1938年
・パリの国際シュルレアリスム展に『雨降りタクシー』を出品。
■1939年
・ニューヨーク万国博覧会に参加するための契約書を交わし、「ヴィーナスの夢」館のデザインを行う。しかしながら、正面に頭部を魚に変えたボッティチェリのヴィーナスの複製を展示することを万博委員会に却下される。それに対してダリは『自らの狂気に対する想像力と人間の権利の独立宣言』を出版。
・メトロポリタン・オペラハウスにてダリがパンフレット、衣装、舞台装置をデザインしたバレエ『バッカナール』が上演。
・9月、ヨーロッパに戻る。
■1940年
・ドイツ軍のボルドー進出にともない、ダリ夫妻はしばらく滞在していたアルカーションを離れアメリカに移住、1948年まで滞在。アメリカに着くと、ヴァージニア州ハンプトン・マナーのカレス・クロスビーの元に滞在する。
■1941年
・写真家フィリップ・ホルスマンとともに写真の仕事をしはじめる。
・ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊での展覧会。そのカタログに序文「サルバドール・ダリの最後のスキャンダル」をダリ自身が書いている。
■1942年
・自伝『わが秘められた生涯』を出版。
■1943年
・レイノルズ・モース夫妻が初めてダリの絵『夜のメクラグモ
……希望!』を購入する。春には、ニューヨークのヘレナ・ルビンスタインの部屋の装飾に携わる。5月、実話をフェデリコ・ガルシア・ロルカが脚色した新作バレエ『カフェ・デ・チニータス』のデザインに入る。
■1944年
・『ヴォーグ』誌の表紙をデザインする。
・10月、ニューヨークのインターナショナル・シアターにて、インターナショナル・バレエがダリの舞台美術で『感傷的な対話』を上演する。
・12月、ニューヨークでインターナショナル・バレエのプロデュースによる、初のパラノイアック・バレエ『狂えるトリスタン』が上演される。ダリは、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』から、このバレエの着想を得た。
■1945年
・ヒッチコックの映画『白い恐怖』の一連の夢のシーンを制作するため、ハリウッドに移住する。
・ビグノウ画廊で「サルバドール・ダリの新作絵画展」を開催。この展覧会のために、自分自身の作品と動向を掲載した『ダリ・ニュース』の第一号を自ら発行する。
■1946年
・『ヴォーグ』誌のクリスマス号の表紙のデザインをする。
・ウォルト・ディズニーと映画『デスティーノ』の契約を交わす。
■1947年
・『ダリ・ニュース』の最終号となる第2号を発行。カタログには「ダリ、ダリ、ダリ」と「追記:短いがわかりやすい美術史」を寄稿。
■1948年
・『描くための50の秘法』を出版。
・6月、スペインに戻る。
・11月、ルキノ・ヴィスコンティ演出のシェイクスピアの『お気に召すまま』がエリセオ劇場で上演される。舞台装置と衣装をダリが担当した。
■1949年
・ダリが舞台と衣装をデザインしたリヒャルト・シュトラウス原作の『サロメ』がロンドンのコベント・ガーデンにて上演される。その後、ホセ・ゾリーヤの『ドン・ファン・テノリオ』がマドリッドのマリア・ゲレロ劇場で上演される。
・『トリビューン』誌に「ダリの自動車」という記事が掲載される。
・12月、アナ・マリアが、妹の視点で書いたダリについての本を出版する。
■1950年
・妹の本への反論として、『メモランダム』という冊子を発行。
・『ヴォーグ』誌に「ダリのガイドでスペインへ」を掲載。
■1951年
・パリで「神秘主義宣言」とそれに基づいた作品を発表。
・カルロス・デ・ベイステギがヴェネツィアのラビナ・パレスで仮装舞踏会を企画。ダリはそこに自らがデザインし、クリスチャン・ディオールが制作した衣装で登場する。
■1954年
・ローマのパラッツォ・パラヴィッチーニでダンテの『神曲』を基にしたデッサンを展示する。この展覧会で、ダリがルネサンスを象徴する『形而上的な立方体』を登場させた。
・フィリップ・ホルスマンとの共作の本『ダリの口髭』が出版される。
■1955年
・シェイクスピアの作品を原作とした映画『リチャード3世』のプロモーションのため、リチャード3世役のローレンス・オリビエの肖像を描く。
・12月「偏執狂的批判的の方法論の現象学的様相」と題した講演会をパリのソルボンヌ大学で行う。
■1956年
・アントニ・ガウディへのオマージュとしての講演会をバルセロナのグエル公園で開催。
■1958年
・パリのフェリアで、エトワール劇場で行われる講演会のための12メートルのパンの製作を依頼される。
・8月8日、ダリとガラは、ジローナ近郊のロス・アンヘレス聖堂で結婚式を挙げる。
・カーステアース画廊での展覧会のため、『反物質宣言』を発行。
■1959年
・年末にダリは新しい乗り物「オボシペド(卵足)」を発表する。
■1960年
・ドキュメントフィルム『カオスとクリエーション』を撮影する。
・ジョセップ・フォレットから依頼された『神曲』が完成。そのイラストは、パリのガリエラ美術館に展示される。
・「または形:ベラスケスへのインフォーマルなオマージュ」展のカタログに「ベラスケス、絵画の天才…」という文を書く。
■1961年
・ヴィネツィアのフェニーチェ劇場で『スペイン婦人とローマの騎手』が上演される。音楽はスカルラッティ。5つの舞台デザインがダリ。バレエ『ガラ』は、振付がモーリス・ベジャール、舞台美術と衣装がダリ。
・アートニュースに「ベラスケスの秘密の数字を解き明かす」を掲載。
■1963年
・『ミレーの<晩鐘>の悲劇的神話』という本を出版する。
■1964年
・スペインの最高栄誉であるイザベル・ラ・カトリカ賞を与えられる。大回顧展を東京と京都で開催する。
・ターブル・ロンダ社から『天才の日記』を出版。
■1965年
・回顧展「サルバドール・ダリ1910-1965」がニューヨーク近代美術館で開催される。そのカタログにダリは「歴史と絵画の歴史のレジュメ」という文を発表する。
■1968年
・ニョーヨーク近代美術館で開催された「ダダ−シュルレアリスムとその遺産−」という展覧会に参加。フランスの五月革命に際して、ソルボンヌの学生に配布するために『わたしの文化革命』を発行する。
■1969年
・プボルの城を買い取り、ガラのために装飾する。
■1970年
・パリのギュスターヴ・モロー美術館で記者会見を開き、フィゲラスのダリ劇場美術館の計画について発表する。
・ロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン博物館が大回顧展を企画。
■1971年
・レイノルズ・モースのコレクションを集めたオハイオ州クリーブランドのダリ美術館が開館。
・マルセル・デュシャンに捧げるチェスをアメリカ・チェス協会のために制作する。
■1972年
・ノドラー画廊で、ダリがデニス・ガボールとコラボレーションして制作した世界初のホログラフィー展が開催される。
■1973年
・ドレーゲル社から『ガラのディナー』が出版される。プラド美術館で「ベラスケスとわたし」と題した講演会を開催される。
■1974年
・9月28日、ダリ劇場美術館開館。
■1978年
・ニューヨークのグッゲンハイム美術館に、ダリの最初の超立体鏡作品『ガラにビーナスの誕生を告げるため地中海の肌をめくってみせるダリ』が展示される。
■1979年
・ジョルジュ・ポンピドーセンターでダリの大規模な回顧展と同時にこのセンターのために考えた『最初の環境』が開催される。
■1980年
・5月14日から6月29日まで、ロンドンのテート・ギャラリーで回顧展が開催。この展覧会には251点が展示される。
■1982年
・フロリダ州セント・ピーターズバーグに、レイノルズ・モース夫妻所有のサルバドール・ダリ美術館が開館する。
・6月10日、ガラがポルト・リガトで死去。
・国王カルロス1世がダリをマルケス・デ・ダリ・デ・プボルと命名、爵位を与える。
・プボル城へ移り住む。
■1983年
・「1914年から1983年のダリの400作品」という大きな展覧会がマドリード、バルセロナ、フィゲラスで開催される。
■1984年
・プボル城が火事になり、フィゲラスのガラテア塔に移り住む。呼び鈴の火花が引火の原因といわれている。
■1989年
・1月23日、ガラテア塔で逝去。