· 

【美術解説】ポール・ゴーギャン「プリミティヴィズムに影響を受けた後期印象派の画家」

ポール・ゴーギャン / Paul Gauguin

プリミティヴィズムに影響を受けた後期印象派の画家


ポール・ゴーギャン「タヒチの女」(1891年)
ポール・ゴーギャン「タヒチの女」(1891年)

概要


生年月日 1848年6月7日
死没月日 1903年5月8日
国籍 フランス
表現形式 絵画、彫刻、版画、陶芸、著述
ムーブメント 後期印象派象徴主義
関連人物 フィンセント・ファン・ゴッホ
関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(1848年6月7日-1903年5月8日)はフランスの画家。

 

それまでの印象派とははっきりと異なる実験的な色使いで制作していた後期印象派の代表的な作家で、彼はピカソやマティスといったのちの前衛美術家や近代美術に大きな影響を与えた。

 

後期印象派のなかでももっとも鮮明に印象派に対して批判的であり、外界を感覚的にとらえる印象派の自然主義を否定し、眼に見えない内面や神秘の世界、理念や思想の表現を志向するようになる。

 

ゴーギャンは象徴主義運動の重要な画家、彫刻家、版画家、陶芸家、著述家でもある。彼の輪郭線と明確な形態を強調して、平坦な色面を装飾的に構成する美術様式は綜合主義というジャンルを開拓した。

 

ほかに、クロワゾニスム手法の開発やプリミティヴィスム、パストラルへ回帰への影響のもと、絵画における本来の表現を探求した。

 

ゴーギャンの作品は、死後、画商のアンブロワーズ・ヴォラールの評価で価値が上昇した。ヴォラールはゴーギャンの作品をまとめ、パリで重要な展覧会を企画したことで知られる。作品の多くはロシアの著名コレクターであるセルゲイ・シューシキンやほかの重要なコレクターが所有していた。

重要ポイント

  • ゴッホとともに後期印象派の代表的画家
  • タヒチへ渡りプリミティヴな美に影響を受ける
  • 内面表現を重視し平坦な色面で表現する総合主義

作品解説


略歴


幼少期


ポール・ゴーギャンは1848年6月7日、フランスのパリで父クロヴィス・ゴーギャンと母アリナ・マリア・チャザールのあいだに生まれた。誕生日の年は、ウィーン体制が崩壊してヨーロッパ中で革命的な動乱が吹き荒れている時代だった。当時34歳の父はリベラル系のジャーナリストで、オルレアンに住むプチブルジョア起業家出身だった。

 

22歳のゴーギャンの母は、彫刻家のアンドレ・チャザルと初期社会主義運動の作家で活動家だったフローラ・トリスタンの娘だった。

 

父クロヴィスの関与していた新聞が、フランス当局によって弾圧されたとき、彼はフランスから逃げなければならなくなり、1850年にクロヴィス・ゴーギャンは妻と子どもたちとともにペルーへ移る。母アリナの南米の知り合いたちの支援を得て、ジャーナリズムの活動を続けて生活の糧を得るためだった。しかし、クロヴィスは心臓発作で急死し、アリナはペルーで18ヶ月のポールと2歳半の姉ととも未亡人として暮らさなければならなくなった。

 

その後、ゴーギャンの母は父方の叔父に養われることになる。叔父の娘の夫はペルーの大統領だったこともあり、6歳になるまでゴーギャンは子守や使用人などが滞在する特権階級の家庭で過ごすことになった。ゴーギャンはこのころの幼年時代を鮮明に覚えているという。

 

1854年にペルーで市民戦争が起き、ゴーギャンの親類たちが政界から遠のくようになると、この熱帯の楽園での牧歌的な子ども時代の生活は急速に終焉に向かうことになった。母アリナは子どもたちとともにフランスに戻り、ゴーギャンはオルレアンにいる父方の祖父ギヨーム・ゴーギャンに預けられる。アリナはパリで装飾関係の仕事に着いて生活することになった。

 

いくつかの地元の学校に通ったのち、ゴーギャンは有名なカトリックの寄宿学校プチ・セミナール・デ・ラ・シャペル・サン・メスミンに入学し、そこで3年間過ごした。

 

14歳のときに海軍の予備校でもあったパリのロリール研究所の入学試験に失敗すると、オルレアンに戻って、ジャンヌ・ダルク高校で過ごし修了する。卒業後ゴーギャンは、商船の操舵士の助手職につく。3年後にフランス海軍に入隊してそこで2年間を過ごした。1867年7月7月に母親が死去したが、ポールは姉のマリーからの知らせをインドで受け取るまで、数ヶ月間知らなかったという。

画家の修行


1871年にゴーギャンはパリに戻り、株式売買人となる。ギュスターヴ・アローザと親密になり、彼の口利きによりパリ証券取引所に就職する。ゴーギャンは当時23歳だった。

 

ゴーギャンは、その後11年間パリジアンのビジネスマンとして活躍する。当時ゴーギャンは、近くに印象派たちが集まるカフェのあるパリ9区に住んでおり、よく近くのギャラリーを訪ねては、今パリで人気のある画家たちの作品を購入していたという。

 

そうした中でゴーギャンはカミーユ・ピサロと親交を築くようになり、日曜日にピサロのもとを訪れて、ピサロの指導のもと自身でも絵を描きはじめる。ピサロはゴーギャンにさまざまな画家を紹介した。

 

1877年にゴーギャンは、川を渡って都心を離れた貧しい一般市民が生活するパリ15区ヴォージラールに引っ越しする。ここでアトリエを持つようになった。元株式仲買人で画家を目指していた親友エミール・シュフネッケルも、近くに住んでいた。

 

1881年や1882年に開催された印象派展でゴーギャンは作品を出品。この展覧会で「ヴォジラール市場」などの作品が展示されたが、当時、ゴーギャンの作品は酷評された。

ポール・ゴーギャン「ヴォジラール市場」(1879年)
ポール・ゴーギャン「ヴォジラール市場」(1879年)

1873年、ゴーギャンはデンマーク人女性メテ・ソフィー・ガードと結婚。その後10年で、彼女との間に五人の子どもをもうけた。

 

1879年にはゴーギャンは株取引で年間3万フランを稼いだ。しかし、1882年に株式市場が崩壊すると、その影響は美術市場にも及んだ。ピサロ、モネ、ルノワールなど印象派の作品を扱っていた画商のポール・デュラン=リュエルは特に市場崩壊の影響を受け、ゴーギャンをはじめ多くの画家から絵を購入するのをやめてしまった。ゴーギャンの収入は急減し、次の2年間でゆっくりとフルタイムの画家になる計画を立てはじめ、ピサロやポール・スザンヌらと絵を描きはじめた。

 

1884年までにゴーギャンは家族とデンマークのコペンハーゲンに移り、防水シートのセールスマンの仕事を始めたが、仕事はうまくいかなかった。デンマーク語が話せなかったのとデンマーク人はフランス製の防水シートが欲しくなかったのが原因だった。

 

一方のメテは外交官研修生にフランス語の授業をして、稼ぎ手となった。ゴーギャンがフルタイムで絵を描きはじめてから11年後に2人は離婚することになった。

パリへ戻る


1885年6月にゴーギャンは6歳の息子クロヴィスとともにパリへ戻る。ほかの子どもたちはコペンハーゲンにいるメテのもとに残り家族や友人から支援を受け、一方、メテ自身は翻訳者やフランス語教師の職で生活を支えていた。

 

パリに戻ったあとのゴーギャンは、当初、芸術業界で再び活躍するのは難しく感じ、特に最初の冬は極貧のうちに過ごし、さまざまな低劣な労働を余儀なくされた。息子のクロヴィスは極貧生活のなかで病気になり、ゴーギャンの妹のマリーの支援で寄宿学校に入ることになった。

 

パリに戻って最初の年のあいだは、ゴーギャンはほとんど絵画制作をしなかった。ゴーギャンは1886年5月の「第8回印象派展」で19枚の絵画と木製レリーフを展示する。これらの作品の大半はルーアンやコペンハーゲン滞在時に制作した初期作品で、新作もあったが目新しい要素はほとんどなかった。唯一あるとすればこのときに展示された「水浴する女性」で、その後、作品に繰り返し現れるモチーフとなった。

 

ゴーギャンは、1886年夏、ブルターニュ地方のポン=タヴァンの画家コミュニティで暮らした。最初は、生活費が安いという理由で移ったのであるが、ここでの若い画学生たちとの交流は、思わぬ実りをもたらした。またブルターニュの海岸沿いの穏やかなリゾート地帯という場所もゴーギャンを癒やすことになった。

 

この展示はまた後期印象派のリーダーとして新印象派のジョルジュ・スーラを引き立てるきっかけとなった。しかし、ゴーギャンはスーラの新印象派の点描画法を否定し、その年の後半にはピサロとの関係が決定的に亀裂が入ると、その後2人は敵対的な態度をとるようになった。

 

その夏、ゴーギャンは1886年の第8回印象派展で見たピサロやドガの絵画の方法で、ヌード画のパステルドローイングをいくつか制作している。おもに「ブルターニュの羊飼い」が代表的な作品だが、人物が従属的な役割を果たす風景画を描いた。「若いブルターニュの少年の水浴」は彼がポン=タヴァンを訪れる度に回帰するテーマであるが、はっきりと大胆で純粋な色使いや構図はドガの影響を受けている。

 

ゴーギャンは、パナマやマルティニーク島へ旅行して帰った後も、ポン=タヴァンを訪れており、エミール・ベルナール、シャルル・ラヴァル、エミール・シュフネッケル、その他多くの画家と交流した。このグループは、純色の大胆な使用や象徴的な主題の選択が特徴であり、ポン=タヴァン派と呼ばれることになる。

 

印象派に失望していた理由としてゴーギャンは、伝統的なヨーロッパの絵画があまりに写実を重視し、象徴的な深みを欠いている点が同じであることだった。対照的に、アフリカやアジアの美術は、神話的な象徴性と活力に満ちあふれているように見えた。おりしも当時のヨーロッパでは、ジャポニズムに代表されるように、他文化への関心が高まっていた。ゴーギャンは1889年の「20人展」に参加した。

ポール・ゴーギャン「水浴する女たち」(1885年)
ポール・ゴーギャン「水浴する女たち」(1885年)
ポール・ゴーギャン「ブルターニュの羊飼い」(1886年)
ポール・ゴーギャン「ブルターニュの羊飼い」(1886年)

クロワゾニズムと総合主義


ゴーギャンの作品は、フォークアートと日本の浮世絵の影響を受けながら、クロワゾニスムに向かっていった。

 

クロワゾニスムとは、批評家エドゥアール・デュジャルダン(英語版)が、平坦な色面としっかりした輪郭線を特徴としたエミール・ベルナールの描き方に対して付けた名前であり、中世の七宝焼き(クロワゾネ)の装飾技法から由来している。ゴーギャンは大胆な描き方を取り入れたベルナールを非常に尊敬していた。

 

クロワゾニスムの代表的な作品は1889年の「黄色いキリスト」で、重厚な黒い輪郭線で区切られた純色の色面が強調されている。このような作品においてゴーギャンは、古典的な遠近法や、色の微妙なグラデーションといった、ルネサンス美術以来の2つの重要な原則をほとんど無視している。

 

またのちに彼の作品は、形態と色彩のどちらかが優位に立つのではなく、両者が等しい役割を持つ綜合主義に向かっていく。

 ポール・ゴーギャン「黄色いキリスト」(1889年)
ポール・ゴーギャン「黄色いキリスト」(1889年)

マルティニーク島滞在


1887年、ゴーギャンは、パナマを訪れたのち、6月から11月までの約半年、友人のシャルル・ラヴァルとともに、マルティニークのサン・ピエールに滞在した。この時代のゴーギャンの思考や体験は妻メテや芸術仲間のエミール・シェフネッケルに宛てた手紙に詳細が記録されている。

 

ゴーギャンは、パナマ経由でマルティニークへ到着し、滞在中に破産し仕事にもついていなかった。当時のフランス法によれば、フランス植民地でフランス市民が破産したり、孤立した場合は、国がボートで帰国させる手はずとなっていた。そうしてゴーギャンはラヴァルとともに、国の費用で本国に戻ることになった。

 

しかし、2人は、マルティニークのサン・ピエール港で船を降りた。この下船が計画的なものだったのか、突発的なものだったのかについては、研究者の間で意見が分かれている。

 

はじめ、2人は黒人原住民の小屋に住んで原住民の日常生活の観察を楽しんでいたが、夏になると暑く、雨漏りがした。ゴーギャンは、赤痢とマラリアにも苦しんだ。マルティニークにいる間、彼は10〜20点前後の作品を制作した。戸外の情景を明るい色彩で描いたものである。

 

島内を旅行して回り、インド系移民の小さな村にも訪れたと思われる、彼の後の作品にはインド的モチーフが取り入れられている。

ゴーギャンとの出会い


ゴーギャンのマルティニークでの絵画は絵具商のアルネ・ポワティエのギャラリーで展示された。そこでフィンセント・ファン・ゴッホと出会い、ゴッホと彼の弟のテオはゴーギャンの作品を褒め称えた。テオはゴーギャンの3作品を900フランで購入し、彼の会社である「グルーピー商会」にそれらの絵画を飾り、またゴーギャンを裕福な顧客に紹介した。当時、ゴッホとゴーギャンは親友になりつつあった。ゴッホやテオとの関係は1891年1月にテオが亡くなるまで続いた。

 

ゴーギャンとゴッホの関係は波乱に満ちたものだった。1888年にテオにそそのかれて、ゴーギャンとゴッホは9週間、アルルにあるゴッホの「黄色い家」で共同制作を行った。しかし、二人の関係は悪化し、結局、ゴーギャンは黄色い家を去ることにした。1888年12月23日の夜、ゴッホが自ら耳を切る事件が発生した。

 

ゴーギャンの後年の回想によると、ゴッホがゴーギャンに対しカミソリを持って向かってくるという出来事があり、同じ日の夜、ゴッホが左耳を切り、これを新聞に包んでラシェルという名の娼婦に手渡したのだという。ゴッホが病院に運ばれた翌日、ゴーギャンはアルルを去った。

 

その後、2人は二度と会うことはなかったが、関係は続いており、手紙のやり取りは続けた。ゴーギャンは、後に、アルルでゴッホに画家としての成長をもたらしたのは自分だと主張している。ゴッホ自身は、『エッテンの庭の想い出』で、想像に基づいて描くというゴーギャンの理論を試してみたことはあったものの、ゴッホには合わず、自然をモデルに描くという方法にすぐに回帰している。

ポール・ゴーギャン「フィンセント・ファン・ゴッホの肖像」(1888年)
ポール・ゴーギャン「フィンセント・ファン・ゴッホの肖像」(1888年)

最初のタヒチ旅行


1890年までにゴーギャンは、次の芸術を求める旅先にタヒチを予定していた。1891年2月にパリのオテル・ドゥルオーで行ったオークションが成功し、旅行資金ができた。オークションの成功は、カミーユ・ピサロを通じてゴーギャンに依頼されたオクターヴ・ミルボーによる好意的な批評が要因となった。

 

コペンハーゲンの妻と子どもたちのもとを訪れたのち、その年の4月1日、タヒチへ出航した。ゴーギャンはタヒチで成功して新たな人生をスタートさせると誓った。その目的は、ヨーロッパ文明や「人工的で伝統的なあらゆるもの」から逃げることだった。とはいえ、彼は、これまで集めた写真やドローイングや版画を携えることは忘れなかった。

 

タヒチでの最初の3週間は、植民地の首都で西欧化の進んだパペーテで過ごした。そこはすでにフランスやヨーロッパ文明の影響が色濃い場所だった。ゴーギャンの伝記作家であるベリンダ・トムソンは彼が抱いていた原始的で牧歌的な光景とは違うものであったことに失望したに違いないと書いている。パペーテでレジャーを楽しむ金もなかったので、およそ45キロメートル離れたパプアーリにアトリエを構えることにして、自分で竹の小屋を建てた。

 

ここで、《ファタタ・テ・ミティ(海辺で)》や、《イア・オラナ・マリア》といった作品を描いた。後者は、タヒチ時代で最も評価の高い作品となっている。

 

ゴーギャンの傑作の多くは、この時期以降に生み出されている。最初にタヒチ住民をモデルとした肖像画は、ポリネシア風のモチーフを取り入れた《ヴァヒネ・ノ・テ・ティアレ(花を持つ女)》と考えられる。彼は、この作品を、パトロンでシュフネッケルの友人ジョルジュ=ダニエル・ド・モンフレーに送った。

 

ゴーギャンは、タヒチの古い習俗に関する本を読み、アリオイという独自の共同体やオロ神に惹きつけられた。そして、想像に基づいて、絵や木彫りの彫刻を制作した。その最初が《アレオイの種》であり、オロ神の現世での妻ヴァイラウマティを表している。

 

彼がパリのモンフレーに送った絵は、全部で9点であり、これらは、コペンハーゲンで亡きゴッホの作品と一緒に展示された。売れたのはわずか2点で、ゴッホの作品と比べても不評だったものの、好評だったとの報告を聞いてゴーギャンは意を強くし、手元の70点ほどを携えて帰国しようと考えた。いずれにせよ、滞在資金は尽きており、国の費用で帰国するほかなかった。その上、健康も害しており、現地の医者に心臓病との診断を受けていた。梅毒の初期症状であったとの見方もある。

 

ゴーギャンは、後に『ノアノア』という紀行文を書いている。当初は、自身の絵についての論評とタヒチでの体験を記したものと受け止められていたが、現在では、空想と剽窃が入り込んでいることが指摘されている。この本で、彼は、テハマナ(通称テフラ)という13歳の少女を現地で妻としていたことを明かしている。1892年夏の時点で、彼女はゴーギャンの子を宿していたが、その後その子がどうなったかの記録はない。

フランスへの帰国


1893年8月、ゴーギャンはフランスに戻り、タヒチの題材を基に作品の制作を続けた。《神の日》、《聖なる泉、甘い夢》などが代表的な作品である。

 

1894年11月にポール・デュラン=リュエルの画廊で開かれた個展ではある程度の成功を見せ、展示された40のうち11点が相当の高値で売れた。11月の展覧会の成功にもかかわらず、ゴーギャンは、デュラン=リュエルとの取引を失っており、その理由は明らかでない。これによって、ゴーギャンは、アメリカ市場への売り込みの機会を失った。

 

この時代のゴーギャンは、画家がよく訪れるモンパルナス地区の外れにアパートを借り、毎週「サロン」と称して集まりを開いた。またインド系とマレー系のハーフだという10代の少女を囲っており、彼女をモデルにした作品《ジャワ女アンナ》を描いている。

 

1894年初めには、紀行文『ノア・ノア』のために実験的手法による木版画を試みた。その年の夏には、ポン=タヴァンを再訪する。翌1895年、パリで作品のオークションを行ったが、これは失敗に終わった。同年3月、画商アンブロワーズ・ヴォラールが自分の画廊でゴーギャンの作品を展示したが、この時は2人は取引関係の合意には至らなかった。

 

また、同年4月に開会した国民美術協会のサロンに、冬の間に陶芸家エルネスト・シャプレの協力を得て焼き上げていた陶製彫像《オヴィリ》を提出した。この作品はサロンに却下されたという説と、シャプレの後押しによってかろうじて入選したという説がある。

 

このころには、妻メットとの破局は決定的になっていた。2人が会うことはなく、金銭問題をめぐって争い続けた。ゴーギャンは、叔父イシドアから1万3000フランの遺産を相続したものの、当初、妻に一銭も渡そうとしなかった。最終的に、メットには1500フランが分与されたものの、その後はシュフネッケルを通じてしか連絡をとろうとしなかった。

ゴーギャンは、1895年6月28日、再びタヒチに向けて出発した。一つの原因は、『メルキュール・ド・フランス』誌の1895年6月号に、エミール・ベルナールとカミーユ・モークレールがそろってゴーギャンを批判する記事を書いたことが原因である。パリの美術業界で孤立したゴーギャンは、タヒチに逃げ場を求めるほかなかったといわれている。

 

同年9月にタヒチに着き、その後の6年間のほとんどを、パペーテ周辺の画家コミュニティで暮らした。徐々に絵の売上げも増加しつつあり、友人や支持者の支援もあったため、生活は安定するようになった。1898年から1899年にはパペーテで事務仕事をしなければならなかったようであるが、記録はあまり残っていない。パペーテの東10マイルにある富裕なプナッアウイア地区に家を建て、広大なアトリエを構えた。

 

好きな時には、パペーテに行って植民地の社交界に顔を出せるよう、馬車を持っていた。『メルキュール・ド・フランス』誌を購読し、パリの画家、画商、批評家、パトロンたちと熱心に手紙のやり取りをしていた。パペーテにいる間に、地元の政治では次第に大きな発言権を持つようになり、植民地政府に批判的な地元誌『Les Guêpes(スズメバチ)』誌に寄稿し、更には自ら月刊誌『Le Sourire』誌(後にJournal méchant)を編集・刊行するようになった。

 

少なくとも最初の1年は、絵を描かず、彫刻に集中していることをモンフレーに伝えている。この時期の木彫りの彫刻が、モンフレーのコレクションに少数残っている。《十字架のキリスト》という、50センチメートルほどの円柱状の木の彫刻を仕上げているが、ブルターニュ地方のキリスト教彫刻の影響を受けたものと思われる。絵に復帰すると、《ネヴァモア》のように、性的イメージをはらんだヌードを描くようになる。このころのゴーギャンが訴えようとした相手は、パリの鑑賞者ではなく、パペーテの植民者たちであった。

 

健康状態はますます悪くなり、何度も入院した。フランスにいた当時、彼はコンカルノーを訪れたさいに酔ってけんかをし、足首を砕かれる怪我を負った。この時の骨折が完治していなかった。その治療にはヒ素が用いられた。また、ゴーギャンは湿疹を訴えていたが、現在では、これは梅毒の進行を示すものと推測されている。

 

1897年4月、彼は、最愛の娘アリーヌが肺炎で亡くなったとの知らせを受け取った。同じ月、彼は、土地が売却されたため家を立ち退かざるを得なくなった。銀行から借入れをして、今までよりも豪華な家を建てようとしたが、身の丈に合わない借入れにより、その年の末には銀行から担保権を行使されそうになった。

 

悪化する健康と借金の重荷の中、絶望の縁に追い込まれた。その年、自ら生涯の傑作と認める大作《われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか》を仕上げた。モンフレーへの手紙によれば、作品完成の後、自殺を試みたという。この作品は、翌1898年11月、ヴォラールの画廊で、関連作品8点とともに展示された。

 

これは、1893年にデュラン=リュエル画廊で開いて以来の、パリでの個展であり、今度は批評家たちも肯定的な評価を下した。ただ、『われわれはどこから来たのか』は、賛否両論であり、ヴォラールはこれを売るのに苦労した。1901年にようやく2500フランで販売され、そのうちヴォラールの手数料は500フランであったという。

 

ヴォラールは、それまでジョルジュ・ショーデというパリの画商を通じてゴーギャンから絵を購入していたが、ショーデが1899年秋に死去すると、直接の契約を締結した。この契約で、ゴーギャンは、毎月300フランの前渡金を受け取るとともに、少なくとも25点の作品を各200フランで売り、その上、画材の提供を受けることになった。ゴーギャンは、これによって、より原始的な社会を求めてマルキーズ諸島に移住するという計画が実現できると考えた。そして、タヒチでの最後の数か月を、優雅に暮らした。

 

ゴーギャンは、タヒチで良い粘土を入手できなかったことから、陶器作品を続けることができなくなっていた。また、印刷機がなかったため、モノタイプ (版画)を使わざるを得なかった。

 

ゴーギャンがタヒチにいる間に妻にしていたのは、プナッアウイア地区に住んでいたパウラという少女で、妻にした時に14歳半であった。彼女との間には2人の子供ができ、うち女の子は生後間もなく亡くなり、男の子はパウラが育てた。パウラは、ゴーギャンがマルキーズ諸島に行く時、同行するのを断った。

マルキーズ諸島


ゴーギャンは、最初にタヒチのパペーテを訪れた時から、マルキーズ諸島で作られた碗や武器を見て、マルキーズ諸島に行きたいという思いを持っていた。しかし、実際にマルキーズに行ってみて分かったのは、ここも、タヒチと同様、文化的な独自性を既に失っているということだった。太平洋の島々の中でも、マルキーズは、最も西欧の病気(特に結核)で汚染された島々だった。18世紀には8万人いたという人口は、当時4000人にまで落ち込んでいた。

 

ゴーギャンは、1901年9月16日、ヒバ・オア島に着き、アトゥオナの町に住み始めた。アトゥオナは、マルキーズ諸島全体の政庁がある所で、パペーテよりは開発が遅れていたが、パペーテとの間で汽船の定期便があった。医師がいたが、翌年2月にパペーテに去ってしまったため、ゴーギャンは、ベトナム人冒険家のングエン・ヴァン・カムと、プロテスタントの牧師で医学を学んだことがあるというポール・ヴェルニエに病気の治療を頼ることになり、2人と親しくなった。

 

ゴーギャンは、ミサに欠かさず通うことで地元の司教の機嫌をとってから、町の中心部にカトリック布教所から土地を買い取った。司教ジョセフ・マルタンは、当初、タヒチでゴーギャンがカトリック側を支持する言論活動を行っていたことから、ゴーギャンに好意的に振る舞った。

 

ゴーギャンは、この土地に2階建ての建物を建て、「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の館)」と名づけた。壁には、彼が集めたポルノ写真が飾られていた。初めのころ、この家には、写真を見ようと多くの地元住民が詰めかけた。このことだけでも司教には不快なことだったが、ゴーギャンは、その上、司教とその愛人と噂される召使を当てこすった2体の彫刻を階段の前に置いたり、カトリックのミッション・スクールの制度を批判したりしたことで、司教との関係は更に悪化した。

 

ゴーギャンは、ミッション・スクールから2マイル半以上離れた生徒は通学の義務がないと主張し、これによって多くの女生徒が学校に行かなくなってしまった。その中の1人、14歳の少女ヴァエホ(マリー=ローズとも呼ばれた)を、彼は妻とした。少女にとっては、健康状態のますます悪化したゴーギャンを毎日手当てしてやらなければならず、楽な仕事ではなかった。それでも、彼女はゴーギャンとの同居を選び、翌年には娘を生んだ。

 

1901年11月までに、新居を設け、ヴァエホ、料理人と2人の召使、犬のペゴー、猫1匹と暮らしはじめた。ここでゴーギャンは制作に専念するようになり、翌1902年4月にはヴォラールに20枚のキャンバスを送っている。彼は、モンフレーに、マルキーズではモデルも見つけやすいので新しいモチーフを見つけることができると思うと書き送っている。

 

ゴーギャンは、タヒチ時代のテーマを避けて、風景画、静物画、人物の習作に取り組んだが、タヒチ時代の絵を深化させた《扇を持った若い女》、《赤いケープをまとったマルキーズの男》、《未開の物語》という3作品を制作している。

 

1902年には、ゴーギャンの健康状態は再び悪化し、足の痛み、動悸、全身の衰弱といった症状に悩まされた。9月には、足の怪我の痛みが激しくなり、モルヒネ注射をせざるを得なくなった。視力も悪化し、最後の自画像で、彼は眼鏡をかけている。

死去


1902年7月、妊娠中だったヴァエホが、ゴーギャンのもとを去り、家族と友人のいる隣村で子供を産もうと、帰ってしまった。ヴァエホは、9月に子供を産んだが、戻ってくることはなかった。12月には、病気のため、ほとんど絵の制作ができなくなった。

 

1903年初頭、ゴーギャンは、島の国家憲兵ジャン=ポール・クラヴェリーやその部下の無能力や汚職を告発する活動を始めた。ゴーギャンは、逆にクラヴェリーから名誉毀損で告発され、3月27日、罰金500フラン、禁錮3か月の判決を受けた。

 

ゴーギャンはすぐにパペーテの裁判所に控訴し、その旅費の資金集めを始めたが、5月8日の朝、急死した。ゴーギャンは、翌9日の午後2時、カトリック教会のカルヴァリー墓地に埋葬された。1973年、彼の遺志に従って、《オヴィリ》のブロンズ像が横に置かれた。


■参考文献

Paul Gauguin - Wikipedia