ピーテル・ブリューゲル / Pieter Bruegel
オランダルネサンス絵画の代表的画家
概要
生年月日 | 1525~1530年頃 |
死没月日 | 1569年9月9日 |
国籍 | イタリア、フィレンツェ |
表現形式 | 絵画、版画 |
代表作 |
・農民の結婚式の風景 ・イカロスの墜落のある風景 |
ムーブメント |
オランダ・フランドルルネサンス絵画 |
関連サイト |
ピーテル・ブリューゲル・エルダー、通称「ブリューゲル」「ブリューゲル(父)」(1525-1530〜1569年9月9日)は、オランダ・フラマン・ルネサンス絵画の最も重要な画家、版画家。
中世ヨーロッパの風景画や農民の情景(風俗画)を大規模なサイズの絵画で描いたことで知られる。ルネサンス期の版画や書籍の挿絵で展開された幻想的で無政府状態の世界も同じようなスケールで描いている。
また、風景画と風俗画の両方のタイプを融合させたことでも評価されている。
ブリューゲルはそれまでの宗教的な主題が絵画の主題として当たり前でなくなった時代に最初に育った世代の一人として、また、革新的な主題の選択で注目を集め、オランダの黄金時代の絵画、そしてその後の美術全般に影響を与えた。
なお、彼はオランダ美術のもう一つの柱であった肖像画は描いていない。初期は修行し、イタリアへの旅の後、1555年にアントワープに戻り、当時の主要な版画出版社ヒエロニムス・クックのもとで、版画デザイナーとして多額の仕事をしていた。
キャリアの多くは版画で、《雪中の狩人》などの彼の有名な大絵画はすべて、彼が亡くなる10年ぐらい前、おそらく彼が40代前半のころの作品で、満身創痍の絶頂にあった時期に描かれたものである。
彼の作品は進歩的なものだけでなく、装飾写本の中の余白に描かれる小さなイメージ「ドロリー」など中世における中心的な主題の再興もしている。
風景を背景にした農作業の暦の場面を、以前よりもはるかに大きなスケールで高額な油絵という媒体を使って描いた。
彼は、息子のピーテル・ブリューゲル(1564-1638)をはじめとする後世の同名の画家と区別するために、「農民ブリューゲル」または「ブリューゲル(父)」と呼ばれることがある。ピーテル・ブリューゲル(子) はが5歳の時に父親が亡くなり、1578年には母親も亡くしている。
1559年以降、名前から「h」を削除し、自身の絵画に「Bruegel」とサインしている。彼と同じ名前の親戚は「Brueghel」または「Breughel」というサインを使い続けた。
重要ポイント
- オランダ・ルネサンスの代表的な画家
- 風景画と民俗画を融合させた
- 今までにない巨大サイズでこれらの絵を描いた
略歴
幼少期
ブリューゲルの伝記は、ロドヴィコ・ギッチャルディーニの『低地記』(1567年)とカレル・ヴァン・マンデルの『1604年シルダー・ボック』が残っている。ギッチャルディーニはブリューゲルがブレダで生まれたと記録しているが、ファン・マンデルはブリューゲルがブレダ近郊の「ブリューゲル」と呼ばれる村(ドープ)で生まれたと書いている。
彼の家族の背景については全く知られていない。ファン・マンデルは、彼が農民出身であることを前提にしているが、多くの初期の美術史家や批評家がブリューゲルの農民風俗画を過度に強調していることと農民出身であることは一致しているといっていいだろう。
しかし、これらの研究とは対照的に、過去60年内の学者たちは、彼の作品の知的な内容を強調し、次のように結論づけている。
「実際、ピーテル・ブリューゲルは町人であり、高学歴であり、同時代の人文主義者と友好的な関係にあったと考えるに足るあらゆる理由がある」と結論づけており、ファン・マンデルのドープ出身論を無視して、幼少期をブレダで過ごしたと主張している。
ブレダはオレンジ・ナッソー家の拠点としてすでに重要な中心地となっており、人口は約8,000人であったが、1534年の火災で1300軒の家屋の90%が焼失した。
しかし、この逆転の発想は過剰ともいえる。ブリューゲルは高度な教育を受けたヒューマニストの世界にいたが、ラテン語をマスターしていなかったようで、彼のドローイングのいくつかにラテン語のキャプションは他の人に書かせている。
ブリューゲルは1551年にアントワープの画家組合に入ったことから、1525年から1530年の間に生まれたと推測されている。ファン・マンデルによると、彼の師匠はアントワープの画家、ピーテル・クック・ファン・アールストであり、彼の娘マリア・クック・ブリューゲルは1563年に結婚している。
1545年から1550年の間には、1550年12月6日に死去したピーター・クックの弟子として活動していた。しかしながら、それ以前にもブリューゲルはすでにメヘレンでも活動しており、1550年9月から1551年10月の間には、ピーテル・バルテンスの祭壇画(現在は失われている)の制作を手伝ったことが記録されている。
ブリューゲルは、おそらくこの作品の仕事を、ピーテル・クックの妻であるメイケン・ヴェルフルストを介して行ったのだろう。メイケンの父と8人の兄弟は、全員が芸術家であるか、芸術家と結婚しており、メヘレンに住んでいた。
旅行
1551年、ブリューゲルはアントワープの聖ルカ・ギルドのフリーマスターになった。彼は、おそらくフランスを経由して、すぐにイタリアに向かった。
ローマを訪問したあと、冒険的に1552年までに本土の南端にあるレッジョ・ディ・カラブリアに足を伸ばしている。そこで、トルコの襲撃後に後輩した都市をドローイングで記録している。
その後、彼はおそらくシチリア島へわたっているが、1553年までにローマに戻っている。そこで彼は細密画家ジュリオ・クロビオに出会った。1578年のクロビオの収蔵品目録にはブリューゲルの絵画が記載されている。
その中には共同制作の作品もあった。これらの作品は明らかに風景画であるが現存していない。しかし、クロヴィオの手稿に描かれているささいな細密画はブリューゲルが描いたものとみなされている。
1554年にはイタリアを離れ、1555年にはアントワープに到着し、北欧で最も重要な版画出版社であったヒエロニムス・クックから、『大風景画』というタイトルのブリューゲルがデザインした版画集が出版された。
ブリューゲルの帰路の詳細は不明だが、1980年代には、この旅で描かれたと思われる山の風景を描いた一連の有名な大作が、ブリューゲルによるものではないことが明らかになり、それをめぐる議論の多くは無関係のものとなった。
しかし、この旅で描かれた絵はすべて風景画であり、他の16世紀にローマを訪れた多くの芸術家とは異なり、ブリューゲルは古典的な遺跡と現代的な建築の両方はまったく関心がなかったようだ。
アントワープとブリュッセル
1555年から1563年まで、ブリューゲルは北欧の出版の中心地であったアントワープに住み、おもにクックの依頼で40点以上の版画のデザイナーとして働いてた。彼が本格的に絵画を描き出したのは1557年からである。
1つの例外を除いて、ブリューゲルは自ら版を制作したのではなく、クックの専門家が描いた図面をもとに制作していた。
ブリューゲルはこの街の活発なヒューマニストサークルの中で活動していたが、1559年に名前を変え(少なくとも綴りは)ラテン語化しようとしたように見える。同時期、彼は署名した文字をゴシック体のブラックレターの"brueghel"からローマ字の"BRVEGEL"に変更している。Hを落としたのは、人文学者の慣習に従いラテン語的な書き方を採用したものと考えられる。
1563年にブリュッセルでマリア・クックと結婚し、残りの短い生涯をブリュッセルで過ごした。アントワープはオランダの商業と美術品市場の中心地であったが、ブリュッセルは政府の中心地であった。ファン・マンデルによれば、彼の姑が、評判の高い召使の女主人から距離を置くために彼の引っ越しをすすめたともいう。
この頃には、彼は版画デザイナーから絵画をに軸を移しており、歴史的に最も有名な作品もこの時期に制作されたものである。彼の絵画は、フランドル地方の裕福なコレクターや、メヘレンを拠点にしていたハプスブルク家の重臣グランヴェッレ枢機卿などのパトロンにも愛されていた。
ブリューゲルは、1569年9月9日にブリュッセルで死去し、カペレケルクに埋葬された。
ファン・マンデルによれば、ブリューゲルは生前に妻に絵を燃やすように言ったという。おそらく、政治的にも宗教的にも挑発的な要素が作品に含まれていたためだという。「後悔の念からか、妻が迫害されたり何らかの形で責任を問われたりすることを恐れたためか」と記している。
ブリューゲルには二人の息子がいた。ピーター・ブリューゲルとヤン・ブリューゲルである。どちらもブリューゲルと名乗っていた。彼らの祖母であるマイケン・フェルフルストが、二人の息子たちを養育していたのは、二人とも幼い頃に父が亡くなったからである。
兄のピーター・ブルーゲルは、父の作風と構図を見事に模倣し、商業的にも大きな成功を収めた。そのため、ブリューゲル父とよく作品が間違われがちである。
弟のヤンはもっと独創的で、非常に多才だった。彼はフランドルのバロック絵画やオランダの黄金時代の絵画の多くのジャンルにおいて、バロック様式への移行における重要な人物だった。
ペーター・ポール・ルーベンスとの共同制作も多く、「視覚の寓意」をはじめとする多くの作品で、他の一流画家との共同制作を行った。
ほかにも、ピーテル・コーケ・ファン・アエルストとメイケン・フェルフルスト(ブリューゲルの義父・義母)、ヤン・ファン・ケッセル(ヤン・ブリューゲルの孫)などブリューゲル一族にはたくさんの著名画家がいる。
ブリューゲルの絵が描かれた歴史的背景
ブリューゲルは、西ヨーロッパの広範な変化の時期に生まれた。前世紀のヒューマニストの理想は、芸術家や学者に影響を与えた。
イタリアは、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術家たちが名画を描いた芸術文化、盛期ルネサンスの終焉期にあった。
ブリューゲルが生まれる約8年前の1517年、マルティン・ルターが「九十五箇条の議題」を作成し、隣国ドイツでプロテスタントの宗教改革が始まった。宗教改革は偶像破壊思想ととともにネーデルラントを含む広範囲に及ぶ美術品の破壊を伴うことになった。
カトリック教会は、プロテスタントとその偶像破壊を教会の脅威と見なしていた。その反動で1563年のトレント公会議では、宗教美術は宗教的な主題をより重視し、物質的なものや装飾的な質をより重視すべきであるとされるようになった。
この時点で、ネーデルラントは、スペインを基盤としたハプスブルク家の支配からの分離を望んでいたいくつかの17州に分割された。一方、宗教改革は、東はルター派のドイツ、西は聖公会派のイングランドの影響を受けて、17州に多くでプロテスタントの教派を生み出した。
こうした状況下、スペインのハプスブルク家の君主たちは、領内のカトリック教会のために厳格な宗教的統一政策を試み、異端審問でそれをカトリックを強制した。宗教的な対立や暴動、政治的な策略、処刑の増加は、最終的には八十年戦争の勃発につながった。
このような雰囲気の中で、ブリューゲルは画家としてのキャリアの頂点に達した。彼の死の2年前、スペインとの間で80年戦争が始まった。
ブリューゲルは実際にその状況を見るまで生きなかったが、7つの州が独立してオランダ共和国を形成し、他の10の州は終戦後もハプスブルク家の支配下にあった。
風俗画
農民画
ブリューゲルは、宗教的な作品も描いているが、農民の風俗画というジャンルを得意としており、多くの場合、風景画の要素も伴っている。農民の生活と風俗を作品の中心に据えたのはブリューゲルの時代の絵画では珍しく、風俗画の先駆者であった。
彼の農民画の多くは、大きさと構図の2つのグループに分類され、その両方が独創的で、後の絵画に影響を与えた。
彼の初期作品では、高い視点から見た数十人の小さな人物が、中央の絵画空間に均等に広がっている。
設定は代表的なのは建物に囲まれた都市空間であり、その中で人物は「基本的に切り離された描写方法」で描かれ、個人や小集団他のすべての人を無視して、それぞれが何らかの活動に従事している。
農業、狩猟、食事、祭り、踊り、ゲームなどの村の生活儀礼の風景を、地味で感傷的でありながらも生き生きと描いたブリューゲルの作品は、今日でもベルギーの生活や文化の特徴であるにもかかわらず、消えてしまった民俗文化のユニークな窓となっており、16世紀の生活の身体的、社会的側面に関するイメージ的な証拠を示す貴重な資料となっている。
例えば、彼の有名な絵画であるオランダのことわざ「The Blue Cloak」には、当時と現代の格言が数多く描かれているが、その多くは現在のフラマン語、フランス語、英語、オランダ語でも使用されている。
フランドル地方の環境では、ことわざがよく知られていて、それが認識されているだけでなく、楽しませてくれるものだったため、ことわざに満ちた絵を描くと多くの芸術的な観客を集めた。
《子供たちの遊び》では、若者たちが楽しんでいた娯楽の多様性が示されています。《雪の中の狩人》のような1565年の冬の風景画は、小氷期の冬の厳しさを証明するものとして捉えられている。
ブリューゲルは、《農民の結婚式》や《カーニバルと四旬節の間の戦い》のように、地域社会の出来事を描くことが多い。《農民の結婚式》のような絵画では、ブリューゲルは個人を特定できる人物を描いたが、《カーニバルと四旬節の間の戦い》の人物は、特定できないマフィンのような顔をした強欲や大食の寓意を描いている。
宗教画
ブリューゲルはまた、「パウロの改宗」や「洗礼者ヨハネの説教」のように、フランドル地方の広い風景の中で宗教的な場面を描いている。
ブリューゲルの主題が型にはまらないものであったとしても、彼の絵画の原動力となった宗教的な理想や格言は、北方ルネッサンスの典型的なものだった。
聖書からの引用を描いた《盲人が盲人を導く》など、障害を持つ人々を正確に描いていた。"盲人が盲人を導くならば、両方とも溝に落ちる」(マタイによる福音書15章14節)という聖書の言葉を引用している。
聖書からこの絵を解釈すると、6人の盲人は、キリストの教えに焦点を当てるのではなく、地上の目標を追い求める人間の盲目さを象徴している。
社会風刺
ブリューゲルは、豊かな精神とコミカルな力を駆使して、美術史の中でも最も早い時期に、鋭い社会的抗議を含む風刺画も生み出している。
たとえば、『カーニバルと四旬節の間の戦い』はプロテスタント宗教改革の対立を風刺している。ほかに『学校の中のお尻』や『ブタ箱と闘うストロングボックス』のような版画も風刺画である。
1560年代になると、ブリューゲルは、遠景のない風景を背景に、数人の大きな人物だけを描くスタイルに移行していく。これまで風景画を中心としたブリューゲルの絵画は、人物の数と大きさの両面で人物画と風景画の中道の道を歩みはじめた。
風景画
大風景画
ブリューゲルは、山や低地、水、建物などを含む高台の視点から見た架空のパノラマ風景の中に小さな人々を描いた。
イタリアからアントワープに戻ったあと、1550年代に出版社ヒエロニムス・クックの依頼を受け、風景画の需要が高まっていたため、『大風景画』と呼ばれる版画作品を制作した。
《エジプトへの飛行中の風景》などの彼の初期の作品の中には、完全にヨアヒム・パティニールの伝統的な型のうちおさまるが、1560年代に描かかれた《イカロスの墜落のある風景》は、パティニール風の風景画の中に大きな人物像が物語の主題をサポートするための傍観者として描かれた。
遠景の小さな人物によって主題を表現するという世界風景画は、ヨアヒム・パティニールを嚆矢とする初期フランドル派で既に確立された手法ではあったが、関係のない風俗画的な人物を、前景に大きく描くというのは、ブリューゲルの独創的なものであった。
1560年代の初期では、農民の風俗的な人物や宗教的な物語の中の人物などは、非常に小さな人物として描かれてきたが、それが少数の大きな人物へと変化していった。
連作月暦画
四季折々の風物詩を描いた有名な風景画の連作月暦画は、彼の風景画の集大成ともいえるものである。彼の代表作としてよく紹介される《雪中の狩人》は連作月暦画の中の1枚である。
現存する「暗い日」(早春)、「干し草の収穫」(夏)、「穀物の収穫」(秋)、「牛群の帰り」(晩秋)、「雪中の狩人」(冬)の5点の作品は、世界の風景の基本的な要素を用いながら(1点だけが岩山を欠いている)、それを独自のスタイルに変えたものである。春を描いたと思われる6枚目は失われている。
前景に数人の人物を配置した風俗画と木々なの風景が見られる全景の作品はこれまでの作品よりも巨大なものとなっている。ブリューゲルは版画を通してドナウ派の風景画のスタイルも意識していたという。
連作月暦画は1565年、アントワープの裕福なパトロンであったニクラエス・ジョンヘリンクが、ブリューゲルに一年の各月の絵を描くように依頼したものである。
美術史家の間では、このシリーズにはもともと6つの作品が含まれていたのか12の作品が含まれていたのかについては意見が分かれている。 現在では、これらの絵画のうち5つだけが残っており、複数の月がペアになって一般的な季節を形成している。
伝統的なフランドル地方における豪華な時祷書には、その月の農作業や天候、その月の典型的な社会生活の風景が描かれた「月の労働」がカレンダーのページに掲載されていた。
ブリューゲルの絵画は、典型的な時祷書のページのイラストレーションよりもはるかに大きなスケールで、5フィートでそれぞれ約3フィートもあった。ブリューゲルにとって、これは大きな依頼(依頼の大きさは絵の大きさに基づく)であり、重要なものであった。
1565年にはカルヴァン派の暴動が起こり、八十年戦争が勃発するのはわずか2年後のことだった。ブリューゲルは、カルヴァン派やカトリック派を怒らせないために、風景画のような世俗的な主題を描く方が安全だと感じていたのかもしれない。
このシリーズの中で最も有名な絵画は、《雪の中の狩人》(12月~1月)や《ハーヴェスター》(8月)である。
ブリューゲルの版画作品
イタリアからアントワープに戻ったブリューゲルは、この町、そして北欧を代表する版画出版社ヒエロニムス・コックので、版画を制作して生計を立てていた。
彼の『四つの風の家』では、コックは最高の芸術的成果よりも販売を重視して、様々な種類の版画を効率的に生産・流通させていた。
ブリューゲルの版画のほとんどはコックと仕事をしていた時期のものでだが、彼は生涯の最後まで版画のためのドローイングも描き続け、「四季」シリーズのでは完成したのは2点だけだた。
この版画は人気があり、出版されたものはすべて残っている。多くの場合、我々もまた、ブリューゲルの版画を所有している。
ブリューゲルが美術的成功した理由の1つに、友人だったヒエロニムス・ボスの非常に個性的な表現を多く採用したいくつかのデザインの中に、ボスの『七つの大罪と最後の四つ』シリーズを由来するものがあった。
罪人はグロテスクで正体不明なのに対し、美徳のイメージは変なかぶり物をしていることが多い。
ブリューゲルが制作したボスの模倣作品の成功は『大きな魚が小さな魚を食べる』を見れば明らかである。ブリューゲルのサインが入っているが、出版社のコックは印刷版ではあつかましくボス作としていた。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Pieter_Bruegel_the_Elder、2020年7月6日アクセス