【美術解説】ジョン・テニエル『不思議の国のアリス』のイラストレーター

ジョン・テニエル / John Tenniel

『不思議の国のアリス』のイラストレーター


『不思議の国のアリス』挿絵のための下絵。第12章「アリスの証言」の場面。鉛筆に白色絵の具で強調。1864年ころ。
『不思議の国のアリス』挿絵のための下絵。第12章「アリスの証言」の場面。鉛筆に白色絵の具で強調。1864年ころ。

概要


生年月日 1820年2月28日
死没月日 1914年2月24日
国籍 イギリス
職業 漫画家、イラストレーター、グラフィックデザイナー

ジョン・テニエル(1820年2月28日-1914年2月25日)はイギリスのイラストレーター、グラフィック・デザイナー、風刺漫画家。1893年に芸術的偉業を讃えてナイトの称号が与えられている。

 

テニエルはイギリスでは50年以上ものあいだ風刺漫画雑誌『パンチ』誌上で風刺政治漫画を描いてきた漫画家として知られている。

 

また、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(1865年)、『鏡の国のアリス』(1871年)の挿絵を担当したことで世界中で知られている。 

重要ポイント

  • 『不思議の国のアリス』のイラストレーションが有名
  • 風刺漫画雑誌『パンチ』の看板作家
  • イラストレーターで初めて「ナイト」の勲章を授かる

略歴


幼少期


テニエルはロンドンの中心部シティ・オブ・ウェストミンスターにあるベイズウォーター

で、ユグノー移民でフェンシングとダンスの達人だった父ジョン・パブティスト・テニエルと母エリザ・マリア・テニエルとの間に生まれた。テニエルは5人兄妹だった。兄妹の1人メアリーはのちにコーニッシュウェア社を設立したトーマス・グッドウィン・グリーンと結婚している。

 

テニエルは少年時代からずっと物静かで内気な性格だった。有名になっても昔からずっと変わらず、環境変化の影響を受けなかった。伝記作家のロドニー・エルゲンはテニエルについて「生活や仕事は最高に紳士的であり、社会的地位の端で生活していた」と述べている。

 

1840年、20歳のとき、テニエルは父親とフェンシングの練習をしているときに、父親のフェンシングの保護先端がとれるトラブルのせいで、剣先が右目に突き刺さり大怪我をする。その後、テニエルの右目は徐々に見えなくなっていった。テニエルは父親を狼狽させたくなかったのか、目の傷の話をすることはなかったという。

 

美術方面に関心があったにもかかわらず、テニエルは風刺ユーモア作家として知られるようになり、またチャールズ・キーンと知りあり、互い風刺似顔絵の才能を高めていった。

美術教育


テニエルは古典彫刻のデッサンの試験に受かり1842年に王立アカデミーに入学したものの、学校の美術教育に対して疑問を持ち、批判的だったので、結局学校をやめて独学で絵の勉強をするようになる。

 

テニエルは絵画を通じて古典彫刻を勉強したいと思っていたが、学校では絵の授業はまったく教えてくれず、不満が募っていったのが退学の理由だという。

 

テニエルは、ロンドンのタウンレイ・ギャラリーに通い古典彫像のデッサンをおこない、大英図書館でファッションや武具の本からイラストレーションの練習をし、リージェントパークにある動物園で動物を模写し、ロンドン劇場で俳優を描いた。

 

このような独自の絵画研究の過程で、テニエルは対象の細部を見て描くことを愛するようになった。しかしながら、彼は仕事を通じてせっかちになったので、記憶を頼りにして絵を描く能力も身につけることも楽しくなったという。

 

ほかに正式な美術教育に相当するものといえば、テニエルは芸術グループに参加したことだろう。そこはテニエルを息詰まらせたアカデミーの規則から自由だった。1840年代なかばにテニエルは「芸術家クラブ」や「クリップストーン・ストリート・ライフ・アカデミー」などに参加し、そこでテニエルは風刺イラスト作家の才能を育んでいった。

初期キャリア


テニエルの最初の挿絵の仕事は、1842年に出版されたサミュエル・カーター・ホールの『The Book of British Ballads』である。


最初の仕事に従事している間、イギリス政府はドイツのナザレ派芸術運動に対抗するため国立美術学校を設立するなど、当時のロンドンではさまざまな美術教育やコンテストが開催されていた。

 

テニエルは改装したウェストミンスターの装飾壁画のデザインの仕事を得るため、1845年の貴族院コンペに参加するつもりでいた。締め切りを過ぎてしまったにも関わらず、テニエルは16フィート(4.9メートル)の風刺的な漫画『正義の寓意』を提出し、これが審査員たちの目に留まり採用された。

 

200ポンドの賞金と貴族院のアッパー・ウェイティング・ホール(詩の広場)のフレスコ画を制作し、報酬を得た。

風刺漫画雑誌『パンチ』


テニエルは、半世紀もの間、風刺漫画雑誌『パンチ』(1841-1992年、1996ー2002年)で、ときに痛烈で過激でかつユーモラスな意図の作品を発表して売れっ子作家となり、世界中で知られるようになる。この雑誌はイギリス全土における政治や社会の変革の姿を記録するジャーナル紙だった。

 

1850年のクリスマスに、テニエルは編集長のマーク・レモンに招かれる。テニエルのイソップ寓話に近い作風がレモンの目に留まったといわれる。テニエルは19世紀後半の常連寄稿者で、健康上の理由による数回の休載を除いては、約50年にわたり毎週1ページ全体を使った政治漫画を連載した。

 

『パンチ』誌上での最初の仕事は1850年の224号に掲載された『Lord Jack the giant Killer』である。これは、イギリスの貴族で政治家のジョン・ラッセル(初代ラッセル伯爵)がローマ・カトリック教会の"ゴリアテ”ことニコラス・ワイズマン枢機卿を激しく攻撃している風刺画である。

 

この作品は、当時『パンチ』誌の漫画チームの一人で、ローマ・カトリック教会派であったリチャード・ドイルを激怒させ、ドイルは『パンチ』を辞任することになった。

『Lord Jack the giant Killer』
『Lord Jack the giant Killer』

1860年代に出版されたテニエルの漫画はオランウータンのような顔の特徴と姿勢をしたアイルランド人の男性肖像画で人気を博した。

 

テニエルの政治漫画の多くはアイルランド人の反イギリス、独立的な思想に対して強い批判をあらわしたものだった。当時の(現在もだが)イギリスとアイルランドは仲が非常に悪く、テニエルが描いた類人猿の猛獣のようなアイルランド人男性の肖像はイギリス国民に非常に受けたという。

 

また、アイルランド島は猛獣のようなアイルランド人男性に脅かされた美しい若い女性「ハイベニア」として擬人化して描かれ、強力な装甲をしたブリタニア(イギリスを擬人化した女神)が、姉妹であるアイルランド島を救出に向かう風刺画が描かれた。

 

テニエルは『パンチ』誌に無数の単発的なイラストレーションのほか、見開きの漫画など、約2300作品を寄稿している。ほかに『パンチ・ポケット・ブック』で約250のブックデザインを担当している。『パンチ』での当時の年収は約800ポンドだったという。

アイルランド人の男性を類人猿のように表現したテニエルのイラスト。1867年12月28日号。
アイルランド人の男性を類人猿のように表現したテニエルのイラスト。1867年12月28日号。

『不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』


イギリス本国で何千もの政治風刺漫画や何百ものイラストレーション作品を描いて知名度を高めてきたにも関わらず、その後、世界的な名声となり、今日においてもテニエルの代表作として知られている挿絵は、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の挿絵である。

 

テニエルは、1865年にルイス・キャロル『不思議の国のアリス』と1871年に『鏡の国のアリス』の挿絵を担当することになる。

 

ルイス・キャロルはもともと自分自身で挿絵を描いていたが、商業出版するにあたって、そのイラストレーション技術に限界があり、1859年にキャロルと仕事をしていた彫刻師のオーランド・ジェウィットがプロのイラストレーターに挿絵を描きなおすよう助言する。

 

当時、ルイス・キャロルは漫画雑誌『パンチ』の購読者であり、テニエルのファンでもあったので、1865年にテニエルに『不思議の国のアリス』の挿絵を依頼する。こうしてテニエルによる『不思議の国のアリス』の最初の挿絵が描かれ、出版されることになった。

 

しかし、テニエルはイギリスの印刷品質に不満があったたため廃棄され、初版2000部はイギリスではなくアメリカで印刷され販売されることになった。1865年12月に印刷された新版は、1866年に販売されすぐにベストセラーとなり、テニエルの名声を上げることになった。こうして『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』の2つの本は、その後、最も有名な文学における挿絵の代表作となる。

 

1872年以降、ルイス・キャロルは作品を書かなくなり、テニエルもまた文学の挿絵の仕事をやめる。ルイス・キャロルはのちにテニエル別の企画案を持ち込んだものの、テニエルは依頼を断ったという。

 

というのも、前作『不思議の国のアリス』のときからキャロルの挿絵に対しする細かに注文にテニエルはうんざりさせられていた。たとえば、テニエルは「かつらをかぶった雀蜂」の挿話に対して不満を表明し、結果的にキャロルにこの部分を削除させている。そんなものをどうやって絵に描けばよいのかわからないし、そもそも話としても全く面白くない、というのが、キャロル宛の書簡で表明されたテニエルの主張であった。

 

テニエルのアリスの挿絵はダルジール兄弟による木版画化され、書籍印刷で電子式コピーを作成する際に利用された。現在、オリジナルの木版画はオックスフォードのボドリアン図書館に保管されており、2003年に一般に展示公開もされた。


「ナイト」の勲章と晩年


テニエルは1893年にヴィクトリア女王から「ナイト」の勲章を授かり、人生で最高の賛辞を得る。これまで、イラストレーターや漫画家で「ナイト」を授けられた人はおらず、低級芸術家が初めてナイトの称号を受けた名誉的な出来事でもあった。

 

当時のイギリスでは、まだイラストレーターや漫画家という職業はかなり社会的信用の低い専門業であり、そんな職業が「ナイト」の称号を受けるなど、前代未聞の出来事であったとう。テニエルが「ナイト」の勲章を受けたおかげで、白黒のイラストレーターの職業の認知度が高まるようになった。

 

1901年1月、テニエルは画業を引退し、6月12日に引退パーティーを開催した。1914年2月25日、93歳で死去。94歳の誕生日の3日前だった。

『パンチ』1893年6月24日号に掲載されたリンリー・サンボーンによるテニエルの風刺画『白黒騎士』
『パンチ』1893年6月24日号に掲載されたリンリー・サンボーンによるテニエルの風刺画『白黒騎士』

テニエルの絵画スタイル


ドイツのナザレ派絵画の影響


テニエルの含めこの時代の絵描きの多くは、19世紀のドイツの芸術運動ナザレ派から影響を受けている。ナザレ派の特徴は「影の陰影」である。

 

人物やオブジェクトの横に重厚のある陰影の二重線が描いてボリュームを出している。加えて、ナザレ派は非常に精密に人物造形の輪郭を明確に描いた構図が特徴である。

 

テニエルの緻密で遠影がはっきりしたアリスの絵柄は、ナザレ派の絵画をイラストレーションに改良したものといえる。テニエルの初期のナザレ派のイラストレーションはあまり評判はよくなかったものの、ナザレ派との出会いは彼にとって正しい方向を導いたものといえる。

ヨーゼフ・フォン・フューリヒ『ラケルとその父の羊の群れと出会うヤコブ』(1836年)
ヨーゼフ・フォン・フューリヒ『ラケルとその父の羊の群れと出会うヤコブ』(1836年)

緻密な視点


1850年代からテニエルの様式は、特に背景や人物画において、より詳細で具象的な絵柄に変化していった。以前よりもドイツ絵画な部分が弱くなり、一般的なシーンよりも、個々のキャラクターや、一瞬の時、一瞬の場面に焦点を当て、それらを緻密に描くようになった

 

背景の特異性の変化にくわえ、テニエル人物の型、表現、個別化された表現に関心を持ち発展させ、それらは『不思議の国のアリス』へと引き継がれた。多くの人が演劇主義と称しているが、テニエルの絵柄の特徴は、以前に描いていたカリカチュア(風刺的似顔絵)に由来していると思われる。

 

漫画雑誌『パンチ』に参加しはじめ年からテニエルは、カリカチュア表現を発展させ、自然環境内における物体にも人間のような性格を与えるようになった。たとえば、ジョン・エヴァレット・ミレーの椅子に座る少女の挿絵とテニエルの椅子に座るアリスの挿絵を比較すると、ミレーが描いた椅子は小道具にとどまるが、テニエルが描く椅子は脅かされるほどの存在感がある。

 

ほかに陰線にも大きな変化があらわれ始めた。これまでの機械的で水平線的な線から、筆圧が強い手描きのドローイングの線に変化し、絵全体において暗い部分の領域と印象が増えた

グロテスク性


テニエルの絵のグロテスク性は、ルイス・キャロルが『不思議の国のアリス』の本で取り入れたかった重要な要素である。グロテスクとは、現実世界が段々と希薄になっていくような不穏な感覚を伝えるための異常性である。

 

古代ローマを起源とする異様な人物や動植物等に曲線模様をあしらった美術様式がグロテスク装飾が起源だが、時代とともに不穏、奇怪、奇妙、不気味、不快な感覚を伝える異常なものを指し示す言葉に変化していった。テニエルのスタイルは、緻密な輪郭を持った幻想的な生物が暗い雰囲気の構図で描かれる独特なグロテスク性を要していた。

 

テニエルのイラストにおいて、グロテスク性は人間の身体の激しい変形(アリスが飲み物を飲んで大きくなるような)や、物体と生物の融合などで見られる。人間の身体に動物の頭が付いていたり、その逆に動物やオブジェクトに人間の頭が付いたりしていた。

 

『アリス』シリーズににおける最もグロテスクな手法で描かれたものは『鏡の国のアリス』のジャバウォックだろう。

ジョン・テニエルの挿絵で描かれた「ジャバウォック」
ジョン・テニエルの挿絵で描かれた「ジャバウォック」