マルセル・デュシャンとチェス
正しい駒の動きを見つけること以上に、私の関心を惹くことはありません
「大ガラス」以降にデュシャンは芸術制作をもっぱら放棄してからは、チェスに関心を向けて、没頭し始めた。デュシャンが2人の兄からチェスの手ほどきを受けたのは、絵画と同時期、すなわち彼が13歳の頃である。
1918年から1919年のブエノスアイレス滞在中に、知人もなく言葉もしゃべれないデュシャンは、毎日のようにチェスクラブに通っていた。チェスへの取り組みが本格化してくるのはこの頃からである。
「私はすっかりチェスに没頭しきっています。明けても暮れてもゲームばかりです。この世界には、正しい駒の動きを見つけること以上に、私の関心を惹くことはありません。」
1919年秋に、ニューヨークに戻ると、彼はすぐにマーシャル・チェス・クラブに入会し、毎晩チェスをしに通うとともに、クラブ・チームの一員として試合で活躍するようになる。4年後に再びヨーロッパに帰ってからは、いよいよ本格的なチェスへの取り組みをはじめ、各地のトーナメントに出場し、優秀な成績をさおめ、1925年にはフランス・チェス連盟から「マスター」の称号を授かる。そしてその後10年以上にわたって、チェス・オリンピックをはじめとする国際大会のフランス代表に加わるのである。
1930年のパリ国際チェス選手権では、世界のトップクラスを相手に健闘。最終成績は最下位だったが、ベルギーのチャンピオン、ジョルジュ・コルタノフスキーを破り、選手権で優勝したクサヴェユ・タルタコワーとは引き分けにもちこんだ。翌年から数年、デュシャンはフランス代表チームの一員として国際試合に参戦する。
デュシャンは1933年のイギリスのフォークストーン大会を最後に、チェスのチャンピオンになりたいという夢はあきらめ、競技生活から身をひく。
1940年代以降になると、デュシャンのチェスに対する情熱は冷めてくるが、それでも芸術作品を通して積極的にチェスとの関わりを持ち続けている。最後の作品「遺作」も、観客の眼にには見えないチェス・ボードの床の上に組み立てられているのである。