【美術解説】ルイス・キャロル「少女写真を取り続けた「アリス」の作者」

ルイス・キャロル / Lewis Carroll

少女写真を撮り続けた「アリス」の作者


7歳のアリス(1860年、ルイス・キャロル撮影)
7歳のアリス(1860年、ルイス・キャロル撮影)

概要


生年月日 1832年1月27日
死没月日 1898年1月14日
職業 数学者、作家、聖公会牧師、写真家
表現媒体 詩、写真
学歴 オックスフォード大学
活動分野 児童文学、ファンタジー、数理論理学、詩、ナンセンス文学、線型代数学、選挙理論
代表作

・『不思議の国のアリス』

・『鏡の国のアリス』

・『スナーク狩り』

・『ジャバウォッキー』

関連人物 ジョン・テニエルアリス・リデル
関連サイト ルイス・キャロルが撮影した子どもの写真

チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(1832年1月27日-1898年1月14日)は、イギリスの作家、数学者、写真家、理論家、詩人。『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』など文筆業のときに使用したペンネーム"ルイス・キャロル"という名前でよく知られている。

 

ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは写真家であり、初期の芸術写真史にもその名を残している。ドジソンはアマチュアながらも写真湿板という撮影法において優れた腕前を持ち、イギリスの上流階級の家族を多数撮影している。

 

生涯に3000枚以上の写真を撮影してプリントしているが、現存しているのは1000枚程度で、その半分以上が少女を撮影したものである。彼女たちは”小さなお友だち”と呼ばれた。よく知られている少女モデルは、『不思議の国のアリス』のモデルにもなったアリス・リデル(上写真)だろう。

 

また、ジョン・エヴァレット・ミレー、エレン・テリー、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティなど、多数のイギリス上流階級の著名人の肖像写真を撮影している。下流階級の人々には関心を示すことはなかったという。

 

写真のほかに言葉遊び、論理学、ファンタジー小説などさまざまなジャンルでドジソンは才能を示した。本国イギリスだけでなく、日本、アメリカなど世界中にドジソンの作品の熱狂的なファンのサークルがあり、彼の生涯を研究する人たちがいる。

重要ポイント

  • 写真湿版で優れた才能を発揮した
  • 撮影対象の大半は少女
  • 詩、論理学などさまざまな分野で活動

モデルになった「小さなおともだち」たち


アリス・リデル
アリス・リデル
ベアトリス・ハッチ
ベアトリス・ハッチ
エブリン・ハッチ
エブリン・ハッチ
アレクサンドラ・キッチン
アレクサンドラ・キッチン

イザ・ボウマン
イザ・ボウマン
エセル・ハッチ
エセル・ハッチ
アニー・ロジャーズ
アニー・ロジャーズ

略歴


幼少期


ドジソンの一家は北イングランドに住むアイルランド系で、保守的な英国国教会のなかでも高教会派だったとされている。

 

祖先の男性の多くは軍人もしくは英国国教会の聖職者だった。曾祖父のチャールズ・ドジソンはエルフィン司教の教会地位までのぼりつめ、また同名のドジソンの父方の祖父チャールズは陸軍将校で、1803年に戦死。戦死した当時チャールズには2人の子どもがおり、上の男の子がルイス・キャロルの父チャールズ・ドジソンだった。

 

父はウェストミンスター・スクールに通い、その後、オックスフォード大学に進学。父は伝統に忠実で宗教的生活に厳格だった。またドジソンの父は数学的才能が抜群で、2度にわたり首席の成績を収め、大いに将来を期待された素晴らしい学歴を得ている。

 

卒業後、1827年にいとこのフランセーズ・ジェーン・ラトウィッジと結婚し、地方の牧師となって生活を始めた。

 

ドジソンはイングランド北西部チェシャーの都市ウォリントンのディアズベリーにある小さな牧師館で生まれた。牧師館とは各教区の牧師が居住する家屋で、父は教区牧師だった。8人兄妹の3番目の長男で、彼の上には2人の姉がいた。

 

ドジソンが11歳のとき、父親から北ヨークシャーにあるクロフトオンディーズで生活することになり、一家は部屋の広いヨークシャーへ移る。その後、25年間一家はこの家屋で過ごすことになった。

 

ドジソンの父は極度に保守的な英国国教会の聖職者であり、また活動家だった。父はのちにリッチモンド大司教にまで昇進。神学者ジョン・ヘンリー・ニューマンの崇拝者で、またオックスフォード運動の支援者でもあった。

 

幼少時のドジソンはこのような父親から厳しい聖職教育を受けて育った。若いころのドジソンは父親の価値観とイングランド教会全体の価値観との曖昧な関係を築いて育つことになった。

学生時代


若いころのドジソンは自宅で教育を受けた。家族が保管していたドジソンの読書リストによれば、彼が幼少時から知能が高かったことがうかがえる。7歳までにドジソンは『天路歴程』を読んでいる。

 

ドジソンは幼少のころから吃音症で苦しみ、社会生活に馴染みづらかったという。なお、吃音症はドジソンだけでなく兄弟の多くが患っていた。12歳のときにドジソンはリッチモンド近郊にあるリッチモンド文法学校で学ぶ。

 

1846年にドジソンはラグビー後に入学。しかし、そこでの学生生活はあまりよいものではなかったという。成績自体は極めて優秀で、当時の教師は「私がラグビー校に赴任して以来、彼より優れた同学年の子はいなかった」と、当時のドジソンの事を述べている。

 

1849年の終わりにラグビー校を去り、1850年5月にオックスフォード大学へ入学。大学の部屋が利用可能になるのを待ち、1851年1月から大学の部屋に居住するようになる。ドジソンの初期のアカデミックのキャリアは、大きな期待と魅力的でない気晴らしの間を行き来していた。

 

彼は常に真面目な勉強家だったわけではなく、もともと天才であり、簡単に学位を取得。1852年に数学で最高級学位を取得し、その後すぐに父の旧友のエドワード・ブーベリー・ピュゼーから奨学を受けることになった。1854年にドジソンは最終数学で最高級学位を取得する。1855年のクライスト・チャーチ数学講座を取得し、同校の数学講師となったチャールズは以降26年間にわたり仕事を続けた。

 

彼は死ぬまでアリス・リデルが住んでいたディアナリー近くのオフィスで、クライスト・チャーチ図書館員を含むさまざまな仕事を黙々とこなした。

1856年のルイス・キャロルのセルフポートレイト。
1856年のルイス・キャロルのセルフポートレイト。

アマチュア写真家として高い評価


1856年にドジソンは、叔父のスケフィントン・ラトウィッジの影響で写真に興味を持ちはじめ、その年の3月18日にオックスフォードの友人であるレジナルド・サウジーとともにカメラを購入し、写真撮影を始めるようになる。

 

写真を始めるとすぐに、ドジソンは宮廷写真家として知られるようになる。腕前が良かったことからアマチュアながらも非常に早い段階で、写真で生計を立てようと思ったこともあったほどだという。

 

現存している彼が撮影した全写真を徹底的にリスト化したロジャー・テイラーやエドワード・ウェイクリングの研究『Lewis Carroll, Photographer』(2002年)によれば、作品の半分以上が少女を撮影したものだという。

 

カメラを入手した1856年にチャールズは、一連のアリス・シリーズのモデルであるアリス・リデル(当時4歳)の撮影を行っている。少女以外の写真では、男性、女性、少年、風景を撮影したものが大半で、被写体として骸骨、人形、犬、彫像、絵画、木などがよく撮影されている。

 

ドジソンの子どもの写真は、保護者同伴で撮影されている。写真の多くは日当たりの良いリデル・ガーデンで撮影されている。ドットソンのお気に入りの少女は、アリス・リデルのほかに、エクシー(Xie)ことアレクサンドラ・キッチンが知られている。エクシーが4歳から16歳までの期間にわたり、約50回の撮影を行っている。 

アレクサンドラ・キッチン
アレクサンドラ・キッチン

写真撮影技術は上流階級の社交サークルに参加するのに非常に有用であることがわかると、ドジソンは多数の肖像写真を撮影しはじめる。

 

人生で最も生産的だった時期にドジソンは、ジョン・エヴァレット・ミレー、エレン・テリー、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジュリア・マーガレット・カメロン、マイケル・ファラデー、ロバート・ガスコイン=セシル、アルフレッド・テニスンなど、多数の上流階級の著名人の肖像写真を撮影している。こうして、アマチュア写真の巨匠として知られるようになった。

 

1880年にドッドソンが写真趣味をやめるまでクライスト・チャーチの中庭に、彼自身の写真館を設置して、そこで約3000枚の写真を現像した。これらの写真のうち1000枚足らずが破損を免れて現存している。

 

消失した写真の数はかなり多い考えられている。破棄された写真のなかには、少女たちのヌード写真が多数存在していたと考えられているが、大半はドジソンが存命中に自身で破棄されたか、モデルに手わたされて散逸したとおもわれる。特にヌード写真は長い間、完全に消失したとおもわれていたが、6枚が発見され、その内の4枚が公開されており、モデルもわかっている

 

1870年代に素早く写真を現像するためドジソンは写真湿板を使いはじめている。写真湿板はそれまでのダゲレオタイプと同じ画質でありながら、安価であり、1枚のネガから何枚もプリントでき、感度が高く、露光時間が短かった。写真湿板はこれまでのダゲレオタイプやカロタイプを駆逐し、写真制作の主要な手段となった。写真湿板の制作過程は油彩絵画の制作と似ており、器用さや化学的知識を必要とし、不適切な使い方をするとすぐに腐食してしまうという。

 

近代美術の発展とともに大衆の興味に変化が生じると、ドジソンが撮影した写真は改めて再評価されるようになった。今日でもドジソンの写真は現代美術家に影響を与えており、たとえばオーストラリアの写真家ポリエ二・パパペトルは、ドジソンが撮影した少女写真と同じ構図や背景の写真作品を、自身の娘をモデルにしてリメイク作品を制作している。

Olympia as Lewis Carroll's Xie Kitchin as Chinaman on tea boxes (on duty) 2002
Olympia as Lewis Carroll's Xie Kitchin as Chinaman on tea boxes (on duty) 2002

文筆の活動を始める


ドジソンは一般的には写真家としてよりも、文筆分野で活躍した人物と見られている。実際に趣味の範囲にとどまっていた写真にくらべ、文筆分野においてドジソンは詩や物語を執筆して多数の雑誌に寄稿し、それなりの成功を収めていた

 

若いころからドジソンは詩や短編小説を書いている。家族向けの雑誌『ムッシュマッシュ』やさまざまな雑誌に投稿している。1854年から1856年までの間にドジソンの作品は、全国誌の『The Comic Times』や『The Train』から、『Whitby Gazette』や『Oxford Critic』といった小部数発行誌までさまざまな本に掲載されている。

 

本に掲載された作品の多くはユーモラスであり、風刺的であったが、自身の作品に対する姿勢は非常に厳格で真摯で、当時はまだ満足してはいなかったという。1855年7月にドジソンは「私はまだ本当に価値のある本を書いていないと思う。しかし、いつか自分で納得のいく本を書きたいと思う」と書き残している。

 

1850年以降、ドジソンはときどき兄妹と遊ぶために人形劇のための脚本を書いている。その中の1つが『La Guida di Bragia』として現在まで伝わっている。

 

1856年にドジソンはルイス・キャロルというペンネームを初めて使って『The Train』誌に作品『孤独』を投稿。このペンネームは彼の本名をもじったものである。「Lewis」は「Lutwidge(ラトウィッジ)」のラテン語名の「Ludovicus」を、「Carroll」は「Charles(チャールズ)」のラテン語名の「Carolus」を、それぞれ英語化したものである。

「不思議の国のアリス』の成功


ドジソン自身が描いたアリスの絵。
ドジソン自身が描いたアリスの絵。

1856年、オックスフォードに新しい学寮長であるヘンリー・リデルが、妻子を伴ってクライスト・チャーチに転任してくる。

 

1856年4月25日、ドジソンが大聖堂を写真撮影しているときに、はじめてリデル一家と出会う。以後、リデル一家と親密な関係を築いていった。

 

ドジソンはリデル家、特にロリーナ、アリス、イーディスの3姉妹と親しく交際した。『不思議の国のアリス』のモデルとなる次女アリス・リデルは姉ロリーナより3歳年下で、妹エディスとは2歳はなれていた。

 

この3人姉妹はいつも一緒にいることがおおかった。リデル一家は休日になると、定期的に北ウェールズのランディドノー西岸にある、のちにゴガルス修道院ホテルとなる別荘『THE PENMORFA』で過ごしたという。

リデル三姉妹。一番右がアリス。ルイス・キャロル撮影。
リデル三姉妹。一番右がアリス。ルイス・キャロル撮影。

1862年7月4日、ドジソンはリデル3姉妹および友人ロビンソン・ダックワースとの、アイシス川へのピクニックの途上において、『不思議の国のアリス』の原点となる物語を即興で口頭で生み出す。これが最初の『アリス』の物語である。

 

アリスはドジソンにアリスと姉妹たちに面白いお話をしてくれるよう頼み、ロビンソン・ダックワース司祭がボートを漕ぎ、ドジソンは彼女たちにウサギの穴に落ちた女の子アリスの冒険物語を即興で作り聞かせ楽しませた。

 

この口頭で語った物語を、ドジソンはアリス・リデルから文章に書き起こすようにせがまれた。こうして、ドジソンは口頭で語った話しを元に『地下の国のアリス』の執筆を始める。ドジソンは仕事が忙しかったため、その後、なかなか物語の創作に手をつけることができなかったが、下書きの執筆は第2回ロンドン万国博覧会見物のための列車内で行われ、1863年2月10日に本文が完成した。

 

口頭で語って2年後の1864年9月13日に書き上げられた手書きの挿絵を添え、 同年11月26日に「親愛なる子へのクリスマスプレゼントとして、夏の日の思い出に贈る」との献辞と共に、『地下の国のアリス』と題された手書きの本がアリスに贈られた。これが『不思議の国のアリス』のオリジナル版である。

 

ジョン・テニエルの挿絵で描かれたアリス。
ジョン・テニエルの挿絵で描かれたアリス。

また、執筆中にドジソンは『地下の国のアリス』を可能な限り商業用に書き直すよう工夫している。

 

1863年の春に作家で友人で作家のジョージ・マクドナルドに『地下の国のアリス』の原稿を送り、感想を求めている。マクドナルドの子どもたちに原稿を読ませてみると、大変面白がったので、マクドナルドはドジソンの本を出版してくれる出版社を探した。

 

その後、ドジソンはその写本をマクミラン社に持ち込むと、すぐに好意的な反応が返ってくる。公刊にあたり、ドジソンは『アリス』の本文を1万2715語から2万6211語へと書き足した。

 

仮題の『Alice Among the Fairies(妖精の国のアリス)』と『Alice's Golden Hour(アリスの黄金の時間)』が却下された後に、ついに『不思議の国のアリス』は、ルイス・キャロルの筆名により1865年に出版された。

 

挿絵は風刺漫画雑誌『パンチ』で人気のイラストレーターのジョン・テニエルに依頼することになった。「(私家版と異なり)公刊される本には専門の画家の腕前が必要」と判断したようである。

 

『不思議の国のアリス』の即時的かつ驚異的な成功により、彼の人生はドジソンとしての現実の人生と、ルイス・キャロルの周囲に展開する神話の2つに、事実上二分されてしまった。キャロルは金銭的に成功し、彼の物語によって広く知られるようになったもう一人の人格が作り上げられた。『不思議の国のアリス』の著者として知られている、少女と浮世離れした変人のイメージである。

 

 

キャロルは1872年に『鏡の国のアリス』を発表し、1876年にはジョイス的な模擬英雄詩『スナーク狩り』を発表した。この本は、アリス以降の重要な子供友達であるガートルード・チャタウェイに捧げられている。1886年12月22日には、『地下の国のアリス』の複製本が5千部出版された。

晩年


フーベルト・フォン・ヘルコマーによる写真をもとにした死後のルイス・キャロルの肖像。
フーベルト・フォン・ヘルコマーによる写真をもとにした死後のルイス・キャロルの肖像。

非常に裕福で名声も高かったので、晩年約20年のドジソンの活動や生活の変化はほとんどない。1881年までクライスト・チャーチで教師を続け、死ぬまでオックスフォードに居住していた。

 

最後の2巻からなる小説『シルヴィーとブルーノ』は1889年と1893年に出版されたが、作品内容があまりに複雑だったため読者の受けはよくなかった。『アリス』シリーズのような商業的成功を収めることはなく、不評な感想とともに1万3000部しか売れなかったという。

 

旅行もほとんどせず、1867年に神学者のヘンリー・リッドンとともに牧師として一度だけロシアに旅行しただけだった。1935年に出版された『ロシア・ジャーナル』で旅に関する内容が語られた。ロシアへの行程でドジソンはベルギー、ドイツ、ポーランド、フランス内の街も見物もしている。

 

 

ドジソンは1898年1月14日、グリフォードにある妹の家でインフルエンザにかかり肺炎で死去。65歳だった。葬儀は近くのセント・メアリー教会でおこなわれ、マウント墓地のグルドフォードに埋葬された。

ドジソンの性格


吃り


ドジソンの身長は183cmのスレンダーな体型、カールブラウンの髪、青と灰色が混合した目をしていた。中年時に膝を痛めたのが原因かもしれないが、のちにいくぶん身体の左右が不均衡で動きがぎこちなかったと描写されている。

 

幼少のころドジソンは片方の耳が聞こえなくなる熱病を患っている。また、17歳のときには百日咳にかかり、これがのちの人生における慢性的な胸の弱さの原因となっている。

 

そして、なによりドジソンが成人期まで引きずった唯一の明らかな欠点は、彼自身が「ためらい(hesitation)」と名付けていた吃音癖だった。

 

吃りはつねにドジソンのイメージの重要な部分だった。吃りは大人と対話するときのみ起こり、子どもが相手のときは流暢に話していたと言われているが、この証拠を裏付けとなる証拠はほぼない。

 

ドジソンと交友のあった多くの子どもたちは、ドジソンの吃りを覚えているが、一方で多くの大人たちは吃りに気づかなかったと報告されている。つまり、ドジソンの吃りは対人恐怖やあがり症ではなく、生来のもの、彼の兄弟の多くも吃りだったことから遺伝的なものだといえる。

 

しかし、ドジソン自身は彼と関わりのあった人たち以上に自身の吃りを気にしていた。たとえば、『不思議の国のアリス』に登場するドードー鳥は、「ドジソン」という自分の名前をうまく発音できなかった自身を戯画化したものであるという。

 

吃りはドジソンの大きな悩み事の1つだったが、社会生活を送る上で、特に生活に支障をきたすレベルのものではなかった。むしろ、ドジソンは普通の人よりも社交的であり、人々を楽しませる能力があった。人前で歌を歌うのが得意で、観客の前に立つと不安になるということはなかった。また物真似が得意で、トークが上手く、非常に評判がよかったといわれている。

ラファエル前派との交流


初期に出版されたものとアリスシリーズの期間中、ドジソンはラファエル前派の社交サークルに通っていた

 

1857年にジョン・ラスキンに出会い、以後親しくなる。また、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティや彼の家族と交友をはじめ、ほかにウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレー、アーサー・ヒューズらと親しくなった。

 

文学関係では児童文学作家のジョージ・マクドナルドと親しくなる。アリスの原本をマクドナルドの子どもたちに読ませたところ、非常に受けが良かったのでマクドナルドはドジソンに公刊を勧め、さまざまな助言をおこなった。

政治的にも宗教的にも保守派


長い間、ドジソンは伝統的に政治的でも宗教的にも保守派とみなされている。ドジソンに対してトーリー党(現在の保守党の前身になる政党)とラベルを貼ったアメリカの数学者のマーティン・ガードナーは、「貴族に擦り寄り、下流に対してスノッブな態度を取る」と評している。実際、写真撮影においてその被写体とするものは、上流階級の家庭や子どもばかりだった。

 

ウィリアム・タックウェルは、1900年に出版した『オックスフォードの回想録』で、「堅苦しく、シャイで、几帳面で、論理的な世界に夢中な人物で、また政治的、神学的、社会学的な面においても頑固なまでに保守的であった。まさに、アリスで見られる風景のように四角の囲いの中でドジソンは過ごしていた」と話している。

あらゆる分野に関心を示した


ドジソンは、詩や写真のほかにもさまざまな分野にも関心を示した。たとえば、ドジソンは心霊現象研究協会の初期メンバーで、のちに「読心術」と呼ばれるものに関心を抱いている。

 

また、ドジソンはさまざまな哲学論文を発表しており、1895年には哲学雑誌『Mind』に「亀がアキレスに言ったこと」という対話篇を発表している。

 

ドジソンはまた彼自身の本名により、多数の数学論文や著書を発表している。不思議の国のアリスが好評を博し、ヴィクトリア女王が他の著作も読みたいと依頼したところ、『行列式初歩』という数学書が送られてきて面食らったという逸話が残っている。しかし、キャロル本人はその逸話が事実無根であると否定している。

 

ドジソンは生涯に98,721通の手紙の受け渡しをしている。また手紙を上手に書くための『手紙を書くさいに賢明な8か9の言葉』というタイトルの助言書を作成している。