パウル・クレー / Paul Klee
色彩と線の魔術師
概要
生年月日 | 1879年12月18日 |
死没月日 | 1940年7月29日 |
国籍 | スイス、ドイツ |
表現媒体 | 絵画、ドローイング、水彩、版画 |
スタイル | ドイツ表現主義、バウハウス、シュルレアリスム |
関連人物 | ワシリー・カンディンスキー、パブロ・ピカソ、オウガスト・マッケ |
関連サイト | ・WikiArt(作品) |
パウル・クレー(1879年12月18日-1940年6月29日)はスイス出身、ドイツ人の芸術家。表現主義、キュビスム、シュルレアリスムなど当時の前衛芸術運動のさまざまなスタイルから影響を受けた個性的なスタイルが特徴。
子どものような無垢な視点、ドライなユーモラスさ、バイオリニストの経験から由来する音楽性が絵画作品に反映されている。
1911年にミュンヘンの前衛グループ「青騎士」が旗上げされるとその活動に加わり、前衛芸術運動に巻き込まれていく。
1914 年のチュニジア旅行を転機として、色彩と線を純粋に運動と浸透の感覚をもって組織する術を体得。クレー独特な豊かな色彩の作品を築き上げた。クレーの美術理論はバウハウスで講義されたが、その講義内容やエッセイをまとめた本『パウル・クレー・ノートブック』『造形とデザイン理論』は近代美術における重要な美術理論書の1つである。
チェックポイント
- 音楽的な要素が絵画に反映されている
- 色彩と線を重視した純粋抽象絵画
- バウハウスで教鞭をとり、美術理論書を刊行
略歴
幼少期
パウル・クレーは、1879年12月18日、スイスの首都ベルン郊外にあるミュンヘンブーフゼーという小さな町で、父ドイツ人音楽教師ハンス・ウィルヘルム・クレー(1849-1940)と母スイス人歌手イーダ・マリー・クレー・ニー・フリック(1855-1921)のあいだに、二人目の子どもとして生まれた。
父はヘッセン州のタン出身でシュトゥットガルト音楽演劇大学で、歌、ピアノ、オルガン、バイオリンを教えており、そこでのちに妻となるイーダ・フリックと出会った。姉のマチルダは、1876年1月28日にヴァルツェンハウゼンで生まれている。
クレーは幼少の頃、両親から熱心に音楽教育を受けていたこともあり、その音楽的感性は生涯において創作の源となった。1880年、クレーが1歳のときに家族はベルン市内に移る。高校を卒業するまでクレー一家はベルンで過ごした。
1886年に小学校に入学。また地方音楽学校に通ってヴァイオリンを学ぶ。クレーは11歳で相当なヴァイオリンの腕前になり、ベルン音楽連盟の特例会員として招待され、演奏にも参加している。
両親は音楽家になることをのぞんでいたが、反抗期であったことや、またクレーにとって現代音楽が価値のあるものとは思えなかったため視覚美術の方向へ進む決心をする。音楽家としてのクレーは18世紀と19世紀の伝統的な作品に感情的に束縛されていたこともあり、もっと自由に急進的な思考やスタイルを突き詰められる方向を探していたのが視覚芸術に進んだ理由でもあるという。
1897年ごろにクレーは日記を書き始める。これは1918年まで続き、彼の人生と思考について知るための重要な資料となった。学校にいる間、彼はノートに特に戯画を熱心に描いており、線や厚みを描く能力を身に着けている。
高等学校を卒業すると、両親はしぶしぶながら絵の道に進むことを許し、1898年にクレーはミュンヘンの美術アカデミーに入学する。そこで象徴主義の画家フランツ・フォン・シュトゥックやハインリッヒ・ナイヤーのもとで学んだ。クレーはドローイング能力は優れていたが、色彩関係の成績はあまりよくなく、また学校の画一的な教育はクレーにあわず、1年後の1901年には退学。
このころのクレーはパブに滞在し、ロークラスの女性やアートモデルたちと過ごしていたという。なお、1900年に生まれて数週間後に亡くなった非嫡出子の子どもがいる。
大学を卒業すると、クレーは1901年10月から1902年5月まで、友人のハーマン・ハーラーとともにイタリアへ移り、ローマ、フィレンツェ、ナポリに滞在し、古典巨匠の絵画の研究を行う。ルネサンスやバロックの絵画や建築を見て回り、特に建築の純粋さから多くを学んだ。クレーにとって色彩は芸術において楽観主義や気高さを表すもので、白黒のグロテスクで風刺的で悲観的な表現から救済への希望に移り変わるものだった。
ベルンに戻るとクレーは両親と住み、ときどき芸術教室を開講して数年間を過ごした。1905年までにクレーは、黒いガラス板に針で絵を描くなどの実験的手法を開発する。この手法で《父の肖像》(1906年)をはじめ57の作品を制作した。1903年から1905年まで彼は《発明》という11枚の亜鉛板エッチング作品を制作。最初の古典ではさまざまなグロテスクなキャラクターが描かれていた。
結婚
クレーは1906年にピアニストのリリー・スタンフと結婚、二人の間にフェリックス・ポールという名前の一男をもうけた。その後、家族はミュンヘン郊外に移り、そこでリリーはピアノ教室を開き、ときどきパフォーマンスを演じていた。クレーは育児をしながら自宅で絵画を制作していた。雑誌のイラストレーターになろうともしたが、うまくいかなかった。
育児に追われていた当時のクレーは、その後5年間かけてゆっくりと発展していった。フェリックスを育てる上でのクレーの手による詳細な育児日記が残されている。フェリックスはのちに「パウル・クレー財団」を設立し、スイスでのクレー作品の保存に尽力した。
1910年にベルンで初個展を開催、その後スイスの3つの都市を旅行した。
青騎士
1911年1月、ミュンヘンでアルフレッド・クービンと出会い、ヴォルテールの「カンディード」のイラストの依頼を受ける。このころにクレーのグラフィック作品の仕事は増えはじめたという。クレーの初期作品に見られる不条理性や皮肉的な作品はクービンによく受け、クービンはクレーの最初の重要なコレクターの一人となった。
また同年夏にクレーはミュンヘン芸術家組合Semaの創設メンバーとなり、マネージャーとなる。秋にアウグスト・マッケやワシリー・カンディンスキーらと出会い、冬にフランツ・マルクとカンディンスキーが創設した前衛芸術運動「青騎士」に参加。クレーは加入後、数ヶ月で「青騎士」の最も重要で独立したメンバーとみなされるようになったものの、完全に青騎士に参加しているわけではなかった。
最初の青騎士の展覧会は1911年12月18日から1912年1月1日まで、ミュンヘンのハインリヒ・タノーサー近代画廊で開催された。クレーはこの展覧会に参加していなかったが、1912年2月12日から3月18日まで、ゴルツ画廊で開催された2回目の青騎士の展覧会に参加。17点の作品を展示した。
チェニジアの旅と画家としてのブレークスルー
クレーの作品に劇的な変化が起こったのは1914年。オウガスト・マルケやルイ・モワイエらとチェニジアを訪問して、チェニジアの自然光に感動したのが画業の転機となった。
「色彩は私を所有している。もはや私はそれを追いかける必要はない、私にとっては永遠に所有していることをわかっている。色彩と私はすでにひとつだ。私は画家だ。」
と、当時の事を記述している。自然の色に対する誠実な向き合いがクレーにとって重要となった。
クレーの画集等で紹介されている色彩豊かな作品は、ほとんどがこの旅行以後のものである。またこのころからクレーは抽象絵画にも踏み込み、クールなロマン主義的な抽象画という独特な表現を展開していった。この時代の代表作は、1919年の《The Bavarian Don Giovanni》である。
チェニジアから戻った後、クレーは色付きの長方形と数個の円で構成された最初の純粋抽象絵画《In the Style of Kairouan》(1914年)を制作。これ以降、色の付いた四角形はクレー絵画の基本的な構成要素となった。ほかの色のブロックと組み合わせて色のを調和を作り出しているところが作曲に似ており、クレーの抽象絵画を音符と関連付ける美術批評家もあらわれはじめた。
この作品が描かれた時期以来、クレーは豊かな色彩をパレットに抽出し「色彩の画家」への道を歩みはじめている。
第一次世界大戦
第一次世界大戦が勃発するとクレーは「私は長い間、私自身にこの戦争が内在していた。戦争に対する憂慮ではなく、内面的なものだ」とコメントしている。
クレーは1916年3月5日にプロイセンの兵士として徴兵される。多くの芸術家も兵士として動員され、クレーの知人であるマルクやマッケらは戦死した。
クレーは悲しみや苦しみを解消するために1915年に「Death for the Idea」をはじめ多くの戦争をテーマにした作品を制作している。
軍事訓練コースを終了した後、クレーは前線に送り込まれた。1916年8月20日にはオーバーシュライスハイムにある航空機整備工場へ移り、熟練したその絵画技術で航空機の機体の迷彩塗装を復元を行ったり、輸送作業を行ったりした。
1917年1月17日にゲルストホーフェンにある王立バイエルン航空学校に移り、終戦まで財務官の書記長として従事することになった。この時期には、クレーは兵舎の外の小さな部屋で絵を描くことが許された。
クレーが新進の画家として次第に認められるようになるのもこのころからである。クレーは戦争中に絵画を制作し、何度か展示も行っている。1917年までにクレーの作品は良く売れるようになり、美術批評家たちはクレーをドイツの新しいアーティストとして評価した。
1917年制作の「Ab ovo」が戦争時代のクレーの代表的な作品である。ガーゼや紙に水彩で、三角形、円、三日月など豊かなテクスチャの作品を制作した。
バウハウス
1919年にクレーは、シュトゥットガルトにある美術アカデミーで教職のポストを得る。しかし、教職の仕事はうまくいかなかった。
その後、有力ディーラーのハンス・ゴルツの3年契約を交わし大成功を収める。彼の尽力でクレーは大きく世の中に宣伝されるようになり、商業的には大成功する。1920年には300以上の作品を展示するクレーの回顧展が行われて注目を浴びた。
1921年1月から1931年4月までヴァルター・グロピウスの招聘を受け、クレーはバウハウスで教鞭をとることになる。バウハウスでクレーは、製本技術、ステンドグラス作成、壁画のワークショップなどを行い、また2つのスタジオが与えられた。
1922年にカンディンスキーがバウハウスのスタッフとして参加するようになると、クレーとの友好関係が再開された。同年の暮れに最初のバウハウスの展覧会とフェスティバルが開催され、クレーはさまざまな広告資料を作成した。
クレーはバウハウス内で多くの矛盾する理論や意見が発生することを歓迎した。「結果として成果になるのであれば、これら矛盾する勢力が互いに競合するのはよい」と話している。
1925年にはアメリカで青騎士のメンバーとともに講義や展示を開催。同年、パリで初個展を開催する。そのときフランスのシュルレアリストから歓迎され、第1回シュルレアリスム展にも参加した。
1928年にエジプトを探訪するがチェニジアほど感動はしなかった。1929年にクレー作品に関する最初の有名な論文「パウル・クレー」がヴィル グローマンによって出版された。
ナチスの追求とスイスへ移住
クレーは1931年から1933年までデュッセルドルフ大学に勤める。しかし1933年にヒトラーが政権を掌握してから3ヵ月後に解雇通知が届く。ナチスは前衛芸術家の迫害を始めクレーにもナチスの手は及ぶ。
クレーはユダヤ人ではないが「ガリシアのユダヤ人」とか「文化ボルシェヴィキ」と呼ばれ別荘まで没収される。彼のセルフポートレイト作品「Struck from the List」(1933年)がその悲しい出来事を表している。
1933年から1934年にかけてクレーはロンドンやパリで展示を行い、パブロ・ピカソと出会う。クレーの家族は1933年後半にスイスに避難した。
クレーの創作のピーク時期であり、またマスターピース作品は1932年制作の「パルナッソス山へ」とされている。この作品は彼の点描スタイルの代表作でもあり、100x126cmの巨大な作品でもある。なお翌年の1933年、ドイツ滞在の最後の年には約500点の作品を制作をした。
難病
1933年にクレーは原因不明の難病である皮膚硬化症が発症する。致命的な病気の進行は摂食障害を引き起こし、創作にも大きな影響を及ぼす。1936年はたった25作品しか制作されなかった。
1930年代後半に健康はいくぶん回復したころ、クレーは見舞いに訪れたカンディンスキーやピカソに大いに励まされた。もともとクレーの作品はシンプルだったため、晩年になってもなんとか制作を続行することは可能で、1939年には創作の爆発に達し、デッサンなども含めた1年間の制作総数は1253点に及んだ。
このころの作品は、手がうまく動かなくなったこともあり太い線を使い、幾何学的形状は少なくなったが、色味のある大きなブロックを使っていた。
晩年
晩年になるにつれてクレーは持病の皮症の悪化に苦しむ。その苦しみは最後の作品に反映されているように見える。その1つが1940年に制作した《死と炎》である。ドイツの言葉で死を表す"Tod"という文字が中央のドクロとダブル・イメージ的に描かれている。
1940年6月29日、スイス生まれにも関わらず、市民権を獲得できないままスイス南部のムラルトでクレーは死去。クレーの芸術作品はスイス政府にとってあまりに革命的であり、退廃的であるとみなされたものの、彼の死の6日後にクレーの要求を受け入れる。クレーは約9000点の作品遺産を残した。
墓石には「私は今ここで掴むことができない、私の住処は死のうちにだけあり、未だ胎内にあり、普通よりも創造の鼓動がよく聞こえるが、十分に近いわけではない」と彫られている
■参考文献