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【美術解説】ルイス・ウェイン「統合失調者になった猫画家」

ルイス・ウェイン / Louis Wain

統合失調症になった猫画家


「彼は猫を自分のものにしました。猫のスタイル、猫の社会、猫の世界全体を発明しました。ルイス・ウェインの猫のように見えず、生きていないイギリスの猫は、自分自身を恥じています。」

 

SF作家のHGウェルズは、ルイス ウェインという現象についてこう宣言した。ルイス・ウェインは、20世紀の初めに、猫に対する人々の感情を変えた有名なイラストレーターだった。

目次

概要


生年月日 1860年8月5日
死没月日 1939年7月4日
職業 イラストレーターアウトサイダー・アート
ムーブメント アウトサイダー・アート
国籍 イギリス

ルイス・ウェイン(1860年8月5日-1939年7月4日)はイギリスのイラストレーター。

 

イギリス・ヴィクトリア朝時代に、「不思議の国のアリス」の挿絵を描いたジョン・テニエルらとともに人気を博す。

 

大きな目の擬人化された猫や子猫のイラストレーションで知られ、人気がピークに達した時期には毎年、彼の作品集をまとめた『ルイス・ウェイン年鑑』なる作品集も発行された。

 

年間に何百というイラストを描く多作な画家だったが、ビジネス的なセンスがまったくなかったため、著作権対策もせず、出版社には安く作品を買い叩かれる。

 

晩年になり人気に陰りが見え始めると生活的に困窮。同時に統合失調症に苦しみ、子猫のイラストもサイケデリック調で幾何学的な形態に変容していった。

 

H. G・ウェルズはウェインについて、「彼は猫を自分のものにした。彼は猫のスタイル、猫の社会、猫の世界全体を発明した。ルイス・ウェインの猫のようでないイギリスの猫は、自分たちを恥じている」と述べている。

 

1960年代のサイケデリック・ムーブメント時に、ウェインのサイケデリックな作品への関心が再び高まり、当時のサイケデリアファンは「ウェインがいかなる種類の物質も摂取せずにこれらの(サイケデリックな)イメージを生み出すことができるのかに驚嘆した」と言われている。

 

2021年、Amazon制作の「The Electrical Life of Louis Wain」の題材になった。

重要ポイント

  • もともとはイギリスで人気を博したイラストレーター
  • 病気の発症とともに猫のイラストが変形していったといわれる
  • 1960年代のサイケデリック・ムーブメント時に再評価されるようになる

略歴


フリーランスのイラストレーターになる


ルイス・ウェインは、1860年8月5日にロンドンのクラークウェルで生まれた。父ウィリアム・マシュー・ウェイン(1825-1880)は織物業者であり刺繍業者だったという。母はフランス人のジュリー・フェリシテ・ボワトゥ(1833-1910)で専業主婦だった。ルイスは6人兄妹の長男で、ルイス以外の5人はみんな妹だった。

 

5人の妹、キャロライン E. M. (1862-1917)、ジョセフィーヌ F. M. (1864-1939)、マリー L. (1867-1913)、クレール M. (1868-1945)、フェリシー J. (1871-1940)は誰も結婚しなかった。

 

また、ルイスが30歳のときに一番下の妹マリーは狂気に犯され、1901年に収容所に送還され、1913年に死亡した。ほかの4人の妹は生涯の大半を母親とルイスと暮らした。

 

ウェインは口唇口蓋裂として生まれ、両親は医者から10歳になるまで学校に通わせてはいけないと注意されていた。若いころウェインは、よく学校を休みがちになり、ロンドンを放浪して過ごしていたという。そ

 

の後、ルイスは西ロンドン芸術学校に入学し、最終的には短い期間だったが美術教師職に付いた。

 

しかし、20歳のときにウェインの父が亡くなり、あとに残された母親と5人の妹の生活を養う必要が出てきて、賃金の安い教職は辞めることになった。辞職後、ウェインはフリーランスのイラストレーターになり、イラストレーターとして成功をおさめる。

 

1881年に初めて描いた絵『Bullfinches on Laurel Bushes』が『イラストレイテド・スポーティング・アンド・ドラマティックニュース』に掲載されると、ウェインは家を出て、家具付きの部屋を借りた。

妻がかわいがっていた猫「ピーター」に影響を受ける


ウェインはすぐに教職を辞し、フリーのアーティストとして活躍するようになった。動物や田園風景を得意とした。

 

動物や田舎の風景を専門に描くイラストレーターとして、雑誌『イラストレイテド・スポーティング・アンド・ドラマティックニュース』で4年間さまざまなイラストレーションの仕事を勤め、また1886年には週刊新聞『イラストレイテド・ロンドン・ニュース』で仕事を始める。

 

1880年代にかけては、イラストはイギリスの田舎の農家の風景や農業用の家畜動物に関するものをてがけた。この時点では、特に猫に固執しておらず、多種多様な動物が描かれ、あらゆる種類の生き物を描き分ける能力があった。それどころか、当時は犬の絵だけで生計を立てることを望んでいたという。

 

23歳のとき、ウェインは妹の家庭教師であったエミリー・リチャードソンと結婚する。彼女はウェインよりも10歳年長だった(これは当時のイギリスではやや問題視されることだった)。二人は北ロンドンのハムステッドに移り、生活を始める。

 

しかし、新婚生活間もなく、妻のエミリーは乳がんに冒され結婚3年後に死去。エミリーが亡くなる前に、ウェインは彼の生涯の自己の主題を発見する。

 

エミリーが闘病中のある夜、一晩中、雨の中で泣いていた迷子の白黒の子猫のピーターを救い出してかわいがっていた。エミリーの心は子猫のピーターによって大いに癒やされ、それに触発されたルイスはピーターのスケッチを取り始め、エミリーから出版を勧められる。猫の絵ばかり描くようになったのは、この出来事がきっかけである。

 

エミリーはピーターの絵を気に入り、ウェインにピーターの絵本の出版を強く勧めたという。後にウェインはこの猫について、「私の画家としての創造の源であり、後の仕事を決定づけた」と語っている。

『イラストレイテド・スポーティング・アンド・ドラマティックニュース』でのルイス・ウェインのイラスト(1884年)。
『イラストレイテド・スポーティング・アンド・ドラマティックニュース』でのルイス・ウェインのイラスト(1884年)。
ルイス・ウェインの初期作品。
ルイス・ウェインの初期作品。
ルイス・ウェインの初期は猫より犬の方に関心があった。
ルイス・ウェインの初期は猫より犬の方に関心があった。

ゆっくりと擬人化されていく猫たち


1886年にウェインは最初の擬人化された猫のイラスト集『子猫のクリスマスパーティ』を出版する。

 

雑誌編集者のサー・ウィリアム・イングラムがウェインに依頼したこのイラスト集は『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されたイラストをまとめたもので、ペーターとよく似た猫が多数描かれた150匹の猫が描かれている。

 

ピーターに似た150匹の猫が、招待状を送る、ボールを持つ、ゲームをする、スピーチをするなどの活動に従事している様子が描かれており、11枚のコマに分かれている。11枚のパネルに渡って描かれている。この作品は、おそらく彼の名声の絶頂期を表すものであった。

 

この時の猫の絵は、まだ四つ足状態の猫が多く、服も着ておらず、のちのウェインの作品を特徴づけるような人間的なふるまいをする要素は少ない。ジョージ・アンリ・トンプソンといペンネームでさまざまな児童本の挿絵の仕事をしていたという。

 

 

『子猫のクリスマス・パーティー』の成功のすぐ後、1887年1月2日にエミリーは亡くなった。彼女の死後、ウェインはうつ病を患うようになり、やがて猫は彼にとって強迫観念のようなものとなった。

 

 

その結果、猫を描くスタイルも変化していった。エミリーの死や、愛猫ピーターの死、姉妹の死といった悲劇的な出来事が、彼の精神的な崩壊を招いたと考えられる。

 

1906年から1916年まで、未亡人となったルイス・ウェインとその家族は、彼の後援者であるウィリアム・イングラム卿の借家としてケント州ウエストゲート・オン・シーに住んでいた。ウェストゲート・ベイ・アベニューにある青いプレートは、彼がこの地で暮らしたことを示している。

 

その後、ウェインが描く猫たちは直立して二本足で歩き始め、また口を広げて誇張された表情で豊かに笑い、洗練された現代的な服装を着こなすようになった。ウェインのイラストには、楽器を演奏する猫、紅茶を飲む猫、トランプを楽しむ猫の他、釣り、喫煙、オペラ鑑賞をする猫が現れ始めた。

 

このような擬人化された動物はヴィクトリア朝イギリス時代で非常に人気が高り、当時のグリーティング・カードや風刺画などでよく見られた。ウェインやジョン・テニエルの作品はその代表例である。

 

多作な人気作家として活躍


その後30年間、ウェインは多作な画家であった。年に数百枚の絵を描き、約100冊の児童書の挿絵を描いた。

 

1901年から1915年には『ルイス・ウェイン年鑑』なる作品集が発売されている。彼の作品は定期的にポストカードなどで再利用され、今日彼のポストカードはコレクターに大変な人気がある。1898年から1911年まで彼はナショナル・キャット・クラブの委員長でもあった。

 

ウェインのイラストは人間の行動をパロディ化されて、その時代の流行やファッションを風刺している。

 

ウェインは「レストランや公共的な空間にスケッチ・ブックを持ち込み、その場にいる人々を猫に置き換えて、できるだけ人間の特徴を残したまま描く。こうすることで対象の二面性を得ることができ、ユーモラスな最高の作品になるんだ」と話している。

 

ウェインは、「Our Dumb Friends League」の運営評議会、「Society for the Protection of Cats」、「Anti-Vivisection Society」など、いくつかの動物保護団体に関与していた。

 

先に述べたように、彼はナショナル・キャット・クラブで活動し、会長や委員長を務めた。彼は、イギリスにおける「猫に対する蔑視を一掃することに貢献した」と考えている。

1年間のルイス・ウェインの作品収録した作品集『ルイス・ウェイン年鑑』。
1年間のルイス・ウェインの作品収録した作品集『ルイス・ウェイン年鑑』。

病気の発症


 人気が高かかったにもかかわらず、ウェインはいつも金銭に困っていた。彼は残された母と妹たちの生活費を1人で稼ぎ出さなくてはならなかったためであるのと、ビジネス的なセンスがほとんどなかったためである。

 

ウェインは常に控えめで、素朴だったため、相手に作品を安く搾取され、出版世界における権利交渉で権利関係で割の悪い契約をさせられていた。ウェインは著作権の権利を保護しないまま、自身のドローイングを売り出していた。

 

また、新しい発明や金儲けの話を持ちかけられると、すぐにだまされてしまった。

 

1907年にニューヨークに渡り、ハースト社傘下の新聞社に『Cats About Town』や『Grimalkin』などのコミックを描いた。彼の作品は広く賞賛されたが、ニューヨークに対する批判的な態度は、マスコミの非難の的となった。また、新型の石油ランプに投資したため、資金はさらに少なくなって帰国した。

 

1914年頃、ウェインはアンフォラ・セラミックス社の陶芸作品を多数制作した。「未来派猫」と呼ばれるこれらの作品は、角ばった形や幾何学的なマークを持つ猫や犬を描いたもので、キュビズム芸術の様式に属すると考えられている。

 

それと歩を合わせるようにして精神的にも不安定さが増していった。57歳のときに、分裂病の徴候をあらわし始めた。周囲の人間が信用できなくなり、外部の世界が敵意をもって、自分に襲い掛かってくる妄想に悩まされるようになった。そうして、彼はひたすら自分の内面に閉じこもるようになった。

 

同時に、彼が得意としていた可愛らしい猫の絵も、だんだん不気味な変化を示すようになった。初期のリアルな猫が、やがて幾何学的に様式化され、虹のような華麗な色彩とともに、抽象化の一途をたどる。最後には、リアリズムはまったく影をひそめ、極端に装飾化された、細密なデザインが空間をびっしりと埋め尽くそうとする。シンメトリイと空間恐怖の傾向がはっきりと現れる。

 

次第に現実とファンタジーの見分けがつかなくなっていった。話し振りも舌がもつれて何を言っているのか理解できないことが増えていた。そして30歳のときに発狂した妹と同じように、自分自身も精神病を発病してしまう。

ルイ・ウェインが生涯にわたり、精神病院内で使用した様々なアートスタイル。年代順は不明。制作途中のものもあれば、着手して完成したものもあるかもしれません。
ルイ・ウェインが生涯にわたり、精神病院内で使用した様々なアートスタイル。年代順は不明。制作途中のものもあれば、着手して完成したものもあるかもしれません。

晩年


1924年になり彼の言動そして暴力に耐えきれなくなった姉妹によって、ウェインはスプリングフィールド精神病院の貧困者用病棟に収容された。

 

1年後、人気イラストレーターだったウェインが病院に隔離されていることが一般的に知られるようになると、ハーバート・ジョージ・ウェルズなどの嘆願と当時の首相の介入により、彼の治療環境は改善されるようになった。

 

ウェインは王立ベスレム病院へと移され、続いて1930年には北ロンドンハートフォードシャーのナプスバリー病院へと転院された。この病院には患者たちのために心地よい庭が用意されており、そこには数匹の猫が飼育されていた。

 

ウェインは死去するまでの15年間をこの施設で過ごし、本来の穏やかな性格を少しずつ取り戻していった。気が向けば以前のように猫の絵に取りかかったが、その作品は原色を多用した色使い、花を模した抽象的な幾何学模様などで構成されているが、主題そのものは子猫であることに変わりはなかった。

 

1939年7月4日死去。ウェインは、ロンドンのケンサール・グリーンにある聖マリアのローマ・カトリック墓地にある彼の父と同じ墓に埋葬された。

病気について


2001年、マイケル・フィッツジェラルドは、ウェインが精神分裂病であったとする説に反論し、むしろ自閉症スペクトラム(ASD)であった可能性が高いと書いている。

 

フィッツジェラルドは、ウェインの芸術は年をとるにつれてより抽象的になっていったが、画家としての技術や技能は、精神分裂病を伴う劣化ではなかったと指摘している。

 

ウェインの絵には、視覚的無認識症(尋ねられれば思い出すことができるのに、ある対象を認識することができない)の要素が見られるという。もしウェインが視覚的無認識症であったなら、それは細部への極端なこだわりとして現れたかもしれない。

 

心理学の教科書では、彼の心理状態の悪化に伴う画風の変化を示すために、彼の一連の絵がよく例として取り上げられる。

 

しかし、各作品の制作年が不明なため、これらの作品が教科書に掲載された順番通りに制作されたかものかどうかはわからない。

 

教科書では、よりサイケデリックで抽象的な絵ほど後に配置され、ウェインの精神状態の変化を示しているのが一般的である。

 

『ルイス・ウェイン:猫を描いた男』の著者であるロドネイ・デールは、このような分析を批判している。

 

ウェインはパターンと猫の実験を行い、晩年になってもこれまでのような猫の絵を描いていた。おそらく、猫ではなくパターンを描いた「晩年の」作品から10年後である。

 

2012年、ケヴィン・ヴァン・エッケレンは精神病のパターンに関する論文で、ルイ・ウェインの初期の(物語)作品、例えば『ルイ・ウェイン子猫の本』(1903年)に劣化の証拠が見られると提案した。この分析は、「正常」と「狂気」の連続性に注目する模倣的(ジラード的)な精神病の見方に基づいている。

 

2012年12月、ベスレム王立病院アーカイブス&ミュージアムで開催された「万華鏡の猫」展のギャラリートークで、精神科医のデビッド・オフリンは、「このシリーズを制作したルイス・ウェインと、シリーズとして整理した精神科医のウォルター・マクレイ(1902-1964)の2人の創造物として見ることを提案している。

 

マクレイはノッティングヒルのジャンクショップで8枚の「万華鏡の猫」の絵を見つけ、1939年に友人に手紙を書いて、それらがいかに魅力的であったかについて書いた。

 

オ・フリンは、マクレイがこのシリーズに、1930年代に行った芸術とメスカリンによる精神病の実験に基づく、彼自身の考えを証明するものを見たのだと示唆している。マクレイは精神分裂病の人々の創造力が低下していると結論づけた。

 

オ・フリンは、アウトサイダーアーティストの作品を検証した結果、精神分裂病と作品の劣化の関連は当てはまらないと述べている。ウェインの晩年の作品を見ると、実験性や色彩がより豊かになっており、劣化しているようには見えないという。

 

このシリーズは寄せ集めただけであることが知られており、写真は1960年代から日付が変わっていないにもかかわらず、「精神病の悪化という存在しないものの表現が、驚くほど強固に行われてきた」のである。このシリーズは "精神病院アートのモナリザ "になっている。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Wain、2022年12月30日アクセス


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