【美術解説】ロバート・マザーウェル「抽象表現主義を理論化」

ロバート・マザーウェル / Robert Motherwell

抽象表現主義を理論化して運動を先導


ロバート・マザーウェル『スペイン共和国へのエレジー No.110』(1971年)
ロバート・マザーウェル『スペイン共和国へのエレジー No.110』(1971年)

概要


生年月日 1915年1月24日
死没月日 1991年7月16日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント 抽象表現主義、ニューヨーク・スクール
関連人物 ロベルト・マッタ、ウォルフガング・パーレーン、ジャクソン・ポロック
関連サイト The Art Story(略歴)

ロバート・マザーウェル(1915年1月24日-1991年7月16日)はアメリカの画家、版画家、編集者。抽象表現主義運動の創設者。

 

ロベルト・マッタやウォルフガング・パーレーンなど、ヨーロッパのシュルレアリストと交流を深め、彼らが好んでいた無意識を表現するオートマティスム手法を独自に改良。それはアメリカ・オリジナルの前衛芸術運動となる抽象表現主義の基礎理論となった。

 

ジャクソン・ポロック、ウィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコら「ニューヨーク・スクール」のメンバーを支持し、彼らとともに抽象表現主義運動を展開。マザーウェル自身の大胆に描かれた太くて黒い形状の表現力の高い絵画作品やコラージュ作品も美術的に評価が高い。

略歴


幼少期


ロバート・マザーウェルは、ワシントン州アバディーンで、父ロバート・バーンズ・マザーウェルと母マーガレット・ホーガン・マザーウェルの長男として生まれた。家族はのちにサンフランシスコへ移り、父はウェルズ・ファーゴ銀行の社長を務めた。

 

幼少の頃、気管支喘息に悩まれたマザーウェルは、気候の太平洋沿岸で育てられ、小学生時代の大半をカリフォルニア州で過ごした。カリフォルニア州の豊かな環境は、のちに彼の抽象画の特徴である浮かび上がった広大な空間と鮮やかな色彩への愛着へ反映されることになる。

 

また、マザーウェル作品に見られるの「死」に対するテーマは、彼の子供時代の虚弱体質にルーツがあるとされている。

 

1932年から1937年まで、マザーウェルはサンフランシスコのカリフォルニア美術大学で絵画を学び、スタンフォード大学で哲学の学士を修了。スタンフォード大学でマザーウェルは、象徴主義をはじめさまざまな文学を読み漁りモダニズムに影響を受ける。

 

ステファヌ・マラルメ、ジェイムズ・ジョイス、エドガー・アラン・ポー、オクタビオ・パスから影響を受ける。このヨーロッパ・モダニズムへの情熱は生涯持続し、のちに彼の絵画やドローイングの主要なテーマとなった。

 

マザーウェルはハーバード大学に入学し、アーサー・O. ラヴジョイやデイビット・プロールのもとで学ぶ。ドラクロワの著書を研究してパリで一年間を過ごしているときに、彼はアメリカの作曲家アーサー・バーガーと出会う。バーガーはマザーウェルにはコロンビア大学のマイヤー・シャピロのもとで学ぶことを勧めた。

 

ニューヨークへ移動


1940年にマザーウェルはコロンビア大学で学ぶためにニューヨークへ移るが、学問よりむしろ絵画制作を批評家のマイアー・シャピロに励まされた。

 

シャピロはマックス・エルンストやマルセル・デュシャンといったヨーロッパからの亡命シュルレアリストをアメリカの若い画家たちに紹介しており、マザーウェルはカート・セリグマンから絵を教わった。マザーウェルがシュルレアリストたちと過ごした時間は、彼の芸術制作に影響を与えた。

 

1941年にシュルレアリストのロベルト・マッタとメキシコ旅行している際に、船上で未来の妻で女優のマリアに出会う。マザーウェルを絵を職業にすることを決心する。マザーウェルがメキシコで描いたスケッチ作品、たとえば1941年制作の『Little Spanish Prison』や1943年に制作した『Pancho Villa, Dead and Alive』は、のちに彼の最初の重要な絵画とみなされている。これは両方ともニューヨーク近代美術館が所蔵している。

ロバート・マザーウェル『Little Spanish Prison』(1941年)
ロバート・マザーウェル『Little Spanish Prison』(1941年)
ロベルト・マザーウェル『Pancho Villa, Dead and Alive』(1943年)
ロベルト・マザーウェル『Pancho Villa, Dead and Alive』(1943年)

オートマティスムを独自に改良した画風


ロベルト・マッタはマザーウェルに"オートマティック・ドローイング"の理論を教える。シュルレアリストは、よく無意識の抽象的な世界を表現するためにオートマティズムによる絵画制作を行っていたためである。

 

このオートマティズムの理論はマザーウェルに影響を与えたが、メキシコでウォルフガング・パーレンと出会い、彼のスタジオで数ヶ月間過ごしているうちに、自身でオートマティズム理論に改良しようと考えるようになった。

 

マザーウェルの代表的な作品『メキシコのスケッチブック』で、この理論修正されたものがが反映されている。初期のオートマティック・ドローイングは、マッタやイブ・タンギーの作品を模倣したようなものだったが、パーレンの影響のもとマザーウェルの作品は従来のものより平面的になり、インク部分を跳ね上げるような大胆な描き方になった。

ロバート・マザーウェル『メキシカン・スケッチ』(1941年)
ロバート・マザーウェル『メキシカン・スケッチ』(1941年)

抽象表現主義運動を創設して先導


メキシコから戻るとマザーウェルは、オートマティズムを基盤とした創作原理の発展を力を入れる。マザーウェルはアメリカ独自の前衛表現を模索していた。

 

「アメリカ人は素晴らしい前衛絵画を制作していたが、そこにアメリカ独自の創作原理となるようなものはなく、すべてヨーロッパ近代美術の模倣だった。ゴーキーはピカソのコピーだし、ポロックもピカソのコピー、デ・クーニングもピカソのコピーだった。そして私もまたフランス美術に影響を受けた絵を描いていた。今、私たちが必要なものは創作原理である。私たちは常にヨーロッパの美術家たちの後追いでしかなかった。すべての人が同意する全く新しいものを作る最高のチャンスが聞きているのかもしれない。(マザーウェル)」

 

1940年代初頭、マザーウェルは抽象表現主義運動の創設に際してかなり重要な役割を演じた。

 

「マッタはシュルレアリスム内に革命と運動を起こしたかった。彼は私にアメリカの新しい芸術家たちを発掘して、新しいムーブメントを起こすようアドバイスした。それで私とバツィオーツは、ポロック、デ・クーニング、ホフマン、カムローフスキー、ブサなどほかさまざまな芸術家たちに会いに行った。(マザーウェル)」

 

ペギー・グッゲンハイムが、マザーウェルをはじめニューヨーク・スクールに対して好意的で、新しい芸術運動を始める際には展示を開催したいと申し出る。マザーウェルは、ムーブメントを起こすのに芸術家たちが共有する原理・原則が必要だったため、ニューヨーク・スクールのメンバー全員にオートマティズムの理論を説明してまわったという。

 

1942年にマザーウェルはニューヨークで自身の絵画作品の展示を始める。1944年にはペギー・グッゲンハイムの「今世紀の芸術」画廊で初個展を開催。同年、ニューヨーク近代美術館はマザーウェルの作品を1点購入した。

 

1940年代なかばにマザーウェルはアメリカの前衛芸術運動を先導するスポークスマンとなる。マザーウェルのサークルには、ウィリアム・バツィオーツ、デヴィッド・ヘアー、バーネット・ニューマン、マーク・ロスコらが参加し、1948年から1949年にかけて『Subjects of the Artist school』展を開催した。

 

1949年にマザーウェルはマリアと離婚、1950年にベティー・リトルと再婚。彼女との間に二人の娘をもうけた。

抽象表現主義運動の母体となったニューヨーク・スクール。マザーウェルは中段右から2番目。
抽象表現主義運動の母体となったニューヨーク・スクール。マザーウェルは中段右から2番目。