Li Tobler / リー・トープラー
ギーガー・モデル
概要
生年月日 | 1947年11月30日 |
死没月日 | 1975年5月1日 |
職業 | 女優、芸術家、モデル |
パートナー | H・R・ギーガー |
リー・トープラー(1948年-1975年5月19日)はスイスの舞台女優。H・R・ギーガー作品のモデル、ギャラリー経営者。またギーガーの恋人としてよく知られている。
ギーガーは、全裸の彼女をキャンバスにしてボディペインティングをするなどトープラーをミューズとみなし、生と美貌を永遠化する作品を制作する。
彼女をモデルにした代表的な作品が、彼女の顔が機械と生体のバイオメカノイドで覆われた「リー・シリーズ(Li ⅠとLi Ⅱ)」である。
ギーガーによれば、トープラーは「巨大な精力と生の欲望」を持った女性であり、また「太く短い人生」を望んでいたという。トープラーは、極度の情緒不安定、重度の薬物依存、肉体的苦痛に苛まれて、27歳という短い人生で終止符を打った。
略歴
ギーガーとの初期活動:1966-1971年
トープラーの幼少期に関してはあまり分かっていないが、1947年にスイスで生まれている。1966年18歳のとき、チューリヒにあるK. レルスタブの演劇学校へ通い、役者を志しているときにH・R・ギーガーと出会う。
ギーガーと出会うまで、トープラーはギーガーの親友で当時のボーイフレンドだったポール・イーブルと非常に狭く汚いアパートに住んでいた。
経済的な問題もあり、唯一美術学校を卒業して、デザイナーとして働きはじめたギーガーが彼らと部屋をシェアしはじめるようになる。
ポール・イーブルが共同生活から離れると、ギーガーとトープラーの関係は徐々に恋愛関係に発展。経済的に困窮していた2人は、家賃の必要のない近くの廃墟アパートの屋根裏へ移る。1968年に廃墟アパートが取り壊されるとほかの廃墟アパートへ移り暮らすという乞食に近い生活をしていたという。
レルスタブの演劇学校卒業後、トープラ−はノイマルクトで働きはじめる。
1969年にチューリヒから約50キロ離れた場所にあるザンクト・ガレン州のスタッドシアター劇場で役者として活動をはじめる。距離的な問題でこの時代、ギーガーとトープラーは週末に会う程度だった。
トープラーはスタッドシアターの舞台に2シーズンの間、役者として活動したあと、1970年にチューリヒに戻る。経済的問題のため彼女は友人と同居せざるを得なかったがギーガーも近くのアパートに住むことになった。
しかし、数カ月後の4月にギーガーが伯父から少額まがら遺産を受け継ぎ、その遺産でスイス北部の郊外エリコンで家を購入して、2人は再び同棲するようになる。また、トープラーはアールガウ州のバーデンにあるカラーシアター劇場で役者として活動を始める。
伝えられてところによれば、2人の生活は、ドラッグの常用や乱交により、非常に騒がしかったものだったという。
ある日、トープラーが家に帰ってこなくなったので、不審に思ったギーガーは高速道路で事故を起こしていないか彼女を必死に捜索したことがあるという。見つからなかったが、3日後に彼女から電話があり、極度の焦燥感にさいなまれて蒸発の旅に出たという(ギーガーはのちに、おそらく別の男のところへいっていたのではないかと語っている)。
ギーガーによれば、彼女は衝動性が強く、そのとき望んでいたら、多かれ少なかれすぐに行動に移す性格だったという。
トープラ−の衝動的性格でギーガーは心理的に非常に苦しんだ。のちにリーが別の恋人を見つけたという事実だけで、シンプルに安心したと話している。この時期、トープラと並行するようにギーガーもほかの女性と付き合っていたという。
役者の引退と自殺:1971-1975年
1971年、ギーガーとトープラーはロンドン在住の監督フレディ・M・ミューラーを訪問する。ミューラーは1972年に『パサージェン』というタイトルのテレビドキュメンタリーを撮影する。このドキュメンタリーはまたギーガーとトープラーの両方のインタビューを特集したものだった。
1972年から1973年にかけてトープラーは、演劇『マイ・ウーマン、マイ・リーダー』に出演するためスイス全国を巡業することになったが、130を超えるハードなスケジュールだったため肉体的にも精神的にも疲弊する。その結果、演劇の世界を引退するとともにギーガーと別れることを決意した。
その後、トープラーは新しいアメリカの彼氏とサンフランシスコへ移住する。しかし一ヶ月も経たず、スイスへ戻ってくる。ギーガーによれば、トープラーはアメリカのライフスタイルに全く馴染めなかったのだという。そして、またギーガーと関係を再開する。
しかし、演劇引退後、トープラーはひどく落ち込み、徐々にうつ病と無気力に苛まれることになる。対照的にギーガーは芸術家として最も活動的な時期に入りはじめる。
トープラーは自殺未遂を起こすようになったので、友人ヨーグ・スタマーがトープラーに自己表現するためのギャラリーを開き、再活動するようアドバイスをする。
そこで、トープラーはギャラリーを開設し、自己表現するとともにマーノン、ウォルター・プレファー、ドルジャン・クロークなどの近代美術家たちの作品を紹介するようになる。
「Schuhwerke」というタイトルの彼女の最後の個展では、ゲストは奇妙な靴を履いてギャラリーを来訪するようドレスコードが行われた。ギーガーは焼き立てのパンをくり抜いた靴を履いてギャラリーを訪問したという。
トープラーが新しい表現活動に対して初期衝動のような熱気を帯びてきたにもかかわらず、短期間の活動の後、またすぐに無気力状態になる。1975年の精霊降誕祭の月曜日、27歳でベッドの上でピストル自殺。床の上に大きく「さようなら」と書かれていた。
ギーガーは一部の人々から、彼のトープラーをモデルにした侘しさや病的な作風がトープラーに悪影響を及ぼしたと非難された。実際には定期的にうつ病の対処になっていた。
ギーガーはエアブラシで何度かリーの身体にボディペインティグをして、それらを写真撮影している。悪夢の魂から抜け出すのに苦労しているミステリアスの女性のようにボディペインティングされている。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Li_Tobler、2019年9月14日アクセス