レオノーラ・カリントン / Leonora Carrington
男性シュルレアリストの解釈に反発
概要
生年月日 | 1917年4月6日 |
死没月日 | 2011年5月25日 |
国籍 | イギリス、メキシコ |
表現媒体 | 絵画 |
ムーブメント | シュルレアリスム |
公式サイト | http://www.leocarrington.com/ |
レオノーラ・カリントン(1917年4月6日-2011年5月25日)は、イギリス生まれでメキシコに帰化した画家、小説家。1930年代のシュルレアリスム運動において活躍した女流シュルレアリストであり、最後の生き残りの一人だった。
ロンドンからパリに出て、知り合ったマックス・エルンストの妻となったが、第二次大戦中にドイツ人だったエルンストと別離を強いられたあと、精神喪失に陥りスペインの精神病院へ送還された。
その後、メキシコへ移住し、その後人生の大半をメキシコシティで過ごす。1970年代メキシコにおける女性解放運動に参加して活躍した。
カリントンはフロイトの理論やシュルレアリスムに関してはそれほど関心はなかった。女性のセクシャリティ表現をほかの男性シュルレアリストが評価し、理論化することに対して疑問を持っていた。彼女は創作プロセスにおける女性の役割をテーマに当て、自分の表現は自分で解釈していた。またシュルレアリスムの代わりに戦後に現れたマジック・リアリズムや錬金術に関心を持っていた。
「私は自分自身を確認するために絵を描いている。誰かに売ったり、評価するために描いたことはなかった。」とキャリントンは話している。
キャリントンの絵には、『ポートレイト』(1938年)に代表されるように、よくハイエナが現れる。キャリントンによればハイエナには自分自身が投影されており、この動物の反抗的精神や両性具有的なあいまいな性的特徴に惹かれているという。
窓の向こうの背景には、芸術家自身を表す白い馬が森の中を自由に行き来している。ほぼ同じようなポーズで部屋の中の白い揺れ馬が描かれている。この揺れ馬は、彼女の幼少時代を表しているという。キャリントンはイギリスの田舎の貴族家庭で育てられ、家庭の厳格な教育に反発していたという。
テート・モダンのキュレイターであるマシュー·ゲイルによると、シュルレアリスムの詩人でシュルレアリスム絵画のパトロンだったエドワード・ジェームズがイギリス時代のキャリントンの作品を最も所有していたという。
略歴
幼少期
レオノーラ・カリントンは、イギリスのランカシャー州クレイトン・ル・ウッズの裕福な織物業者のろーま・カトリック系の家庭で生まれた。母親はアイルランド・ウエストミースの医師の娘で、同じ家系に小説家のマリア・エッジワースがいる。カリントンには、ほかに三人の男兄弟(パトリック、ジェラルド、アーサー)がいた。
幼少期は、反抗的な行動をとっていたため2つの学校から退学処分を受け、家庭教師やチューター、修道女として教会で教育を受ける。その後、フィレンツェのミス・ペンローズの寄宿学校に留学し、そこで美術教育を学ぶ。父はカリントンが美術の道に進むことに反対したが、母親は逆にすすめたという。
1927年、10歳のとき、彼女は初めてシュルレアリスム絵画をレフトバンクギャラリーで鑑賞し、ポール・エリュアールをはじめ多くのシュルレアリスト達を知るようになる。カリントンは、母からおくられたハーバート・リードの『シュルレアリスム』(1936年)を読み、シュルレアリスムに関して深く勉強するようになった。
その後、パリのフィニシング・スクールを経て、ロンドンに戻る。1935年にチェルシー美術学校で一年間過ごし、父の知り合いのアイヴァン・チャマイエフの助力を経て、ロンドンのアカデミー・アメデ・オザンファンに通う。このころ、オルダス・ハックスレーの小説『ガザの眼のない者』や錬金術に関心を持ち、本を読み漁る。
マックス・エルンストとの出会い
1936年にロンドンで開催された国際シュルレアリスム展でマックス・エルンストの作品に遭遇し、彼に多大な影響を受ける。
1937年にカリントンはロンドンで開催されたパーティーでエルンストに会う。2人はパリに戻り、そこでエルンストはすぐに妻と別れた。このときエルンストは46歳、カリントンは20歳だった。
1938年にパリを去り、彼らは南フランスのサン・マルタン・ダルディッシュで暮らし、2人はコラボレーションをしながらお互いの芸術を発展させていった。2人のコラボレート作品で有名なものとしては、南フランスのサン・マルタン・ダルディッシュの自宅のオブジェとして制作されたガーディン・アニマルズがある。カリントンは石膏で馬の頭を、エルンストは鳥を制作した。
第二次世界大戦が勃発すると、ドイツ人だったエルンストはフランス当局から敵対的外国人として逮捕されたが、ポール・エリュアールやほかの親友、そしてアメリカ人ジャーナリストのバリアン・フライなどの助けを借りて、エルンストは数週間で保釈された。
しかし、ナチスがフランスに侵入するやいなや、今度はゲシュタポによってエルンストは再逮捕される。「退廃芸術」に相当するのが理由だった。エルンストは、キャリントンを残したままコレクターだったペギー・グッゲンハイムの助けを借りて、アメリカへ逃亡する計画を立ててる。
1940年、エルンストがミルの収容所に抑留されたことで、キャリントンは酷い神経症を患う。スペインへ逃亡するが、マドリードにある米国大使館で不安と被害妄想が最高潮に達して、彼女は精神喪失に陥った。
錯乱のあまり「ヒトラーを殺す」とわめきちらすようになり、家族のはからいでスペインの病院に入院。電気痙攣療法、てんかん薬、抗鬱剤などを処方されたという。
その間、エルスントはペギー・グッゲンハイムの助けを借り、ヨーロッパから脱出し、エルンストは1941年に彼女と結婚。その後、すぐにグッゲンハイムと離婚するものの、エルンストとキャリントンの関係が修復することはなかった。
メキシコ時代
1941年にキャリントンは、メキシコ人外交官レナト・レドックの助けを借り、ヨーロッパを脱出し、ニューヨークに移る。その後、レドックと再婚。
ブルトンらが発行したシュルレアリスム雑誌『VVV』にドローイングや、戦時経験や精神科医院の入院経験を綴った小説『はるか下方に』を発表。
また神秘主義に夢中になり、夢想や物語や魔術的な運命を共有する。精神の変革への道は女性の変革への道でもあると考え、1950年代の初期にはチベットのタントラと禅宗(鈴木大拙とも交流が)に傾倒する。グルジェフ一派に属するようになったりもした。この頃にアレハンドロ・ホドロフスキーとあっている。
その後、1960年代に一時ニューヨークに滞在したあと、彼女はメキシコで生活し、作品を制作し続けた。
メキシコにいる間、1960年にメキシコ国立現代美術館で回顧展を開催。1963年には『マヤ族の不思議な世界』と呼ばれる壁画制作を、メキシコ国立人類学博物館から依頼された。それは彼女が住んでいた場所に伝わるマヤ族の話に関する壁画だった。
2011年6月25日、メキシコシティの病院で94歳で死去。死因は肺炎だった。
A4版
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