【美術解説】リー・ミラー「トップモデルであり前衛写真家としても活躍」

リー・ミラー / Lee Miller

トップモデルであり前衛写真家としても活躍


Dressed for war (David E. Scherman) , 1942–1942
Dressed for war (David E. Scherman) , 1942–1942

概要


本名 エリザベス・ミラー
生年月日 1907年4月23日
死没月日 1977年7月21日
国籍 アメリカ
タグ 写真家、ジャーナリスト、モデル
スタイル シュルレアリスム芸術写真
配偶者 アジズ・エルーイ・ベイ、ローランド・ペンローズ
関連サイト

リー・ミラー・アーカイブ

artnet

エリザベス・リー・ミラー(1907年4月23日-1977年6月21日)はアメリカの写真家、フォトジャーナリスト、ファッションモデル。

 

1920年代のニューヨーク・ファッションシーンでモデルとして活躍したあと、パリにわたりファッションとファインアートの写真家として活躍した。

 

第二次世界大戦時にミラーは、『Vogue』専門の戦争写真家となり、ナチス・ドイツがイギリス対して行なった大規模な空襲「ロンドン大空襲」をはじめ、1944年の「パリの解放」、ブーヘンヴァルト強制収容所やダッハウ強制収容所を取材撮影した。

略歴


幼少期


リー・ミラーは1907年4月23日、ニューヨークのポキプシーで父セオドア・ミラーと母のフローレンス・ミラー(旧姓マクドナルド)のあいだに生まれた。父はドイツ系では母カナダ系、ほかにスコットランドとアイルランド系の血も混じっているという。ミラーには弟のエリック、兄のジョンの2人の兄弟がいた。

 

父はいつもリーを可愛がり、よく彼女をモデルにしてアマチュア写真を撮影して雑誌などに投稿していたという。リーは10代を父のヌード・モデルとして過ごす。リーと父親の異常な関係はかなり長期にわたって続き、リーがマン・レイと交際するようになってからも、父親はパリに出向き、リーのヌードを撮影している。

 

なお、7歳のときに、リーはブルックリンの家族友だちと滞在しているときにレイプされ、淋病に感染しているが、事件の真相はよく分かっていない。父親が犯人ではないかとも思われている。リーは幼少期に正規の教育に問題を抱えていて、ポキプシー地区に住んでいた間はほとんどすべての学校から退学している。

 

1925年、18歳でパリに移り、ラディスラス・メジェスの舞台芸術学校で照明、衣装、デザインを学ぶ。 1926年にニューヨークに戻り、「実験的演劇」の先駆者であるハリー・フラニガンが指導するヴァッサー・カレッジの実験的演劇プログラムに参加した。

 

その後まもなく、ミラーは19歳で家を出て、マンハッタンのニューヨーク美術学生同盟に入学し、ドローイングと絵画を学んだ。

ファッションモデル時代


 

19歳のとき、マンハッタン通りを歩いているときに『Vogue』の編集者のコンデ・モントローズ・ナストに声をかけられモデルの仕事を始める。1927年3月15日号の『Vogue』の表紙でリーはイラストレーション化した形で登場する。イラストレーターはジョージ・ルパプ。これをきっかけにリーは一気にファションモデル業界で活躍しはじめる。

 

次の2年間で、リーはニューヨークで最も人気のモデルに成長し、エドワード・スタイケン、アーノルド・ゲンテ、ニコラス・ムイイ、ジョージ・ホイニンゲン=ヒューンなどの著名写真家たちが次々と彼女を撮影した。

 

しかし、エドワード・スタイケンが撮影した写真がコーテックス社の生理用品の広告に写真が使用されてしまうスキャンダルを起こしたため、ファッションモデルとしては廃業に追い込まれることになる。

 

その後、1929年にファッションデザイナーに雇われ、ルネサンス期の絵画のファッションを描くイラストレーションの仕事をしいていたが、これに飽き飽きし、写真に関心を持ち始める。

『Vogue』1927年3月15日号
『Vogue』1927年3月15日号
コーテックス社の広告
コーテックス社の広告

パリとシュルレアリスム時代


1929年、ミラーはシュルレアリストで写真家のマン・レイのもとへ弟子入りするため、パリへ移る。初めマン・レイは弟子はとらないつもりだったが、ミラーはすぐにマン・レイのモデルでコラボレーターとなり、また愛人でミューズにもなった。

 

パリ滞在中、彼女は自分専用の写真スタジオを立ち上げ、マン・レイが絵画制作で写真の仕事に取り掛かれないときに、仕事を引き継いでいたという。

 

またマン・レイとともに、彼女は「ソラゼリーション」という写真技法を発明し、シュルレアリスム運動にも積極的に参加した。

 

2人はソラゼリーションを駆使して、独特なビジュアルの写真を多数撮影した。たとえば、1930年頃にパリで撮影されたマン・レイのソラリゼーションによるミラーのポートレイトや、シュルレアリスムの仲間であるメレット・オッペンハイム(1930年)、ミラーの友人ドロシー・ヒル、無声映画のスターのリリアン・ハーヴェイ(1933年)のポートレイトなどがその一例である。

 

ソラリゼーションは、無意識の偶然が芸術に不可欠であるというシュルレアリスムの原則に合致するだけでなく、ポジティブとネガティブの極性の反対を組み合わせることで、このスタイルの非合理性や逆説的な魅力を喚起している。

 

シュルレアリスム運動参加時の彼女の親友といえば、マン・レイのほかに、パブロ・ピカソ、ポール・エリュアール、ジャン・コクトーなどがいる。ジャン・コクトーの実験映画「詩の血」でミラーは彫像姿で出演している。


マン・レイ撮影 リー・ミラー

ジャン・コクトー『血の詩』に出演するリー・ミラー(1930年)

写真家としてアメリカで独立


マン・レイのもとを去ったあと、1932年にリーはニューヨークに戻り、兄のエリック(ファッション写真家トニ・フォン・ホーンの下で働いていた)を暗室作業のアシスタントとして助手として雇い、ポートレイト写真や商業写真のスタジオを立ち上げる。

 

ミラーはラジオシティ・ミュージックホールから1ブロックのビルに2つのアパートを借りる。アパートの1つは彼女の自宅となり、もう1つはリー・ミラー・スタジオにした。

 

同年1932年に、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊で開催された「近代ヨーロッパ写真展に参加。また、ブルックリン博物館で開催された「ラースロー・モホリ=ナギー、セシル・ベアトン、マーガレット・バーク=ホワイト、ティナ・モドッティ、チャールズ・シーラー、レイ、エドワード・ウェストンとの国際写真家展」に参加。

 

この展覧会を見たキャサリン・グラント・スターンは1932年3月に『パルナッソス』誌にレビューを書き、ミラーは「パリの雰囲気の中で、よりアメリカ人らしい性格を保っている」と批評している。

 

翌年の1933年にはジュリアン・レヴィ画廊で個展を開催。ミラーが撮影したポートレイト写真ではジョゼフ・コーネル、女優のリリアン・ハーヴェイやガートルード・ローレンス、ほかにヴァージル・トムソンのオペラ劇『Four Saints in Three Acts』での黒人アメリカ人などが有名である。

リー・ミラー撮影 ガートルード・ローレンス
リー・ミラー撮影 ガートルード・ローレンス
『Four Saints in Three Acts』 (1934年)
『Four Saints in Three Acts』 (1934年)

カイロとパリ


1934年にリーは、スタジオを閉め、エジプト鉄道の建築資材を購入するためにニューヨークに来ていたエジプトの実業家アジズ・エルーイ・ベイと結婚。

 

この時代リーはプロの写真家としての仕事はしていなかったが、1937年の《空間の肖像》をはじめエジプト滞在期間に撮影したプライベート写真にはシュルレアリスム的な芸術評価の高い作品が多く含まれている。

 

1937年までにリーはカイロでの生活に退屈になり、パリに戻ってくる。そこで彼女はイギリスのシュルレアリスム画家でキュレーターのローランド・ペンローズと出会う。彼とはのちに結婚した。

 

彼女の写真のうち4点《エジプト》(1939年)、《ルーマニア》(1938年)、《リビア》(1939年)、《シナイ》(1939年)が、1940年にロンドンのツヴェマー・ギャラリーで開催された展覧会「シュルレアリスムの日々」に出品された。

 

その後、彼女の写真作品が展覧会に出品されるのは1955年になってからで、ニューヨーク近代美術館の写真部門のキュレーター、エドワード・スタイケンが企画した展示「The Family of Man」で展示された。

《空間の肖像》1937年
《空間の肖像》1937年

戦場写真ジャーナリストとして活躍


第二次世界大戦が勃発してロンドン空爆が始まったとき、ミラーはローランド・ペンローズとロンドンのハムステッドに住んでいたが、友人や家族からアメリカへ戻ってくるよう請われるが、ミラーは無視する。

 

むしろこれをチャンスにして『Vogue』公式の戦場写真ジャーナリストとして新しい仕事を始めるようになる。そうして、『ロンドン空爆』の様子を見事に写真に収めて有名になった。

 

また、リーは1942年12月からアメリカを本国とする多国籍雑誌出版企業コンデナスト・パブリケーションズの従軍記者として、米軍とともに行動し、リーは『LIFE』で活躍していたアメリカの写真家デヴィッド・シャーマンとチームを組んだ。

 

2人はフランスを約1ヶ月取材し、サン・マロ城包囲戦、ノルマンディー上陸作戦、パリ開放、アルザス戦、そしてブーヘンヴァルト強制収容所やダッハウ強制収容所などのナチスの恐怖現場を写真におさめた。ミュンヘンにあったアドルフ・ヒトラーのバスタブに入って撮影したミラーの写真(撮影:デヴィッド・シャーマン)は、最も有名な写真の1つになった。

晩年


中央ヨーロッパからイギリスに戻ったあと、リーはうつ病を発症する。戦争取材が原因とするPTSDだった。その後、リーはアルコール中毒になり、将来に対して悲観的になる。

 

気休めに1946年にリーはローランド・ペンローズとアメリカを旅行し、そこでカリフォルニアにいるマン・レイのもとを訪ねる。なお、アメリカでペンローズとの間に一人息子のアントニーが妊娠していることが発覚すると、ベイとは離婚。1947年5月3日にペンローズと再婚し、彼らの息子であるアントニー・ペンローズは1947年9月に産まれた。

 

1949年に2人は、東サセックスにファーリー・ファーム・ハウスを購入。1950年代から1960年代にかけて、ファーリー・ファームは、ピカソやマン・レイ、ヘンリー・ムーア、アイリーン・エイガー、ドロテア・タニング、マックス・エルンスト、ジャン・デビュッフェといったアーティストが訪れ、芸術家たちのメッカとなった。

 

リーは『Vogue』の写真の仕事を続けつつ、写真から少しずつ距離を置くようになる。暗室に使っていたキッチンを廃棄して、料理に興味を覚え、またローランドが書いたピカソやアントニ・タピエスな伝記用の写真を撮る。しかしながら、戦争の写真、特にナチスの強制収容所の写真はずっとリーを悩ませ続け、後にアントニーは当時のリーについて「下方スパイラルが始まっていた」と話している。またリーのうつ病は、夫のダイアン・デリーアスの不倫で悪化したといわれている。

 

リーは、1977年70歳で、東サセックスのファーリー・ファーム・ハウスでがんで死去、火葬され遺灰はファーリー・ファーム・ハウスの庭に埋葬された。

リー・ミラーの自宅でシュルレアリスト達のサロンとなった「ファーリー・ファーム・ハウス」
リー・ミラーの自宅でシュルレアリスト達のサロンとなった「ファーリー・ファーム・ハウス」

年譜表


■1907年

ニューヨーク州のプーキプシーで生まれる。

 

■1925年

18歳でパリにわたり照明、衣装、舞台美術を学ぶ。

 

■1926年

アメリカに帰国。エドワード・スタイケン、ニコラス・マレイ、アーノルド・ゲンスらのモデルとして活躍。

 

■1929年

再度ヨーロッパへわたり、フィレンツェ・ローマを経てパリに落ち着く。マン・レイの弟子となり、かつ愛人となる。

 

■1930年

モンパルナスにスタジオを開設し、シャネルなどのファッションデザイナーの仕事を行う。またジョージ・ホイニンゲン=ヒューンの助手をする。

 

■1932年

マン・レイと別れ、ニューヨークに戻り、スタジオ設立。

 

■1934年

エジプト人実業アジズ・エルイ・ベイと結婚、カイロへ。

 

■1937年

ローランド・ペンローズと出会う。

 

■1939年

エルイ・ベイと実質的に離別し、イギリスへ。

 

■1940年

イギリス版『ヴォーグ』にて活躍。主としてポートレートとファッション写真。

 

■1941年

写真集『灰色の栄光 戦火のイギリス写真集』に22点の作品が掲載。

 

■1942年

戦場カメラマンとなりイギリスやドイツの戦争の写真・収容所の写真を撮影する。『ライフ』のカメラマン、デヴィッド・E・シャーマンとチームを組み多くの取材を行う。

 

■1945年

写真集『海軍婦人部隊』刊行。

 

■1947年

エルイ・ベイと正式に離婚し、すでに交際していたローランド・ペンローズと結婚、9月に長男アントニーを出産。

 

■1950年

PTSDに陥り、写真の仕事や『ヴォーグ』から離れるようになる。

 

■1953年、展覧会「頭部の驚異と戦慄」(Wonder and Horror of the Human Head)をローランド・ペンローズと企画(ロンドン・現代美術研究所)。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Lee_Miller、2020年5月7日アクセス