【美術解説】マーク・ロスコ「瞑想する絵画」

マーク・ロスコ / Mark Rothko

瞑想する絵画


マーク・ロスコ「緑と栗色」(1953年)
マーク・ロスコ「緑と栗色」(1953年)

概要


生年月日 1903年9月25日
死没月日 1970年2月25日
国籍 アメリカ
表現形式 絵画
ムーブメント 抽象表現主義
関連サイト

The Art Story

WikiArt

マーク・ロスコ(1903年9月25日-1970年2月25日)はロシア・ユダヤ系のアメリカの画家。一般的には抽象表現主義運動の作家とみなされているが、ロスコ自身はいかなる芸術運動にもカテゴライズされることを拒否している。ジャクソン・ポロックやウィレム・デ・クーニングとともに戦後アメリカの美術家で最も有名な1人としてみなされている。

略歴


幼少期(ロシア時代)


マーク・ロスコは、ロシア帝国時代のヴィテプスク県ダウガフピルスで生まれた。父ヤコブ・ロスコは薬剤師で知識人。父は宗教的なしつけよりも世俗的で政治的なしつけをした。

 

ロスコによればマルクス主義の父は極端な無神論者だったという。ユダヤ人は当時、ロシアで差別され非難されていたため。ロスコの幼年時代はそのような恐怖に悩まされていた。

 

ヤコブ・ロスコの収入は少なかったにもかかわらず、父は高度な教育を子どもたちに行っていた。家族はみな読書家だったとロスコの妹は当時の環境を話している。また、ロスコはロシア語、イーディッシュ語、ヘブライ語を話すことができた。

 

父がユダヤ教に回帰すると、四人兄弟で一番下だったロスコは5歳のときにユダヤ教の初等教育施設ヘデルに入学させられ、タムルードを学んだ。ほかの兄弟は公立学校に通った。 

幼少期(アメリカ時代)


兄弟たちがロシア帝国軍に徴兵されることをおそれ、ヤコブ・ロスコはロシアからアメリカへ移った。マークは母と姉のソニアとともにロシアに残った。1913年後半にマークたちもニューヨークのエリス島に移民として到着。国を越えてオレゴン州ポートランドにいる兄弟たちと合流する。しかし数ヶ月後に父ヤコブは大腸がんで死去して生活が苦しくなった。母ソニアはレジ打ちとして働き、マークは叔父の倉庫で働き、兄弟たちは新聞配達の仕事をした。

 

父の死はマークと宗教の関係を断ち切るきかっけにもなった。地元のシナゴーグで1年間父の死を悼んだ後、その後決して宗教に足を踏み入れることはないと誓った。

 

マークは1913年にアメリカの学校に入学。すぐに3年生から5年生に飛び級進学。17歳でポートランドのリンカーン高等学校を卒業した。この時点でマークは英語を含めて4ヶ国語を話すことができた。その後、ユダヤ人コミュニティセンターの積極的なメンバーとなり、政治議論を身につけるようになった。

 

父と同じくロスコは労働者の権利や女性の避妊の権利などの問題について情熱を持っていた。ポートランドはアメリカの革命運動の中心地であり、革命的なシンジケート主義労働組合(IWW)が最も強い地域だった。

 

急進的な労働者の会議のまわりで育ったマークは、ビル・ヘイウッドやエマ・ゴールドマンらが参加しているIWWの会議に出席、そこでのちにシュルレアリスムの弁護で使う強い弁論術を学んだ。

 

ロスコはエール大学から奨学金を受け取っていたが、1922年の学年度末には奨学金を更新されなかったので、学費を捻出するためウェイターやデリバリーボーイのアルバイトをした。

 

ロスコはエール大学のコミュニティはエリート主義で人種差別主義であることがわかってきた。そこでロスコと友人のアーロン・ディレクターは風刺雑誌『エールの土曜の夜の害虫』を創刊し、学内のブルジョワ的な雰囲気を揶揄した。

 

大学でのロスコの態度は勤勉な生徒よりも独学の性格が強く、当時の学生友人たちもロスコはまったく学校の勉強をしていないように見えたが、貪欲な読書家ではあったと話している。大学2年生の終わりに、ロスコは退学。46年後に名誉学位を授与するまで大学に戻ることはなかった。

ロスコ一家(1910年)。マーク・ロスコは左下の犬を抱いている少年。
ロスコ一家(1910年)。マーク・ロスコは左下の犬を抱いている少年。

アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク


1923年秋にロスコはニューヨークのガーメント地区で仕事を見つけた。アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークにいる友人を訪れたさい、ヌード・モデルをスケッチしている生徒を見て、芸術家になることを決める。

 

ロスコはその後、パーソンズ美術大学に入学する。教員の1人はアーシル・ゴーキーだった。これは、ロスコにとってアメリカ前衛芸術家の最初の出会いだったが、ゴーキーの支配的な性格もあって二人は決して仲良くなることはなかった。ロスコはゴーキーの授業について「過度に監督しようとする」と言及している。

 

同年秋、同じロシア・ユダヤ系の画家だったキュビストのマックス・ウェーバーの静物画授業を受ける。ウェーバーはフランスの前衛芸術運動で活躍した画家だった。ウェーバーはモダニズムをよく知りたいと思っていた生徒にとって「近代美術史の生きた図書館」と見なされていた。

 

ウェーバーの指導のもと、ロスコは芸術を感情的なものや宗教的な表現を行うための道具とみなしはじめた。この時代のロスコの絵画は、ウェーバーの影響下にあったことは明らかである。数年後、ウェーバーは元学生であるロスコの展覧会を訪れたとき、彼の作品を賞賛し、ロスコもまたその賞賛を非常に喜んだ。

初期作風


豊かな芸術的雰囲気のニューヨークは、ロスコを芸術家として確立させた。ニューヨークのギャラリーではいつも近代美術家たちの個展が行われており、街の美術館では新人アーティストにとって知識を増やしたり、技術を伸ばすための貴重な場所だった。

 

ロスコの初期作品の中にはドイツ表現主義的なものが見られるが、これはパウル・クレーやジョルジュ・ルオーの影響が大きい。1928年にロスコはオポチュニティギャラリーで、ほかの若手アーティストたちとグループ展に参加している。当時のロスコの作品は、表現主義風の暗いムードの作品で都市の風景を描いたものだったが、批評家や仲間までロスコの絵の評判は上々だったという。

 

それにもかかわらず、ロスコはまだほかに収入を補う必要があったため、1929年にブルックリン・ユダヤ・センターのセンター・アカデミーで絵画や彫刻の授業を始めた。1952年までこの場所での美術の授業は続いた。

ミルトン・エイブリーの影響


1930年代諸島、ロスコはアドルフ・ゴットリーブ、バーネット・ニューマン、ジョセフ・ソルマン、ルイス・シャンカー、ジョン・グラハムらと出会う。彼らは15歳ロスコより年長の画家ミルトン・エイブリーの周辺に集まっていた若手アーティスト集団の一人だった。

 

エレーヌ・デ・クーニングによればエイブリーはロスコにプロの芸術家の人生のアドバイスを与えた人物であるという。エイブリーの形態と色に関する豊かな知識を用いた自然画はロスコに多大な影響を与えた。

 

エイブリーに出会うやいなやロスコの絵画にはエイブリーとよく似た色彩や主題が現れはじめた。たとえば、1933年から1934年に制作した《海水浴場もしくはビーチ》などでエイブリーの影響が見られる。

マーク・ロスコ《海水浴場もしくはビーチ《》」(1933−1934年)
マーク・ロスコ《海水浴場もしくはビーチ《》」(1933−1934年)

ロスコ、ゴットリーブ、ニューマン、ソルマン、グラハムをはじめ彼ら若手アーティストのメンターであったエイブリーは、マサチューセッツ州のグロスターやニューヨーク州ジョージ湖でともにバケーションを過ごした。昼間は絵を描き、その後夜には討論を行った。

 

1932年にニューヨーク州ジョージ湖を訪れた際、ロスコは宝石デザイナーで、のちに妻となるエディス・サッチャーと出会う。

 

翌夏にロスコの最初の個展がポートランド美術館で開催された。おもに絵画や水彩画で構成された展示だった。ロスコはこの展示にさいし、彼のセンターアカデミーのこどもたちの作品も展示するという、非常に珍しい展示をおこなっている。

 

ロスコの家族は、世界恐慌でアメリカ全体が経済的に苦境な状況のなか、芸術家になろうとするロスコの決心がまったく理解できなかった。

東海岸で初個展


ニューヨークに戻るとロスコは、コンテンポラリーアート・ギャラリーで東海岸で初個展を開催する。いくつかの水彩画やドローイングとともに、おもに肖像画の油彩作品を15点展示。これらの作品の中で、油彩絵画は美術批評家の目を引いた。色彩豊かなロスコの作品は、すでにエイブリーを越えようとしていた。

 

1935年にロスコは、イリヤ ボロトウスキー、ベン・ザイオン、アドルフ・ゴットリーブ、ルウ・ハリス、ラルフ・ローゼンバーグ、ルイス・シェンカー、ヨセフ・ソルマンらと『ザ・テン (THE TEN (WHO ARE NINE))』を結成。ギャラリーの展示カタログによれば、このグループの使命は「アメリカ絵画と創造性のない絵画とを同質であると見なすことに抗議する」ことだった。

 

ロスコは特に芸術家連盟内で、仲間たちから高い評判を得るようになった。ゴットリーブやソルマンも参加していた芸術家連盟は自分たちで組織したグループ展を地方自治体のギャラリーで行うことを望んでいた。

 

1936年にグループはフランスのボナパルト画廊で展示を開催し、好意的な批評で注目を集めた。鑑賞者の一人はロスコの絵画を「真正の色彩価値」と評した。

 

1938年後半に、ニューヨークのマーキュリー画廊でも展示が行われたが、それは田舎くさく、地域主義的なホイットニー美術館に反発する展示内容だった。また、この時代のロスコは、エイブリー、ゴットリー、ポロック、デ・クーニングらなど多くの美術家たちと公共事業促進局の芸術事業で仕事をしていた。

「ザ・テン」のメンバー。左上からベン・ザイオン、ルイス・シェンカー、ナホム・ツチャックヴァソフ、アドルフ・ゴットリーブ、マーク・ロスコ、イリヤ・ボロトウスキー。
「ザ・テン」のメンバー。左上からベン・ザイオン、ルイス・シェンカー、ナホム・ツチャックヴァソフ、アドルフ・ゴットリーブ、マーク・ロスコ、イリヤ・ボロトウスキー。
マーク・ロスコ《通りの風景》(1937年)
マーク・ロスコ《通りの風景》(1937年)
マーク・ロスコ《ポートレイト》(1939年)
マーク・ロスコ《ポートレイト》(1939年)

1936年にロスコは、近代美術の画家の作品と子どもの芸術の類似性に関する本を執筆しはじめたが完成しなかった。ロスコによれば、近代美術家はプリミティヴィズム芸術の影響があり、「子供の芸術は自身を原始へ変換し、唯一子供は彼自身の模倣を生み出す。」ので、子供たちの作品と比較することができるという。

 

また、この原稿でロスコは「描くことから始まるという事実はすでにアカデミックである。私たちは色彩から始まる。」と書き、ロスコは自転車と街のシーンでカラーフィールド・ペインティングを始めた。

 

カラーフィールド・ペインティングとは、キャンバス全体を色数の少ない大きな色彩の面で塗りこめるという特徴があった。このスタイルはのちにロスコの代表的な作品となった。

 

カラーフィールドという新しく発見した色の使い方があるにも関わらず、ロスコはほかの表現スタイル、神話的な寓話や象徴性から影響されたシュルレアリスム絵画に関心を向けはじめた。ロスコ作品が成熟に向かうと、長方形のカラーフィールドや光に神話的主題を表現するようになった。

 

初期のプリミティヴィズムや遊びごころのある都市の景色から、晩年の卓越したカラーフィールド・ペインティングへの移行には長い時間がかかった。その理由は、第二次世界大戦の開始とフリードリヒ・ニーチェを読んだことだった。

近代人のための神話創造


1937年、ロスコと妻エディスは一時的に別居。二人は数ヶ月後に和解するも、その後も関係は緊張したままだった。

 

1938年2月21日、ロスコはついにアメリカ市民権を獲得するが、ヨーロッパで成長しているナチスの影響力はアメリカにも及び、ユダヤ系アメリカ人の国外追放の不安に悩まされるようになった。

 

アメリカやヨーロッパにおける反ユダヤ主義を考慮して、1940年にロスコは名前を"Markus Rothkowitz"から"Mark Rothko"に改名した。"Roth"という名前は一般的に共通してユダヤ系によくある略語だったので、"Rothko"という固定した名前にした。

 

ロスコは、アメリカの現代美術は概念的な行きづまりになっていることに不安を感じ、ロスコは都市や自然の風景以外の主題を探しはじめる。そこでロスコは形態、空間、色彩に対して注目し、それらを補完できるような主題を探した。ちょうど世界大戦の危機はこの探求にかなったものだった。

 

ロスコはこれからの芸術主題は社会的影響を宿したもので、現在の政治的象徴や価値感を超克することができると主張した。1949年に出版されたエッセイ『The Romantics Were Prompted』でロスコは、「古代の人は、怪物や神や半神半人のハイブリッド集団を創造する必要があった。神が死んだ近代においてはファシズムや共産主義の隙間にそのような神話的価値観を見出した。怪物や神々なしに人は物語を作ることはできないのだ。」と書いている。

 

ロスコはジグムント・フロイトやカール・ユングの著作物を読み、夢に関する精神分析理論集合的無意識の原型のようなものに興味を持ち始めた。1940年にはジェームズ・フレイザーの神話学『金枝篇』やフロイトの『夢判断』にどっぷり浸かり、絵画制作を中断することになった。

 

人間の意識の領域を操作して、普遍的な意味での神話のシンボルを理解するようになった。時代や地域によって変わることのない普遍的なものを希求するのに神話の探求やシュルレアリスムの無意識の世界の探求は役立った。ロスコはのちに神話を研究することによって自身の芸術的アプローチを変えることができたと語っている。

ニーチェの影響


ロスコの新しいビジョンは、近代人の精神の行きどころを探求して、神話を創造することだった。この時代、ロスコが最も影響を受けていたのはフリードリヒ・ニーチェの『悲劇の誕生』だった。

 

人間は常に不安や恐怖に苛まれ、非理性的な内面の本能や衝動に支配された野蛮な状態にあり、近代も原始の世界もさほど変わらない状態にあるのではないかという考えに至った。

ギリシアの悲劇とは、死すべき人生の恐怖から絶望的な男を回復させるのに役立ったとニーチェはいう。

 

このときから、彼の芸術は近代人の精神の空虚性の緩和を目標とすることになった。近代美術における新しい文脈の探求はロスコの目標ではなかった。

 

ロスコは近代人における精神の空虚性は、現代に神話が不足していることが原因であると考えた。これは、ニーチェによると「子どもの心の成長とー成熟した人間の人生との戦い」において対処出来るとされていた。ロスコは芸術で、神話的イメージやシンボル、儀式などで無意識のエネルギーが解放される可能性について信じていた。

 

ロスコは自身を「神話創作者」とみなすようになり、「陽気になる悲劇的体験は私にとって唯一の芸術創作の源泉である」と宣言した。

 

この時代のロスコの絵画の多くは、残忍の暴力シーンと気品を対比したようなものとなっており、特にアイスキュロスの『オレスティア三部作』を基盤としている。ほかにアンティゴネーやオイディプス、イーピゲネイア、レダ、エリーニュス、オルペウスなどの神話、さらにエジプト神話、シリア神話を基盤にした作品もある。

シュルレアリスムと抽象芸術


ロスコやゴットリーブの芸術表現のルーツとして、シュルレアリスムやキュビスム、抽象表現が挙げられる。1936年にロスコはニューヨーク近代美術館で開催された『キュビスムと抽象芸術』展と『幻想芸術:ダダとシュルレアリスム』展の2つを見ている。この2つの展示はロスコに大きな影響を与えている。1938年に制作した『地下鉄の風景』はこの2つの展示から影響を受けて制作されているという。

 

1942年以後、マックス・エルンスト、ジョアン・ミロ、ウォルガルフ・パーレン、イブ・タンギー、サルバドール・ダリといったシュルレアリストたちが戦争を避けて、続々とニューヨークに移ってきたのをきっかけに、ニューヨークはシュルレアリスム旋風が巻き起こる。ロスコや仲間のゴッドリーブ、ニューマンらはこれらヨーロッパの芸術について討論をした。

 

ロスコは、触媒としての神話を使い、シュルレアリスムと抽象芸術を融合させた。ロスコの作品はますます抽象化が進んだ。ロスコの新しい絵画は、1942年にニューヨークのメルシ百貨店での展示で表れた。

 

『ニューヨーク・タイムズ』誌のレビューは不評だったが、そこでロスコとゴッドリーブはマニフェストを発表した。『ニューヨーク・タイムズ』の批評は、自ら新しい芸術作品について理解できないと宣言しているようなものだという。ロスコらは「私たちは複雑な思考をシンプルなかたちで表現することを好む。私たちは絵画の平面性を擁護したい」とコメントした。

マーク・ロスコ《地下鉄の風景》(1938年)
マーク・ロスコ《地下鉄の風景》(1938年)
マーク・ロスコ《無題》(1942年)
マーク・ロスコ《無題》(1942年)

シュルレアリスムから抽象絵画への移行


1943年6月13日、ロスコと妻は再び別れた。破局後、ロスコは長いうつ病に苦しむ。心情の変化を求めてロスコはアメリカからポーランドへ戻る。

 

さらにそこから彼はバークレーへ旅し、芸術家のクリフォード・スティルと出会い、交流を深めるようになった。スティルの深淵な抽象絵画はロスコの晩年の作品に大きな影響を与えたとみなされている。

 

1943年秋にロスコはニューヨークへ戻り、コレクターで画商のペギー・グッゲンハイムに会うが、彼女は当初、ロスコ作品にはあまり関心がなかったという。1945年後半に「今世紀の芸術」画廊で開催したロスコの個展で150ドルから750ドルの範囲でいくつか売れただけだった。批評家からも好意的な批評は多くなかった。

 

この時代、ロスコはスティルの抽象風景画から刺激を受け、シュルレアリスムから抽象芸術へ移行しようとしていた。彼の未来は抽象芸術になった。

 

1945年に制作したロスコのマスターピース《海辺のゆっくりした旋回》は、抽象の方向へ向かうロスコの新しい感覚を表現している。またこれは、1944年に出会い1945年に結婚したロスコの二番目の妻メアリー・エレンへの求愛表現と解釈されている。

 

ロスコが1940年にニューヨーク近代美術館で開催されたイタリア巨匠展で見たボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』の影響を指摘する批評家もいる。微妙なグレーとブラウンで描かれた二人の人物のような形が、旋回し、浮遊しながら抱擁しているように見える。

 

シンプルな背景はのちのロスコの作品を予兆させている。ちなみに、第2次世界大戦が終了した年に完成した。神話学的抽象主義を放棄したにもかかわらず、ロスコの絵画はまだ一般的にシュルレアリスム作品とみなされていた。

マーク・ロスコ《海辺のゆっくりした旋回》(1944-1945年)
マーク・ロスコ《海辺のゆっくりした旋回》(1944-1945年)

マルチフォーム


1946年という年はロスコの"マルチフォーム"絵画へ移行を始めた時期である。"マルチフォーム"という言葉は批評家によって付けられた言葉で、決してロスコ自身が造った言葉ではない。

 

1948年制作の《No.18》や《無題》などは移行期の代表的な作品である。ロスコ自身はこれらの絵画は、人間の表現を自己完結したものとして、有機的な形態を地層のように重ねているという。

 

彼にとって、風景や人間の造形が一切ないさまざまな色で構成されたぼやけたブロック絵画は、神話や象徴だけでなく、人間自身の生命力と死を宿しているのだという。その時代の最も形象的な絵画内に欠乏している「人生の息吹」が含まれている。

 

1949年には、マルチフォームの色面が整理されはじめ、縦長の大きなキャンバスに矩形の色面を縦に配置していくロスコの代表的なスタイルを確立する。絵具はしばしば下の色が透けて見えるほど薄く塗られ、ロスコ自身、色彩の振動を「呼吸」の比喩で語っている。

 

それゆえ、人体よりも少し大きめにつくられた縦長の画面は、あたかも人と対面するかのような感覚を鑑賞者に与える。

 

50年代から60年代にかけて、ロスコはそうした対面構造を持つ大型の抽象絵画を多数制作し、バーネット・ニューマンやスティルとともに、カラーフィールド系の抽象表現主義の画家として活躍する。

マーク・ロスコ《マルチフォーム》(1948年)
マーク・ロスコ《マルチフォーム》(1948年)
マーク・ロスコ《No.18》(1948年)
マーク・ロスコ《No.18》(1948年)

この重要な移行期にロスコはクリフォード・スティルのノースダコタ州の風景を元にしたカラーフィールド抽象絵画に影響を受けている。

 

1947年、カリフォルニア美術大学で夏期講習をしている際に、ロスコとスティルは自分たち独自のカリキュラムを創設するというアイデアに夢中になり、翌年、ニューヨークでこのアイデアを実現する。

 

「ザ・サブジェクト・オブ・ザ・アーティスト・スクール」と名付けられたこの学校では、デヴィッド・ヘアーやロバート・マザーウェルが講師として起用された。同年後半にこのグループは分離したけれども、学校は現代美術の活動の中心地となった。

 

またこの時期ロスコは、現在のアートシーンを一般に公開討論するために、2つの新しく創刊された芸術雑誌『タイガー・アイ』と『ポシビリティズ』に論考を投稿したり、彼自身の芸術作品や芸術理念の詳細を解説している。

 

これらの記事では、ロスコが絵画から造形的要素を取り除いた理由が解説されており、1945年に刊行されたウォルフガング・パーレンの『形態と感覚』から不測に派生した美術討論が含まれている。ロスコは新しい表現手法について"未知の宇宙の未知の冒険"と説明している。

 

1949年にロスコはニューヨーク近代美術館で見たアンリ・マティスの《赤いスタジオ》に感銘する。この出来事はロスコの晩年の抽象絵画のインスピレーション元のひとつとなった。

クリフォード・スティル《1948-C》(1948年)
クリフォード・スティル《1948-C》(1948年)
アンリ・マティス《赤いスタジオ》(1911年)
アンリ・マティス《赤いスタジオ》(1911年)

ニューヨーク近代美術館の『15人のアメリカ人』展


ロスコと妻は1950年初頭に5ヶ月間ヨーロッパを旅をする。ヨーロッパ旅行のさいはロスコが幼少期を過ごしたラトビアで過ごした。

 

旅行ではイギリス、フランス、イタリアの有名美術館でさまざまな重要コレクションを鑑賞した。なかでもフィレンツェのサンマルコ修道院で見たフラ・アンジェリコのモザイク画に感銘する。

 

フラ・アンジェリコの精神性や光の集中はロスコの芸術感性に触れ、またアンジェリコが直面した経済問題はロスコ自身とよく似ているところがあった。しかし、そのすべてはまさに変わろうとしていた。

 

ロスコは1950年と1951年にベティ・パーソンズ画廊をはじめ世界中の画廊で個展を行った。1952年にニューヨーク近代美術館で開催された『15人のアメリカ人』展でロスコは、ジャクソン・ポロックやウィリアム・バツィオーツと並んで、正式に抽象表現主義のメンバーとして紹介された。

 

この展覧会で紹介された15人は、ウィリアム・バツィオーツ、ジョゼフ・グラスコ、リチャード・リポールド、クリフォード・スティル、エドワード・コルベット、ハーバート・カッツマン、ジャクソン・ポロック、ブラッドレイ・ウォーカー・トムリン、エドウィン・ディキンソ、フレデリック・キースラー、ハーマン・ローズ、トーマス・ウィルフレッド、ハーバート・ファーバー、アーヴィング・クリーズバーグ、マーク・ロスコ。

 

ただ嫉妬を起こしたバーネット・ニューマンがロスコを非難し、展覧会から彼の作品を排除しようとして、ロスコとニューマン間で紛争が起こった。抽象表現主義運動の成功は、内輪もめや権威やリーダーシップの主張争いを導くことになった。

 

『フォーチュン』誌がロスコの絵画を素晴らしい発明と紹介すると、ニューマンやスティルは嫉妬してロスコにブルジョアの欲望セールと焼き印を押した。ロスコは元親友たちの嫉妬に深く落ち込んだ。

マーク・ロスコ《No.3/No.13 (Magenta, Black, Green On Orange)》(1949年)
マーク・ロスコ《No.3/No.13 (Magenta, Black, Green On Orange)》(1949年)
『15人のアメリカ人』展カタログ表紙。
『15人のアメリカ人』展カタログ表紙。
カタログ内のロスコ紹介記事。
カタログ内のロスコ紹介記事。

純粋な形態で人間の基本的な感情を表現している


『15人のアメリカ人』展でロスコが紹介されるやいなや、『フォーチュン』誌でロスコは特集され、ロスコの作品は売れ始めた。この頃からロスコの生計は改善しはじめる。絵画の販売だけでなく、ブルックリン大学の教職でもかなりの収入を得るようになった。

 

1954年にはロスコはシカゴ美術館で個展を開催。そのときにジャクソン・ポロックやフランツ・クラインを紹介していた画商のシンディ・ジャニスと出会い、契約を結ぶ。

 

名声の高まりに反比例するかのように、ロスコは孤独感を募らせていた。ロスコは自分の芸術が多くの人に誤解されていると感じはじめた。自分の作品は単にファッション感覚で購入されているだけで、作品の真の意味についてコレクター、批評家、ファンからまったく理解されていないことを恐れはじめた。

 

ロスコは古典芸術の枠を超え、また抽象芸術の枠を超えた芸術を制作したかった。ロスコにとって絵画とは、絵画自身が形態や可能性を所有しているオブジェクトであり、そのように接しなければいけないと考えていた

 

ロスコは作品の非言語的な側面を表現しており、その作品の意味や目的についての質問に応えることを拒否していた。自身は抽象画家ではないと思ったので、"偉大なカラリスト(色彩に重点を置く抽象作家)"と評されることは間違っていると主張した。

 

「私は基本的な人間の感情(悲劇、エクスタシー、運命など)を表現しているだけです。人々の多くが私の作品に直面したときに、感情が揺さぶられて泣くという事実があるので、私は基本的な人間の感情を伝えることができていると思っています。私の絵の前で泣く人たちは、私が絵を描いたときと同じような宗教的な体験を感じています。色彩の関係のみで美術を語る人は間違っています。(マーク・ロスコ)」

 

ロスコにとって色とは「単なる道具」であるという。本質的において純粋な形態であるにも関わらず、シュルレアリスティックで神話的な絵画と同様に、基本的な人間の感情(悲劇、エクスタシー、運命)を表現しているのがロスコ作品なのである。

 

1958年までに、ロスコのキャンバスに描かれる色はどんどん暗くなっていった。彼の明るい赤、黄色、オレンジは、次第に濃い青、緑、灰色、黒に変化していった。

 

ロスコの友人で批評家のドア・アシュトンは、ロスコがこの時代に詩人のスタンリー・クニッツと深い絆を築いている点を指摘している。クニッツはロスコ作品について「彼は本質的にプリミティヴィズムの作家であり、魔術を使って人々を導くシャーマンなのである。魔術、呪文などをルーツがあり、ロスコの中心的にある芸術感はスピリチュアルなものだった」と話している。クニッツはロスコ作品を最も理解していた友人だった。

 

1958年11月、ロスコはプラト美術館で講演を行い、そこで美術作品のレシピを提案した。ロスコは絵をかくときに、以下の成分を慎重に計画しているという。

 

1:死に対する明瞭な関心がなければならない。命には限りがあると身近に感じること。悲劇的美術、ロマンティックな美術などは死の意識をあつかっている。

 

2:官能性。世界と具体的に交わる基礎となるもの。存在するものに対して欲望をかきたてる関わり方。

 

3:緊張、葛藤あるいは欲望の抑制。

 

4:アイロニー。現代になって加わった成分、ひとが一時、何か別のものに至るのに必要な自己滅却と検証。

 

5:機知と遊び心。人間的要素として。

 

6:はかなさと偶然性。人間的要素として。

 

7:希望。悲劇的な観念を耐えやすくするための10パーセント。

 

形態はつねに以下の成分にしたが、絵画はこれらの成分の比率から生じているという。

マーク・ロスコ《Black In Deep Red》(1957年)
マーク・ロスコ《Black In Deep Red》(1957年)
マーク・ロスコ《Black On Maroon》(1958年)
マーク・ロスコ《Black On Maroon》(1958年)

■参考文献

Mark Rothko - Wikipedia

・美術手帖2011年5月号「現代アートの巨匠」