オディロン・ルドン/ Odilon Redon
モローとともに象徴主義絵画を牽引
概要
オディロン・ルドン(1840年4月20日-1916年7月6日)はフランスの印象主義、象徴主義の画家、版画家、素描家、パステル画家。無意識下の世界を描写したかような夢と幻想の世界観を表現。
同世代のモネやルノワールが、画面からあらゆる文学的、物語的要素を拒否して、純粋な日常の感覚の世界を追求していことに不満を持ち、ルドンは、日常を超えて、夢や無意識の織り出す万華鏡のような妖しい人工楽園の物語を創り出した。
1884年にジョリス=カルル・ユイスマンスの小説『さかしま』でルドンの絵が取り上げられてから注目を集めるようになる。その後、詩人モレアスの「象徴主義宣言」によって、デカダン派を継承する象徴主義が文学の世界で開始。ルドンはモローとともに象徴主義の画家として認知されるようになる。
ルドン死後、シュルレアリストたちは、幻視、幻覚、ファンタジー性があり、ルドン自身が作品を無意識的方法と述べたことから、アンドレ・ブルトンはシュルレアリスムの先駆者と評価した。
重要ポイント
- モローとともに象徴主義の代表的画家
- ユイスマンの『さかしま』で取り上げられて人気になる
- シュルレアリスムの先駆的画家
作品解説
略歴
幼少期
ベルトラン・ジャン・ルドンは、フランス南西部のアキテーヌ地方ボルドーの裕福な家庭で生まれるが、病弱だったのでボルドーから30キロ離れた田舎へ里子として出されて孤独に過ごすことになる。
なお若いころから死ぬまでの愛称である「オディロン」は、母親の名前に由来する。ルドンは子どものときに素描を描き始め、10歳のときに学校で素描の賞を獲もらった。
15歳のときに、地元の水彩画家の画家スタニスラス・ゴランの家に本格的に素描の絵を学び始める。しかし、父は反対して建築家になることを勧めた。建築家となるべく1861年からパリへと移住し、また、ころころまでに独学の植物学者アルマン・クラヴォーに出会い、顕微鏡下に露呈される生物の世界や自然科学の世界に影響を受け始める。1862年にダーウィンの『種の起源』の仏語訳版が出たとき、ルドンはクラヴォーの家でこの本を読んでいる。
1862年、22歳の秋にエコール・デ・ボザールの試験を受けるが不合格となり、建築の道はあきらめることになる。改めて画家の道を進むべく1864年にジャン=レオン・ジェロームのもとで絵を学ぶが、同氏のアカデミックな教育に反発し、翌年には帰郷。
画業
故郷のボルドーに戻って、ルドンは彫刻をはじめ、またロドルフ・ブレダンのもとで版画やエッチングを学ぶ。しかし、普仏戦争が始まったため、ルドンの芸術活動は1870年のときに中断する。徴兵のために従軍するが病気のために1871年末に戦線離脱。
終戦後、1874年にルドンはパリに移動してから、プロフェッショナルの画家となるべく、木炭画とリトグラフに専念するかたちで芸術活動を再開した。黒の色合いが中心の自身の作品を「ノワール」と呼んだ。 彼の作品《水の精霊》が認知される1878年まで、彼の世間的な認知はなかった。また、1878年に転写法によるリトグラフの技法を教えてくれた画家ファンタン=ラトゥールに出会う。
1879年、初の石版画集『夢のなかで』を刊行。25部しか発行していないので、大々的にデビューしたとはいえないが、グラフィック画家として、職業画家としてのスタートを始めたことは間違いないだろう。
アフリカ沖のレユニオン島出身でルドン自身の母と同じクレオールの若い娘カミーユ・ファルトと出会い、1880年結婚する。これ以降、石版画集や単独絵画作品を数多く手がけ、グラフィック画家として生活するようになる。
象徴主義の作家として注目を集める
ルドンは1884年のジョリス=カルル・ユイスマンス小説『さかしま』でルドンの絵が取り上げられるまで、ほとんど無名だった。
『さかしま』は退廃的な貴族を描いたもので、本作中で取り上げられるルドンの絵は注目を集めた。『さかしま』の主人公は貴族の末裔で、学校を卒業後、文学者との交際や女性との放蕩などで遺産を食い潰す。やがてそうした生活に飽き、性欲も失い、隠遁生活を送る決意をする。祖先の遺した城館を売り払い、使用人とともに郊外の一軒家にこもって趣味的な生活を送る。
デゼッサントは俗悪なブルジョワ的生活を嫌い、修道院の隠棲生活に憧れを持つが、カトリックの信仰には懐疑的である。自分の部屋にラテン語の文献、好みの書物(ボードレール、マラルメなど)を集め、幻想的なモローやルドンの絵、ゴヤの版画で飾り、美と廃頽の「人工楽園」を築いてゆく。
日本では『さかしま』は澁澤龍彦が翻訳している。
そして、1886年、詩人モレアスの「象徴主義宣言」によって、デカダン派を継承する象徴主義が文学の世界で開始。モローとともに象徴主義の画家として認知されるようになる。
1890年代になるとパリで物質主義的な思想に反発が起こり精神主義や神秘主義のムーブメントが起こり始める。具体的には写実主義や印象派に対する反発として、ルドンやモローのような象徴主義がムーブメントとなる。
そこで現実の自然を手がかりにしながら現実描写だけでは満足できないルドンのような画家が、若い芸術家たちに歓迎される時代が来たのである。
20世紀初頭の若手画家から注目を集める
1890年代、ルドンはパステル画と油彩を好むようになる。なお、1900年以降になるとルドンはこれまでの「ノワール」を制作しなくなる。
1894年、ルドンは老舗画廊デュラン=リュエルで大規模な個展を開催。続いて1899年、同じ画廊でナビ派やシニャックを含む若い画家たちが、別格としてルドンを迎えたグループ展を開催。ルドンはナビ派として紹介された。
新印象主義のスーラは1891年に亡くなり、ゴーギャンはタヒチに去っていた。ルドンはほかの画家たちと群れをなすタイプではなかったが、このころには若い画家たちが求めていた新しい絵画の先駆者として認識され、若い芸術家たちがルドンの周囲に集まるようになっていた。
オリエンタリズムや日本趣味
ルドンはヒンドゥー教や仏教などの文化に関心があった。釈迦の姿を描いた作品がふえつつつあった。また、ジャポニズムからも多大な影響を受けた。1899年には《釈迦の死》、1906年には《釈迦》、のような作品を制作している。1905年には《日本の戦士と花瓶》を制作している。
装飾絵画から抽象絵画へ
ロベール・ド・ドムシー男爵は1899年に、ブルゴーニュのセルミゼルにあるドムシー・シュール・レ・ヴォルト城のダイニングルームに飾るための装飾会がを17枚、ルドンに注文する。
ルドンは過去に個人の家庭に大きな装飾絵画を制作したことがあるが、1900年から1901年にかけて制作したドムシー城のために制作する作品は、最も先鋭的な構成の絵画作品となり、装飾絵画から抽象絵画へ移行するポイントとなった。
無限の地平線上にある樹々、枝付き小枝、咲いている花の詳細のみが描かれており、特定の場所やスペースは描かれていない。使用されている色はおもに黄色、灰色、茶色、薄い青色である。折りたたみ式なの日本絵画の影響で、ルドンは2.5メートルの高さの長方形のパネルを組み合わせ制作している。それらのうち15枚は、今日オルセー美術館が1988年から所蔵している。
ドムシー男爵はまた夫人と娘ジャンヌの肖像画を依頼した。2人の肖像画は現在カリフォルニアにあるゲッティ美術館やオルセー美術館が所蔵している。
晩年
1903年にルドンはレジオンドヌール勲章賞を受賞。
彼の人気は、1913年に美術評論家アンドレ・メレリオが編集したエッチングとリトグラフの作品集の出版でさらに増した。同年、ルドンはニューヨーク、シカゴ、ボストンを巡回展示する国際近代美術展(現在のアーモリー・ショー)で画期的な作家として、最も大きな一室が与えられ、作品を展示した。この展覧会はアメリカにおけるルドン作品収集のきっかけとなった。
1916年7月6日、パリの自宅で肺炎で死去。76歳だった。
2005年にニューヨーク近代美術館はルドンの大回顧展『見えないもの』を開催。100点以上の絵画、ドローイング、プリント、書籍が展示された。また、スイス、バーゼルのバイエラー財団は2014年に回顧展を開催した。