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【美術解説】根本敬「特殊漫画大統領」

根本敬 / Takashi Nemoto

特殊漫画大統領


《樹海》2017年
《樹海》2017年

概要


生年月日 1958年6月28日
国籍 日本
表現形式 漫画、絵画、著述、ドローイング
ムーブメント ガロ系ヘタウマ、因果系
関連人物 蛭子能収佐川一政
公式サイト 根本敬公式サイト

根本敬(1958年6月28日生まれ)は日本の漫画家、著述家、映像作家、コレクター。「特殊漫画家」「特殊漫画大統領」などのニックネームで知られる。

 

1981年に日本のアンダーグラウンド・コミック誌「ガロ」で漫画家としてデビュー。以後、休刊するまで「ガロ」を中心に多くのマンガ作品を発表する。

 

「ガロ」の休刊、および雑誌ブームが終焉した2000年代以降は、青林工藝舎のマンガ雑誌「アックス」やアップリンクの「映像夜間中学」、美學校などおもにオルタナティブな媒体で活動を続けている。

 

根本作品の多くは、信じられないほどの不幸が重なり続けるキャラクター村田藤吉とその家族の物語がシュルレアリスティックに進行していく。作品の多くは一般的な良識から嫌悪対象となるものの、一方で熱狂的なファンも多く持ち、日本のみならず世界中のアンダーグラウンド・シーンに影響を与えている。

 

著述家としても才能を発揮しており、奥崎謙三や川西杏など根本が人生で出会った個性的な人々を綴った『電氣菩薩(上巻)』や『人生解毒波止場』などは人気が高い。また、「幻の名盤解放同盟」のメンバーとして廃盤レコードの復刻を行っている。

 

2017年、"個人の意思を超えた大きな何かに突き動かされ、ピカソの絵画《ゲルニカ》と同サイズの大作に挑戦するプロジェクト『根本敬ゲルニカ計画』を敢行。アドバイザーに会田誠を迎え、同年、9月27日に完成。最終的な絵画タイトルは《樹海》と命名され、9月30日京浜島で開催された「鉄工島フェス」で展示。

 

その後、12月13日から24日にかけて、市谷のミヅマアートギャラリーで一般公開され、日本で最も有名な現代美術コレクター高橋龍太郎氏の『高橋コレクション』に収蔵が決定した。

思想


因果


根本敬の核心的な思想「因果」は、仏教における因果の道理に近いものであるが、根本の場合はもっと"道理から外れた"ものである。根本における世界や宇宙における物理法則は「親の因果が隣の子に報いる」がという言葉が言い表しているように、「フザけていて、それどころか狂っている」ものである。

そして、因果者とは根本が定義するところによれば、生まれつき、または生まれる前から(前世)大変な業が深い大変なことがあった人物、そうでも思わないと理解できない人のことを指す。そして、その因果者の空間圏に入ってしまうと、普通の人間のほとんどは精神的におかしくなり、参ってしまうので、因果者に対しては多くは本能的に近づかないようにしている。

 

また、必ずしも相対的に「奇人、変人、狂人」とレッテルを貼られて暮らしている人物とは少し違い、因果者はもっと自由な世界の住人で、不動産業を営んだり、芸能人としてお茶の間のTVで人気者だったり、ただの日雇いの土工だったりと、シャバの世界で一般人のように悠々とごく普通に暮らしている人々である。

 

もちろん、殺人犯(佐川一政や奥崎謙三など)や世間的に異常者と認識されている人物も含まれる。

 

根本が研究しているのは、そのような一般の人にとっては近づきたくない面倒な人であると認識されているものの、ごく普通にシャバの世界で生活している人物たちである。

略歴


若齢期


根本敬は1958年6月28日、東京渋谷区の病院で生まれ、目黒区鷹番で育った。父は設計技師、母は明治記念館で働いていたという。両親が結婚して3年後に根本敬が生まれた。

 

このときに住んでいたのが、東横線の学芸大学駅が最寄りの80坪の平屋だった。この平屋に、父の妹三人と弟二人、多いときは千葉の親類まで下宿していて、ものすごい大家族だった。庭が広くて、琵琶や柿の木、池や井戸、物置きや犬小屋もあった。犬は初代と二代目がいて、二代目は根本が小三のときに碑文谷公園でひろいシロと名付けた。

 

庭に鶏もいたが、当時の根本は喘息がひどく学校も休みがちだったため、医者に「動物と暮らすのはよくない」と言われて絞めて食べたという。この小児喘息は18歳で完治するまで根本を悩ませた。特に小学時代に重く、月のうち1週間は学校を休んでいた。

 

しかし、学校を休んでいたおかげで、常に様々な大人が入れ代わり立ち代わり出入りする、多少よそとは異なる大家族の家庭環境に育ち、大人の世界を同世代の子どもらより、早くから認知する。子どもの頃の喘息は後々の人生観に深いところで影響するとはなしている。

 

近所の鷹番小学校に通う。じめなクラスで学校にはなじめなかった。クラスがどんどんまとまりのある良い環境になるなか、根本はひとりで「ブス、ブス、学校来んな」とかブスいじめをして周囲から注意を受けた。学校代表の投票でも「ウンコ」とか「ゲロ」とか書いて問題になった。

 

特に教師に対して良い思い出がなく、とりわけ4年から卒業まで担任になった熱心で指導力があり鞭撻のたまものの教師ととりわけ合わなかった。ちょっと問題のある生徒でも次々と宣教師のように教師の熱心な指導に改宗させられたが、唯一、根本だけが、この立派な指導の埒外に置かれた

 

遅刻はもちろん、宿題しなくても何も他のやつには怒っても根本には怒らず、授業中でも順々に指していって自分のところへ来ると何も聞かないで次のヤツに飛ばしたという。とにかくまわりのやつがみんな善人になっていく環境の中、暴走する根本は萎縮しつつ最後まで孤独な戦いを続けた

 

また、近所に現在も営業している「飯島書店」という古本屋があり、そこでコダマプレスが出版していた水木しげるの『墓場の鬼太郎』とかを買ってよく読んでいた。コダマプレス版『墓場の鬼太郎』は、「鬼太郎の誕生(リメイクⅠ)」だけが「鬼太郎」の話で、あとは、水木しげるがすべてひとりで仕上げ「ガロ」に発表した、風刺ものがほぼ全体をしめていたものである。

 

小学3〜4年制の頃に初自主制作漫画『こじきびんぼう隊』を鉛筆とフリーハンドで書き殴る。

 

小学5年生のとき、その古本屋で『ガロ』を立ち読みしているときに、ちょっと頭の弱い子どもがいたずらされる林静一の『花ちる町』という漫画にショックを受ける。以来、数年間、怖くて『ガロ』が読めなくなる。小三のとき、見世物小屋で狼女を見て以来のトラウマとなった。見世物小屋で見た狼女と『花ちる町』を読んだときの「見てはいけないものを見た」という感覚は同じだった。

 

公立の目黒六中に進学した頃から、洋楽が好きになり、FMラジオをカセットに録音してよく聴いていた。雑誌の『宝島』や『ニューミュージック・マガジン』を読み始めたのもこの時期である。小学5年生から高校入学までの5年間は、変化の振り幅は最も激しい時期であり簡単に語り尽くせないという。

 

明大前の日本学園高等学校に入学。制服自由化で髪型も自由な学校だった。高校に入ってからようやく『ガロ』が読めるようになり、古本屋でバックナンバーを集め始める。入学した頃には、定期購読する漫画誌は『ガロ』一本となり、それ以前の漫画はたとえ赤塚不二夫が描いていようとも遮断し、商業漫画誌とは手を切る。

 

『ガロ」に掲載されていた『情熱ペンギンごはん』(糸井重里作、湯村輝彦作画)に衝撃を受け、「これなら自分も『ガロ』に参加できるかも」と思うようになる。

 

高三のときに因果な出来事が起こる。バス旅行番組で蛭子さんと名コンビだった太川陽介が転向してとなりの席になる。最初の頃は教科書もないから、根本が見せてあげていたという。

 

東洋大学文学部に入学する77年頃から、雑誌やラジオで歌謡曲を紹介していた近田春夫さんの影響で、それまでバカにしていた歌謡曲に目覚め、郷ひろみやたのきんトリオ関係のものを集め始める。

 

大学時代は同級生の「内田」という男の研究に明け暮れる

 

内田は同じ20歳なのに、母親より歳上の体の不自由な婆ァに、暴力とセックスの飴と鞭を武器に取りつき、長年不幸な境遇にめげずコツコツ貯めた金を吸い取り、あげく福祉の金にもたかり、婆ァの人生をより一層不幸のどん底に落とし入れた悪魔のような男。

 

その一方、その男はそこ抜けにマヌケで、くだらなく、浅薄で、どちらかといえばカラッとした陽性の人間で、同性や同世代の女や押しの強いおっかない婆ァには全然逆らえない、決して他人と争ったりできぬ小心者。しかし、全面的に自分より弱い者に対しては悪魔になる。

 

この内田との出会いが、その後の根本の漫画作品、そしてあらゆる表現、哲学において歩むべき道を決定づけた。(詳細は「因果鉄道の旅」を読むべし。)

1980年代


『ガロ』デビュー・ヘタウマブーム


81年になって初めて『ガロ』に漫画を持ち込む。その作品「青春むせび泣き」がいきなり翌月号に掲載されて、23歳で漫画家としてデビュー。小学生のころ以来、久々に描いた(ペンとインクと定規はそのとき初めて使用)漫画だった。

 

根本は漫画が好きで漫画家になりたいため持ち込みをしたわけではなく、『ガロ』自体への愛着から「参加したい」がために漫画を描いたものだったという。もし、このときボツになっていたら漫画家になっていなかった可能性は高いという。漫画家なりたくてアシスタントとなり独学なり下積みを得て漫画家になった漫画家たちと根本的な違いの1つといえる。

 

『ガロ』入選後、当時のヘタウマ・ブームのおかげでビックリハウスからすぐカットのしごとが来て、その後自販機のエロ本やタウン誌「浜っ子」で連載を持つようになり、生活ができるようになる。

 

当時のエロ本誌上における漫画は「捨て頁」と言われており「お金の出るガロ」と呼ばれており、丸尾末広や蛭子能収など多くのガロ系作家がガロと並行して、作品を発表していた。

 

『ガロ』以外での漫画活動が活発になった理由として、そもそも『ガロ』がノーギャラのため、青林堂に寄生しても食えないため、必然的にほかのメディアや活動幅を広げる必要があった。

 

根本に限らず、みうらじゅん、蛭子能収、平口広美、杉作J太郎など『ガロ』出身の作家の多くがマルチな才能を持っていたのは、ガロ系作家には才能の塊が多かったというよりも、むしろ『ガロ』にいては食えなかったからである。

 

『ガロ』デビューの翌年の82年、当時編集長の長井勝一の『ガロ編集長』の出版記念パーティに出席し、蛭子能収に出会い凄いショックを受ける。中国の奥地から連れてきた熊、もしくは映画『フリークス』に出てくるピンヘッドにそっくりだったという。また、この出版記念パーティで平口広美やひさうちみちおなど、ほかのガロ系作家と多く出会う。

 

1982年ガロ12月月号に発表した作品『一徹の恩返し』に問題のあるコマがあり、部落解放同盟から注意を受け、始末書を書かされながら仕事をする。しかし、長井は「せっかく今、勢いがあるのに、こういう事があって萎縮しちゃって描けなくなる方が問題だよ」と励まし、その後、根本は萎縮するどこか、さらに増長した漫画を描くようになった

1983年8月、初作品集『花ひらく家庭天国』(青林堂)を出版。翌年84年から嵐山光三郎による推薦を経て「平凡パンチ」に「生きる」の連載を始める。1990年に廃刊まで大きな支えたとなる。

 

『平凡パンチ』の連載は「生きる」と「生きる2」2つの「生きる」シリーズがある。最初の「生きる」は雑誌の部数低迷で誌面刷新に伴い連載が終了した。その後、半年ほどブランクがあり再び『平凡パンチ』で「生きる2」の連載が始まる。しかし、キオスクの倫理協会からクレームが来る。

 

その後、何回かはおとなしくするが、やはり怒られると萎縮するどこか、さらに増長する性格だった根本は(のちに「でもやるんだよ!」へとつながる」、獣姦マニアの吉田佐吉がさゆりが連れてきたペットの犬を獣姦する漫画を描き、再び倫理協会からクレームがきて連載打ち切りとなった。

アートディレクター湯村輝彦


また、当時のヘタウマ・ブームの中心人物である湯村輝彦が根本に注目し、声をかける。湯村が"アートディレクター”をしている広告の仕事をまわしてもらうようになる。

 

根本のイラストを手に微動だにせず、鋭い目付きで、根本の視線(上目づかい)に焦点をあわせ、口元をニヤッとさせ「う〜ん、イイね〜」と呟く湯村マジックに根本は完全にもっていかれる。「こいつは脈あり」とばかりも湯村の黒豹のような眼光が一瞬光り、根本は湯村輝彦氏の指導によりソウルの音盤コレクトに明け暮れるようになる。

 

なお、肝心の絵に関してはいつも「う〜ん、イイネ〜」だけで特に具体的な支持を受けたことはなかったが、人生で最も大切なことの1つ「請求書の書き方」を教わった

 

この頃の大きな仕事としてはHONDAのTVCF(FLASHというスクーター)の仕事も手がける。おそらく、湯村輝彦のようなヘタウマな作風で予算のかからない新人ということで決定した仕事だった。そのぐらい、当時のヘタウマ・ブームは根本にとって生活を支えになっていた。

 

ちなみにこのときの「ヘタウマの新人」候補に5人のぼり、最終的に根本と蛭子に決まるが、オンエア直前に蛭子のキャラは削除され、蛭子はいまだに根に持っているという。

前衛・特殊・中年愛・ロックンロール


根本は自身の漫画を『特殊漫画』と呼び、肩書として『特殊漫画家』を使い始める。特殊とは根本自身の定義は、まず「絵が下手だ」であること、次に普通の商業誌に連載する道が閉ざされた漫画であることだという。

 

また、生業を立てるという意味では特殊漫画家は職業ではなく、かといって趣味かといわれれば完全に趣味というわけでもない状態である。「前衛」という言葉がしっくりくるが、前衛で難しいのは、誰が読んでも面白くない前衛は簡単だけど、4000人読者がいるとしたら500人ぐらいは楽しんでもらわないといけないという信念がある。

 

1985年に2冊目の『固い絆のブルース』(青林堂)を出版。同年、3冊目『Let's go幸福菩薩』(JICC出版局=現・宝島社)出版。漫画界初の死体(写真)漫画を袋綴で収録したことで話題を呼ぶ。コラージュに使った死体の写真素材は、久喜という出版社が出していた高額な写真集を借りてきて複写したものである。

 

根本によれば、特に死体漫画をやりたかったというよりも、それまであった生身の人間の「写真漫画」に色気が鼻について「何か違うな」と違和感があり、自分なり根本なりの「写真漫画」を作ろうとしたときに死体写真がシックリきたという。

 

生きた人間の写真と異なり何も語らぬ死体を使うことで、何も語らぬゆえ、すべてを語り尽くす完璧の演技を果たしたと説明している。露悪趣味でやっているわけではなく、あくまで「根本流の写真漫画」、つまり前衛芸術である。

 

エログロ漫画はこの世に多数あるが、ほかのエログロ漫画家と根本と大きく異なる点として、根本作品で描かれるエログロの大半は「中年のオヤジ」であり、若いキラキラ目の萌え的な少女が描かれることはない。根本によれば、そこら辺のヘラヘラした若者を一万人描くよりも、土方のジジイ1人を書けば自身の世界が語り尽くせると考えているためである。

 

そして「作家の態度」として女のことは意識してはいけない。当時すでに漫画の9割はロリコン漫画やアニメになっており、あのキラキラ目の毒にも薬にもならない同質的な絵柄のロリコンアニメになってはいけないという心構えがあった。つまり、ロックンロールである。

 

この論理は「写真漫画」における死体と同じで、根本にとって若者を描くとシックリこなく、「要らない色気」を出すために「中年のオヤジ」が必要だったである。

 翌年、1986年には『月刊現代』(講談社)で『生きる』と同系の『村田藤吉生々流転』連載をはじめ、6月に『平凡パンチ』連載を収録した4冊目『生きる』(青林堂)を出版、5冊目『学ぶ』(河出書房新社)を出版、10月に『月刊現代』連載分もあわせた6冊目『生きる2』(青林堂)を出版。根本初期漫画作品のラッシュが続く。1988年に「ガロ」誌上に連載していた作品を収録した『天然・甲編』『天然・乙編』を出版。

 

1987年、それまでは学芸大学の実家で描いていたが、代官山から徒歩2分の人気マンション「パーフェクトルーム」に仕事場をかまえる。パーフェクトルームは「幻の名盤解放同盟」のメンバーである湯浅学の奥さんからまた借りしたもので、代官山から徒歩2分で、横長の十畳くらいのワンルームだった。

 

しゃれた家具も付いていて、クリエイターがたくさん住んでいて、家賃は6万8千くらいだった。当時は一週間ほど代官山に泊まり込みで仕事して、洗濯物がたまると実家に持って帰るという生活だった。

 

その後、短期間だけ恵比寿のマンションを経由して、駒沢大学駅前にある焼き鳥屋の三階の部屋に移転する。都築響一が東京の部屋を取材してまとめた『TOKYO STYLE』という写真集に載っているのがこの恵比寿の部屋である。この部屋で精子三部作と呼ばれる漫画のうちの二作、「タケオの世界」と「龜ノ頭のスープ」を描いた。

 

1989年に『平凡パンチ』がリニューアルしたパイロット版『NEWパンチザウルス』に「少年」を描く。編集の支持のもと原稿料は高くページ2万で、ほのぼのとした手を抜いた作品を描いていたが、結局、10回程度で連載終了。そこで、抑えたものが精子三部作の『タケオの世界』へと向かうことになる。

高木順


『花ひらく家庭天国』や『Let's go 幸福菩薩』など初期作品を見ると「高木順」という名前が根本敬と併記されている。高木順とは中学二年生のときからの同級生で、『ガロ』的な感覚とか感性を共有できた数少ない根本の友人である。

 

二人とも高校生のころから『ガロ』を読み始め、湯村輝彦と糸井重里の『ペンギンごはん』に衝撃を受け、二人で「ガロ」に描こうというこ流れになったという。そのため、正確には初期作品は「根本敬・高木順」である。

 

役割としては根本が主導で高木がアイデアを加えるパターンと、その逆で高木主導パターンがあった。しかし、高木が大学を卒業して大手の広告代理店に就職して忙しくなったり、途中差別問題もあったりして、ほとんど根本主導になってくることに高木は不満を抱えるようになり、その後いろいろあって高木とは疎遠になったという。

1990年代


精子3部作の一「タケオの世界」


1889年になってからガロ誌上で後に"大河精子ロマン三部作"と呼ばれる作品の最初の長編作品「タケオの世界」が始まる。

 

「タケオの世界」は1989年にガロに連載され、それが終了したあと、90年に描き下ろしが第二部という形で追加された形で単行本『怪人無礼講ララバイ』(青林堂)で出版された。

 

第一部はタケオが誕生してから小学生まで、第二部はタケオがオカマバーで働くようになった成人期という構成になっており、これまでの一話読み切りと異なる初の長編連載である。

 

「タケオの世界」は、漁船の乗組員・鈴木定吉が甲板でセンズリしているときに水爆実験に遭遇し、そこで射精された精子のひとつが突然変異して巨大化し、定吉と定吉の母に「タケオ」と名付けられ、人間と同じように育てられる話である。

精子人間として育ったタケオは学校で「ホルモン野郎」「精子のくせに生意気だ」など壮絶ないじめを受ける。しかし、5年梅組の花代だけがタケオの心のやさしさに気づき、友だちになりタケオを支えるようになった。

 

その後、父定吉が強姦で逮捕され、祖母が自殺すると、タケオは親戚の村田一家のもとに温かく預けられる。しかし、新しい学校でもタケオは好気の目にさらされ、再びいじめを受ける日々を送る。

 

出所した定吉がタケオのいる村田家に同居するようになり、ある日、歯医者にいこうとしたが休診日だっため、代わりにシャブを打ち痛みを止めようとする。しかし、幻覚と異常行動を招き、村田家に遊びに来ていたタケオの数少ない友人の花代を強姦して再逮捕。居づらくタケオは村田家を自主的に離れ、孤児院に入るところで第一部は終了。

 

それから約30年後、新宿のオカマバー「タケオの世界」でタケオがママを勤めているシーンから第二部が始まる。

 

客との談笑中、タケオは「精子ってのは男も女もオカマも超絵した人間の前段階、未知の可能性を秘めいている神様に近い存在である」と精子の優越性を主張する。子ども時代と違ってタケオは非常に自身を持つようになっていた。

 

タケオがオカマになったのは父親の定吉の影響が大きい。出所後、以後女に手を出さなことを誓った定吉は、代わりにオカマへと向かい、そこでゲイ界隈に夢と希望を与えるスターとなる。

 

父の知り合いのオカマの指導のもとタケオは武術を学び、不良からのいじめを撃退するようになる。また、三島由紀夫の文学に親しむようになりボディビル大会に出場して優勝。どんどん自身を持つようになるもつかの間、就職問題で差別の壁にぶち当たる。結局、定吉のオカマ友だちが経営するオカマバー「タケオの世界」でタケオは働くことになった。

 

そんなところにかつての友人で、現在はソープ嬢になっている花代とバーで偶然再会する。強姦されたことでチンポ嫌いになった花代は、その後、広瀬隆のチェルノブイリ原発事故関連の本の熱心な読者となり、反原発デモに毎日のように参加し、ガイガーカウンター携帯してスーパーで販売されている食品を検査する立派な左翼女に成長する

 

ある日、ヨーロッパの反核集会にするため渡航するが、途中墜落事故にあいアルプス山脈に墜落。運良く花代は生き延びわずかな食料で救援を待つがなかなか発見されず、食料が底を付き、墜落死した死体の人肉を食べるか悩む。

 

そんな過酷の状況下においてもロシア人の遺体は放射性物質が含まれているため食べないよう生き残った同志は注意するが、「生きるか死ぬかで人肉まで食おうというときに放射能もクソもあるか」と気づき、原発問題はすべて忘れ、ロシア人の人肉を食べることで生き延びた

 

再会して二人の苦労を話あったタケオと花代は愛し合うようになる。最後はタケオがチンポを交わさず、花代の膣に直接入り妊娠することでハッピーエンドとなる。

 

人工授精、体外受精、原発問題、フェミニズム、差別、優勢主義、LGBT、カニバリズム、覚醒剤問題を先取りした作品である。

漫画評論家の呉智英は「タケオの世界」が収録されている単行本『怪人無礼講ララバイ』で以下のように本作品を解説している。

根本敬は「タケオの世界」を描いて私を驚喜させた。掲載誌は「ガロ」。「ガロ」以外では連載不可能だったような思い切った作品である。連載中、私はワクワクハラハラのしどおしだった。ワクワクの理由はもちろん面白かったからだ。ハラハラの理由は二つある。一つは、根本がひょっとすると、プラスの方向にしろマイナスの方向にしろ、良識を意識するようになるのではないかという懸念である。つまり、良識の後押しをするマンガや逆に良識の側からの掣肘がありはしないかという危惧である。始まり方が始まり方だけに、こういう懸念や危惧は抱くのも無理はない。が、それは杞憂に終わった。根本は何の躊躇もなく第一部を終了した。 第二は描き下ろしである。私はこれを心待ちにしていた。90年の年が明けてから、一般読者に先がけて、私はコピーでこれを読むことができた。よくぞ最後までこれだけ滅茶苦茶な話が描けたものである。しかもラストシーンに向かって、あらゆる方向に膨張し続けた滅茶苦茶な話が一気に収斂して行く。作品を「作る」というのは、こういうことを言うのだ。(呉智英)

『未来精子ブラジル』の休筆の理由


その後、「タケオの世界」「ミクロの精子圏」に続く3冊目の大河精子漫画「未来精子ブラジル」は、ガロ誌上に連載されていたが中断となり、結局「未来精子ブラジル」は92年に未完のまま現在にいたる。

 

ガロビデオ制作、エッセイ、音楽など漫画やカット以外の活動が圧倒的に多くなっていたころで、とても漫画の連載作品を続けるだけの集中力はなくなっていたのが休筆の理由の1つである。

 

たとえば、 この頃に青林堂が企画していたガロビデオのプロデュースに関わるようになる。根本が実際に制作に携わったのは「因果境界線」「ひさご」だが、「障害者はお前だ!」元を正せば根本のしかけのため、ビデオ全般に携わっていた。

 

また、我が男遍歴をテーマにした初エッセイ集『因果鉄道の旅』、1994年の「ディープ・コリア」「ディープ歌謡」など文筆活動が佳境に入っていた時期でもあり、さらに幻の名盤解放同盟での音楽出版およびイベントなど音楽関係の仕事も活発な時期だった。

 

2012年刊のエッセイ集『タバントーク』にも書かれているが、根本の場合、集中力が著しく散漫で乱れやすく、また集中することへの自分自身の駆り立てにいつも苦心しているという。

佐川一政とのコラボレーション


根本は1994年に結婚のため長年住んでいた東京都を離れ、たまプラーザの三階建てマンションに移る。このマンションの隣にあった木造のアパートを仕事部屋として借りて使っていた。

 

引っ越したあと、友沢ミミヨに住所を伝えたら「えっ、この前取材で会ったパリ人肉事件の佐川一政さんの自宅が住所だよ」と言われる。

 

移った先のマンションから徒歩一分のところに、偶然、佐川一政が住んでおり二人は交流をはじめ、コラボレーション作品が多数生まれる。

 

『パリ人肉事件/無法松の一政』は81年に世界を震撼させた名作猟奇事件を当事者佐川が語り、根本敬がビジュアル化した悪魔のコラボレーション作品である。『まんがサガワさん』では根本の指導・アシストのもと佐川自身がパリ人肉事件を漫画化している。

 

佐川のエッセイ『殺したい奴ら』ではほぼ前ページの版下、デザイン、イラスト、カバーを担当している。

 

また、ここで長男が生まれ、悪趣味ブームの追い風で95年には最初で最後の「1000万越え」を経験した。その後、たまプラーザ内で移転し、新たに双子の子どもをもうけるが、家族のバンドは解散し、新メンバーとバンドを組む。

『進研ゼミ』の漫画


1990年代の異色作品に『進研ゼミ』に描いた『白馬くん』がある。描くきっかけとなったのはスージー甘金を知り合いのデザイナーに紹介した際に福武書店(現在のベネッセ)の『進研ゼミ』の編集者がたまたま同席しており、仕事をする流れになった。

 

『進研ゼミ』で描いた作品は、根本が今まで描いた漫画のなかで一番「普通」の漫画で、初期の藤子作品や赤塚不二夫の『おそ松くん』のような感覚で描いたという。

年表


■1958年

・6月28日、東京都渋谷区で生まれ、目黒区鷹番で育つ。

 

■1962年

・この頃より約20年、喘息とつき合い、人生観の土台に多大な影響を受ける。幼稚園では集団行動に何かと支障をきたす。しばしば脱走する。

 

■1964年

・この頃より、水木しげる、赤塚不二夫の漫画に大変親しむ。

 

■1965年

・8月、コダマプレス版『墓場の鬼太郎』を入手、水木しげるに目覚める

 

■1968年

・9月、本屋でガロ10月号を立ち読み、林静一『花ちる街』を見てショックを受ける。「見てはいけないものを見た、という感じ」根本談

 

■1974年

・この頃から『ガロ』を読み出す。いつしか何でもいいから、自分も『ガロ』に参加したいという気持ちを抱く。

 

■1976年

・3月、ガロ4月号、糸井重里+湯村輝彦『ペンギンごはん』に衝撃を受ける

 

■1977年

・大学にて船橋英雄と邂逅。身体の不自由な、しかも実母より歳上の大衆食堂の未亡人の体を奪い、暴力とセックスで食堂を乗っ取り店を潰した後、福祉の金、つまり骨までシャブッた「内田」という男の追跡研究に明け暮れる

 

■1979年

・根本・船橋でその内田の研究本『駕籠町喜劇』(コピー本限定30部)刊行。

 

■1981年

・『ガロ』9月号に『青春むせび泣き』で入選、漫画家デビュー

・ヘタウマ・ブームに乗り、『ビックリハウス』のイラスト、自販機のエロ本等から仕事がきてデビュー後すぐに活動の幅を広げる。

・この年の『エロトピア・デラックス』で安部慎一の「僕はサラ金の星です」を読み、全身骨ぬきとなる。

・12月、タウン誌『浜っ子』の忘年会で湯浅学と邂逅。

 

■1982年

・長井勝一『ガロ編集長』出版記念パーティで蛭子能収と出会いショックを受ける

・春、船橋、湯浅と「幻の名盤解放同盟」の前身『廃盤水平社』結成。

・初夏、ガロに掲載された『一徹の恩返し』が本家・解同に注意を受ける。

・夏、湯村マジックにハマり、湯村輝彦氏の指導によりソウルの音盤コレクトに明け暮れる。

・9月、自販機本『コレクター』(群雄社)誌上で「幻の名盤解放同盟」デビュー

 

■1983年

・『ガロ』系漫画家の催しで京都・大阪へ。蛭子能収と川崎ゆきお氏のツーショットに痺れる。『ガロ』の漫画家になって良かったとつくづく思った。

・8月、初作品集『花ひらく家庭天国』(青林堂)出版。

・キャラクター《村田藤吉》がHONDAのTVCFに起用される。

 

■1984年

・4月、嵐山光三郎の推薦により、マガジンハウス『平凡パンチ』誌上で『生きる』連載開始。初のメジャー誌連載。以後、1990年に廃刊になるまで『パンチ』とはいろいろと関わる。

・9月、同盟、初の渡韓。「イイ顔」を意識化する。また、ポンチャック・ディスコにも開眼。

 

■1985年

・1月、2冊目の『固い絆のブルース』(青林堂)出版。

・4月、ガロ誌上で初の長編作品『天然』連載開始(〜88・4月)

・3冊目『Let's go幸福菩薩』(JICC出版局=現・宝島社)出版。漫画界初の死体(写真)漫画を袋綴で収録。

・5月、二度目の渡韓、以後年二度のペースで渡韓。

・9月、不動産業にして在日朝鮮人歌手・川西杏のステージを初体験、以後「スターとファン」、友人、そして「奥崎と原一男」のような関係で親交を結ぶ。

 

■1986年

・この頃から『月刊現代』(講談社)で『生きる』と同系の『村田藤吉生々流転』連載。

・6月、『平凡パンチ』連載を収録した4冊目『生きる』(青林堂)出版。

・5冊目『学ぶ』(河出書房新社)出版。

・10月:『月刊現代』連載分もあわせた6冊目『生きる2』(青林堂)出版。

 

■1987年

・12月、渡韓の際のフィールドワークなどを集大成した同盟初の共著本・『ディープ・コリア』(ナユタ出版会)出版。

・奥崎謙三主演、原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」が公開され、衝撃を受ける

 

■1988年

・平凡社『QA』誌に漫画「怪人無礼講ララバイ」連載。編集部に毎回非難の嵐。大いにヤル気となるも結局半年で連載終了。

・6月、初の長編作品『天然』を7冊目『天然・甲編』(青林堂)出版。

・9月、8冊目『天然・乙編』(青林堂)出版。

 

■1989年

・5月、ガロ6月号より「精子3部作の一」『タケオの世界』連載開始(〜90・1月)。

 

■1990年

・2月、JICC出版局のコミック誌『ロッコミ』に『21世紀の精子ン異常者』を描く。以後5年間商業コミック誌より漫画の発注無し。

・3月、『タケオの世界』に描き下ろし、平凡社『QA』連載の『怪人無礼講』シリーズを加えた9冊目『怪人無礼講ララバイ』(青林堂)出版、各方面から絶賛。

・4月、ガロ5月号より「精子3部作の二」『ミクロの精子圏』連載開始(〜90・8月)

・7月、『ミクロの精子圏』後半を一挙描き下ろし、10冊目『龜の頭のスープ』(マガジンハウス)出版。

・12月、ガロ1月号より、「精子3部作の三」『未来精子ブラジル』連載開始(〜92・4月)、今日(2019年末時点)まで未完。

 

■1991年

・伊豆・大滝ランドにて、大仏、おっと不動明王と邂逅。根源的問いかけを受けたり、因果の具現化を見せられたりする。初めて見た瞬間に自分が求めていた何モノか(所謂因果・純粋マヌケ美等)を具現化したヤツだと感じる。

・春、マディ上原とマガジンボイス『投稿ドッキリ写真』誌上で特殊漫画ユニット『お岩』結成。

・この頃、夏祭りは寿町で過ごす。

・9月、TVK(テレビ神奈川)『ファンキートマト』にレギュラー出演(〜93・3月)。司会は電気グルーヴ。後にゴーバンズ森若香織。

・絶版となった1、2、3作目までの中から抜粋した作品に、単行本未収録作を加えた作品集、11冊目『豚小屋初犬小屋行き』(青林堂)出版。

・12月:『怪人無礼講ララバイ』単著で初の再販(第二版)。

 

■1992年

・2月、吉祥寺MANDALAⅡで同盟+突然ダンボールの特殊音楽ライブ『ぺったらぺたらこナイト』プロデュース、250人満員札止め・失神者1名。

・3月、大阪心斎橋・ギャラリーパライソで個展『暗黙の了解の秘め事』開催、その後「島中の女が買える」というM県W島の取材刊行。

・4月、「大博士」の大宮イチが「アタシ、近いうちに根本さんが勝新に会うような気がするんです」と予言。

・5月、『宝島』誌より「勝新のインタビューやりませんか?」との依頼。遂に勝新太郎大陸に上陸。大宮イチの予言的中。以後、度々上陸する機会を得、毎回多くを学ぶ。

・6月、クラブチッタ川崎にて第二回『ぺったらぺたらこナイト』開催。観客動員数250人。

・7月、ガロ10月号の特集及びビデオの取材で青森県・恐山へ。イタコの口寄せにより、5月24日に自殺した山田花子インタビューを刊行。

・9月、ガロ10月号、根本を中心に『特殊漫画博覧会』特集。「真面目な読者達」に不評を買う。「あのメンツで対談して、誰がマトモな事を言うか。サービスだよ、基本は。ツマラン『本音』より、面白いこと喋ったほうがよいだろう。これでも皆一応『プロ』なんだから。」(根本談)

・初のリトグラフを発売((株)ツァイト)。

・米国『PICTOPIA』誌に『21世紀の精神ン異常者』が翻訳・掲載。米アンダーグラウンドコミック界に衝撃を与える。

・トムズボックスより限定版のコラージュ・コミックなどのノイズ絵本『  』上梓。

・11月、渋谷CLUB GUTTROにて『ガロ特殊歌謡祭92』プロデュース・開催、550人満員札止め。

・全面監修のガロビデオ②『因果境界線』(青林堂)発売。

・12月、PIVINEレコードより同盟監修による『幻の名盤解放CD』シリーズ発売開始、廃盤ブームの火付けとなる。

 

■1993年

・1月、TVK『ファンキートマト』根本敬特集。ゲストに平口広美、北公次、BCGというとんでもない組合せ。

・3月、14年続いた『ファンキートマト』突然の打ち切りに。

・春、テリー伊藤氏と北朝鮮へ行く。この時の見聞がベストセラー『お笑い北朝鮮』となる。

・4月、『ガロ特殊歌謡祭92』を収録したガロビデオ③『ひさご』(青林堂)発売。

・5月、10年来崇拝していた音楽家、藤本卓也先生に会う。以後懇意にして頂くが先生は最近根本に「いつまでもああいう漫画ではなくアンパンマンのようなものを描いて子どもに夢を与えなさい」と、宣うのであった。

・6月、渋谷ギャラリーART WADSにて同盟初の展覧会。

初の文字による単行本、12冊目『因果鉄道の旅』(KKベストセラーズ)出版。文中の「でもやるんだよ!」が年末、「バカサイ(『週刊SPA』)」の流行語大賞に輝く

・同盟の音楽部門の集大成、共著『ディープ歌謡』(ペヨトル工房)出版。

・8月、マディ上原とのユニット『お岩』のオールカラー限定作品集『お岩』(青林堂)上梓。

・9月、通天閣の似顔絵描きで浮浪者の其風画伯と銀座のゴージャスな画廊で二人展。大阪よりお連れした先生は行方不明に。しかし会場には森若香織(ゴーバンズ)、なべやかん等芸能人の姿も。

・ガロ10月号で根本+同盟特集『夜、因果者の夜』。しかし「アジアの民衆に対する視点に問題がある」と、大いに不評を買う。

・12月、ヒデさん(『ひさご』参照)の御好意により、「組」の血縁盃の儀式に紛れ込む。髪はオールバック、礼服で表情はなるべくキツく、と必死に役作り。が、歌好きの組長が昔からコレクトしていた廃盤レコードの歌い手とわかりビックリ。

 

■1994年

・結婚のために長年住んでいた東京都を離れ、神奈川県民に。越したマンションから徒歩一分のところに偶然、佐川一政氏が。以後、現在まで交友を深める。

・ドヤ街の夏祭り通いを寿町から釜ヶ崎に変える。

・ヌード写真とウンコのイラストがコラージュされた下品な選挙ポスターで地元政界を揺るがす影山次郎氏に会うため、淡路島を訪れる。

・11月、ナユタ版に大幅加筆、同盟共著『定本・ディープ・コリア』(青林堂)上梓。各方面から大絶賛。

・福武書店(現・ベネッセ)の教育誌『チャレンジkid's』に漫画を連載。

・西武セゾン劇場で「不知火検校」上演中の勝新太郎をインタビュー。『週刊SPA』に掲載。

・12月:『定本・ディープ・コリア』驚異的ペースで第二版。

 

■1995年

・『宝島30』に連載(そもそもの企画・担当はあの町山智浩氏)していた因果者ルポ『人生解毒波止場』出版。現在まで3万部ほど出た。根本の本の中でもっとも幅広く読まれる事に。漫画は抵抗あるが文章は読んでも良いという読者が増えて、漫画の読者をはるかに超える。

・文藝春秋刊『コミック95』(後の『コミックビンゴ』)秋号に漫画「キャバレー青春スター」を描く。これが現在のところ、最後の商業コミック雑誌登場となっている。

・2月、レントゲン藝術研究所でコンプレッソ・プラスティコ山塚アイ、テクノクラートと『909』展。テクノの飴屋法水氏に頼まれ「芸術」のため精子提供、展示される。なお、根本当人は各々畳2畳分ほどのきんさんぎんさんポルノを展示したところ英国人コレクターJW氏が6万円で購入。

・4月、『怪人無礼講ララバイ』第三版。「この本が約1年版品切だったのは痛かった。」(根本談)

・5月、『定本・ディープ・コリア』異常なペースで第三版。

・自分が原作者としか思えぬほど独特のキャラクターを持つフナクボヤスシという亀が甲羅からスッポ抜けたような男と出会い、一目惚れ。「ガロビデオ」第六弾としてその男(芸名・亀一郎とつける)主演のビデオを撮影。タイトルは『さむくないかい』。

漫画単行本リスト


『花ひらく家庭天国』青林堂、1983年

『Let's go 幸福菩薩』JICC出版局、1985年

『固い絆のブルース』青林堂、1985年

『学ぶ 村田藤吉学級日誌』河出書房新社、1986年

『生きる 村田藤吉寡黙日記』青林堂、1986年

『生きる2』青林堂、1986年

『天然・甲篇』青林堂、1988年

『天然・乙篇』青林堂、1988年

『怪人無礼講ララバイ』青林堂、1990年・青林工藝舎(改訂版)、1999年

『龜ノ頭のスープ』マガジンハウス、1990年・河出文庫、1996年・青林工藝舎、2005年

『豚小屋発犬小屋行き』青林堂、1991年・青林工藝舎、2010年

『饅邁(という字によく似た造語)』トムズボックス、1992年

『黒寿司』ブルース・インターアクションズ、1997年

『天然(完全版)』水声社、1998年

『心機一転土工! 父ちゃんのやきいもがきこえる』青林工藝舎、2000年

『生きる(増強版)』青林工藝舎、2001年

『学ぶ(テレグラフ版)』テレグラフファクトリー、2003年

『命名「千摺」と書いてたろうと読む。』青林工藝舎、2004年

『生きる2010』青林工藝舎、2010年

著書


『因果鉄道の旅』KKベストセラーズ、1993年・幻冬舎文庫、2010年

『人生解毒波止場』洋泉社、1995年・幻冬舎文庫、2010年

『キャバレー妄想スター』ブルース・インターアクションズ、1996年

『電氣菩薩(上巻)』径書房、2002年

『夜間中学 トリコじかけの世の中を生き抜くためのニュー・テキスト』情報センター出版局、2004年

『真理先生』青林工藝舎、2009年、初の小説集

『映像夜間中学講義録 イエスタディ・ネヴァー・ノウズ』K&Bパブリッシャーズ、2009年

『特殊まんが 前衛の道』東京キララ社、2009年

『果因果因果因』平凡社、2011年、「ウェブ平凡」連載に書き下ろしを加えた小説集

『タバントーク』青林工藝舎、2012年

共著


『ディープ・コリア 観光鯨狩りガイド』(湯浅学、船橋英雄との共著)ナユタ出版会、1987年

『お岩』(マディ上原との共著)青林堂、1993年

『ディープ歌謡 The dark side of Japanese pops』ペヨトル工房、1993年

『定本 ディープ・コリア 韓国旅行記』青林堂、1994年

『人情山脈の逆襲』(湯浅学との共著)ブルース・インターアクションズ、1996年

『電波系』(村崎百郎との共著)太田出版、1996年

『夜、因果者の夜』ペヨトル工房、1997年

『パリ人肉事件 無法松の一政』(佐川一政との共著)河出書房新社、1998年

『時代の体温 - 陰核・混沌の隣人たち』(CDブック、作画:根本・作音:湯浅学)水声社、1999年

『バリの空の下、人は流れる』(船橋英雄の初のメイン著書、根本は湯浅学とともにサポート的に参加)水声社、2000年

『幻の名盤百科全書』水声社、2001年

『豪定本 ザ・ディープ・コリア』(湯浅学、船橋英雄との共著)ブルース・インターアクションズ、2002年

『お色気ディープ東京』ブルース・インターアクションズ 、2002年

『亀 コロ』(絵本、文はクレイジーケンバンドの横山剣、根本は挿絵を担当)ブルース・インターアクションズ、2009年

『ドントパスミーバイ』(湯浅学との共著)河出書房新社、2011年、FM番組の書籍版、スタジオの模様を収録したDVD付

『元祖 ディープ・コリア』(湯浅学、船橋英雄との共著)K&Bパブリッシャーズ、2013年

画集


『THE END』ERECT magazine、2012年、ドローイング作品集、通常版に加え限定版(A1ポスター付 / 100部 限定)も販売

『ブラック アンド ブルー』東京キララ社、2016年、レコジャケ画集

映像作品


因果境界線 - 青林堂、1992年、ビデオ

ひさご - 青林堂、1993年、ビデオ

川西杏・幻の大本営 - 青林堂、1993年、ビデオ

さむくないかい - 青林堂 1996年、ビデオ

神様の愛い奴 - ロフト・シネマ、1998年、DVD

さむくないかい・デラックス エディション - HOW DOES IT FEEL? - アップリンク、2010年、DVD

音楽作品


愛駅 - 2011年、BLACKSMOKER RECORDS、ミックスCD

君がほしい(ちょっと待ってください)~She's so heavy~ - 2015年、BLACKSMOKER RECORDS、ミックスCD

CM


■参考文献

根本敬公式ホームページ

・『タバントーク』青林工藝舎

・『因果鉄道の旅』KKベストセラーズ

・『特殊まんが 前衛の道』東京キララ社

・『怪人無礼講ララバイ』青林堂

・『心機一転土工! 父ちゃんのやきいもがきこえる』青林工藝舎

・ガロ1995年8月号

・『根本敬ゲルニカ計画』二コ・ニコルソン

・『ヘイト・悪趣味・サブカルチャー 根本敬論』香山リカ