ヘンリー・ダーガー / Henry Darger
アウトサイダーアートの巨匠
目次
1.概要
2.略歴
2-1.幼少期
2-2.小学生時代
2-3.作品の基盤となる精神病院時代
2-4.病院清掃員
2-5.男友人との恋愛関係
2-6.死去
3.作品
3-1.「非現実の王国で」
3-3.「私の人生の歴史」
4.死後の評価と影響
概要
生年月日 | 1892年4月12日 |
死没月日 | 1973年4月13日 |
国籍 | アメリカ |
出身地 | シカゴ |
表現媒体 | 絵画、コラージュ、文章、ドローイング、スケッチ |
ムーブメント | アウトサイダー・アート |
代表作 | ・『非現実の王国で』 |
ヘンリー・ジョセフ・ダーガー.ジュニア(1892年4月12日-1973年4月13日)はアメリカの隠遁作家、芸術家、イリノイ州シカゴの病院清掃員。
ダーガーは、死後、ワンルームのアパートで1万5145ページ(世界一だが出版されていないのでギネスに登録されず)のファンタジー小説の原稿『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』と、その小説のドローイングと水彩による挿絵が発見されて有名になり、アウトサイダー・アートの有名な代表例の1つとなった。
幼い子どもたちが拷問や殺害される恐ろしい大虐殺シーンかとおもえば、エドワード王朝時代のイギリスの室内風景や児童小説や幻想絵画のような花の咲き乱れる穏やかで牧歌的な世界という真逆の世界が同居するのがダーガー作品の特徴である。
ダーガーの作品の多くは、コラージュの要素を含むミクストメディアで、アウトサイダー・アートの最も有名な例のひとつとなっている。
作品制作の背景には、大人の嘘、子ども時代の家庭環境、学校教育、そして施設時代に大人たちから受けた虐待、強制労働がトラウマになっていると見られる。
重要ポイント
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略歴
幼少期
ヘンリー・ダーガー(本名:ヘンリー・ダーガー・ジュニア)は、1892年4月12日にイリノイ州シカゴ市で、母ローザ・フルマンと父ヘンリー・ダーガー・シニアのあいだに生まれた。
クック群の記録によれば、ダーガーは24番街350番地にある自宅で出産されたことになっている。
ダーガーが4歳のとき、母は妹の出産時に産褥熱を発症して死去。なお妹は養子縁組に出されたため、ダーガーは妹と一度も会ったことがない。
ダーガーの研究家で美術史家で心理学者のジョン・M・マクレガーによれば、母ローザはダーガーの前に2人の子どもを産んでいるという。その2人の兄弟は所在は現在、わかっていない。
ダーガー自身による記録によれば、父ダーガー・シニアはドイツ系出身の仕立屋で体が不自由だったため、息子の世話をするのが難しかったが、非常に優しい性格でダーガーの心を支えた人物だという。
1900年、父親がセント・オーガスティン老人ホームに入るまで、二人は一緒に暮らした。
小学生時代
小学校のときダーガーは、1年生から3年生に飛び級したほどの読書力があった。
8歳のときに元々足が悪かった父のダーガー・シニアは体調を崩し、また貧しかったこともあり、アウグスティヌスの老人ホームに入ることになる。
一方のダーガーはローマ・カトリックの孤児院「慈悲の聖母ミッション」移され、公立の学校に通うようになる。
作品の基盤となる精神病院時代
素行が悪かったため、ダーガーは12歳のとき、イリノイ州リンカーンにある精神病院に移される。診断によれば「ヘンリーの心に障害がある」とのことだった。
ジョン・M・マクレガーによれば、「心の障害」という診断は誤診であるという。本当の理由は、ダーガーが自慰行為をしていたことを周囲におおっぴらにして、それが咎められたことである。
当時の保守的なアメリカのキリスト教道徳観において自慰行為は「正常でない」と考えられていため、知的障害施設に送られたのが事実であるとされている。
ダーガー自身は、施設時代に大人から疎まれた理由について、「大人の嘘」を見破り、その結果、大人に嫌われたと記している。教師から罰を受けたり、クラスメートから袋叩きにされることが多かった。
ダーガーはトゥーレット症候群があり、むやみに口・鼻・喉を鳴らして奇妙な音を立てて学校の授業を妨害したり、友達や周囲の人に嫌がらせをするようになる。
本人は楽しませるつもりで音を鳴らしていたようだが、それが原因で「クレイジー」というあだ名を付けられ、いじめられたり、遠ざけられた。
ダーガーが強制的に入れられたリンカーン精神病院は、当時、虐待や児童労働などで非常に問題があったところだといわれている。この時代の虐待行為がのちの作品の基盤となる。
ダーガーは当時の施設の様子を「非現実の王国」上で強制労働場のように描いている。厳しい戒律のもと、尼の指示で、毎日、重労働の農作業をやらされていた。
「彼は施設で性的虐待を受けた可能性が非常に高く、大人は彼を裏切る以外に何もしなかったので、本当に幼少期を通して大人はダーガーの敵になった」と編集者のマイケル・ボーンスティールははなしている。
一方で、精神病院では「良い時代」もあり、仕事も楽しかったし、敵だけでなく友人もいたと語っている。
病院清掃員として
1908年、ダーガーは父親が聖オーガスティン老人ホームで亡くなったという知らせを受ける。8年前に別れて以来、ダーガーが父親を訪ねる機会はなかった。
1908年、貨物列車で脱出を試みるが、シカゴに到着後、警察に阻止され、再び精神病院に収容される。
1909年、16歳のときに再び脱走。3回脱走を試み最終的には17歳のときに歩いてシカゴへ戻る。ゴッドマザー(カトリックの代母)の助けを得て、シカゴのカトリック病院の清掃員を勤めるようになる。以後、この生活は1963年に退職するまで続くことになる。
近所の住民が、誰か訪問者がきていると思ったほど大声で独り言を話していた隠者として知られていた。
男友人シュローダー
第一次世界大戦時のアメリカ軍の一時的な兵役をのぞいて、ダーガーの生活はほとんど変化なかったと思われる。
信心深いダーガーは、毎日教会のミサに出席し(多い時は1日5回も出席していた)、靴や眼鏡、糸玉など道端に落ちているゴミを拾って家に持ち帰っていた。服装は、清潔に務めようとしていたらしいが、いつもみすぼらしかった。
基本的に孤独で、唯一の友人はウィリアム・シュローダーである。ダーガーとシュローダーは、ベルモントとウエスタン・アベニューにあるリバーヴュー遊園地に遊びにいったり、母親と数人の姉妹と住んでいたシュローダーの家にダーガーはよく遊びに行ったりしていた。二人の友情は非常に親密で、ダーガーは『非現実の王国で』で、シュローダーを書き込んだほどだ。
また、彼はネグレクト・チルドレンで、二人は愛のある家族に養子として迎える「子どもの保護協会」の創設を提案もした。30歳の時、教会に養子を申請するが却下。だがあきらめきれず、何度も申請し続ける。
結局、許可は出なかったので、今度は犬に対して興味を持ち始める。しかし、犬のペット代に一ヶ月5ドルもかかると聞いて、貧しいダーガーは諦める。
1930年代なかばにウィリアム・シュローダーはシカゴを去ったが、手紙を通じて1959年にシュローダーが死去するまで手紙で連絡を取り合っていた。
ダーガーの伝記作家ジム・エレッジは、シュローダーがシカゴに住んでいた頃、ダーガーとシュローダーは恋愛関係にあったのではないかと推測しており、ダーガーはシュローダーのことを「特別な友人」と呼ぶこともあった。
死去
1930年に、ダーガーはシカゴのノースサイド、リンカーンパーク地区の851 W. ウェブスター・アヴェニュー、デポール大学のキャンパス近くの2階の部屋に居を構えた。
以後1973年4月13日、81歳の誕生日の翌日に死去するまで、この部屋で43年間ダーガーは創作活動をしていた。ほかに10年間毎日、天気に関する日記も書いている。ダーガーの最後の日記にはこう書かれている。
「1971年1月1日。私はクリスマスとは似ても似つかないとても貧しい日々を過ごした。私の生涯において良かったクリスマスは一度もなく、同じく良い新年を迎えたことはない。今非常につらいが、幸いにも怨恨のような感情はないけれども、私は私がどのようにあるべきかを感じるが……」
ダーガーは、イリノイ州デスプレーンズにある聖人墓地に埋葬された。墓石には「芸術家」「子どもの保護者」と記載されている。
作品
非現実の王国で
『非現実の王国で』は、60年の歳月をかけて制作された、15冊の巨大な密な活字の本で綴られた15145ページの作品である。そのうちの3冊は、雑誌や塗り絵から派生した紙に描いた巻物状の水彩画、数百点のイラストで構成されている。
ダーガーは、雑誌やカタログから切り取った画像をトレースして、大パノラマの風景画に配置し、水彩画で描くという手法で物語を描き、中には幅30フィート、両面とも描かれているものもある。ダーガーは、「子供たちの保護者」という役割で、物語の中に自分自身を登場させている。
本書の最も大きな部分を占める「ヴィヴィアン・ガールの物語」は、「非現実の王国」と呼ばれる、子供奴隷の反乱によって引き起こされたグランダリアンの戦乱である。
ジョン・マンレイとグランデリアンが課した子供奴隷に対する大胆な反乱に協力するキリスト教国アビーアニアの7人の王女、ロバート・ヴィヴィアンの娘たちの冒険を描いている。
地球が月のように周回する大きな惑星(ほとんどの人々はキリスト教徒で、ほとんどがカトリック教徒の住人)と「ブレンギゴメネアン」(略してブレンギン)と呼ばれる曲がった角を持つ巨大な有翼人などが現れる設定がされている。
有翼人は一般的に善良であるが、一部のブレンギンはグランデリアンの残虐行為を見て、人間に対して極度に疑惑を抱いている。
「ヴィヴィアン・ガールの物語」は、ダーガーが大事にしていた新聞記事を紛失したトラブルが元になっている。
特に1911年5月9日付の『シカゴ・デイリー・ニュース』紙に掲載された5歳の殺人被害者、エルシー・パルーベックの肖像は、彼のインスピレーションとなるものであった。
少女はその年の4月8日、母親に「家の近くのおばさんのところに行く」と言って家を出ていた。最後に目撃されたのは、いとこたちと一緒にオルガン・グラインダーを聴いているところだった。
彼女の死体は1ヵ月後、ロックポートの発電所のスクリーンガードの近くにある衛生地区の水路で発見された。検視の結果、彼女はおそらく窒息死であり、ダーガーに関する記事でよく言われているように絞殺されたのではなかった。
パルーベックの失踪と殺人、葬儀、その後の捜査は、当時のデイリー・ニュースをはじめほかの新聞で大量に報道された。
この新聞写真は、ダーガーが集め続けていた個人的な切り抜きアーカイブの一部であった。この殺人事件や写真や記事が、ダーガーにとって特別な意味をもっていたことは、ある日突然、その写真記事を見失ってしまうまでの間、全く気がつかなかったという。
当時の日記によると、ダーガーはもう一人の子供を失ったことを理解し始め、その喪失の「巨大な災害と災難」は「決して償われることはない」、しかし「極限まで復讐されるだろう」と嘆いている。
自伝によると、ダーガーは、この写真が仕事場のロッカーに侵入した際に誰かに盗まれたいくつかの品物の中に含まれていると思っていた。
ダーガーは、その写真のコピーを二度と見つけることができなかった。その写真が掲載された正確な日付を覚えていなかったので、新聞社の資料室でも見つけることができなかった。ダーガーは、この写真が戻ってくるようにと、入念なノヴェナ(祈り)を続けた。
ダーガーがパルーベックの新聞写真を紛失したことに端を発した架空の戦記は、犯人が見つからないまま、ダーガーの大作となった。
彼はこの時期以前からこの小説の何らかのバージョンに取り組んでいたが(彼は、同じく紛失または盗難にあった初期の草稿に言及している)、今やそれはすべてを消費する創作となったのである。
「児童労働の反逆者アニー・アロンブルクの暗殺は...グランダリン政府が引き起こした最も衝撃的な児童殺人事件」であり、戦争の原因であった。
ビビアン・ガールズは、その苦しみと勇気ある行動、そして模範的な聖性によって、キリスト教の勝利をもたらす一助となることが期待されている。
ダーガーは、ビビアンガールズとキリスト教が勝利する結末と、ビビアンガールズが敗北し、無神論者のグランダリン派が支配する結末の2つを用意している。
ダーガーの人物画は、おもに大衆雑誌や児童書からのトレース、コラージュ、写真の拡大によって表現されている(彼が集めた「ゴミ」の多くは、古い雑誌や新聞を切り抜いて素材としたものである)。
ダーガーの少女絵の基盤は、コッパートーン・ガールや漫画「リトル・アニー・ルーニー」などである。
ダーガーの水彩画は、その天性の構図の才能と鮮やかな色使いが高く評価されている。
大胆な逃亡、強大な戦闘、痛ましい拷問などのイメージは、同時代の大作映画『祖国の誕生』(ダーガーも容易に見たかもしれない)だけでなく、カトリック史上の出来事も彷彿させるものである。
ダーガーは、犠牲となった子供たちが初期の聖人たちのように英雄的な殉教者であることを明確にしている。美術評論家のマイケル・ムーンは、ダーガーが描いた拷問された子どもたちのイメージを、人気のあるカトリック文化や図像の観点から説明している。
殉教者の時代劇や、無垢な女性犠牲者の詳細でしばしばグロテスクな物語が描かれたカトリックのコミック本などから引用している。
ダーガーの作品に見られる特異な特徴は、被写体の少女が服を着ていない状態、あるいは部分的に服を着ている状態でペニスを持つように描かれていることである。ダーガーの伝記作家であるジム・エレッジは、これはダーガー自身が幼少期に抱えた性的アイデンティティや同性愛の問題を反映したものだと推測している。
ダーガーの二作目の小説『狂った家』では、こうした主題がより明確に扱われている。
しかし、これは単にダーガーの解剖学に対する知識の欠如を反映しているのかもしれない。少女は常に、生殖器がまったくないか、ペニスがあるかのいずれかで描かれているからだ。
ダーガーは、アメリカ独立宣言を言い換え、子どもたちの権利について、「遊ぶこと、幸せになること、夢を見ること、夜の時間に普通に眠りを得る権利、教育を受ける権利、私たちの中にあるすべての心と精神を発展させる機会の平等のために」と書き記した。
狂った家:シカゴのさらなる冒険
小説の第二作目、仮題は『狂った家:シカゴのさらなる冒険』。手書きのページが1万ページ以上で構成されている。
この作品は、『非現実の王国で』の後に書かれたもので、『非現実の王国で』の主要登場人物であるビビアン7姉妹とその仲間で秘密の弟のペンロッドが舞台をシカゴに移し、前作と同じ時代で物語が展開していく。
1939年に始まるこの作品は、悪魔に取りつかれ、幽霊に取りつかれ、あるいはそれ自身の邪悪な意識を持っている家の物語である。
子供たちがこの家にの中で消え、後に無残に殺害されているのが発見される。
ヴィヴィアン姉妹とペンロッドは調査のために派遣され、殺人が邪悪な幽霊の仕業であることを突き止める。彼女たちは家からお祓いをしようとするが、お祓い前に各部屋で本格的な聖なるミサを行うよう手配する。
しかし、一向にうまくいかない。物語は、ダーガーが狂った家から救出されたところで終わる。
自伝
1968年、ダーガーは自分の欲求不満に関して子供時代にまでさかのぼることを感じ、「私の人生の歴史」を書き始めた。
全8巻からなるこの本は、ダーガーの幼少期については206ページしかなく、その後、おそらく1908年にダーガーが遭遇したという竜巻の記憶から着想を得て、「スウィーティ・パイ」という強力な竜巻についてのフィクションへと変化し、4672ページにわたって展開していく。
死後の評価と影響
ダーガーの家主であったネイサン・ラーナーとキヨコ・ラーナーは、ダーガーが亡くなる直前、老人ホームに入って部屋を空にしたときに彼の作品を発見した。
ネイサン・ラーナーは、「シカゴの視覚文化の歴史と密接に結びついている」とニューヨーク・タイムズ紙が報じるほどの長いキャリアを持つ優れた写真家だった。ネイサンはダーガーの作品の芸術的価値をすぐに認識した。
ラーナー夫妻はダーガーの遺産を管理し、彼の作品を広報するとともに、2004年のドキュメンタリー映画『非現実の王国で』などのプロジェクトに貢献した。キヨコ・ラーナーの協力のもと、2008年には、「インテュイット: 直感的でアウトサイダーな芸術の中心」で、ヘンリー・ダーガーが過ごしていた部屋を再現「ヘンリー・ダーガー・ルーム・コレクション」を常設展示している。
ダーガーは、彼の作品を評価した人々の努力によって、国際的に知られるようになった。1997年のネイサン・ラーナーの死後、キヨコは夫とダーガーの両方の遺産を一人で管理するようになった。
ヘンリー・ダーガー遺産とネイサン・ラーナー遺産のアメリカにおける著作権代理人は、アーティスト・ライツ・ソサエティとなっている。
ダーガーは、今日、アウトサイダー・アートの歴史において最も有名な人物の一人である。毎年1月にニューヨークで開催されるアウトサイダー・アート・フェアやオークションでは、彼の作品は独学で学んだアーティストの中で最も高い値段で取引されている。
ニューヨークのアメリカンフォークアートミュージアムは、2001年にヘンリー・ダーガー・スタディセンターを開設した。彼の作品は現在、75万ドル以上の値がついている。2014年にクリスティーズパリで745,076ドルのオークション価格に達した。
ダーガーは1973年に亡くなったとき、遺書を残しておらず、直系親族もいなかった。やがて、ダーガーの遠縁の親族が現れ、ラーナー家はダーガーの作品の販売から利益を得る権利など持っていないと主張し、彼の作品に対して法的な要求をし始めたのである。この紛争は現在、イリノイ州クック郡の州裁判所で行われている。
2022年6月、検認判事は遠縁の一人であるクリステン・サドウスキーを「遺産の監督管理者」とすることに同意し、彼を「その著作権と個人資産の利益を含む、遺産の資産を所有し回収する権限を与える」とした。
サドウスキーは翌月、キヨコ・ラーナーに対してダージャーの作品と関連著作権の所有を求めて連邦訴訟を提起している。
年譜表
1892年:4月12日、アメリカイリノイ州シカゴの西24 番街350番地で生まれる。
1896年(4歳):母ローザ死去
1898年(6歳):文字の読み書き習得。
1899年(7歳):地元の公立小学校入学。成績が良かったので3年生からスタート。
1900年(8歳):父ヘンリーが老人ホームに入居し、ダーガーの世話できなくなったためカトリックの孤児院へ入所させられ、スキナー小学校に入学。「クレイジー」というあだ名でいじめられる。
1904年(12歳):素行不良のため孤児院からリンカーン精神病院へ移される。
1907年(15歳):父ヘンリー死去。
1908年(16歳):二度脱走を試みるが、どちらも失敗に終わる。
1909年(17歳):三回目の脱走で成功。セント・ジョセフ病院で清掃係として雇われ、バーリング・ディケンズに住む。
1910年(18歳):18歳から20歳のとき、ダーガーは手書きで壮大な物語を書き始め、その主人公のビジュアル・ポートレートを作成し始める。
1912年(20歳):ウィリアム・シュローダーと出会う。大切にしていた写真を盗まれる。
1916年(24歳):タイプライターを使い始める。
1917年(25歳):アメリカ陸軍へ徴兵、病気により帰還。
1922年(30歳):シスターともめ、セント・ジョセフ病院を退職し、一人でアパート暮らしを始める。その後すぐに、リンカーン・ウェブスターの角にあるグラント病院で食器洗浄機として雇われ、シカゴのリンカーンパーク地区のウェブスターアベニュー1035番地にある最初のアパートに移る。
1932年(40歳):生涯の住処となるウェブスター851番地のアパートに移る。そして、『非現実の王国で』の最初の7巻を製本する作業に着手する。残りの 7〜8巻は綴じられずに別々の束ねられたまま。
1935年(43歳):ウィリアム・シュローダーがテキサスへ移住し、孤独になる。
1936年(44歳):上司からの要求でグラント病院を退職する。その後、彼はセント・ジョゼフ病院で食器洗い手として再雇用される。
1947年(55歳):仕事の内容が難しくセント・ジョセフ病院を解雇される。その後、アレクシアン・ブラザーズ病院で食器洗浄機として雇われたが、1951年に包帯室に異動となった。
1957年(65歳):ダーガーは、1957年12月31日に6冊の気象日誌の最初のものを書き始めた。常に天気に魅了され、1967年12月31日まで、直接の観測からほぼ毎日天気について報告した。
1959年(67歳):ウィリアム・シュローダーが死去し、悲しみにくれる。
1963年(71歳):足の痛みのため、アレクシアン・ブラザーズ病院での仕事を辞める。その後に自伝『私の人生の歴史』を書き始める。
1968年(76歳):1968年3月28日から1972年1月1 日まで日記をつけていた。日記の最後のページには、亡くなる1年ちょっと前の日付が記されている。
1969年(77歳):自動車にはねられ、左足と腰を負傷する。以前から足に問題があったことに加えて、階段の昇り降りが困難になる。
1972年(80歳):階段の昇り降りができなくなり、養護施設に入居。また、書面、芸術、口頭によるコミュニケーションをすべてやめ、養護施設で完全に自分自身の中に引きこもる。同年、ラーナー一家によってダーガーの作品が発見される。
1973年(81歳):81歳の誕生日を迎えた翌日に死去。イリノイ州デスプレーンズのオールセインツ墓地にある貧者の墓に埋葬された。
書籍
●参考文献
・https://www.nytimes.com/2022/02/07/arts/design/henry-darger-estate.html
■画像引用
※1:https://www.moma.org/collection/works/156819?artist_id=28600
※2:https://www.moma.org/collection/works/156814?artist_id=28600