ヒプノシス / Hipgnosis
ロックシーンに最も影響を与えたデザイナー集団
概要
ヒプノシスはロンドンを拠点にしたイギリスのアートデザイングループ。
ロック・ミュージシャンやバンドのアルバムのアルバムジャケット制作をしていたことで知られる。
最も有名なジャケットは、1973年のピンク・フロイドの『The Dark Side of the Moon』。最後の作品は1982年のレッド・ツェッペリンの『コーダ』である。
音楽界において、アルバムジャケットに芸術性を持たせた草分け的存在であり、ジャケットには詩的な要素が含まれているのが特徴である。
ほかには、T・レックス、プリティシングス、UFO、10cc、バッド・カンパニー、レッド・ツェッペリン、AC/DC、スコーピオンズ、イエス、デフ・レパード、ポール・マッカートニー&ウイング、アラン・パーソンズ・プロジェクト、ジェネシス、ピーター・ガブリエル、エレクトリック・ライト・オーケストラ、ポリス、レインボー、ステュクス、Pezband、XTC、アル・スチュワートなどのジャッケット画をてがけている
ヒプノシスのメンバーはおもにケンブリッジ出身のストーム・ソーガソンやオーブリー・パウエル、のちにメンバーに加わったピーター・クリストファーソンの3人で構成されている。
グループ自体は1983年に解散したが、その後も2013年4月18日までソーガソン自身がヒプノシスのワークを引き継ぐ形で、ジャケット画の制作を行なっていた。
また、パウエルは映画や映像関係に転向、ポール・マッカトニー、ザ・フー、空飛ぶモンティ・パイソンなどの映像作品などで評価されている。
略歴
初期
1968年、ソーガソンとパウエルはピンク・フロイドの友人から、グループのセカンド・アルバム『A Saucerful of Secrets』のカバーデザインの依頼を受ける。
この仕事をきっかけにプリティ・シングズ、フリー、トー・ファットなどEMIと契約しているほかのアーティストのアルバムのカバーも手がけるようになった。
当時、まだ美学生だった彼らは、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの暗室を利用して仕事をしていたが、卒業すると自分たち専用の仕事場を作る必要に迫られた。
しばらくの間、2人はパウエルのバスルームを小さな暗室に改造して使っていたが、1970年初頭ころにデンマーク・ストリート6番にある部屋を借り、そこをスタジオとして利用するようになった。
「ヒプノシス」とは「催眠」という意味だが、2人がアートワークを始めたときにアパートのドアに書かれていた落書きから気になった言葉を採用したという。
「催眠」という意味だけでなく、「Hip」には「新しい」「クール」「すてきな」などの意味が、また「gnosis」には古典秘密教義の「グノーシス主義」の意味を含んでおり、その言葉に内在している「不可能なものの共存状態」に魅力されたという。
国際的認知
ヒプノシスが国際的に知られるようになったのは、1973年にピンク・フロイドの「The Dark Side of the Moon」の有名なカバーである。
当時、最終的なデザインは、バンド側が選択できるよう複数のデザイン案が用意されていたが、ドラマーのニック・メイソンによれば、「プリズム/ピラミッド」のデザインはメンバー全員、即時に完全一致で選択したという。
レコードの売上は大成功をおさめた。イギリス史上最大の売れ行きで、また最も長い間チャート入りしたアルバムとなった。
何百万人ものファンの手にわたり、リリース以来史上最高のアルバム・ジャケット画として称賛されている。VH1(アメリカ合衆国のニューヨーク市に本部を置くケーブルテレビ・チャンネル)は2003年にカバーを4位に位置づけた。
その後、同社が手がけるデザインの仕事が増え、レッド・ツェッペリン、ジェネシス、UFO、ブラック・サバス、ピーター・ガブリエル、アラン・パーソンズ・プロジェクト、イエスなど、著名バンドやアーティストの多くのカバーデザインを手がけた。
ピーター・クリストファーソンが、1974年にヒプノシスのアシスタントとして参加し、のちに正式にメンバーの1人になった。同社は長年にわたり多くのアシスタントや外部スタッフを雇用していた。
特に注目すべきは、フリーランスのデザイナーでイラストレーターのリチャード・エヴァンス、ジョージ・ハーディ、リチャード・マニングである。
ヒプノシスは明確なアルバムカバーのデザイン料金を設定しておらず、代わりにアーティストに「私たちに価値があると思った料金を支払う」よう頼んでいたという。
スタイル
ヒプノシスのアルバムデザインの入り口は強い写真志向で、多くの革新的な視覚技術とパッケージ技術を使って開拓した。
特にソーガソンとパウエルのシュールで精巧に加工された写真(暗室でのトリック、多重露光、エアブラシレタッチ、機械的なカットアップ&ペースト)は、のちの写真編集、フォトレタッチの先駆者となった。
ヒプノシスはおもにハッセルブラッドの中版カメラを使って作品制作した。正方形のフィルム形式はアルバムカバーに利用するイメージとして特に適していた。
ヒプノシスは大ヒットをとなったレッド・ツェペリンのアルバム『聖なる館』のアートワークはヒプノシスから提案された2番目のアートワークである。
当初は「(テニス)racquet」と「(ノイズ)racket」という言葉のダジャレを視視覚化したものだった。ソーガーソンによればレッド・ツェペリンの音楽が「ラケット」のように聞こえたことを示唆したものだったという。
しかし、このアートワークにジミー・ペイジが激怒し、ソーガーソンは解雇されパウエルが作り直すことになり、その結果、できあがったのが11人の裸の子供たちが岩場を登ってゆく情景で有名なアートワークである。
その後、ヒプノシスはレッド・ツェペリンと仕事をすることはほとんどなくなったという。
ヒプノシスのほかの特徴としては、彼らのカバー写真の多くは、アルバムの歌詞と直接関連する「物語」を語っている。パウエルとソーガーソンは2人とも映像の学生だったので、よく「俳優」としてモデルを起用して、非常に演劇的な手法で写真を作りあげた。
また、アルバムのタイトルからダジャレのようにイメージを作り上げていることが多い。
ヒプノシスのアートワークではめったにアーティストの写真を使うことはなく、ほとんどは彼らの器用なアートワークを発表するための見開きのカバー形式のスペースだった。
ヒプノシスのアートワークはまた「ハイテク」ペン、インクロゴ、イラストレーション(おもにグラフィックデザイナーのジョージ・ハーディ)、ステッカー、派手なインナースリーブ、パッケージボーナスも際立った特徴だった。
中でも独特だったアートワークの1つはレッド・ツェペリンの『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』で、内袋にはモノクロの特殊印刷がなされ、水で濡らすと発色するようになっていた。