ダニエル=ヘンリー・カーンヴァイラーの肖像 / Portrait of Daniel-Henry Kahnweiler
キュビスムスタイルの真の立役者

20世紀美術の革新を陰で支えた画商、ダニエル=ヘンリー・カーンヴァイラー。ピカソやブラックといったキュビスムの旗手たちをいち早く見出し、彼らの作品を支援した彼の存在なくして、この芸術運動の成功は語れません。果敢に前衛芸術を擁護し、美術史に名を刻んだカーンヴァイラーの生涯とは。
概要
作者 | |
制作年 | 1910年 |
サイズ | 100.4 cm × 72.4 cm |
メディウム | キャンバスに油彩 |
所蔵 | シカゴ美術館 |
『ダニエル=ヘンリー・カーンヴァイラーの肖像』は、パブロ・ピカソが1910年に描いた絵です。この絵には、ピカソの友人であり、キュビスムという新しい芸術を広めた画商ダニエル=ヘンリー・カーンヴァイラーが描かれています。現在、この作品はアメリカのシカゴ美術館にあります。
ピカソは、この絵を描くためにカーンヴァイラーに何度もモデルになってもらい、少なくとも30回は座ってもらったそうです。普通の肖像画では、人の顔や体をそのまま描きますが、ピカソはそうしませんでした。ピカソはカーンヴァイラーの姿を細かく分けて、さまざまな角度から見た形を組み合わせることで、独特なイメージを作り出しました。
出来上がった絵は、一見するととても抽象的ですが、よく見るとカーンヴァイラーの特徴がわかります。たとえば、波打つ髪の毛、きちんと結ばれたネクタイ、腕時計のチェーンなどが描かれています。
特に、彼の髪の毛や目、眉、あごの形が組み合わさって、見る人が「これはカーンヴァイラーの顔だ」と感じられるようになっています。しかし、このイメージははっきりしている部分とぼんやりしている部分があり、まるで風刺画(特徴を強調して描いた絵)のような雰囲気もあります。
ピカソ美術館によると、この絵の中で、カーンヴァイラーの性格も表現されているそうです。時間を守る几帳面な性格や、辛抱強さが、整ったスーツの上にかかる腕時計のチェーンや、きちんと膝の上に置かれた手によって表されています。
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鑑賞ポイント
① 形の分解と再構成 – キュビスムの特徴を楽しむ
ピカソはカーンヴァイラーの姿を普通の肖像画のように描かず、形を細かく分解し、いろいろな角度から見たパーツを組み合わせています。顔や体を探すようにじっくり観察すると、波打つ髪やネクタイ、腕時計のチェーンなど、カーンヴァイラーの特徴が見えてくるのが面白いポイントです。
② はっきりした部分とぼんやりした部分の対比
この絵では、一部の特徴はくっきりと描かれていますが、ほかの部分はぼんやりしていたり、形が複雑に組み合わさっていたりします。この「ピントが合ったり合わなかったりする」表現によって、見る人はカーンヴァイラーの印象を自分の中で組み立てることになります。
③ 人物の性格が表れる小さなディテール
カーンヴァイラーは、時間を守り、冷静で忍耐強い人物でした。その性格を表すように、ピカソはきちんとしたスーツ、腕時計のチェーン、膝の上で合掌した手を描いています。
キュビスムの真の立役者
ダニエル=ヘンリー・カーンヴァイラーは、ドイツのマンハイムで生まれたユダヤ人です。家族は彼に銀行や株の仕事をしてほしいと考えていましたが、彼は画商になることを決めました。そして、23歳のときにパリで自分の画廊を開きました。
カーンヴァイラーは、美術品の売り方については知識がありませんでしたが、新しい芸術に強い関心を持っていました。当時、フランスではモダンアートがまだあまり受け入れられておらず、特にフォーヴィスムは批判されていました。
1907年、カーンヴァイラーはパリのヴィニョン通りに「ギャルリー・カーンヴァイラー」という画廊を開きます。翌年、パブロ・ピカソと出会い、彼の作品を扱うようになりました。また、画家ジョルジュ・ブラックをピカソに紹介し、キュビスムという新しい芸術運動を広める重要な役割を果たしました。
カーンヴァイラーは、革新的な芸術を支えることに熱心で、多くの前衛的な画家の作品を買いました。さらに、1920年には『キュビスムの台頭』という本を出版し、キュビスムの発展を支えました。
彼が特に興味を持っていたのは、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドラン、ブラックといった挑戦的なスタイルの画家たちでした。ある日、彼はパリのバトー・ラボワールというアトリエを訪ね、ピカソに会いました。
そのときピカソは、『アヴィニョンの娘たち』という絵を描きましたが、友人たちには理解されず、落ち込んでいました。しかし、カーンヴァイラーはその作品を見て驚き、新しい芸術の時代が始まることを感じました。
この出会いは、ピカソとカーンヴァイラーの人生を大きく変えました。カーンヴァイラーは、どの画家を支えるかを選び、契約を結ぶことで、キュビスムの発展に大きな影響を与えました。
1914年までに、ブラックやピカソ、ドラン、ヴラマンク、ファン・グリス、フェルナン・レジェと契約を結び、彼らの作品を独占的に扱いました。こうして、第一次世界大戦が始まるまで、カーンヴァイラーはキュビスムの画家たちの最も重要な支援者となりました。
彼は、キュビスムの作品を広めることで、20世紀で最も影響力のある美術商の一人となりました。1910年代から1920年代にかけて、カーンヴァイラーがキュビスムを支えたことが、この芸術運動の成功に大きく貢献しました。
ピカソも、カーンヴァイラーのことを「もし彼にビジネスの才能がなかったら、私たちはどうなっていただろう?」と語っています。
作家のピエール・アスリーヌはこう書いています。「ピカソがどん底に落ちたとき、カーンヴァイラーは彼を心から信じた数少ない人物の一人だった。その瞬間から、二人の運命は決まったのだ」と。