J.M.W.ターナー / J. M. W. Turner
イギリスを代表するロマン主義作家
概要
生年月日 | 1775年4月23日 |
死没月日 | 1851年12月19日 |
国籍 | イギリス |
表現媒体 | 絵画、版画、水彩 |
ムーブメント | ロマン主義 |
代表作 | ・《雨、蒸気、スピード》1844年 |
関連サイト |
・Tate(概要) ・WikiArt(作品) |
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775年4月23日-1851年12月19日)は、イギリスの画家、版画家、水彩画家。ロマン主義の作家。波が荒々しく、全体的に不穏さを感じる海洋風景画の作品で知られている。
ターナーは、1840年ころからイギリスの有力批評家ジョン・ラスキンから支持されはじめ、現在では水彩風景画や海洋絵画における偉大なイギリスの巨匠と認識されており、またその鮮やかな光の描き方から、”光の画家”と言及されることがある。
ターナーは、当時のテクノロジーに関心を持ち《雨、蒸気、スピード-グレート・ウェスタン鉄道》では蒸気機関車を描き、《テレメアの戦い》では蒸気船を描くなど、当時のイギリスの現実の風景を描いた。
ターナーは、ロンドンのコヴェント・ガーデンのメイデン・レーンで、謙虚な下流中産階級で生まれた。生涯をロンドンで過ごしたが、ターナーはコックニーなまり(イギリス労働者階級で話される英語)があったためか、有名になるのをひたすら避けて過ごした。
子どものころから天才的に絵がうまく、1789年、14歳のときに王立美術大学に入学し、大学で21歳のときに初個展を開催する。またこの時代、ターナーは建築設計の仕事も並行しておこなっていた。1804年に自身でギャラリーを開廊。1807年には大学で透視投影図法の教師となり、そこで1828年まで授業を受けもつ。
ターナーは、奇行が多い孤独な男性で、生涯を通じてよく物議を醸す人物だったという。生涯独身だったが、家政婦サラ・ダンビーとの間にヴァラインとジョージアナという二人の娘がいる。
年を取るにつれて悲観的で気難しい性格になっていったが、特にターナーの父親が死んでから、その傾向は強まった。経営していたギャラリーは放置状態になり、荒廃する。1845年から健康状態が悪化し、1851年76歳でロンドンで死去。ロンドンのセント・ポール大聖堂に遺体は埋葬された。
生涯に2000点以上の絵画、1万9000点のドローイング作品やスケッチを残している。
重要ポイント
- イギリス近代美術の先駆者
- 蒸気機関車や当時の現実の風景を描いた
- 災害や自然災害が主題となる事が多い
略歴
幼少期
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーは、1775年4月23日に生まれ、5月14日に洗礼を受けた。彼はイギリス、ロンドンのコヴェント・ガーデンのメイデン・レーンで生まれた。父ウィリアム・ターナーは床屋兼ウィッグ・メーカーだった。母メアリー・マーシャルの実家は肉屋だった。メアリー・アンという妹がいたが、1778年9月に生まれ、1783年8月に亡くなっている。
ターナーの母は1785年から精神疾患の兆候がみられ、1799年精神病院に入院。1800年に世界で最も古い精神病院の1つである王立ベスレム病院へ移され、1804年に死去。その後、ターナーはブレントフォードにいる母親の叔父であるジョゼフ・マロード・ウィリアム・マーシャルにあずけられることになった。
ターナーの初期の美術教育はこのころから始まる。ヘンリー・ボズウェルの『古代イングランドとウェールズの絶景』シリーズの彫刻プレートの簡単な着色作業などをおこなった。1786年ごろからターナーはケント州にある街マーゲイトへ移り、そこで彼は、のちの作品の兆候となる周辺地域や街の風景のドローイングを制作しはじめた。
このころまでに、ターナーのドローイングは父の店のショー・ウインドウに飾られ、数シリングで販売されていた。ターナーの父は画家のトーマス・ストーサードに「私の息子はきっと画家になるよ」と誇っていたという。
1789年にターナーは、再び引退して田舎へ移った叔父のもとへ滞在するため、バークシャーのサンニングウェルへ移る。バークシャーで過ごした時期から使用したスケッチブックは、現在までオックスフォードの水彩画ととも残っている。
鉛筆を使ったスケッチラフは、のちの絵画制作のための基礎となり、またターナーの生涯における制作プロセスの基本的なスタイルとなった。
ターナーの初期スケッチの多くから建築物の習作や遠近法の練習をしたあとが見られる。ターナーはトーマス・ハードウィックやジェームズ・ワット、ジョゼフ・ボノミ・エルダーなどのさまざまな建築家から絵を学んだ。
1789年までの終わりまでに、ターナーはまたロンドン風景画のプロで地形製図工のトーマス・モルトンのともで絵を学んでいる。ターナーは彼からイギリスの城や大修道院の外郭をプリントしたものに色付けするなどして、仕事の基本的な技術を多く学んだ。
のちにターナーは「モルトンこそ本当の師匠」と話している。当時の地形学は若い画家が絵を学ぶのに適した盛んな産業だった。
王立アカデミー
1789年14歳のとき、ターナーは王立アカデミー入学し、1年後ジョシュア・レノルズ卿の学院に入った。初期は建築学に関心を抱いたが、トーマス・ハードウィックの助言で絵画に力を入れることになった。ターナーの最初の水彩画《ランベスの大主教宮殿の風景》は1790年の王立アカデミー夏の展示会で入選した。当時、ターナーは15歳だった。
アカデミーの見習い生として、ターナーはアンティーク彫刻の石膏をもとにドローイング技術を教わることになった。
1790年から1793年まで、ターナーの名前は100回以上アカデミーの登録簿に記載された。1792年6月、ターナーはヌードモデルで人体造形を描くためにライフクラス(人間のモデルを使う美術教室)に入学した。
ターナーは毎年アカデミーで水彩画を展示してたが、冬の間に絵を描き、夏にはイギリス全国、特にウェールズ地方を旅していた。旅行中にターナーは習作や水彩画を制作する際に利用するスケッチをたくさんとった。これらのスケッチ内容は特に建築関係に焦点を当てたものが多く、製図作成能力も身につけることになった。
1793年に制作した水彩画《ライジング・スコール:ブリストルの聖ヴィンセント・ロックのホット・ウェルズ》はのちにターナーの作品において特徴的な気候的な効果の予兆があらわれている。カニンガムはこのように書いた。
「無味乾燥の風景画から外れた、崇高な風景画への取り組みをしていたことが、数少ない有識者によって認められている。ターナーは現在正当に称賛されるべき技術を習得していたことが初めて明らかになった証拠である」。
初期作品
水彩画制作への関心は持ち続けるものの、1790年代以降は油彩画に取り組みだす。弱冠26歳にして、英国王立アカデミーの正会員になる。
1795年の《ティンタン修道院》のような初期作品は、イギリスの伝統的な風景画を純粋に描いている。1796年に、ターナーはアカデミーで最初の絵画《海の釣り人》を展示した。ワイト島沖で月夜の夜景画で、危険にさらされているボートが描かれたものである。ウィルトンはこの作品について「18世紀の芸術家たちが海について言及したすべてのことを要約している」と評している。
また、クロード・ジョセフ・ヴェルネやフィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグ、ピーター・モナミー、フランシス・スウェインらはこの月夜の絵画を絶賛して強い影響を与えた。本作がきっかけで、ターナーは、油絵画家と海洋風景の画家の両方の地位を確立した。
ターナーは過去の巨匠たち、特にクロード・ロランの影響を如実に示す古典主義的なものから、戦争画、吹雪や嵐などの自然の猛威を描いたものなど、さまざまな風景画を描いたが、一貫して関心をもったのは人と自然が織りなすドラマであり、光と水の表現だった。
災害や自然の脅威を表現
ターナーはヨーロッパ中を広く旅をしている。1802年にフランスとスイスから始まり、また同年にパリのルーブル美術館で絵を学んだ。
ヴェネツィアにも何度も旅行している。彼の作品の重要なサポーターは、北ヨークシャーのファーンリー・レーンにウォルター・フォウクスで、彼は芸術家として親密な関係を作り上げた。ターナーは1797年22歳のときオトリーを訪れたときに、その地域の水彩風景画の依頼を受けている。
ターナーはオトリー周辺地域に非常に惹かれ、生涯で何度も同地を訪れている。《アルプスを越えるハンニバルとその軍勢》の嵐の背景には、ファーンリー・ホールに滞在している間、オトリーのケビン山で発生した嵐からインスピレーションを得ていると評されている。《アルプスを越えるハンニバルとその軍勢》では自然の破壊的な力を強調している。油彩だが水彩画のテクニックを使って描くターナー独特の絵画スタイルは、コントラストや滑らかさや大気的雰囲気を作品内にうまく生み出している。
ターナーはしばしばジョージ・ウィンダム (第3代エグレモント伯爵)の客として、ウェスト・サセックスにあるペットワース・ハウスに招かれている。チチェスター運河の風景を含めたサセックスの田舎の風景を描いた作品をエグレモント伯爵が購入した。ペットワースにはまだ多くのターナーの絵画が飾られている。
ターナーの家族
ターナーは加齢とともに奇行癖が強くなっていった。彼は父親を除いて親友がおらず、父親が30年間、ターナーのアシスタントとしてアトリエで働いていた。アトリエやギャラリーの留守番やキャンバスづくり、顧客への書類作成などをしていた。
1829年に父親が亡くなるとターナーは大変なショックを受け、うつ病を発症する。ターナーは一度も結婚していないが、10歳年上のサラ・ダンビーと関係を持ち、彼女の4人の子どもとの父親を含めた7人で暮らしていた。
ターナーとサラ・ダンビーの間には、1801年と1811年に2人の娘をもうけている。サラ・ダンビーとの関係は10年以上続いた。
ターナーの死
ターナーは1851年12月19日、チェルシーのチェインウォークにあるソフィア・キャロライン・ブースの家でコレラが原因で死去。セント・ポール大聖堂に埋葬された。彼が最後に残した言葉は「太陽は神だ」だったというが、この言説は作り話だと考えられている。
ターナーの知り合いでトーマス・ハードウィックの息子である建築家のフィリップ・ハードウィックがターナーが葬儀の準備をして、ターナーの知り合いたちにターナーの死去を伝えた。
芸術スタイル
大気のような表現
ターナーの才能は幼少期から見られ、ターナーは芸術的天才とみなされていた。彼の成熟期の作品は、有彩色のパレットや広範囲に適用される大気のような表現が特徴である。
デイビッド・パイプの著書『The Illustrated History of Art』によれば、ターナーの後期作品は「ファンタジック・パズル」と呼ばれている。影響力のあるイギリスの美術批評家ジョン・ラスキンは、ターナーをもっと「自然のムードを素早く的確につかむことができる」芸術家として評した。
しかし、ターナーの作品は同時代の画家たちから批判されることも多く、特に画家で王立アカデミーの会員で同僚の画家ジョージ・ベルモンテ7世伯爵は、ターナーの絵画を「汚点」と評した。
後期作品では、油をより透明にし、揺れ動く色使いによってほぼ純粋な光の効果を描き出した。成熟期のスタイルの代表的な作品は1844年の《雨、蒸気、スピード-グレート・ウェスタン鉄道》1844年である。この作品ではオブジェクトはほとんど認識できず、抽象絵画に近いものになっている。
消えていく光への関心や色合いの迫力は、ターナーをイギリス近代美術の先駆者と位置付けただけでなく、フランス近代美術、特に印象派のクロード・モネに大きな影響を与えた。モネはターナーの技術を注意深く研究している。
災害や自然現象
ターナーの想像力は難破船や火災事件や、日照り、暴風雨、雨、霧といった自然現象からの影響が大きい。なかでも海の暴力に魅力され、海洋事件的な絵画をたくさん描いた。代表的な作品は、1840年の《奴隷船》や1838年の《解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号》などである。
版画作品
ターナーは版画作品もたくさん制作した。主要な版画作品は《Liber Studiorum》で、1806年から1819年にかけて制作された7枚の版画から構成されるものである。
《Liber Studiorum》は彼の風景画のなかでも強い意図を持って制作されている。クロード・ロランの《Liber Veritatis》を基盤にして制作したもので、ロランの完成度の高い作品とされている。これらのドローイング作品の版画シリーズが、その後デヴォンシャー・ハウスから出版され大成功した。
ターナーの版画は世界各地で人気を博し、一般的に「海洋」「山岳」「牧歌」「歴史」「建築」「叙事詩」の6種類のジャンルに分類される。1974年にフロリダ州のサラソタでダグラス・モントローズ・グレアムによって設立されたターナー美術館には、彼の版画作品の大半を収蔵している。
■参考文献
・Joseph Mallord William Turner (1775 - 1851) | National Gallery, London
■画像引用
※1〜3、10:https://en.wikipedia.org/wiki/J._M._W._Turner
※4:https://www.tate.org.uk/art/artworks/turner-a-view-of-the-archbishops-palace-lambeth-tw1075