【美術解説】プリミティヴィスム「非西洋的または先史時代の人々から影響を受けた芸術」

プリミティヴィスム / Primitivism

原始主義


アンリ・ルソー《虎と水牛の熱帯林での戦闘》1908-1909
アンリ・ルソー《虎と水牛の熱帯林での戦闘》1908-1909

概要


プリミティヴィスムとは直訳すれば原始主義。原始的なものに対する関心、趣味、その研究、影響などを意味する。

 

西洋美術においてプリミティヴィスムとは、通常「原始的」であると見られていた非西洋的または先史時代の人々から影響を受けた芸術を指す。

 

絵画や陶器にタヒチのモチーフを取り入れたゴーギャン、アフリカ民芸から影響を受けたピカソが代表的なプリミティヴィズムの作家である。

 

ヨーロッパ圏外の文化、芸術、いわゆる異文化に対するヨーロッパ人の関心は、15世紀末のコロンブスのアメリカ発見に始まる大航海時代に芽生え、帝国主義時代非西洋圏の美術が奪われたが、未開社会の芸術作品の魅力を西洋に伝えることになった。

 

そして、大都市でこれらの博覧会や見本市が頻繁に行なわれ、ヨーロッパ的な伝統とはまったく無縁の、とりわけ自然の模倣、再現というこだわりのまったくないアフリカやオセアニアの原始美術は、初期のパブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、フォーヴ時代のアンリ・マティス、ドラン、ヴラマンテ、ドイツ表現主義そのほかに多大な影響を与えることになった。

 

また、プリミティヴィスムは、農民芸術、素朴芸術、児童芸術、精神病者の芸術などアウトサイダー・アートも対象とすることがある。子どもの芸術に影響を受けたパウル・クレー、アウトサイダー・アートに影響を受けジャン・デビュッフェもプリミティヴィズムとみなされることもある。

 

なお、「プリミティブ・アート(原始芸術) 」とは、正式な訓練を受けていない人々によるアートによく使われる用語であるが、歴史的には、ネイティブ・アメリカン、サハラ以南のアフリカや太平洋島のアート(トライバル・アートを参照)のように、欧米のアカデミアによって社会的または技術的に "プリミティブ "と判断されてきた特定の文化の作品によく使われる。

思想


プリミティヴィスムは逆進性を特徴とするユートピア思想である。プリミティヴィストが目指す世界は、通常、祖先たちが持ち合わしていた概念的な「自然状態」、あるいは「文明」を超えて生活する民族の自然状態を理想としている。

 

文明人たちが「自然の状態」に戻ろうとする願望は古くからある。古代においては、ヨーロッパにおける原始的な生活の優越性は、人間はかつて現在より優れていた「黄金時代」や「全盛期」として古くから美術で表現されてきた。

 

19世紀から20世紀における自然への回帰は、産業革命の開始と、アメリカ大陸、太平洋への進出、また近代帝国主義による植民地政策が進んだ後、これまで知られていなかった民族との出会いによって始まった。

 

●反植民地主義

啓蒙主義時代には、プリミティヴィスムはおもにヨーロッパ社会の植民地主義側を批判するための修辞的な手段として用いられた。芸術におけるプリミティヴィズムは通常、西洋的な現象とみなされているが、プリミティヴィストの理想主義の構造は、非西洋的な、特に反植民地的な芸術家の作品に見られる。

 

人間が自然と一体となっていた概念的・理想的な過去を取り戻したいという願望は、西洋近代が植民地社会に与えた影響への批判と結びついている。

 

●オリエンタリズム・東方趣味

また、19世紀、東洋美術がヨーロッパに入ってくると、ルネサンスの一点透視図法を採用しない日本や中国の美術に関心を持ち始めた。非越境的遠近法と民族芸術は西洋の芸術家たちを魅了した。

 

●アウトサイダー・アート

彼らはまた、従来の学術的な絵画では無視されてきた内面的な感情を描いた未訓練の画家の芸術や子どもちの芸術に注目をしはじめた。

ポール・ゴーギャンとプリミティヴィスム


画家のポール・ゴーギャンは、ヨーロッパの文明や技術から逃れて、フランスの植民地タヒチに滞在し、ヨーロッパよりも自然に近いと感じていた裸のライフスタイルを採用した。

 

ゴーギャンの原始的なものへの探求は、明らかに性的自由への欲求であり、これは、《死者の霊が見ている》(1892年)、《パラウ・ナ・テ・バルア・イノ》(1892年)、《アンナ・ザ・ジャヴァネリン》(1893年)、《テ・タマリ・ノ・アチュア》(1896年)、《残酷な物語》(1902年)などの絵画に反映されている。

ポール・ゴーギャン《死者の霊が見ている》(1892年)
ポール・ゴーギャン《死者の霊が見ている》(1892年)

ゴーギャンはまた、タヒチ社会を称え、ヨーロッパの植民地主義からタヒチ人を擁護していると考えていたという。しかし、あるフェミニストでポストコロニアル理論家は、ゴーギャンは未成年の愛人をたくさん作っており、そのうちの一人は13歳だったという事実を非難している。

 

プリミティヴィスムの誤解例としてゴーギャンが紹介されることもあり、その場合の批評家たちは、プリミティヴィスムには「人種と性的幻想の編み合わせ、および植民地と家父長制の両方の力」の要素が含まれていると批判することがある。

ピカソへの影響


1905から1906年に、少数の芸術家グループがサハラ以南のアフリカやオセアニアの美術の研究をはじめたが、その理由の一つは、パリでゴーギャンが注目されはじめたことだった。

 

1903年のパリのサロン・ドートンヌで開催されたゴーギャンの回顧展と1906年に開催された回顧展は、芸術家たちに多大な影響力を与えた。

 

特にパブロ・ピカソは、イベリア彫刻、アフリカ彫刻、アフリカの伝統的な仮面、そしてエル・グレコのマニエリスム絵画などから影響を受け、また探求し、彼の代表作である《アヴィニョンの娘たち》を生み出し、最終的にはキュビスムの発明につながった。

 

このように、外来芸術が近現代美術に与えた影響は明らかだが、一般的に使われている「プリミティヴィスム」という言葉は、これらの近現代美術への明確な影響を不明瞭にする傾向がある。

ピカソが《アヴィニョンの娘たち》を描く直前にパリで見たものとよく似たアフリカのマスク。
ピカソが《アヴィニョンの娘たち》を描く直前にパリで見たものとよく似たアフリカのマスク。
パブロ・ピカソ《アヴィニョンの娘たち》1907年
パブロ・ピカソ《アヴィニョンの娘たち》1907年

展覧会と近代美術におけるプリミティヴィスム


1910年11月、ロジャー・フライはロンドンのグラフトン画廊で「マネと後期印象派」展を開催した。「後期印象派」という言葉の起源となった展覧会である。

 

この展覧会では、ポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャン、アンリ・マティス、エドゥアール・マネ、パブロ・ピカソ、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホなどの作品が展示された。

 

この展覧会では、この30年の間にフランスで起こった美術をイギリスに紹介することを目的としていた。しかし、ロンドンの批評家たちは衝撃を受け、中には「マッド」「クレイジー」と酷評した人もたくさんもいた。

 

しかし、フライの展覧会は、現代美術におけるプリミティビズムへの注意を呼び起こすきっかけとなった。学者マリアンナ・トルゴヴニックは、この展覧会は「ハイカルチャーにおけるプリミティヴィスムの英国デビュー」と評価されると述べている。

 

1984年、ニューヨーク近代美術館で、現代美術におけるプリミティヴィズムに焦点を当てた新しい展覧会『20世紀美術における「プリミティヴィズム」:部族と近代の親和性』が開催された。

 

この展覧会では、西洋以外の芸術が現代美術家たちにインスピレーションの源となっていることを示唆するものだった。展覧会のディレクターであるウィリアム・ルービンは、ロジャー・フライの展覧会をさらに一歩進めて、非西洋的なオブジェと現代美術作品を並列させて展示した。

 

ルービンは、「部族芸術の作品(プリミティブ・アート)自体にはあまり興味がなく、現代のアーティストが部族芸術を発見した方法(プリミティヴィズム)に焦点を当てたかった」と述べている。

2017年、ブランリー美術館は、パリ国立ピカソ美術館と共同で「ピカソ・プリミティフ展」を開催。館長のイヴ・ル・ファーは、この展覧会で「ピカソの作品(主要な作品だけでなく、美的概念の実験も含む)と、西洋以外の芸術家の作品との対話を促したいと考えていた」と述べている。


■参考文献

・『すぐわかる20世紀の美術』千足伸行(東京美術)

https://en.wikipedia.org/wiki/Primitivism、2020年5月1日アクセス

https://artscape.jp/artword/index.php/プリミティヴィズム、2020年5月1日アクセス