ルネ・マグリット / René Magritte
視覚美術と哲学の融合
ルネ・マグリットの哲学的でだまし絵的な絵画に興味はありませんか?彼の絵の裏には、何か哲学的なメッセージが隠されているような気がしませんか?もしそうなら、この記事はあなたにぴったりです。彼の絵がなぜ美術界の内外で大きな力を持つのか、そしてなぜ彼がミシェル・フーコーのような知識人の間で人気のあるアーティストなのか、その理由を説明します。それでは早速、マグリットの絵画とその隠されたメッセージに迫ってみましょう。
目次
1.概要
2.作品解説
3.略歴
3-1.母の自殺が影響を与えた幼少期
3-2.シュルレアリスム以前
3-4.哲学と美術を融合させる
3-5.ブリュッセルに戻り国際的な活動へ
3-6.第二次世界大戦時の作風
3-7.死後の評価
4.略年譜
概要
ルネ・フランソワ・ジスラン・マグリット(1898年11月21日-1967年8月15日)は、ベルギーの画家で、シュルレアリスむ運動において重要な役割を果たしました。
ある物体が、現実的にはありえない場所に置かれていたり、ありえない大きさで描かれる技法デペイズマンをたくみに利用することで評価されている。その描写は、現実や表象の本質や境界に関して鑑賞者に疑問を投げかけるものである。
1930年代以降になると、ほかのシュルレアリストと比べ内面的に激しい表現は少なくなり、《白紙委任状》のような錯覚を取り入れただまし絵作品や、《イメージの裏切り》のような哲学的要素の高い理知的な表現が際立つようになる。
そのため哲学者のミシェル・フーコーをはじめ、多くの美術関係者以外の知識人にも人気が高い作家として知られ、ポップ・アート、ミニマル・アート、コンセプルチュアル・アートに大きな影響を与えるなど、従来の美術界にとどまらない大きな影響力を持った芸術家である。
また、その独特の造形的な作品は、サルバドール・ダリ同様、大衆文化にも影響を与えた。
重要ポイント
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作品解説
略歴
母の自殺が作品に影響を与えた幼少期
ルネ・マグリットの人生は、幼少期の出来事によって形成された複雑さと悲しみに満ちたものであった。
マグリットは1898年11月21日、ベルギー西部のエノド県レシーヌで、仕立て屋兼繊維商のレオポルド・マグリットと、結婚前は粉引き職人だった母レジーナ・ベルタンシャンの間に生まれた。
マグリットの祖先は、ロベスピエールの死後、ピカルディ地方から亡命したとされるマルグリット兄弟であり、彼の一族は熱心な共和主義者だった。
マグリットには、1900年生まれのレイモンと、生涯を通じて親友だった1902年生まれのポールの2人の弟がいた。
マグリット一家がレシネからシャトレに移り、絵画教室に通って油絵やデッサンを学び始めたのは1910年のことだった。
1912年2月24日、母親がシャトレのサンブル川に入水して自殺し、マグリット家の生活は一変する。
その時のことを後で振り返ってみると、母親は亡くなる数年前から自殺未遂をしており、父親はそれを防ぐために母親を寝室に閉じ込めたこともあったという。
しかし、母親は逃げ出し、数キロ離れた河川敷で死んでいるのが発見された。この出来事をきっかけに、ルネ・マグリットの人生は、後世の人々にインスピレーションを与え、美術界に多大な影響を与える意義深いものとなっていった。
マグリットがまだ幼いころ、母親が亡くなったことは、画家に大きな衝撃を与えた。葬儀の日、マグリットは母の遺体と顔にかけられたドレスを目にして、心身ともに動揺してしまった。
1927年から1928年にかけて描かれた《恋人たち》をはじめとするマグリットの作品は、この悲劇が源泉になったと言われている。
現実と幻想がしばしば重なり合うマグリットの芸術には、この体験が反映されていると心理療法士は主張している。
この重なりは、愛する人が自分のもとに帰ってくることを切に願いながらも、その人が永遠にいなくなってしまったことを知っている子どもの認知的矛盾と、その正反対の二つの精神状態を調和させるための葛藤を反映している。
母の死後、マグリット兄弟は下女と家庭教師に引き取られることになった。
1913年、マグリットの一家はシャルルロワへ移り、マグリットは高校へ入学。またこのとき、ジョーゼット・ベルジェの目にとまり、1922年に結婚する。2人は市内のメリーゴーランドで知り合う。ジョーゼットは2歳年下だった。
マグリットの作品には、死別と憧れの時期が最もよく反映されているという説があり、人生の初期が彼の芸術的成長に大きな役割を果たしたことは確かである。
シュルレアリスム以前
ルネ・マグリットの特徴的な作品は、印象派のスタイルで制作していた1915年にまでさかのぼることができる。
1916年から1918年にかけて、ブリュッセルの美術学校に通い、コンスタン・モンタルドに師事するが、授業に身が入らない。
美術学校では画家でポスターデザイナーのジスベール・コンバズからも学ぶ。グラフィックデザインや広告ポスターなどの仕事をしながら、絵画も学んでいた。
マグリットの作品は、次第に伝統的な美術の様式を区別することが難しくなり、印象派以降の近代美術に影響を受けるようになる。
1918年には、詩人のピエール・ブルジョワーズや抽象画家のピエール・フルケらベルギー前衛芸術家のメンバーと共同アトリエで短期間制作を行った。
この頃、イタリア未来派のダイナミズムに興味を持ち、やがてデ・ステイルのリーダーであるテオ・ファン・ドエスブルクと出会うことになる。
ドエスブルグは、オランダの純粋主義理論について講演するためにブリュッセルを訪れ、マグリットの創作意欲にさらに火をつけたのである。
1918年から1924年にかけて、未来派やジャン・メッツァンジェ、ピカソのキュビスムに大きな影響を受け、魅力的な絵画を次々と発表した。これらの作品のモチーフの多くは、女性の肖像画であった。
第一次世界大戦の戦火に巻き込まれた後、ベルギーでダダ運動に参加。詩人でありコラージュ作家でもあったE.L.Tメサンスの協力を得て、雑誌『エソファージュ』『マリー』を創刊する。
これらの雑誌は、アルプ、ピカビア、シュヴィッタース、ツァラ、マン・レイなど、数多くの著名なアーティストが寄稿した前衛的なプラットフォームであった。
1920年、ブリュッセルの植物園で、幼なじみのジョルジェットに偶然出会う。1922年に結婚する。 その頃、ジョルジェットはブリュッセルの芸術家協同組合で姉と一緒に働いていた。
1920年12月から1921年9月まで、マグリットは歩兵としてベルギーのベヴェルーに従軍した。この間、マグリットは地図製作や指揮官の肖像画を制作していたという。これらの能力は、その後のマグリットの創作活動において、非常に貴重なものとなる。
兵役を終えたマグリットは、新たなキャリアをスタートさせる。1922年から1923年にかけて、壁紙工場で製図工として働き、デザイナーのヴィクトル・セランクスと共同で「純粋芸術-美学の弁明」という小冊子を制作した。
1923年に工場をやめて、1926年までポスターや広告デザイナーとして働く。
この頃、マグリットはロベール・ドローネやフェルナン・レジェなどのピュリスムやキュビズムの影響を受けた美意識を確立していた。
1926年には、6年前にマグリットが肖像画を描いたピエール・ブルジョワーズの詩集の表紙をデザインし、その作風は頂点に達した。このコラボレーションは、マグリットが生涯を通じて発揮した多才な才能を示すものであった。
1922年、詩人マルセル・ルコントが、新進の画家マグリットに大きな影響を与えた。ジョルジョ・デ・キリコの《愛の歌》の複製を見せられたマグリットは、「人生で最も感動した瞬間のひとつだ」と言い、「初めて目が動いた」と絶賛したのは有名な話だ。
また、ベルギーの象徴主義の画家ウィリアム・デグーヴ・ド・ヌンクの絵画もマグリットに影響を与えたとされる。特にデグーヴの絵画『盲目の家』(1892年)はマグリットの『光の帝国』に影響を与えている。
マルセル・ルコントとウィリアム・デグーヴ・ド・ヌンクは、画家マグリットに大きな影響を与え、彼の情熱を形成し、正しい道へと導いていったのである。
幻想で不気味なシュルレアリストとして活躍
1926年、ベルギーの著名なシュルレアリスム画家ルネ・マグリットは、キュビスムから決別し、最初のシュルレアリスム絵画『失われた騎手』を制作した。
同年、マグリットはブリュッセルのル・サントール画廊と契約を結び、翌1927年には同画廊で初の個展を開催している。この時点で、マグリットは絵画を専業とするようになっていた。
しかし、デビュー展への期待とは裏腹に、批評家からはマグリットの作品は物足りないという不満の声が上がった。
1927年のブリュッセル展には、マグリットのシュルレアリスム画家としての出発点となる《人相の悪い殺し屋》が出品された。この絵は、マグリットが愛好していた第一次世界大戦前の人気犯罪映画シリーズ「ファントム」の影響を受けていると思われることが注目される。
また、《人相の悪い殺し屋》の扉側の二人の人物の配置は、1913年に公開された映画『幻想』シリーズの一作、『殺人死体』の一場面から着想を得たとする証拠もある。
このように、マグリットの個展は、目立った成功は収められなかったものの、彼の象徴的な作品である《殺し屋》のデビューという意味で、彼のキャリアにとって重要な出来事であったと結論づけることができるだろう。
ブリュッセルでの個展の失敗は、マグリットにとって大きな痛手となり、結果的にパリに移住することになった。パリで有名なアンドレ・ブルトンと出会い、彼のシュルレアリスムグループに参加したのである。
マグリットがシュルレアリスムに参加した当初は、想像力や夢、ファンタジーのような作品だった。
ジョアン・ミロやアンドレ・マッソンのような「オートマティック」なスタイルとは異なり具象的な作風だった。
詩的なイメージを実現するために、見慣れない空間に普通のものを配置することが画家の義務だと考えていた。
マグリットは絵画という行為について「色を並べて、その実相を消し去り、空、人、木、山、家具、星、堅固な構造物、落書きなどの見慣れたものを、一つの詩的に凝縮したイメージに統合する芸術。このイメージの詩は、古今東西のあらゆる象徴的な意味を払拭してくれる」と表現している。
1927年、ルネ・マグリットは母国ベルギーを離れ、パリで画家としての道を歩み始めた。パリに移住したマグリットは、シュルレアリスムグループのリーダーとして、3年間その地位を維持した。
1924年から1929年までがマグリットの最も充実した時期で、この時期の作品は幻想的というよりむしろ不気味と言われることが多い。
マグリットの代表作のひとつ《恋人たち》は、ベールに包まれた二人の人物がキスをしているように見える絵で、これはマグリットが幼少の頃、母親が謎の入水自殺をしたことにちなんだものだそうだ。
この時期のマグリットの創作は、シュルレアリスム運動を探求する上で極めて重要であり、世界中の多くの芸術家に影響を与え続けていた。
哲学と美術の融合させる
1929年、フランスの画家ルネ・マグリットは、サルバドール・ダリ、ジャン・アルプ、デ・キリコ、マックス・エルンスト、ジョアン・ミロ、ピカビア、ピカソ、イヴ・タンギーら著名なモダニズム画家たちとパリのゴーマンス画廊で展覧会を開催した。
そして、グルノーブルのボザール美術館は、マグリットが1926年に制作した「影の中の左翼」を、公的機関として初めて購入したのである。
そして同年、彼の最も有名な作品である《イメージの裏切り》を制作した。タバコ屋の広告のようなこの絵には、パイプが描かれ、その下に示唆に富んだ言葉が記されている。
「これはパイプではありません」。
この絵はパイプのように見えるが、実はパイプを表現したものであり、パイプそのものではない、というイメージと対象との根本的な違いをマグリットは強調したかったのだ。
1929年12月15日、マグリットは『シュルレアリスム革命』第12号(最終号)に参加する。その中で彼は、「イメージの裏切り」だけでなく、言葉とイメージを織り交ぜたエッセイ「Les mots et les images」を発表したのである。
その中でマグリットは、言語に論理を適用し、物体とそれが表現するイメージの差異を意識するよう、鑑賞者に問いかけたのである。
この作品は、哲学者ミシェル・フーコーが1966年に発表した「言葉と物」を説明する際に利用されることがある。1973年にフーコーは『これはパイプではない』という著書でマグリット作品を主題的に論じている。
ブリュッセルに戻り国際的な活動へ
1929年末、世界恐慌の影響でギャラリー・ル・サントゥールの活動は停止し、ルネ・マグリットへの収入も途絶えた。
さらに、パリでシュルレアリスムから無関心な態度をとられ、幻滅したマグリットはブリュッセルに戻ることになる。経済的に苦しい時代に生計を立てるため、マグリットは弟のポールとともに1934年に広告代理店「ドンゴ」を開業する。
この事業によってマグリットは定期的な収入を得ることができ、1934年から1937年にかけて、マグリットが「エメア」というペンネームで描いた絵は、音響映画の配給会社トビス・クラングフィルムの広告に使用された。ルーヴェン市立公文書館には、マグリットのポスターが7点保存されており、その功績を証明している。
1930年代は、《共同発明》、《陵辱》のようなヌード画で世界的な名声を得た。当時はヌードに対してやや冷めた見方があったが、マグリットは魚の上半身と人間の下半身、あるいは女性のヌードを前に女性の顔を描いたユニークな絵で成功を収めた。
1936年、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊でアメリカ初の個展を開催し、続く1938年にはロンドン画廊で個展を開催した。この展覧会は世界的に注目され、マグリットの評価は高まった。
絵画だけでなく、1936年にはベルギー共産党に再入党し、楽譜の表紙デザインも手がけた。
1937年、ロンドンの街にインスピレーションを受けたマグリットは、数週間ロンドンに滞在する。この間、イギリスのシュルレアリスト、エドワード・ジェームズの好意で、彼のロンドンの家に無償で住まわせてもらうことになった。
ロンドン滞在中、マグリットは建築を学び、ジェームズのためにいくつかの作品を制作した。また、マグリットはギャラリーで講演を行い、高名な芸術家としての地位を固めた。
ジェームズはロンドンでのマグリットの家や画材を無料で貸し出した。またジェームズはマグリットの作品《快楽原理》 や《複製禁止》のモデルとしてもよく知られている。
1936年、マグリットは若い芸人シーラ・レッジと出会い、それがきっかけで恋愛関係に発展し、結婚にも影響した。
マグリットは、ジョゼットの気をそらすためにポール・コリーヌに助けを求めたが、皮肉なことに、そのことがコリーヌとジョゼットの絆を深める結果になった。マグリットと妻が和解するのは、1940年になってからである。
第二次世界大戦時の作風
第二次世界大戦が始まると、マグリットはフランスのカルカッソンヌに場所を変え、依頼を受けて肖像画を描いて生計を立てた。
やがてブリュッセルに戻り、ナチスの存在を感じながらもブリュッセルに留まる。
それに伴い、パリのシュルレアリスム運動とは距離を置き、1943年から1944年にかけて、主にルノワールの作品を中心とした印象派の影響を受けながら、より色彩豊かで深みのある作品を制作している。
この「ルノワール時代」は、ドイツ占領下のベルギーで経験した不穏な空気の表れであると考えられる。
1946年、マグリットは新しい画風に完全に移行する。ベルギーの芸術家仲間とともに、アンドレ・ブルトンの思想とは対照的な『陽光に満ちたシュルレアリスム』宣言を発表し、楽観的でポップなシュルレアリスム様式を追求することになる。
1947年から48年はマグリットにおいて「牡牛の時代」と呼ばれる時期で、フォーヴィズムのような大きな筆致で作品を描く。しかし「牡牛の時代」は大変不評だったのですぐにやめることにした。
またこの時代、生活のために、ピカソ、ブラック、キリコの作品をもとにした贋作を制作するようになる。のちにマグリットの贋作制作は紙幣偽造印刷にまで拡大。さらに、弟のポール・マグリットやマルセル・マリアンと共に、お金の偽造までしていた。
その後、10年を待たずして、初期の具象的なシュルレアリスムの手法に回帰している。
死後の評価
マグリットは晩年、『大家族』や『光の帝国』など、今日知られているポップなシュルレアリスムの傑作の大半を制作している。
戦前・戦後を通じて共産党との結びつきが強く、左翼支持者が目立ったが、一方で共産党の功利的な文化戦略を批判していた。
共産主義者の画家にとって、作品を作ることは精神的な洗練を示すことであると主張した。
政治的左派にコミットしながらも、このように彼は芸術のある種の自律性を提唱した。精神的には、マグリットは不可知論者であった。
1967年8月15日、膵臓癌のため68歳で永眠、ブリュッセルのエヴェールにあるシャールベーク墓地に埋葬された。
フランスでは、2016年から2017年にかけてポンピドゥー・センターで開催された回顧展を筆頭に、マグリットの作品を広く紹介してきた。
1965年には、ニューヨーク近代美術館でアメリカで2回目の個展が開催された。1960年代に人々の注目を集めた彼の作品は、その後のポップアート、ミニマルアート、コンセプチュアルアートの誕生に拍車をかけ、1992年にはメトロポリタン美術館で回顧展が開催された。2013年に再びメトロポリタン美術館で、3回目の回顧展が開催されている。
2018年にサンフランシスコ近代美術館で開催された「The Fifth Season」と題する展覧会では、晩年の作品に焦点が当てられた。
2005年、「De Grootste Belgian」と題された投票では、ワロン版で9位、フランドル版で18位と評価された。
A4版
略年譜
■1898年
・11月21日、ベルギーのエイノー州レシーヌで生まれる。父レオポールは仕立屋、母レジナ・ベルタンシャンは結婚前は針子。レイモン(1900年生まれ)とポール(1902年)の二人の弟がいる。
■1910年
・一家が引越ししたシャトレにおいて油絵と素描を始める。
■1912年
・母が原因不明の自殺。
・早口に唱える祈祷や百回も繰り返して十字を切ったりする奇妙な祈りの動作で家庭教師を驚かせる。
■1913年
・一家がシャルルロワへ引っ越す。
・高校へ入学。
・定期市の回転木馬において2歳年下のジョルジェット・ベルジェと会う。
■1915年
・印象主義の画法により最初の作品を描く。
■1916年
・ブリュッセルの美術学校(アカデミー・デ・ボザール)に入学し、ヴァン・ダムの素描教室に入る。
■1918年
・家族がブリュッセルへ戻り一緒に暮らすようになる。
■1919年
・詩人のピエール・ブルジョワと知り合う。
・ピエール・ルイ・フルーケとアトリエを共有する。彼らとともに雑誌『ハンドルをとれ!』を発行するがすぐに廃刊となる。
・ピカソのキュビスムの影響を受けた最初の作品『3人の女』を発表する。
・未来派の影響を受ける。
■1920年
・弟のピアノ教師をしていたE.L.T.メザンスと知り合い、以後長い間親交を結ぶ。
・春、ブルッセルの植物園において偶然ジョルジェットと再会する。彼女はそのとき画材店で働いていた。
■1921年
・兵役の間に指揮官の肖像画3点を制作する。
■1922年
・6月、ジョルジェット・ベルジェと結婚。彼自身のデザインにより彼らの新居の家具をつくらせる。
・生活のために壁紙工場ペータース・ラクロワにおいてヴィクトール・セルヴランクスの指導のともに図案工として働く。
・彼とともに『純粋芸術、美学の擁護』を出版。
・この時期の作品はドローネやレジェなどピュリスムに近いものであった。
■1923年
・工場をやめてポスターや広告のデザインをする。
■1924年
・カミーユ・ゲーマンスとマルセル・ルコントと会う。初めて絵が売れる。その作品は歌手エヴリーヌ・ブレリアの肖像を描いたものだった。
■1925年
・「これからは事物を綿密な外観描写だけで描くこと」を決心し、現実の世界を問題にする方法を追求する。
・ポール・ヌジェ、アンドレ・スリと会う。
・ダダイスムの雑誌『食堂』に投稿。
・マルセル・ルコントを通じてジョルジョ・デ・キリコの作品を知る。特に『愛の歌』に強い感銘を受ける。
・マックス・エルンストのコラージュ作品から感銘を受ける。
・友人のヴァン・エックの経営する洋服屋の広告デザインをする。また1926年と1927年には毛皮屋サミュエルのカタログも手がける。
■1926年
・最初の成功したシュルレアリスム絵画とマグリットが考える「迷える騎手」を制作する。
・ブリュッセルのル・サントール画廊およびP.G.ヴァン・エックと契約を結ぶ。
■1927年
・春にル・サントール画廊で初めて個展を開き、61点の作品を展示するが、ほとんど話題にはならなかった。
・ルイ・スキュトゥネールを知り、彼と深い親交を結ぶ。
・パリ近郊のル・ペルー=シュル・マルヌに住む。
■1928年
・パリのゲーマンス画廊で開かれた「シュルレアリスム展」に参加。
・マグリットを常に援助し続けていた父が死去。
■1929年
・夏の休暇をカダケスのダリのところで過ごす。そこでポールおよびガラ・エリュアールと相次いで合流する。
・雑誌『シュルレアリスム革命』の最後の号に重要な論文「言葉とイメージ」をのせる。
■1930年
・ブルトンと離反してブリュッセルへ戻りエッセン街135番地に落ち着く。
・経済恐慌により画廊との契約が無効となる。マグリットは生活のために蔵書の一部を売らなければならなくなる。
・幸運にもメザンスが近作11点を買い上げる。
■1931−1935年
・この間、いくつかの個展や、パリやベルギーのシュルレアリストたちとの展覧会が開かれる。
■1936年
・アメリカにおける最初の個展がニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で開かれる。
・ロンドンで開かれたシュルレアリスト国際展にマグリット作品が展示される。
・アメリカの主要都市7箇所を巡回する「幻想芸術、ダダとシュルレアリスム展」にも出品される。
■1937年
・数週間をロンドンのエドワード・ジェイムズ宅で過ごし、彼のために何点かの作品を制作し、ロンドン画廊で講演をする。
・ベルギーへ帰りマルセル・マリエンを知る。
・雑誌『ミノトール』の10号のための表紙を描く。
■1938年
・アントワープで「生命線」と題された重要な講演をする。そこではこれまでのマグリットの探求が示された。
■1940年
・ドイツ軍の侵攻の前にフランスへ移り、イレーヌおよびルイ・スキュトゥネールとともにカルカッソンヌで過ごす。
・注文肖像画により生計をたてる。
■1943年
・長年続けてきた本来の描き方を放棄し。印象主義風の色彩と描き方、特にルノワール風の描き方を採用する。しかし描かれる内容は変わっていない。この傾向の作品は本来の描き方と並存しながらさらに1947年まで続く。マグリットはそれらを「陽光に満ちた」絵と呼ぶ。
■1945年
・戦争が終わるとマグリットは、1932年、1936年に続き3度目のベルギー共産党への入党をはたす。しかし、共産党の芸術界における反動的姿勢に賛同できず数ヶ月で脱党することになる。
■1946年
・マルセル・マリエンとともにスカトロジーの過激な冊子を編集するが、警察により発行をさしとめられる。
・ヌジェ、スキュトゥネール、マリエンらとともに「陽光に満ちたシュルレアリスム」をベルギーのシュルレアリストのマニフェストとして広める。
・マグリットはブルトンのドグマに断固反対し、楽観的で新しい形を追求する。
■1947年
・ルイ・スキュトゥネールが彼の最初のマグリット論を発表する。
■1948年
・フォーヴの作品をもじった「牡牛(ヴァーシュ)の時代」に入る。大きな筆致による鈍重な手法で、マグリットのいつもの習慣である熟考の検閲を受けていない作品である。しかし大変な不評で、作品は一点も売れずマグリットはこのスタイルを放棄する。
・マグリットの素描約40点を含むロートレアモンの『マルドロールの歌』が出版。
・画商のアレクサンドル・イオラスと契約を結ぶ。
■1951年
・ブリュッセルの王立劇場の回廊の天井画作成の依頼を受ける。
■1952年
・雑誌『写生の葉書』の創刊号が10月に出る。これは葉書大の大きさでマグリットの主宰による。
■1953年
・8点の油彩を制作。後にこれらはカジノ・クノッケ=ル=ズートの壁画となる。
■1954年
・ブリュッセルのパレ・デ・ボザールでE.L.T.メザンスにより組織された初めての回顧展が開かれる。
■1955年
・この年からモーリス・ラパンとの交友が始まる。ラパンは、後に、パリの彼のもとへ送られてきたマグリットの手紙をもとにしてその晩年の記録を出版する。
■1956年
・アレクサンドル・イオラスは、注文肖像画をのぞくマグリットの作品すべてについての優先権を獲得する。これ以降、マグリットの個展はアメリカおよびヨーロッパの彼の画廊で開かれるか、または彼との共催のかたちをとることになる。
■1957年
・ムービーカメラを買い、友人や妻の短編映画を撮影する。
・シャルルロワのパレ・デ・ボザールのための壁画「無知の妖精」を制作する。
・友人のハリー・トルクシナーがマグリットの法律顧問となる。
■1960年
・アメリカ女性スジ・ガブリックが何ヶ月かマグリット家に滞在する。
■1961年
・「神秘のバリケード」がブリュッセルのアルベルト1世王室図書館の会議ホールを飾る。
・1966年までアンドレ・ボスマンスの主宰する雑誌『レトリック』に協力する。
■1965年
・パトリック・ワルドベルグによるマグリット論が出版される。
■1967年
・8月15日、自宅において急死。