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【美術解説】ポール・セザンヌ「ピカソやキュビズムに影響を与えた後期印象派の巨匠」

ポール・セザンヌ / Paul Cézanne

19世紀から20世紀の近代美術の架け橋


《サント・ヴィクトワール山》1887年
《サント・ヴィクトワール山》1887年

概要


生年月日 1839年1月19日
死没月日 1906年10月22日
国籍 フランス
表現形式 絵画
ムーブメント 後期印象派
関連サイト

The Art Story(略歴)

WikiArt(作品)

ポール・セザンヌ(1839年1月19日-1906年10月22日)はフランスの画家。後期印象派の画家。

 

当初は印象派のグループの一員として活動し、何度か印象派展にも出展していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求し、最終的には、ポール・ゴーギャンフィンセント・ファン・ゴッホとならんで3大後期印象派の1人として、美術史に記録されることになった。

 

セザンヌは、19世紀の芸術概念から20世紀初頭に発生した新しく過激な前衛美術の架け橋を築いた画家として評価されている。特にキュビスムにおける芸術概念の基礎となった。

 

セザンヌの作品は、繰り返し用いられる試験的なブラシストロークが大きな特徴で、それは見た目ではっきりと認識できる。平面的な色使いと小さな筆致を使って複雑な画面を生成している。そのようになるのは、セザンヌが対象となる主題を緻密に研究した結果である。

 

マティスとピカソはセザンヌについて"近代美術の父"と述べている。

重要ポイント

  • ゴーギャン、ゴッホとならぶ3大後期印象派の巨匠
  • 古典主義的な造形性と印象派の色彩感覚を融合
  • 19世紀から20世紀初頭の前衛芸術の架け橋

作品解説


カード遊びをする人々
カード遊びをする人々

略歴


幼少期


ポール・セザンヌは、1839年1月19日、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスで生まれた。2月22日にセザンヌは、養い親である祖母と叔父のルイからマドレーヌ寺院で洗礼を受ける。晩年に敬虔なカトリック教徒となった。

 

セザンヌの父(1798-1886)はサン=ザシャリー生まれで、セザンヌ・エ・カバソル銀行の共同設立者である。父の銀行はセザンヌが生存中に大きく成長したため、小さなころからセザンヌは将来の生活が保障されており、最終的には巨額の遺産を相続することになった。セザンヌの母親のアン・エリザベス・オナーベルト(1814-1897)は椅子職人の娘で使用人だった。元気でロマンチストだったが、よく軽率な行動を起こして問題を起こした。セザンヌ出生時は母は内縁関係にあった。

 

セザンヌが自身の概念やライフスタイルを得たのは彼女からである。また、セザンヌは二人の妹、マリーとローズがいた。妹が1841年に生まれたあと、両親は入籍した。

 

10歳のときセザンヌは、聖ジョゼフ・スクールに入学。1852年にセザンヌはブルボン大学に入学し、エミール・ゾラやバティスタン・バイユと知り合うようになる。セザンヌは6年間学校にいたが、最後の2年は学者として過ごした。

 

1857年にエクスのドローイング自由私立学校に入学し、スペイン人修道士であるジョゼフ・ジベルトのもとで学んだ。1858年から1861年まで、父親の希望もあってエクス大学法学部に通い、またドローイングの授業も続けていた。結局、父のあとをついで銀行員になることに反発し、セザンヌは芸術家を志す。そうして1861年にエクスを去り、パリへ移った。

 

当時すでにパリに住んでいたゾラがセザンヌに芸術家になることを強く勧めたという。最終的にセザンヌは父と和解し、40万フランの遺産を受け継ぎ、経済問題から解放された。

パリへ


セザンヌは大学を中退し、1861年4月にパリへ移る。ルーヴル美術館でベラスケスやカラヴァッジオの絵に感銘を受けた。しかし、エコール・デ・ボザールへの入学に落ちたため、私塾のアカデミー・シュイスに通う。ここで、カミーユ・ピサロアルマン・ギヨマン印象派作家と出会い、交流を持つようになる。

 

朝はアカデミー・シュイスに通い、午後はルーヴル美術館か、エクス出身の画家仲間ジョセフ・ヴィルヴィエイユのアトリエでデッサンをしていたという。そのほか、ゾラや、同じくエクス出身の画家アシル・アンプレールと交友を持った。

 

セザンヌは印象派のカミーユ・ピサロと特に親しくなる。当初、ピサロとセザンヌの間で1860年代に形成された友情は、師匠と弟子の関係だった。ピサロはセザンヌに造形的な部分で影響を与えた。

 

セザンヌの初期作品は、風景と人物の内面が関連しており、人物は暗く重い空気で、全体的に想像力で描いている。ウジェーヌ・ドラクロワギュスターブ・クールベの影響を受けたロマン主義的な描き方といってよいだろう。のちにセザンヌは、直接観察で描くことに関心を抱くようになり、色味は徐々に明るくなっていった。

 

次の10年の間、2人はルーヴシエンヌやポントワーズなどを旅して風景画を描き、共同創作的な関係になった。ピサロと戸外での制作をともにすることで、明るい印象主義の技法を身につけた。

 

パリ・サロンに拒否され続ける


セザンヌの絵画は、1863年に落選展で初めて展示された。落選展はパリ・サロンの審査で落ちた画家たちの敗者復活戦のような展示だった。パリ・サロンは1864年から1869年まで、毎年セザンヌの作品を審査で落とした。

 

1868年のサロンでは、審査員ドービニーの尽力により、マネ、ピサロ、ドガ、モネ、ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾといった仲間たちが入選したが、セザンヌだけは再び落選であった。

 

その後、定期的にセザンヌは1882年までサロンに作品を出品し続けた。その年、同僚のアントワーヌ・ギュメを介して、セザンヌは、パリ・サロンに《Portrait de M. L. A》という作品を提出した。おそらく「Portrait of Louis-Auguste Cézanne」の略で、現在ナショナル・ギャラリーが保存している《レヴェヌマン」紙を読む画家の父》の作品の事を指している。ギュメは当時、審査員をしていたが、弟子の1人を入選させることができるという特権を使い、ギュメの弟子という名目で入選させてもらったという。

 

《レヴェヌマン」紙を読む画家の父》は、おらくセザンヌの最初で最後のパリ・サロンで成功した作品である。

 

1869年、後に妻となるオルタンス・フィケ(当時18歳)と知り合い、のちに同棲するが、厳格な父を恐れ彼女との関係を隠し続けた。

 

1873年にパリ・モンマルトルに店を開いた絵具商タンギー爺さんことジュリアン・タンギーも、ピサロの紹介で知り合ったセザンヌの作品を熱愛した。セザンヌは、この時期にピサロから筆触分割などの印象主義の技法を習得している。

《The Artist's Father, Reading "L'Événement"》1866年
《The Artist's Father, Reading "L'Événement"》1866年

印象派からの離脱、故郷エクスへ


セザンヌは、モネ、ルノワール、ピサロなど印象派画家たちの友情は保ちながらも、第4回印象派展以降には参加せず、印象派から1878年から抜けることにした。1895年以前、セザンヌは印象派展で2度展示(1874年と1877年)している。

 

印象派の光と色の饗宴のなかで形態が溶解し、視覚の快楽のなかで造形への意志が希薄になる態度に不満を持ちはじめた。セザンヌはモネの目の素晴らしさをたたえながらも、「モネは1つの目にすぎない」といいきって見せた。印象派の色彩表現の輝きを失うことなく、確固として造形世界を構築し、視覚認識を根本的に変革しようとした点にセザンヌの偉大さがある。

 

セザンヌは、印象派から抜けた1880年ころから、制作場所をパリから故郷のエクスに戻した。セザンヌが印象派から抜け出し、独自の絵画世界を確立するのは1880年以降のことで、それはルノワールとは違う位相で実践された古典主義の統合と形容できるような達成だった。

 

このころ、妻子の存在を父に感付かれたことで、父子の関係は悪化し送金が途絶え、ゾラに月60フランの援助を頼んだ。

キュビズム理論の基盤となる独自の世界


セザンヌは自然の内にある幾何学的要素単純化することに関心があった。セザンヌは「円筒、球、円錐で自然を表現したい。たとえば木の幹は、円柱、りんご、オレンジの球で構成される」と話している。

 

さらにセザンヌは「知覚の真理」を把握したいと考えていたため、複数の視点での美術的表現を探求し、1つの対象でもわずかに異なる表現を同時に鑑賞者に味わわせる表現方法を探っていた。このセザンヌの美術思想は、そのままのちにキュビスムに受け継がれる。

 

人生を通じてセザンヌは、最も正確に世界の写し取れる表現方法を見つけることに苦心していた。そうした結果、セザンヌは単純な形態と平面的な色合いで絵画を構成するようになった。セザンヌは「印象派をうつろでないしっかりしたものとして、美術館にふさわしい芸術にしたい」とかたい意思を示している。

 

また、「ニコラ・プッサンを再構成している」というセザンヌの主張は、古典主義的な構成の永続性(形態の量感や空間)と自然の観察(印象派的な色合い)という彼の願望を結びようとする主張であった。

 

そうして、セザンヌは繰り返し用いられる試験的なブラシストロークが大きな特徴となった。それは見た目ではっきりと認識できる。セザンヌの手法は気の遠くなるような時間を費やし、試行錯誤を繰り返しながら習熟していくものだった。

セザンヌの代表作「サント=ヴィクトール山」


代表作は1887年の《サント=ヴィクトワール山》である。

 

画面中央の山を、前景の松の木の幹と枝がしっかりと包み込んでいる。平野と山と空に対して前景の端に大きく松の木を置くことで、古典主義的といってもよい安定した画面構成となっている。

 

しかし、空間の奥行きや対象の立体感を表出するのは伝統的な遠近法や陰影法ではない。緑色、黄土色、青色を主調とし、色調を微妙に変化させた小さな色面を並置することで、風景の広がりや大地の量感が表現されていく。

 

塗り残した部分もまた、作品の一要素として組み込まれており、全体を塗り込めて完成する従来の西洋絵画の考え方から逸脱している。

《サント=ヴィクトワール山》1887年
《サント=ヴィクトワール山》1887年

主題


セザンヌは静物画、肖像画、風景画、水浴の習作など、いくつかの主題に集中し、これらの分類した作品は同等にうまく描かれていた。しかし田舎ではヌードモデルを見つけるのが難しかったため、想像だけで描かなければいけなくなった。

 

セザンヌの絵画は対象が人物であろうと、風景であろうと、静物であろうと、基本的に同じである。《リンゴとオレンジ》でも、固定された視点から見たある現実を描いているのではなく、複数の視点から見たモチーフを集め、色と形を調整して一個の造形作品として再構築している。

 

風景画のように、彼の肖像画はなじみのある人物をよく描いた。妻や息子だけでなく、地元の農民や子どもたち、画商が肖像画の主題となった。パリ・サロンのシーズンが始まる3月にはパリに出て、アパートを借り、ムランやポントワーズといった近郊の町に下宿したりする、という生活を繰り返していた。パリを訪れた時は、ゾラがセーヌ川沿いのメダンに買った別荘に招待されることも度々であった。

 

静物画は一見すると装飾的で厚くて平らな表面が塗られており、ギュスターブ・クールベを思わせる重厚さがある。

《リンゴとオレンジ》1895年
《リンゴとオレンジ》1895年

晩年


1890年代になって、セザンヌの作品は次第に世に知られはじめた。ブリュッセルの「20人展」、パリのアンデパンダン展などの展覧会に出品する。

 

1895年11月、パリの画商アンブロワーズ・ヴォラールが、ラフィット街の画廊で、セザンヌの初個展を開いた。もともと、ヴォラールにセザンヌの個展を開くことを勧めたのはピサロであった。

 

一般市民の認知度と商業的成功にもかかわらず、セザンヌは芸術的に孤立性が増す作品を制作していった。フランス南部、パリから遠く離れた彼の最愛の場所プロヴァンスで制作をした。

 

晩年にはエミール・ベルナールやモーリス・ドニなど若い世代の画家たちに理解者があらわれた。

 

1906年10月15日、野外で制作中に大雨に打たれて体調を悪化させ、肺充血を併発し、23日朝7時頃、自宅で死去した。翌日、エクスのサン・ソヴール大聖堂で葬儀が行われた。

■参考文献

・Wikipedia

・西洋美術の歴史7 19世紀 中央公論新社