ポール・ガシェ / Paul Gachet
晩年のゴッホを治療した医師
概要
生年月日 | 1828年7月30日 |
死没月日 | 1909年1月9日 |
国籍 | フランス |
職業 | 医師 |
関連人物 | フィンセント・ファン・ゴッホ |
ポール・フェルディナン・ガシェ(1828年7月30日-1909年1月9日)は、フランスの医師。
フィンセント・ファン・ゴッホが、オーヴェル・シュル・オワーズで過ごした最後の数週間の治療を行ったことで知られている。
ガシェは芸術家、特に印象派の偉大なパトロンであり、またアマチュア画家で、作品には自分の生まれ故郷にちなんで「ポール・ファン・ライセル」とサインを入れている。
ゴッホは彼の肖像画を数点描いていおり、1990年5月15日に最初のバージョンはニューヨークのクリスティーズ・オークションで8250万ドルで落札された。
略歴
ポール・ガシェはリールで生まれ育った。一家はメヘレンに移った後、ガシェの父は1844/1845年に勤めていた会社の新しい支店を立ち上げるために転勤する。
パリ大学在学中、暇を見つけては絵を学び、ギュスターヴ・クールベやエドゥアール・マネの絵画を収集した。
学士号を取得した後、ビセートルとサルペトリエールの精神病院に勤務する。アルマン・トルーソーを師と仰ぐ。1858年、論文「Étude sur la Mélancolie」(Éditeur du Montpellier Médecal)で医学博士号を取得する。
パリに戻ると、個人的にホメオパシー診療所を設立する。1868年にブランシュ・カステットと結婚。1869年、娘のマルグリット・クレメンティーヌ・エリサが生まれる。
1872年、ガシェはオーヴェル・シュル・オワーズに移る。この町は、市の中心部から27キロメートルほど離れたところにあり、芸術家たちに人気のある町であった。
そこで医業を続けながら、カミーユ・ピサロやポール・セザンヌといった画家たちとも交流し、セザンヌは彼の屋根裏部屋にアトリエを作るのを手伝った。
ガシェはギュスターヴ・クールベ、シャンフルーリー、ヴィクトル・ユゴーとも知り合いで、ほかに化学者アンリ・ネスレの友人でもあり、ネスレの新しい粉ミルクを自分の子供の患者に処方していた。
また、ブランシュ・ド・メザンというペンネームで、医学や芸術批評の本を出版した。
シャルル・メリヨンがシャラントンに収容された後、メリヨンと多くの時間を過ごす。1882年、オーギュスト・ルノワールの肺炎からの回復を見守る。エドゥアール・マネに足の切断を勧める。しかし、マネはこの助言に従わなかった。
ガシェの墓は、パリのペール・ラシェーズ墓地の52区にある。
ファン・ゴッホとの関係
フィンセント・ファン・ゴッホは精神障害を患い、1889年5月8日に精神病院へ送られた。その後、1890年5月に退院したが、継続治療が必要であり、ゴッホは監視下に置かれた。
弟テオ・ファン・ゴッホは、ガシェの経歴や芸術家に対する感性から、回復期のフィンセントに最適な医師であると考えた。しかし、ガシェに診てもらい始めて間もなく、フィンセントはガシェの有用性を疑うようになる。
フィンセントはガシェをこう評した。「私より病んでいると思う、いや、同じくらいとでも言おうか」。
しかし、ガシェと会ってしばらくすると、ゴッホの彼に対する印象は良くなった。ゴッホは彼の中に友人を見つけ、彼がミューズであるだけでなく、世話好きであったことを述べている。
フィンセントは医師について、「私は彼の中に完全な友人を見つけた、新しい兄弟のようなものでさえある」と書いている。
ガシェは、ゴッホが10週間の診察の後、自殺したことについて、長年にわたって批判を浴びてきた。しかし、ゴッホはアルコールと喫煙を控えるようにという医師の忠告に従うことができなかったか、あるいは従おうとはしなかったのである。
ゴッホの伝記作家ウィルフレッド・アーノルドは、「当時の医師にとって、フィンセントの病気の経過をよくさせるような手段はあまりなかった」とし、ゴッホが担当した医師たちの医療をこう総括している。
「全体的な評価としては、むしろ、慣れない病気と難しい患者に対して、ガシェらは期待通りによくやったということだ」。
ほかの芸術家たちの交流
ガシェはピサロ、ルノワール、マネ、セザンヌ、ゴヌートらと親交を持ち、治療にもあたった。1909年に亡くなるまで、ヨーロッパ最大級の印象派美術コレクションを有していた。ガシェとその妻、そして彼の自宅は、以下のような著名な芸術家たちの作品の題材となった。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Gachet、2022年6月25日アクセス