マルセル・デュシャン / Marcel Duchamp
観念の芸術
マルセル・デュシャンという名前を聞いたことがありますか?彼はフランス生まれの画家であり彫刻家であり、芸術の世界全体を変えることに成功しました。今回は、マルセル・デュシャンの活動が、20世紀初頭の造形美術の革新的な発展をいかに促したかを解説していきます。フランスでの出発から、多くのシュルレアリストやダダ・グループとのコラボレーション、そして第一次世界大戦に至るまでの多くの芸術家への批判まで、視覚芸術に対する考え方を大きく変えた彼の思想と作品、そしてその思想について必要なことをすべて集めました。それでは、さっそく始めましょう。
目次
1.概要
2.作品解説
4.略歴
4-1.幼少期
4-2.初期作品
4-3.キュビスムの発展「並行的基本法」
4-4.階段を降りる裸体 No.2
4-5.処女から花嫁への移行
4-6.ダダ
4-7.レディ・メイド
4-8.キネティック・アート
4-10.アート・コンサルタント
4-11.シュルレアリストとのコラボレーション
4-12.出版活動
4-13.再発見されたデュシャン
4-14.デュシャンの死
5.略年譜
概要
本名 | アンリ・ロバート・マルセル・デュシャン |
生年月日 | 1887年7月28日 |
死去日 | 1968年10月2日(81歳)、フランス、ヌイイ=シュル=セーヌ |
国籍 | フランス、1955年よりアメリカ |
表現媒体 | 画家、彫刻家、映像 |
代表作品 |
・階段を降りる裸体 No.2(1912年) ・泉(1917年) ・彼女の独身者によって裸にされた、花嫁さえも(1915-23年) ・遺作(1946-66年) |
ムーブメント |
マルセル・デュシャン(フランス生まれ:1887年7月28日-1968年10月2日)は、フランス生まれ、晩年にアメリカに帰化した画家、彫刻家、チェスプレイヤー。
デュシャンはダダイスムの情報誌の編集をしたり、《泉》のようなコンセプチュアル・アートを発表して、ダダイスムとは深い関わりがあったものの、活動詳細を調べるとダダ・グループの正式なメンバーではなかったと考えられている。デュシャンはダダイスムが標榜した「反芸術」ではなく「無芸術」だと言っている。
また多くのシュルレアリストとコラボレーション活動をしているためシュルレアリストと扱われることもあるが、ブルトンのシュルレアリスム・グループへの参加招待は断っている。
そうした面から、現在のデュシャンの美術史的な位置付けは、パブロ・ピカソ、アンリ・マティスらと並ぶ、20世紀初頭の造形美術において革新的な発展を促した3大のアーティストの1人と見なされている。
デュシャンは第一次世界大戦までの多くの美術家たちを、目から得られる刺激を楽しむ「網膜的絵画」として批判。その代案芸術として精神(脳)に快楽を与える新しいアート・シーンの展開を望んでいた。この理想のアート・シーンが現代美術に引き継がれていく。
デュシャンは、20世紀、および21世紀美術にもっとも影響を与えた芸術家である。作品点数こそ少なかったものの、レディ・メイド、匿名芸術、観念の芸術、ダダイスム、複製芸術、インスタレーション、科学の導入、死後の芸術など、個々の作品が後の現代美術へ与えた影響は計り知れない。
そんな数多の業績のなかでも、芸術史において、また同時にデュシャンの芸術哲学の核とはなんだったのか。それは「観念の芸術」ともいえる。
デュシャンは、クールベ以降の絵画は「網膜的になった」と批判している。網膜的絵画とは、簡単にいえば「目の快楽だけで描かれている」美術のことである。デュシャンにとっては、目から快楽を得られる美術だけが美術ではない。デュシャンにとっての美術とは思考を楽しむ手段なのである。
こうした背景から、デュシャンは1914年に発表した《階段を降りる裸体 No.2》」を最後に、絵画制作は放棄する。その後は、《彼女の独身者によって裸にされた、花嫁さえも》」などのレディ・メイドをはじめとした、思考することを楽しむ難解芸術を制作し続けた。現代美術のコンセプチュアル・アートの創始者といえる。
デュシャンの作品が理解できない人は、網膜的絵画に対する懐疑心を中心に個々の作品を鑑賞すれば分かりやすくなるだろう。
たとえば彼の代表作の1つ《泉》は、既成の男性用便器に何ら手を加えず展示しただけのものである。デュシャンは、私たちがその使用方法を当然のように知っている「便器」を日常性から切り離し、新しい主題と観点のもと美術館に展示した。その結果、便器としての機能が消失し、美術館に置かれた便器はただのオブジェに変化した。これは、視覚的な刺激とは全く異なる脳を揺さぶる新しい芸術作品である。哲学を楽しむ芸術の誕生である。
また《階段を降りる裸体.No2》は、キュビスムや未来派に通じる「運動」を表現した作品として語られることが多いが、さらに重要なのは「階段を降りる裸体」という「表題」、つまり「言葉」の部分である。デュシャンは、視覚的な快楽を得られる絵画を拒否して、「裸体」という言葉から得られる脳の刺激を鑑賞者に提示したのである。
重要ポイント
- 現代美術の実際的な創始者
- 視覚美術を批判し、観念の芸術を提唱
- ニューヨーク・ダダの中心的人物
作品解説
コラム
略歴
幼少期
マルセル・デュシャンは、フランスのノルマンディー地方北部のセーヌ=マリティーム県ブランヴィル=クレヴォンの文化活動が大好きな裕福な家庭に生まれた。
画家で彫刻家だった母方の祖父のエミール・ニコルは大きな家をたて、家族たちはチェス、読書、絵画、作曲をみんなで楽しんだ。
公証人の父ウジェーヌ・デュシャンと母ルーシーのあいだには7人の子どもがいたが、姉の1人は幼いときに亡くなり、ほかの4人兄弟はのちに芸術家として成功した。マルセルは7人兄弟の3男で、4人の芸術兄弟の1人だった。マルセルの下には3人の妹がいた。一般的に知られているほかのデュシャンの兄弟は以下の3人である。
・長男:ジャック・ヴィヨン(1875–1963)、画家、印刷業。
・レイモンド・デュシャン・ヴィヨン(1876-1918)、彫刻家。
・スザンナ・デュシャン(1889-1963)、画家。
デュシャンが幼少のとき、2人の兄はすでに家から離れたルーアンの学校に通っていたので、デュシャンは妹のスザンナと過ごすことが多かった。2人は生まれついての相棒だった。新しいゲームや遊びを思いつくのが好きな兄となら、スザンヌはなんでも喜んで一緒に遊びたがった。この妹のスザンナは、デュシャンの初期の絵画のモデルとして知られている。妹のスザンナは、21歳のときに薬剤師と結婚するが、すぐに離婚。その後、モンパルナスにいる兄マルセルの近くに移り、芸術活動を始めた。
母親のルーシーは聴覚障害を患っており、マルセルが生まれるころにはほとんど聾状態に近く、自分ひとりの世界に閉じこもるようになっていた。デュシャンは子どもへの情が薄く、ひきこもりがちな母親に対して、かなり早い時期に心の奥にしまっておく術を身につけていたという。二人の兄も母に対して同じ思いをもっていた。母親は2人の娘を特にかわいがっていたという。
8歳のときにデュシャンは、兄と同じく家を出て、リセ・ピエール・コルネイユの学校へ入学する。それから8年間、知的育成に重点をおいた教育カリキュラムを受けた。学校では特に優秀というわけではなかったが、数学に関しては大の得意科目で、学校で二度、数学賞を受賞。また1903年には美術のデッサンで賞を、1904年の学位授与式では芸術家奨励賞を受賞した。
また、デュシャンは、フィリップ・ザシャリーという伝統的な美術を重視する教師からアカデミックな描画技術を学ぶ。ザシャリーは自分の教え子たちを印象派、後期印象派、その他諸々の前衛美術運動の影響を遮断しようとしたが、うまくいったとはいいがたい。このころ、デュシャンの真の美術教育のメンターとなったのは、兄のジャック・ヴィヨンで、デュシャンは兄のスタイルを模倣していた。
デュシャンが最初に本格的に絵に取り組みはじめたのは14歳のときだった。そのときは妹のスザンヌがモデルになり、さまざまなポーズをとらせて、水彩画を描いていた。また14歳の夏、デュシャンは印象派のスタイルで、油彩の風景画も描きはじめた。
初期作品
デュシャンの初期作品は後期印象派スタイルで、またキュビスム、フォーヴィスムと古典的な美術様式に沿って絵画技術を発展させていった。
のちに、若いころに影響を受けた画家として、象徴主義のオディロン・ルドンを挙げている。その理由としてルドンは、声高に反知性主義を唱えるような美術家ではなく、控えめな人柄で、個人の内面を追求する態度だったことに共感できたのだという。
デュシャンは1904年から1905年までジュリアン・アカデミーに通っていたが、授業よりもビリヤードに熱中した。この時代、デュシャンは風刺画家になろうとしており、風刺イラストレーターとの交流があった。デュシャンが得意として作品によく取り入れたダジャレは、このころの影響が大きい。
1905年、デュシャンは兵役から早めに逃れるために美術職工を目指して、印刷工場で働くことにし、そこでタイポグラフィや印刷の行程を学んだ。なお工場で得たスキルはのちに作品に転用された。1906年に除隊するとパリへ場所を移す。
兄ジャック・ヴィヨンが、王立絵画彫刻大学のメンバーだったこともあり、デュシャンは最初の作品発表作として、1908年のサロン・ドートンヌに3点出品する。次いで翌年のサロン・ドートンヌ展に出品した《寝椅子に横たわるヌード》は、イザドラ・ダンカンが購入したといわれている。
このころから次第にデュシャンの作品は注目を集めはじめる。1910年のアンデパンダン展に出品されたデュシャンの裸体画二点に対して、のちにデュシャンの友人となるギヨーム・アポリネールは、“非常に醜い裸体”という批評をする。これは褒め言葉と思ってよいだろう。
1910年に兄ヴィヨンが主催するキュビスムの集いに参加するようになる。主要メンバーに、アルベール・グレーズ、ジャン・メッツァンジェ、フェルナン・レジェ、ギョーム・アポリネール、モールス・プランネがいた。
また、1911年のサロン・ドートンヌで、デュシャンは人生における最大の親友となるフランシス・ピカビアと出会う。車好きのピカビアはデュシャンにスピードカーとハイリビングのライフスタイルをすすめた。
キュビスムの発展「並行的基本法」
1911年に、ピュトーにあるジャック・ヴィヨンの家では、デュシャン兄弟がさまざまなアーティストを招いて、美術に関する討論するのが日常になっており、パリのキュビスムグループのサロンとなっていた。
参加していたのは、マルセル・デュシャン、ジャック・ヴィヨン、レイモン・デュシャン=ヴィヨンフランシス・ピカビア、ロバート・ドローネー、フェルナン・レジェ、ロジェ・ド・ラ・フレネ、アルバートグレーズ、ジャン・メッツァンジェ、ファン・グリス、アレキサンダー・アレキペンコなど。
集まった人々はのちに「セクションドール」として知られるようになり、彼らの作品はまた、オルフィスム・キュビスムといわれた。彼らの考え方の基本は、分析的キュビスムが色彩を放棄したことへの批判から始まり、絵画としての豊かさを復活させようという点にあった。ただ、デュシャンは視覚に焦点を置いた美術の討論に関心がなかったので、キュビストたちの論議にほとんど参加しなかった。
しかしながら、同年、デュシャンはキュビスムのスタイルで絵を描き、それは反復的な図像を描いて動的な表現が付け加えられたものだった。このころのデュシャンの興味対象は「移行」「変化」「移動」「距離」であり、絵画のなかに四次元の要素を取り入れることに関心を向けていた。《汽車の中の悲しげな青年》は、それらの四次元要素を反映した作品である。
「はじめ、電車の動きと廊下にたたずむ悲しげな青年の動きは、お互いに一致した並行的な世界のものであるという考えが浮かびました。そこから青年を歪めたポートレイトにして、「並行的基本法」と呼ぶことにしました。それは、並行のようにお互いに連なるいくつもの線状の薄片に分解して、オブジェを変形するものです。オブジェはゴムのようにずっと引きのばされます。並行線のようにお互いに連なるいくつもの線は、動きを微妙に変化させ、また当の青年の姿も変化していきます、私はこの手法を《階段を降りる裸体》でも使いました。」
また、この時期にデュシャンは最初の機械作品《チョコレート磨砕器》を描いている。《チョコレート磨砕器》には、のちの《大ガラス》内に登場する磨砕器とよく似ている。1911年に発表した《チェスプレイヤーの肖像》では、キュビズムの重複したフレームやチェスを楽しむ二人の兄弟の複数の視点の要素が見られる。
階段を降りる裸体 No.2
かなりの論争を巻き起こしたデュシャンの最初の作品は《階段を下りる裸体No.2》』(1912年)である。切り子面を重ね合わせてヌードの機械的な動きを表現した絵で、それはモーションピクチャーとよく似ていた。断片化と合成化の両方のキュビスムの要素をふくみ、また未来派のダイナミズム的な表現も見られた。
デュシャンは、当初、アンデパンダンのキュビスムのサロンでその作品を発表しようとした。しかし、キュビスムの理論家のアルバート・グレーズがデュシャンの兄たちに絵の撤回、もしくはタイトルを塗りつぶすか、変更するようクレームがあったという。
デュシャンの兄弟は、グレーズからのクレームをデュシャンに伝えたが、デュシャンはそれを拒否。アンデパンダン展には審査はなく、グレーズが絵の審査をして出品を拒否する理由もなかった。美術史家のピーター・ルックによると、作品を壁にかけるか、かけないか、または。キュビスム・グループとして出品するか、しないか、という論争があったといわれる。
事件後、デュシャンは「私は兄たちには何も反論していない。クレームがあったあと、私はすぐに会場にいって自分の作品を外して持ち帰った。この事件は私の人生におけるターニングポイントだったとおもう。私はその事件のあとキュビスム・グループへの関心がまったくなくなった」と話している。
デュシャンはのちに、1913年にニューヨークのアーモリー・ショーで《階段を降りる裸体.No2》を出品した。その展覧会は公式には「国際近代美術展」という名前で、アメリカの美術家の作品が展示されるだけでなく、パリから現代の流行中の前衛美術が集められた最初の主要な展覧会だった。
写実的な美術を見慣れていたアメリカの来場者たちはこの前衛的な表現に憤慨する。《階段を降りる裸体.No2》は、論争の中心になった。多くの来場者にとって、この作品はヨーロッパからやってきた前衛美術の勝手気ままで、理不尽、わけのわからない部分を一切合切ひっくるめたもののように思えた。ただ、デュシャンだけでなく、ヨーロッパ美術全体に関して観客は戸惑いを感じており、マティスやブランクーシなどに比べれば、デュシャンに対する批判はそれほど多くはなかった。
デュシャンをはじめとするヨーロッパの美術家はいっせいに嘲笑を浴びたが、脚光も独占したため、展示された作品の大半は売れた。
処女から花嫁への移行
1912年ごろ、デュシャンはマックス・シュティルナーの哲学書『唯一者とその所有』を読みふけり、影響を受けている。この本はこれまでのデュシャンの芸術観やこれからの知的発展におけるターニングポイントになったといわれる。
「おどろくべき本だった。正式な理論ではないものの、自分にとってはすべてのことはその本に書かれていると思っている。」とデュシャンはのちに話している。
1912年にデュシャンは、突然ドイツへ二ヶ月間滞在する。そこで、最後のキュビスム絵画、最後の網膜的絵画を描き、それからあとは、《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも(通称:大ガラス)》の下描きを制作し、またその制作に関するプランを簡単なメモで走り書きでとりはじめる。《大ガラス》は完成するのに、それから10年以上もかかった。
なお、デュシャンが二ヶ月間滞在したドイツ時代の詳細なプライベートな生活に関する記録は残っていない。キュビスムを捨てて、コンセプチュアルアートへと移行しはじめたこの作家としての行く末を左右する二ヶ月間に、デュシャンが何を考え、何をしていたかについてはほとんどわかっていないし、デュシャンもまたそうであってほしいと願っていた。外の世界からすっかり切りはなされた暮らしをしたいという衝動が、デュシャンにあったといわれる。
1912年のミュンヘン滞在期に制作された作品は、のちの《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》につながる重要なものである。1912年7月に《処女.No1》《処女.No.2》を、7月後半に《処女から花嫁への移行》、すぐさまつぎに《花嫁》を8月に描き上げる。
このなかでも特に「処女から花嫁への移行」は重要で、ここでの「移行」は空間を通過するのではなく、精神と身体の内側で生じる移行を指している。「花嫁への移行」は、「母」や「女」への移行ではなく、「母」や「女」の前段階と同時に「処女性の最高潮」の状態を指す。花嫁とは言葉をかえれば、待ち受ける状態、遅延された純潔、肉の歓びのあやふやな祝福を受けるまえの、ほんの一瞬の喜悦のときである。
この時期の同年、1912年、デュシャンはレイモンド・ルーセルが発表した1910年の難解小説「アフリカの印象」の舞台を観劇し、そこで出会ったルーセルの言葉遊び、シュルレアリスティックな舞台美術、人造人間といった前衛的な表現に大変な影響を受ける。この芝居はパリのアヴァンギャルドのあいだでも熱狂的に支持されており、のちにブルトンをはじめ多くのシュルレアリストたちに影響を与えている。このルーセルの前衛的な芝居はデュシャンに強烈な影響を与え、1946年に「わたしの《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》は、ひとえにルーセルによるもの」と語っている。
1913年、デュシャンは画家の集まりから距離をとり、生活費を稼ぐためにサント=ジュヌビエーブ図書館で司書として働くかたわら、ミュンヘン滞在時に思いついた大規模な作品《大ガラス》の制作へ集中する。またサント=ジュヌビエーブ図書館は遠近法に関して、それが発明された15世紀から最新のものまで、豊富な資料を収蔵しており、デュシャンはそれらの多くをこの時代に読破。数学や物理学などとにかく《大ガラス》に使えそうな原理や技法の研究をこの司書におこなっている。なかでも数学者アンリ・ポアンカレの理論書はデュシャンの好奇心をそそり、大きな影響を与えた。
1913年、デュシャンは《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》の制作に本格的に入り始める。アパートの壁には、メモ、スケッチ、ドローイングなど《大ガラス》のためのさまざまなアイデアが貼り付けられていた。このメモが後に《グリーン・ボックス》となる。
ダダ
第一次世界大戦が勃発すると、デュシャンの兄達や多くの親友は兵役についたがデュシャン自身は兵役を免除された。そのころ、ちょうどアメリカのアーモリー・ショーで《階段を降りる裸体.No2》が注目を集めて、デュシャンに対する評価が高まっていたことや、戦禍を避ける目的もあって、デュシャンは1915年にアメリカへ移住することを決める。
コレクターのウォルターバーグに迎えられてアメリカに到着すると、自身が考えている以上にアメリカでは有名人であったことに驚く。
到着してすぐにヨーロッパの前衛美術のコレクターだったキャサリン・ドライヤーやマン・レイやさまざまなアーティストと親友になる。アメリカでのデュシャンのサークルには、アートコレクターのアルゼンバーグ夫妻、ベアトリス・ウッド、フランシス・ピカビア、ほかに何人かの前衛芸術家がいた。
デュシャンは英語がほとんど話すことができなかったけれども、アメリカでフランス語講師のアルバイトや図書館のアルバイトを通じて、すぐに英語が話せるようになったという。そうして、ニューヨーク・ダダの時代が始まる。
ダダ(Dada)またはダダイスム(Dadaism)は20世紀初頭のヨーロッパの前衛芸術運動である。1916年にスイスのチューリッヒで発生し、すぐにベルリンをはじめケルン、ハノヴァーなど世界中に広がった。ただしデュシャンやピカビア率いるニューヨーク・ダダは、ヨーロッパから発生したダダ運動とあまり関連しておらず、個別のムーブメントであるといってよい。
ダダは第一次世界大戦下の鬱屈した現実の反動として発生した。おもに伝統的な美学を拒絶し、政治的には反戦を主張する運動だった。ダダはチューリッヒにあるキャバレー・ヴォルテールに集まった美術家や詩人によって始められ、その表現形式は、視覚美術、文学、詩、宣言、論理、映画、グラフィックデザインなど幅広く含まれる。また中産階級を否定しており、極左との親和性が高かった。
ダダイスムがほかの前衛芸術と異なるのは「これは捨てるが、あれは取る」の部分否定ではなく、芸術それ自体を否定するという「全否定」だったことである。これはこの世界から芸術を一掃しようとするのではなく、一度大掃除してから芸術そのものを考えなおすという狙いであった。
ダダイスムの重要人物としては、ヒューゴ・バル、エミー・ヘニングス、ハンス・アルプ、ラウル・ハウスマン、ハンナ・ヘッヒ、ヨハネス・バールゲルト、トリスタン・ツァラ、フランシス・ピカビア、リチャード・ヒュルゼンベック、ジョージ・グロス、ジョン・ハートフィールド、マルセル・デュシャン、ベアトリス・ウッド、クルト・シュヴィッタース、ハンス・リヒターなどが挙げられる。ムーブメントはのちに前衛芸術や下町音楽ムーブメント、シュルレアリスム、ヌーボーリアリスム、ポップアート、フルクサスなどに影響を与えた。
ニューヨーク・ダダはヨーロッパのダダイスム運動とは少し異なる傾向があり、特に意識的なグループは組織されなかった。チューリッヒ・ダダとつながりを持っていたデュシャンの親友であるフランシス・ピカビアが、ニューヨークに、ダダ的な馬鹿げた“anti-art”(反芸術)のアイデアを持ち込んだだけで、戦争や政治と密接な関わりのあるヨーロッパのダダとは異なるものだった。また、マン・レイによれば「ニューヨークの街全体が、保守的なヨーロッパとちがって、もともとダダ的な雰囲気であり、ダダ的な思想は必要がなかった」という。
彼らの活動となった場所は写真家のアルフレッド・スティーグリッツのギャラリー「291」だった。スティーグリッツが私費で運営していた小さなギャラリーでは、ヨーロッパの先鋭的な美術やアメリカの新しい美術家を積極的に紹介しており、そこにデュシャンやピカビアなどが集まっていた。
またボストン出身の詩人で批評家でコレクターのウォルター・アレンズバーグがデュシャンのところへやってくる。アレンズバーグは1913年のアーモリー・ショーに出品された《階段を降りる裸体.no2》を機に、デュシャンの作品に非常に興味を持っていたためである。後年、デュシャンはアーモリー・ショーの《階段を降りる裸体.No2》が、あとにニューヨークに来たときに、非常に有益な形で役にたったと語っている。
デュシャンは「The Blind Man」というダダの雑誌をニューヨークで発行し、その誌上において古典的な美術の制度を批判し、新しい美術と文化の創造に挑戦していた。
第一次大戦後パリに戻ったが、デュシャンはダダ・グループに参加はしなかった。
レディ・メイド
「レディ・メイド」はデュシャンが「選択」してアートとして提示したオブジェ作品のことである。1913年、デュシャンはアトリエで自転車の車輪をオブジェとして飾っていた。しかし、レディ・メイドのアイデアは1915年まで発展しなかった。このアイデアは芸術の概念や芸術の崇拝に対して疑うもので、そうしてデュシャンは「無関心」を発見した。
「私の考えは、私にとって魅力的でないオブジェを選ぶことでした。それは美しもなくまた醜くもありません。つまり、選択するオブジェ対象は、「見かけ」が私にとって無関心であることでした。」
デュシャンの署名が入った作品《ボトルラック》(1914年)が、最初の純粋レディメイド作品だと見なされている。その後、雪かきシャベルを利用したレディ・メイド作品《折れた腕の前に》(1915年)が続く。
《泉》は「R.Mutt」というペンネームが署名された便器のレディ・メイド作品で、1917年にアートワールドに衝撃を与えた。デュシャンが《泉》で提示したことを簡単に説明すると、「便器を日常の文脈から引き離して、美術という文脈にそれを持ち込んで作品化したこと」と言われている。デュシャンが攻撃した伝統的な制度とは、作者が自分の思想や観念を作品の形にし、鑑賞者は作品を通じて、作者の意図や思想や観念を自分の中で再現するというものである。
そういった美術の古典的なルールに疑問をもったデュシャンは、大量生産された何の思想もメッセージも込められていない便器を美術展に展示した。すると、本来何のメッセージもないはずの便器が、鑑賞者を誤読させ、解読が始まり、それについて語られ美術化されていく。つまり、美術の真の作者は鑑賞者であることを伝えたかったのである。そのため、デュシャンは、R. Mutt(リチャード・マット)という偽名を使っていた。
《泉》は2004年に、500人の有名なアーティストや美術史家によって「20世紀美術で最も影響を与えた作品」として選ばれた。
1919年に、デュシャンは口ひげと顎ひげを付けたモナリザの絵はがき作品を制作。この作品に対してデュシャンは『L.H.O.O.Q』という表題を付けた。この文字をフランス語でひとつずつ大きな声で読むと「あの女はさかりがついている」と読め、絵画の女性が性的興奮状態にあることを暗示しているか、フロイト思想的なジョークであるともいえる。
キネティック・アート
キネティック・アートやだまし絵に対するデュシャンの関心は、《大ガラス》制作のためのメモや、レディメイド作品の《自転車の車輪》を部屋に飾って回転させてみたとき、そして“網膜的絵画”に対する興味の消失しつつある時期に現れはじめている。デュシャンは視覚に起こる現象には興味を抱いていたようである。
1920年にマン・レイの助けを借り、デュシャンは光学機器「回転ガラス板」を制作。これは金属製の三角形の土台にモーターをとりつけたものである。短い順に長方形のガラス板五枚をとりつけた横棒がモーターに駆動されて回転する。ガラス板には黒で曲線が描いてあるので、それが回転すると、ひとつの平面上に連続する同心円が見えるようになっている。
マン・レイは機械の試運転の模様を記録するためにカメラを持ち込み設置した。しかし、デュシャンがスイッチを入れてガラス板が回転しはじめると、ガラス板の速度が上がり遠心力が出てきて、ものすごいうなりをたて、そしていきなりベルトがモーターから外れて爆発し、マン・レイの頭をかすめるようにしてガラスがあちこに飛び散った。幸いとも二人とも無傷で難を逃れたという。
彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも
デュシャンは1915年から1923年まで、1918-1920年のブエノスアイレスとパリの一時的な滞在期間を除いて、《彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも》(大ガラス)の制作に集中する。この作品は、鉛の箔、ヒューズ線、埃などの素材と2つのガラスパネルを使って制作されたものであり、偶然の要素、透視図法、細かく面倒な職人的な技術や物理学、言語学的な要素が集約された非常に複雑な作品である。
《大ガラス》は、1912年にデュシャンが観劇したレイモンド・ルーセルの小説『アフリカの印象』のステージ・パフォーマンスから影響を受けている。『大ガラス』の制作に関するノートやスケッチなどさまざまな制作メモは、早くとも1913年にデュシャンのスタジオの壁に掛けられていた。デュシャンはフランスで司書の仕事をしているときや、アレンズバーグから生活のサポートを得ているニューヨーク時代に、《大ガラス》の制作を続けていた。最終的に制作を終えたのは1923年で、未完状態だった。
デュシャンは、《大ガラス》のビジュアル・イメージを補完する作品として、《大ガラス》の制作に関わるすべてのメモを1つにまとめた『グリーンボックス』という本を出版している。《大ガラス》は、《大ガラス》と「メモ(グリーンボックス)」の両方を合わせたものが1つの「作品」であると考えられている。デュシャン自身はこの作品について晩年のインタビューで「美学的に鑑賞されるものではなく、「メモ」と一緒に見るべきものである」「『美学の放棄』ということ以外には特別の考えなく作ったものだ」と言明している。
《グリーンボックス》に書かれたさまざまなメモをだれよりも熱心に読みふけり、《大ガラス》を理解していたのはアンドレ・ブルトンだった。ブルトンは批評時は、《大ガラス》を図版でしか見たことがなかったが、ためらうことなくこの作品を現代美術の最高峰に位置づけた。ブルトンは以下のように記す。
「この作品では、処女の領域、あるいは官能性、哲学的思弁、スポーツ競技の精神、科学の最新情報、叙情性やユーモアの辺境を駆けめぐる途方もない狩りの戦利品を見のがすことはまず不可能だろう。」
ブルトンはこの傑作にいたるまでのデュシャンの絵画とオブジェを手短に回顧し、ついでメモをふんだんに引用しつつ、花嫁が「(悪意の片鱗も覗く)空白の欲望」を始動させ、独身者たちが焦がれつつ従順にそれに応じるめくるめく複雑な動きを連続を経て、「飛沫の幻惑」から今にも起こりそうでありながら、けっして成就することのない花嫁の裸体化にいたるまでの概略をたどってゆく。偉大な独創性をそなえたこの作品は、20世紀の生んだ最も意義深い傑作のひとつであるだけでなく、未来の世代に対する予言的な記念碑であるとブルトンは結論付ける。
しかし、《大ガラス》は1931年の輸送の際に、事故で粉々に割れてしまう。 5年後、デュシャンは丹念にガラスの破片を寄せ集め、さらに二枚のガラスに挟み込んで修復。 「ガラスはひびが入ったお陰で何倍も良い作品になった」と彼は、この偶然の事故の要素をそのまま作品に取り入れることにした。
1969年にフィラデルフィア美術館がデュシャンの《遺作》を公開するまで、《大ガラス》がデュシャンの最後の主要な作品であったとずっと見なされていた。
アート・コンサルタント
《大ガラス》をもって芸術家としてはほぼ引退したデュシャンだが、その後は、もっぱら、ほかの芸術家や画商やコレクターのコンサルタント業をしていた。
アレンズバーグ夫妻に代わって作品の投機的売買を始めたことで、自分の作品に関しては一切商業的な関係をもたなかったデュシャンが、アートの目利きとして多くのモダンアート・コレクションに貢献し続けたのはひとつの逆説である。
ほかにはペギー・グッゲンハイムのコンサルタント業がある。デュシャンは、モダンアート業界に関わろうとしていたグッゲンハイムを美術の世界へうまく紹介した。グッゲンハイムがパリにいる間に多くの芸術家と交流ができたのは実はデュシャンが仲人していたためである。また、デュシャンはペギーにモダンアートの知識やスタイルを教え、グッゲンハイムが画廊「グッゲンハイム・ジュンヌ」を開いたときには、さまざまな展示の企画のアドバイスをした。
デュシャンのコレクターであるキャサリン・ドライヤーが設立した「ソシエテ・アノニム」の仕事にも関わっている。デュシャンは1920年に、キャサリン・ドライヤーとマン・レイと「ソシエテ・アノニム」を設立する。この会社はデュシャンが生涯を通じて関わり続けた美術売買や蒐集をしていた会社である。この会社は近代美術作品を収集し、1930年代を通じて近代美術の展覧会や講演会を企画・運営していた。
シュルレアリストとのコラボレーション
また1930年代のデュシャンは、おもにシュルレアリストたちとコラボーレション活動を行っていたことで知られている。ただし、シュルレアリスム・グループには参加していない。
コラボレーション活動で有名なのは、1938年にパリのボザールギャラリーで開催された「国際シュルレアリスム展」の展示デザインである。この企画では、世界中の国から60以上のアーティストが招集され、300以上の絵画、オブジェ、コラージュ、写真、インスタレーションが展示された。メインホールの展示デザインをデュシャンは担当。湿気の多い葉や泥で覆われた床と石炭火鉢の上に、天井から1200の石炭袋が吊り下げられ、それはまるで地下洞窟のようだった。インスタレーションの先駆けともされている。
また1942年にニューヨークで開催されたシュルレアリスム展「ファースト・ペイパーズ・オブ・シュルレアリスム」でもデュシャンは展示デザイナーとして参加。同じくインスタレーション形式で、デュシャンは部屋のスペース全体に糸を蜘蛛の巣のように張り巡らる。張り巡らせた糸は、展示された作品に鑑賞者が近づくことを防ぎ、糸の蜘蛛の巣を通して覗き見るしかけとなる。オープニングではシドニー・ジャニスの11歳の娘キャロルがその友達と会場でボール遊びに興じるイベントがあり、ボール遊びによって鑑賞者は作品への接近を阻まれた。
出版活動
出版活動もデュシャンはよく行っている。1942年から1444年までニューヨークで発刊されたシュルレアリスム情報誌『VVV』でデュシャンは編集顧問として参加。
デュシャンは第二号の表紙をデザインする、星条旗を思わせるシャツをまとい、大鎌をかついで馬に乗る男を描いた無名の美術家のエッチングをみつけ、それを地球儀にかぶせたものである。
また、パリで開催された「1947年のシュルレアリスム展」のカタログ表紙をデザイン。豪華版にはフォーラムバー製の乳房がつけられ、「触ってください」と記される。
再発見されたデュシャン
忘れ去られていたデュシャンが「再発見」されたのは1950年代後半である。ロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズといった抽象表現主義の若手作家の間でデュシャンが話題になり始めたとされている。1960年代に入って本格的にデュシャンへの関心が国際レベルで再燃しはじめ、1963年にパサデナ美術館で初めて回顧展が開催された。
この回顧展で、背景に《大ガラス》を設置し、ヌードモデルのイブ・バビッツを相手にチェスを打っているデュシャンのイコン的な写真が公開された。この写真はのちにアメリカン・アート・アーカイブに「アメリカ近代美術の鍵となるドキュメンタリー・イメージ」として保存されることになった。
デュシャンの死
デュシャンは1968年の10月2日、夏の休暇後、パリの近郊のヌイイーで死去。ロベール・ルベル、マン・レイと夕食したあとの夜半のことだった。午前1時5分にデュシャンが自分のスタジオで倒れているのが見つかり、そのときに心臓は停止していた。
デュシャンは無神論者だった。遺体はルーアンのデュシャン一家の墓地に埋葬され、墓石には「されど、死ぬのはいつも他人」という墓碑銘が記された。
略年譜
■1887年
・7月28日、アンリ・ロベール・マルセル・デュシャン、フランスのノルマンディ地方ブランヴィル近郊で生まれる。三兄弟三姉妹の三男。
■1902年
・絵を描きはじめる。
■1904年
・アカデミー・ジュリアンで絵を学ぶ。
■1909年
・最初の作品発表作として、アンデパンダン展に2点、サロン・ドートンヌに3点出品。
■1910年
・セザンヌ・フォーヴィズム、象徴主義の影響を受けた初期油彩群を制作。キュビスム研究の集いに参加。主要メンバーに、アルベール・グレーズ、ジャン・メッツァンジェ、フェルナン・レジェ、ギョーム・アポリネール、モールス・プランネがいた。
■1911年
・キュビスム的な作品《チェス・プレイヤー》《チェス・プレイヤーの肖像》を描く。
■1912年
・《階段を降りる裸体 No.2》をアンデパンダン展に出品しようとするが、展示委員の批判にあい作品を撤回。
・7月からミュンヘンに滞在し《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》に関する油彩、デッサンおよびさまざまなメモを残しはじめる。
■1913年
・《階段を降りる裸体 No.2》など4点がニューヨークのアーモリー・ショーに出品され、激しい議論を呼ぶ。
・この頃より本格的に「網膜的絵画」を放棄する。また最初のレディ・メイド《自転車の車輪》を制作する。
■1914年
・16枚のノートとデッサン1点を「1914年のボックス」としてまとめて写真版で3部つくる。
■1915年
・6月、アメリカへの最初の旅行。パトロンとなるアレンズバーグ夫妻のサロンでマン・レイやアルフレッド・スティーグリッツらと出会う。
・《大ガラス》の制作に着手。
・雪かきショベルを購入し署名した《折れた腕の前に》を制作し、これに初めて「レディ・メイド」の名を与える。
■1916年
・ニューヨーク独立芸術家協会の設立に参加。
・のちにデュシャンの支持者、パトロンとなるキャサリン・ドライヤーと知りあう。
■1917年
・最初のニューヨーク独立芸術家協会展に《泉》と題した便器を「R.Mutt」の偽名で出品しようとするが、展示を拒否される。その決定を不服とし、同展の実行委員長の職を辞任。《泉》は291画廊でスティーグリッツによって撮影されたあと、行方不明となる。
■1918年
・キャサリン・ドライヤーのために4年ぶりに油絵「Tu m'」を描き、その後は完全に絵画制作をやめる。
・第一次世界大戦にアメリカ参戦のため、ブエノス・アイレスへ。
■1919年
・このころよりチェスに熱中。
・6月、パリに帰り、フランシス・ピカビアのもとに住む。パリ・ダダのグループと交流、アンドレ・ブルトンと親交を深める。
・「モナ・リザ」の絵葉書に口ひげと顎ひげを描き込み、《L.H.O.O.Q》と題す。
■1920年
・1月、2度目のニューヨーク滞在。
・アレンスバーグ夫妻におみやげとして「パリの空気」を贈る。
・4月、キャサリン・ドライヤー、マン・レイとともに、モダンアートの普及と啓蒙活動を目指して「ソシエテ・アノニム株式会社」を創設。
・デュシャンの女性としての別人格「ローズ・セラヴィ」誕生。女装のデュシャンをマン・レイが撮影した。以後、デュシャンは「ローズ・セラヴィ」名義でも作品の発表を行う。
・マン・レイの協力のもと、最初の光学実験機械「回転ガラス板」を制作。
■1921年
・マン・レイとともに雑誌『ニューヨーク・ダダ』を発行。
■1922年
・雑誌『リテラチュール』にアンドレ・ブルトンによる論文「マルセル・デュシャン」が発表される。デュシャンについての最初の論文となる。
■1923年
・《大ガラス》の制作を停止。未完の状態でキャサリン・ドライヤー宅に設置。まだひび割れてはいない。
・2月、ヨーロッパに帰る。以後10年間、チェスの研究と試合に没頭したため、デュシャンは「芸術を放棄した」という噂が広まるようになる。
■1924年
・カジノのルーレットの賭けに出資してもらい、その利益を還元するための私的債券である「モンテカルロ債券」を発行。
・12月、ピカビアとサティの即興バレエ「本日休演」にて裸体でアダムを演じる。また、その”幕間”に上演されたルネ・クレールの映画にマン・レイ、エリック・サティ、ピカビアとともに出演。
■1926年
・ブルックリン美術館での「ソシエテ・アノニム」主催の「国際近代芸術」展で《大ガラス》を初めて展示。展覧会終了後、《大ガラス》はトラックで運搬中にひび割れた。しかし数年後に開梱するまでだれも気づかなかった。
・マン・レイ、マルク・アルグレの協力で、映画『アネミック・シネマ』を制作。
■1927年
・リディ・サラザン=ルヴァソールと最初の結婚。翌年1月には離婚。
■1930年
・ハンブルグでの第三回チェス・オリンピックにフランス・チームの一員として参加。
■1932年
・ヴィタリー・ハルバーシュタットと共著でチェスに関する本「敵対関係とチェス盤の互いに対になった目とが和解する」を出版。
・8月、パリのチェス・トーナメントで優勝。
■1934年
・9月、《大ガラス》制作のための構想ノート93冊とカラー図版1点を箱詰めにした『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(通称「グリーン・ボックス」)を出版。
■1935年
・パリのレピーヌ発明展に『ロトレリーフ』の6展セットを出品するが、全く売れず。《マルセル・デュシャンあるいはローズ・セラヴィの/によ》(通称《トランクの中の箱》)の制作に着手。
・雑誌『ミノトール』にアンドレ・ブルトンによる《大ガラス》についての最初の論文となる「花嫁の燈台」が発表される。
■1936年
・《大ガラス》修復のためニューヨークへ。
■1937年
・シカゴのアーツクラブで初個展を開催。
■1938年
・1月、パリのギャラリー・ボザールで開催された「国際シュルレアリスム展」の会場構成に参加し、1200個の石炭袋を天井からつるす。
■1939年
・言葉遊び集『ローズ・セラヴィ』をパリで刊行。
■1941年
・「トランクの中の箱」が完成、出版が開始される。
・ソシエテ・アノニム・コレクションのイエール大学アート・ギャラリーへの寄贈を決定。
■1942年
・6月、ニューヨークに着き、以後死去するまでアメリカに定住。
・ペギー・グッゲンハイムの「今世紀の美術」画廊の創設に協力。
・「ファースト・ペーパーズ・オブ・シュルレアリスム」展で、1マイルにおよぶ紐を蜘蛛の巣のように張り巡らせて会場を構成。
■1943年
・西14丁目210番地の最上階のアトリエに移る。ニューヨーク近代美術館での「進歩する芸術」展に《大ガラス》が修復後初めて展示される。
■1944年
・《与えられたとせよ 1.落ちる水 2.照明用ガス》(通称《遺作》)のための最初の習作である裸体デッサンを描く。
■1945年
・雑誌「ヴュー」がデュシャン特集号。雑誌での初特集となる。
・アンドレ・ブルトンの『秘法17番』出版記念としてロベルト・マッタと共同で五番街ブレンタノ書店のショーウインドウを飾り付けるが、直後に抗議にあい、西47丁目のゴッサム書店に移動。
■1946年
・14丁目のアトリエで《遺作》の制作に着手し、以後20年間秘密裏に継続。
■1947年
・パリで開催された『1947年のシュルレアリスム展』のカタログ表紙をデザイン。豪華版にはフォーラムバー製の乳房がつけられ、「触ってください」と記される。
・アメリカ市民権を申請。
■1950年
・アレンズバーグ・コレクションがフィラデルフィア美術館に寄贈されることが決定。
・ソシエテ・アノニム・コレクションの全作品カタログ刊行。
■1951年
・ロバート・マザウェル編集による『アンソロジー:ダダの画家と詩人たち』の刊行に協力。
■1952年
・キャサリン・ドライヤー死去。遺言執行人として彼女のコレクションをイエール大学アート・ギャラリー、ニューヨーク近代美術館、フィラデルフィア美術館他に分割して寄贈。
■1953年
・11月25日、ルイーズ・アレンズバーグ夫人が死去。翌年1月29日、ウォルター・アレンズバーグ死去。
■1954年
・アレクシーナ・ティニー・サトラーと結婚。
・デュシャンの作品43点を含むアレンズバーグ夫妻のコレクションがフィラデルフィア美術館に寄贈され、公開される。ドライヤーの所蔵であった「大ガラス」も同じ会場に設置された。
■1955年
・アメリカの市民権を獲得して帰化。
■1957年
・テキサス州ヒューストンでの「アメリカ芸術連盟」の大会で講演「創造行為」を行う。
■1958年
・パリでミシェル・サヌイユ編『塩売りの商人』刊行。
■1959年
・ロベール・ルベルによる最初のモノグラフ『マルセル・デュシャンについて』が刊行される。
■1961年
・ニューヨーク近代美術館での「アッサンブラージュの芸術」展に際して開かれたパネル・ディスカッションで、講演「レディ・メイドについて」を行う。
・ウルフ・リンデによって《大ガラス》のレプリカが制作され、ストックホルムの「動く美術」展に出品される。
■1963年
・初の大規模な回顧展「マルセル・デュシャンあるいはローズ・セラヴィによる、あるいは、の」がパサディナ美術館で開催される。
■1964年
・ミラノのシュワルツ画廊によって13点のレデイ・メイドのレプリカが各8個ずつ再制作される。
■1965年
・ニューヨークのコーディエ・アンド・エクストロム画廊で回顧展「目につかずそして/あるいは 目立たず マルセル・デュシャン/ローズ・セラヴィ の/による 1904-1964」(メアリー・シスラー・コレクション展)開催。
■1966年
・ロンドンのテート・ギャラリーで、リチャード・ハミルトン監修の回顧展「マルセル・デュシャンのほとんど全作品」展開催。
■1967年
・ピエール・カバンヌ著『マルセル・デュシャンとの対話』刊行。
・1912年から1920年までのメモ79枚を収録した『不定法にて』(通称《ホワイトボックス》)が刊行される。
■1968年
・2月、カナダのトロントで行われた「レユニオン」(音楽的「再会」)で、ジョン・ケージと音響装置付きのチェス盤でゲームを行う。その模様を久保田成子が収録。
・10月2日、ヌイイーのアトリエで死去。
■1969年
・アルトゥーロ・シュワルツが『マルセル・デュシャン全作品』を刊行。
・デュシャンの遺言に従い、《遺作》がフィラデルフィア美術館に寄贈され、一般公開される。
■参考資料
・マルセル・デュシャン展図録 西武百貨店