レメディオス・バロ / Remedios Varo
機械や幾何学が特徴の女性シュルレアリスト
概要
生年月日 | 1908年12月16日 |
死没月日 | 1963年10月8日 |
国籍 | スペイン |
表現媒体 | 絵画 |
ムーブメント | シュルレアリスム |
配偶者 | ベンジャミン・ペレ |
レメディオス・バロ・ウランガ(1908年12月16日-1963年10月8日)は、スペイン出身のメキシコ人画家、アナーキスト。
子ども時代に水圧機のエンジニアであった父の影響で、数学や機械的なもの、機関車、SFなどに興味を抱く。そのため、数少ない機械的で幾何学的なモチーフを扱う女性芸術家である。
1908年にスペイン・ジローナ県で生まれ、王立サン・フェルナンド美術アカデミーで学ぶ。スペイン市民戦争が勃発するとマドリードからパリに移り、シュルレアリスム運動に強い影響を受ける。
シュルレアリストの詩人、べンジャマン・ペレと出会い結婚。ナチスがフランスを占領すると、1941年にメキシコシティへ移る。メキシコに亡命。以後、ヴァロは生涯メキシコで過ごした。
略歴
レメディオス・バロ・ウランガ(1908年12月16日-1963年10月8日)は、スペイン出身のメキシコ人画家、アナーキスト。
マリア・デ・ロス・レメディオス・バロ・イ・ウランガは、1908年、スペインのジローナ州郊外にある小さな町アングレで、父ドン・ロドリゴ・バロ・セハルバと、母ドウニャ・イグラシア・ウランガ・ベルガレーチェの間で、3人兄弟の第2子として生まれた。
バロの誕生は、先に死んだ姉に心を痛めていた母の心の大きな支えとなった。そのため姉と同じ名前(ロス・レメディオス)を付けられたという。
父ロドリゴは水圧機エンジニアで、建設場から家に持ち帰った青写真を模写している娘バロに強い才能を感じ取り、早くからその芸術的才能を伸ばそうとした。独立自由な精神をたたえ、科学や冒険に関する本をすすめ、とりわけアレクサンドル・デュマやジュール・ヴェール、エドガー・アラン・ポーなどの本をバロにすすめた。バロが少し大人になってからは、ほかに神秘主義や東洋思想も教えこむ。それらは彼女の作品に影響が出ている。
バロは修道院学校で、若い女性のための適切な教育を受けることになったが、この修道院教育はかえって彼女に反抗的な性格を育てることになった。1924年にバロは、マドリードにあるサンフェルナンド王立美術アカデミーで本格的に芸術を学ぶ。なお、同時期にサルバドール・ダリも就学していた。
1930年に美術学校の同級生であるヘラルド・リサラーガと最初の結婚をする。スペイン市民戦争が勃発するとバロはパリへ避難。そこでシュルレアリスム運動に大きな影響を受ける。
パリに数年滞在したあとバルセロナに戻り、そこで2番目の夫となるフランス人シュルレアリスム詩人のベンジャミン・ペレと出会い、結婚する(ちなみに最初の夫であるヘラルド・リサラーガとは離婚していなかったことが死後わかった)。
次いでバルセロナで「Logicophobiste」と呼ばれるシュルレアリスム系のグループに参加して活動する。スペイン滞在中、バロが共和党の関係者ということで追求されるようになると、身の安全を確保するために、1937年にペレとパリへ亡命。その後、彼女は決してフランコ政権下のスペインに戻ることはなかった。
1940年にナチス・ドイツがフランスに侵入すると、シュルレアリストへの迫害を逃れて、1941年暮れにパリからメキシコシティへ亡命。一人でパリに戻ったベンジャマン・ペレとは別れることになり、バロはメキシコに残る。その後、ワルター・グルーンという男性とつきあいはじめる。
1963年に心臓発作のため死ぬまで、生涯メキシコシティで過ごした。
●参考文献
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・瀧口修造