モーリス・ド・ブラマンク / Maurice de Vlaminck
ドランやマティスらとフォーヴィスムで活躍
概要
モーリス・ド・ブラマンク(1876年4月4日-1958年10月11日)はフランスの画家。
アンドレ・ドランやアンリ・マティスらとともにフォーヴィスム運動を率いた重要な画家の一人。後期印象派、特にゴッホの影響が色濃く見られる画風が特徴。1905年に開催され、フォーヴィスム運動のきっかけにもなった展示サロン・ドートンヌにも作品を展示している。
なお、1900年にアンドレ・ドランに会うまでは完全に独学の画家だった。ほかに文章を書くのが得意で、多くの自伝を書き残している。
略歴
ゴッホの影響が強い初期作品
モーリス・ド・ブラマンクはパリのレアールで生まれた。父エドモンド・ジュリアンはフランドル人でヴァイオリンの教師。母ジョセフィーナ・キャロライン・グリエはロレーヌ地方出身でピアノの教師だった。
幼少の頃、モーリスは父からヴァイオリンを教わっており絵は描いていない。ブラマンクが絵を描き始めたのは10代後半から。16歳のときに家を出てシャトーに移り、1893年にブラマンクはイル=ド・シャトウでアンリ・リガロンという名前の画家から絵を学ぶ。翌年の1894年に最初の妻スザンヌ・ベルリーと結婚。
人生のターニングポイントとなるのは、兵役の任務を終えてパリへ向かう電車に乗っているときのこと。1900年、ブラマンクが当時23歳のときにその後生涯の友となる画家アンドレ・ドランと偶然電車で隣に乗りあわせる。二人は絵画の話に夢中になり、その勢いで共同のアトリエを構えるまでになった。
ブラマンクの初期の重要な2つの絵画「酒場」と「パイプを吸う男性」は1900年に制作された。酒場で描かれている女性は娼婦、男性は孤独な人だという。翌年、ブラマンクはシャトー近郊に移り、ドランやマティスなどほかのフォーヴィスムの作家と展示を行っている。当時のブラマンクはヴィンセント・ヴァン・ゴッホの影響を受けているため、彼の絵画は大胆にさまざまな色を使用していたという。ほかにトゥールズ・ロートレックの影響も見られる。
1902年から1903年の間、ドランはポルノ小説を挿絵を描いて生計をたてていたという。昼に絵を描き、夜はバイオリン教室を行い、またミュージカルバンドと演奏をしていたという。
フォーヴィスム
1905年にブランマンク、アンリ・マティス、アンドレ・ドラン、アルベール・マルケ、キース・ヴァン・ドンゲン、シャルル・カモワン、ジャン・ピュイらと物議をかもした展示サロン・ドートンヌに参加。
その鮮やかでありながらも不自然な色合いの作品を見た批評家ルイス・ヴォクセルは「フォーヴ(野獣)」と叫んだ。これをきっかけにフォーヴィスム運動が始まった。
フォーヴィスム以後
1908年ごろから、色味はおさえられるようになるが、これはポール・セザンヌの影響が大きいという。さらにのち作品になると薄暗い平面的だった絵画は一転し、鮮やかな白が目立つ色彩に変化する。
1911年にブラマンクはロンドンを旅行し、ロンドンをテーマにしたシリーズ絵画を描く。
1913年にはマルセイユで再びドランやマティスらと共同でアトリエを借りて絵を描き始める。
第一次世界大戦が勃発するとブラマンクはパリに駐留し、詩を書き始める。その後、パリ郊外の小さな村リュイユ=ラ=ガドゥリエールに移り、二人目の妻ベルテ・コンブと結婚。1925年からフランス国内を旅行するものの、おもにパリ近郊のセーヌ川の絵を描き続けていた。
フォーヴィズム運動が下火になり、かわってキュビスムの勃興に憤慨したブラマンクは「フランス絵画を悲惨な結末と混乱状態に陥れた」としてピカソを非難する。第二次世界大戦が勃発するとブラマンクはドイツを訪れ、1942年6月に発刊された雑誌「Comoedia」上でピカソやキュビスムに反対する記事を書いて攻撃を行った。
1958年10月11日、リュイユ=ラ=ガドゥリエールで死去。