【美術解説】ケイ・セージ「多くの亡命シュルレアリストをサポート」

ケイ・セージ / Kay Sage

数多くの亡命シュルレアリストをサポート


ケイ・セージ「Tomorrow is Never」(1955年)
ケイ・セージ「Tomorrow is Never」(1955年)

概要


生年月日 1898年6月25日
死没月日  1963年1月8日
国籍 アメリカ
表現媒体 絵画
ムーブメント シュルレアリスム
関連サイト ケイ・セージカタログ・レゾネ

ケイ・セージ(1898年6月25日-1963年1月8日)は、アメリカ人画家、詩人。イブ・タンギーの妻。アメリカ政治家ヘンリー・M・セージの娘。シュルレアリム黄金時代のメンバーの1人。

 

ジョルジョ・デ・キリコイヴ・タンギーに強い影響を受け、自然や建築をテーマとした抽象と具象の間を進むシュルレアリスム作品を多数制作。

 

ケージの評価が高まり出したのは、アメリカでタンギーと結婚してから。また、ケージは第二次世界大戦時にアメリカに亡命してきた数多くのシュルレアリストの生活を支援したことでも知られる。

 

1955年にタンギーの突然死に深いショックを受け、1963年に自殺。

「The Fourteen Daggers」 (1942年)
「The Fourteen Daggers」 (1942年)
「From Another Approach」(1944年)
「From Another Approach」(1944年)

略歴


若齢期


ケイ・セージはニューヨーク州アルバニーの裕福な家庭で生まれた。父は政治家のヘンリー・M・セージ、母はアン・リーラー・セージ。ほかに姉のアン・アースキン・セージがいる。

 

母のアン・リーラー・セージは、ケイが誕生するとすぐに、長女と夫を残してケイとヨーロッパ旅行に出かける。母と父は1908年に離婚したが、ヘンリー・セージは元妻と娘のために生活を支援し続けた。ケイはアルバニーにいる父や新しい妻のもとへときどき訪ねたり、手紙で父とやりとりをしていた。

 

ケイと母は、イタリアのラパロに移住して家を建てたが、その後もアメリカ、イタリア、フランスなど世界中を転々しながら生活をする。そうした家庭環境もあって、ケイは使用人からフランス語、イタリア語、英語を学び、それぞれの言葉を話すことができたという。

 

ヴァージニア州のフォックスクロフト学校をはじめ、さまざまな学校にも通った。この頃に生涯の友人となるアートコレクターのフロー・ペイン・ホイットニーと出会っている。

 

幼いころからケイは趣味で絵をかいていたが、本格的に絵画に取り組み始めたのは1919年から1920年にかけ、ワシントンDCにあるコーコラン美術学校に通い始めてから。そこで、ペインティングを学んだ。

 

卒業後の1920年にイタリアに戻ると、ケージはローマで数年間、クラシック美術の技法を学ぶ。教師や生徒仲間たちとともにローマ・カンパーニャでの屋外授業を楽しんだりしたが、後にケイはこの頃が人生の中で最も幸福な時期だったと語っている。

 

1923年にセージは、若いイタリアの公爵、ラリニエと出会い、恋に落ちる。1925年に結婚。それから10年間彼らはイタリアの上流階級で暮らすことになるが、この結婚生活はあまりよくなかったという。セージはのちにこの結婚の10年間を、理由もなく、目的もなく「停滞の沼」の時期と語っている。

 

夫は自身のライフスタイルに満足していたものの、セージは退屈だった。セージは人生においてもっと建設的で自分に潜在している才能の可能性を伸ばしてくれる環境を欲していたという。

パリとシュルレアリスム


1937年に、セージは自分の力と才能のはけ口のほとんどないイタリアの上流生活を捨て、パリに移る。サン・ルイ島でアパートを借り、お金を工面するために宝石を売り、再び旧姓を名乗った。そして、建築的なモチーフに基づく抽象および半抽象の作品を制作を始める。

 

1938年初頭、ケージはパリで「国際シュルレアリスム展」を鑑賞し、そこで彼女はジョルジョ・デ・キリコの作品にショックを受ける。セージはキリコの絵「La Surprise」を購入。この作品は生涯手放さなかったという。また、この展覧会をきっかけにセージは本格的にシュルレアリスム絵画に取り組み始めるようになった。

 

1938年に、彼女は「シュルアンデパンダン」展にデ・キリコの影響が強く見られる作品を出品。この展覧会を訪れたシュルレアリストのなかには、ブルトン、イヴ・タンギー、詩人のニコラス・カラスがいた。タンギーに出会ったことは、セージにとって決定的だった。

 

タンギーは当時、ジャネット・ジャクロックと結婚していたが、彼らは別居状態であり、そのためセージと恋に陥った。ブルトンやほかの多くのシュルレアリストは、タンギーとセージの不倫についてあまり歓迎はしなかった。

 

ただセージは裕福で、気前よく芸術家たちの経済的支援していたので、貧しい芸術家たちにとって彼女の支援が必要なこともあり、あまり強く批判することはなかった。しかし、多くのシュルレアリストは内心、彼女の富や彼女から感じる人を見下すような態度に対して不快感を感じていたという。

 

タンギーとセージの関係は、これまで親友だったブルトンとの間に亀裂を生じさせる原因にもなった。このシュルレアリスム・グループからの反発を解消するため、セージ自身がシュルレアリストの画家として認められようと努力もした。

 

1939年にドイツがポーランドに侵入して第二次世界大戦が勃発して一ヶ月後に、セージはアメリカに戻る。彼女はすぐにシュルレアリストたちの移住のサポートを行い、またアメリカでシュルレアリストたちの展覧会を企画・実行するプランを立てて、自分自身の立場を確立し始める

 

セージは、アンリ・マティスの息子が運営しているニューヨークのピエール・マティス画廊でタンギーの個展をキュレーションを企画。またセージ自身のアメリカの初個展も1940年6月に同じピエール・マティス画廊で開催した。こうして、少しずつシュルレアリストたちの反発を解消していった。

 

その後、セージとタンギーはセージが最終的な離婚調整を行ったあとに、1940年8月17日に、ネバダ州のネロで結婚した。

「Saw Three Cities」(1944年)
「Saw Three Cities」(1944年)
「My Room Has Two Doors」(1939年)
「My Room Has Two Doors」(1939年)

アメリカ時代


タンギーと結婚した1940年頃のセージは、彼女の成熟期ともいえる作品を大量に制作。しかし、1955年にタンギーは脳内出血で急死。1940年から1955年までの間2人はコネチカット州にあるウッドベリーに農場を購入して住んでいた。

 

2人は農場の納屋をアトリエにリフォーム。大きな家は膨大な数のシュルレアリスム作品や、エスキモーのマスクや籠に入ったぬいぐるみのワタリガラスなど、さまざまな奇妙なオブジェが陳列されていた。

 

アレキサンダー・カルダーとその家族をはじめアメリカのアーティストやフランスの駐在員など多くの人々がタンギー邸を訪れたけれども、2人はその問題のある態度から、ほかの人達とあまり親密な関係を結ぶことはできなかった。

 

たとえば、いろいろなところで当時のセージの印象について、「プライベート」「孤独」「孤高」「反発的」「近寄りがたい雰囲気」「短気」「威嚇」といった描写がされている。タンギーは友好的だったが、悪酔いすることで知られており、飲み会でほかの男性の頭をつかみ、激しく何度も打ち据えるなど暴れたりしていた。

 

アメリカ移住後にセージの作品は美術評論家の間で高評価を得られ始め、定期的に賞を受賞したり、美術館に購入されるようになる。ジュリアン・レヴィ画廊で何度か個展を行うようにもなった。1945年には、作品「In the Third Sleep」が、シカゴ美術館の賞を獲得、これはセージがアメリカ一般市民に最初に認知されるきっかけとなった。1951年に「All Soundings Are Referred to High Water」と「Nesta of Lightning」が賞を獲得。

 

「In the Third Sleep」(1945年)
「In the Third Sleep」(1945年)

晩年


セージとタンギーの関係は彼らの芸術と同じぐらい謎めいていた。タンギーはよくセージによく罵声を浴びせたり、ときには暴力をふい、ナイフで彼女を脅すこともあったという。

 

セージの友人によれば、タンギーはセージの絵画が好きではなく、彼女がアメリカで売れ始めたことに対して嫉妬心を燃やしていたという。しかしながら、セージはタンギーが死去すると精神的な荒廃が始まり「タンギーは私の唯一の理解者だった」と、タンギーの長年の友人であるジョアン・マイユーに手紙を書いている。

 

セージはタンギーが死去した後、鬱病や白内障により視力の低下が原因もあり、絵画内容は大きく変化。制作点数も目に見えて減少し始めた。

 

作品制作ができなくなった代わりにセージは、2つのプロジェクトに残りの時間をさきはじめることになる。1つはタンギーの全作品カタログ制作。8年がかりでタンギーの全作品463点をまとめた目録を完成させた。

 

もう1つは長年の友人であるマルセル・デュアルメの助けを借り、1957年にセージは詩集『DEMAIN, MONSIEUR SILBER』を限定500部でフランスで出版。また1955年頃に部分的に自伝でもある詩集『China Eggs』を書き始めたが、これは出版はしなかった。

 

タンギーが死去した後に描かれた1956年の「Le Passage」(下)や、1958年の「The Answer Is No」(下)が当時のセージの精神をよく表している。タンギーの作品カタログを完成させた約2週間後、セージはオーバードーズで自殺未遂を起こす。しかし家政婦に発見され、セージは一命を取り留める。自殺未遂後、セージは一時立ち直ったかのように見えた。

 

1959年と1960年にセージは白内障の手術を受けるが、手術はあまりうまくいかなかった。また、長年の重度の喫煙や飲酒が彼女の身体を蝕み始め、健康の問題で苦しみ始めた。1963年に、ピストルで自らの胸を打ち抜き自殺。

「Le Passage」
「Le Passage」
「The Anser Is No」(1958年)
「The Anser Is No」(1958年)

■参考文献

Kay Sage - Wikipedia


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