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【作品解説】グスタフ・クリムト「ウィーン大学の天井画」

ウィーン大学の天井画

批判を受け撤去され戦時中に破壊された絵画


描かれていた医学を司る女神ヒュギエイア。
描かれていた医学を司る女神ヒュギエイア。

概要


作者 グスタフ・クリムト
制作年 1900-1907年
メディア 天井画
所蔵者 消失

《クリムトのウィーン大学の天井画》は、1900年から1907年にかけてグスタフ・クリムトがウィーン大学大ホールの天井に描いた一連の絵画。「ファカルティ・ペンディング」として知られている。

 

1894年、クリムトは天井画の制作を依頼を受けて「哲学」「医学」「法学」の絵を描いたところ、「ポルノ」「変態的な過剰表現」を理由にバッシングされ、この絵は大学に一切展示されないことになった。

 

1945年5月、退却してきたナチ親衛隊が絵画を保管していた建物に放火し、3点とも焼失したとする説があるが、未検証である。

哲学


「哲学」は、1900年3月に開催された第7回ウィーン分離派展でオーストリア政府に贈られた3枚の絵のうちの1枚である。パリ万国博覧会で金賞を受賞していた作品である。

 

しかし、ウィーンでは多くの美術評論家から批判を受けた。クリムトはこの絵を次のように評している。「左側には、人生の始まり、結実、衰退を表す人物の群れが描かれている。右側には、神秘としての地球儀。右側には、神秘としての地球儀」。

 

この絵は、無目的な恍惚の中に漂う男女を描いたもので、批評家たちの心を揺さぶった。

 

絵のテーマの原案は「闇に対する光の勝利」だったが、クリムトが代わりに提示したのは夢のような人間の塊であり、楽観主義でも合理主義でもなく、「粘性のある空虚」に言及したものだった。

《哲学》、1899-1907年。ウィーン大学大ホールの天井パネル。1945年、インメンドルフ城の火災で焼失
《哲学》、1899-1907年。ウィーン大学大ホールの天井パネル。1945年、インメンドルフ城の火災で焼失
《哲学》の下絵
《哲学》の下絵

医学


《医学》は2作目で、1901年3月の第10回分離は展に出品された。絵の右側に半裸の人物の列があり、生命の川を表現している。

 

その横には、宇宙に浮かぶ若い裸体の女性がいて、その足元には生まれたばかりの赤ん坊がおり、生命を表現している。骸骨は生命の川の中で死を表現していた。

 

浮遊する女と死体の川をつなぐのは、後ろから見た女と男の二本の腕だけである。絵の下部にはヒュゲイアがアエスクラピアの蛇を腕に巻き、手にはレテの杯を持ち、人間に背を向けて立っている。

 

1901年にこの絵を展示したところ、批評家たちから非難を浴びることになった。『Medizinische Wochenschrift』誌の社説は、この画家が医師の二大業績である予防と治療を無視していると苦言を呈した。

《医学》,1899-1907
《医学》,1899-1907
《医学》の下絵
《医学》の下絵

法学


《法学》もまた不安をはらんでいる。死刑囚の周りには、3人の女妖精と海の怪物が描かれ、その背後には真実、正義、法の3人の女神が控えている。

 

彼らはエリーニュスとして、タコの死の抱擁で死刑囚に罰を与える姿が描かれている。法学』の対立は、"サイコ・セクシャル "として捉えられてきた。

《法学》,1899–1907
《法学》,1899–1907
《法学》の下絵
《法学》の下絵

反応


「現実を昇華させ、より好ましい側面のみを提示する」(ネレ)という時代の流れに反し、それぞれの絵が異なる文化的タブーを破ったため、発表当時は批評家から非難を浴びた。また、クリムトがしばしば直面した猥褻物陳列罪も、この作品から感じられた。

 

87人の教員が絵に抗議し、1901年には検察官が呼ばれ、この問題はオーストリア議会でも初めて文化的な議論がなされたが、結局何の措置もとられなかった。

 

クリムトを擁護したのは教育相だけで、1901年にクリムトが美術アカデミー教授に選出された際も、政府はその批准を拒否した。その後、クリムトに教職のオファーが来ることはなかった。

 

クリムトが国家からの仕事を受けるのはこれが最後となり、次のように述べた。「検閲はもうたくさんだ......。検閲はもうたくさんだ...国家からの支援は一切受けない。」

 

後に描かれた『金魚(私の批評家たちへ)』(1901-1902)は、微笑む美しい女性が見る者に向かってお尻を突き出している作品で、大学の絵画の「ポルノ」や「変態的過剰」を攻撃するすべての人々に対するクリムトの回答であった。

グスタフ・クリムト《金魚(私の批評家たちへ)》,1901-1902
グスタフ・クリムト《金魚(私の批評家たちへ)》,1901-1902

1903年、クリムトを支持した作家ヘルマン・バールは、「学部絵画」に対する批判を受け、クリムトを攻撃する記事をまとめ、その序文とともに『クリムトに抗して』を出版し、その反応が不合理であることを論証した。

作品の行方


1904年にミズーリ州セントルイスで開催されたルイジアナ購入博覧会に出品するよう要請されたが、省は反応を懸念してこれを拒否した。そこでクリムトは、自分の作品を残しておきたいと願い、依頼を辞退したが、同省はすでに国家の所有物であると主張した。

 

クリムトは、撤去作業中のスタッフを散弾銃で脅し、絵を引き取ることができた。

 

クリムトは、彼の主要な後援者の 1 人であるアウグスト・レデラーの支援を得て、30,000クラウンの前払い金を返済した。レデラーは見返りに「哲学」を受け取った。1911年には、クリムトの友人で画家仲間のコロマン・モーザーが「医学」と「法学」を購入した。

 

「医学」はやがてユダヤ人家族の手に渡り、1938年、絵画はドイツに接収された。

 

1943年、最終的に展示された後、ニーダーエスターライヒ州の城、シュロス・イムメンドルフに移され、保護されることになった。

 

1945年5月、撤退するドイツ親衛隊が、敵の手に落ちるのを防ぐために城に火を放ち、絵画は破壊されたと考えられている。しかし、城は破壊されたものの、絵画が破壊された証拠はないことが、美術史家のティナ・マリー・シュトルコヴィッチによって明らかにされた。

 

現在残っているのは、下絵と数枚の写真だけである。《医学》の完成画は、破壊される直前に撮影された1枚の写真が残っているのみである。

復元


2021年末までに、Googleとウィーンのレオポルド美術館のコラボレーションにより、クリムトの作品に基づいた3つの作品の着付け可能な色をディープラーニングの技術を用いて復元した。この結果、クリムトの美術の専門家によるレタッチが必要となり、現実的な外観となった。

 

グスタフ・クリムトの専門家であるフランツ・スモラと機械学習研究者のエミール・ワルナーが、半年かけてそれぞれの専門知識を結集し、クリムトの教員用絵画を蘇らせた