アンリ・マティス / Henri Matisse
フォーヴィスムの旗手
アンリ・マティスは、現代美術史において最も重要な芸術家の一人とされています。彼の作品は色彩と線を巧みに用いた抽象的でリズミカルなスタイルで知られており、多くの後続のアーティストに大きな影響を与えました。特に、『赤のアトリエ』と『青い裸婦』は、その美しさと鮮やかな色彩から多くの人々に愛されています。彼の作品は、現代美術において大きなインパクトを持ち、今なお多くの人々に称賛され続けています。また、彼の芸術家としての生涯は、芸術史においても興味深く、多くの人々が彼の作品や彼の人生について学びたいと思っています。
目次
1.概要
2.作品解説
3.略歴
3-1.幼少期
3-2.ゴッホに影響を受ける
3-3.マティス婦人との出会い
3-4.フォーヴィスムメンバーとの出会い
3-5.フォーヴィスム
3-6.フォーヴィスムの衰退
3-7.ピカソと社交サークル
3-8.フォーヴィスム運動以後のマティス
3-9.第二次世界大戦とマティス
3-10.新しい愛人たち
3-11.晩年のカット・アウト作品
概要
本名 | アンリ・エミール・ブノワ・マティス |
生年月日 | 1869年12月31日 |
死没月日 | 1954年11月3日 |
国籍 | フランス |
表現 | 絵画、版画、ドローイング、彫刻、コラージュ、装飾 |
ムーブメント | 印象派、フォーヴィスム |
代表作 | |
関連人物 |
アンリ・マティス(1869年12月31日-1954年11月3日)は、フランスの画家、および彫刻家であり、大胆な色使いと特徴的な素描で知られるフォーヴィスム(野獣派)の創始者の一人です。
現在、パブロ・ピカソやマルセル・デュシャンと並んで、20世紀初頭の視覚芸術において革新的な発展をもたらした3大アーティストの1人として高く評価されています。
マティスは、線を単純化し、色彩を純化することで芸術家の個性や感情を表現するを探求を行いました。彼はフォーヴィスムやフランスの表現主義として知られ、近代美術(前衛美術)の先駆者として位置づけられています。
初期のキャリアでは前衛芸術家としてフォーヴィスムを開拓しましたが、1920年代以降は古典絵画に回帰しました。
第二次世界大戦中のヴィシー政権下のフランスでも絵画活動を続け、教会の内装デザインやグラフィックデザインでも活躍しました。
晩年には、色紙を切り貼りした切り絵(カットアウト)によって壁画レベルの巨大な作品を制作し、その評価を高めました。
また、彼の次男ピエール・マティスは、ニューヨークで近代美術専門のピエール・マティス画廊を開設し、アメリカに亡命したシュルレアリストや前衛芸術家を積極的に紹介し、その名声を広めました。
マティスは後の芸術家にも大きな影響を与え、アンディ・ウォーホルは「マティスになりたかった」と発言し、マーク・ロスコやクレメント・グリーンバーグなどの抽象表現主義の作家にも影響を与えました。
重要ポイント
- アンリ・マティスはフォーヴィスム(野獣派)の創始者の1人で、大胆な色使いと特徴的な素描で評価された。
- 彼は線を単純化させ、色彩を純化にすることで、芸術家の個性や感情が伝わる表現を探求した。
- 晩年は、色紙を切り貼りした切り絵(カットアウト)で壁画レベルの巨大な作品を制作し、後世の芸術家に大きな影響を与えた。
作品解説
近代美術史において、画家として名高いアンリ・マティス。彼の作品は、多くの人々を魅了し、彼の独特な美学を世界中に広めました。次の記事では、アンリ・マティスの代表的な作品を解説し、彼の芸術性を掘り下げていきます。(続きを読む)
略歴
幼少期
アンリ・マティスは、フランス北部のノール県ル・カトー=カンプレシで、裕福な穀物商の長男として生まれた。
普仏戦争が勃発すると、マティスの家族はフランス北部のピカルディ地域圏のボアン=アン=ヴェルマンドワに移り、マティスはそこで育つことになった。
1887年にマティスは父親の意向でパリに出て法律を学び、その後、ル・カトー=カンプレシの弁護士事務所に勤務する。
マティスが絵を描き始めたのは1889年、21歳のときだった。マティスは虫垂炎に罹患している間に、母親から暇つぶしに絵を描くことを勧められた。病床で絵を描いていた当時について、マティスはのちに「天国のようなものを発見した」と述べている。これをきっかけに彼は芸術家になる決心をするが、父親はかなり失望したという。
1891年にパリに戻ったマティスは、ジュリアン・アカデミーに入学し、ウィリアム・アドルフ・ブグローのもとで学んだ。その後、非公式でギュスターヴ・モローのアトリエに入り、師事する。
その後、パリ国立美術大学に入学すると古典的な様式で、おもに静物画や風景画を描き、基礎的な技術を磨いた。この時期のマティスは、ジャン・シメオン・シャルダンやニコラ・プッサン、アントワーヌ・ヴァトーなど、ロココからバロックにかけての古典的な巨匠たちに影響を受けていた。
また、近代美術や日本画などからも影響を受けており、特にジャン・シメオン・シャルダンはマティスが最も尊敬する画家の1人であり、学生時代に彼の作品を頻繁に模写していた。
ジョン・ピーター・ラッセルとゴッホに影響
1896年、当時無名の美術学生であったマティスは、ブルターニュ沖のベル・イル島を訪れ、オーストラリアの印象派画家ジョン・ピーター・ラッセルをに会う。ラッセルはマティスに友人で当時無名だったフィンセント・ファン・ゴッホの作品を紹介した。
この出会いがきっかけとなり、マティスはゴッホの影響を強く受け、絵画スタイルが自由な色彩表現へと変化していった。のちにマティスは「ラッセルは私の先生であり、色彩理論を教えてくれた存在です」と語っている。
同じ年、マティスはソシエテ・ナショナル・デ・ボザールのサロンで5点の絵画を展示した。そのうち2点は州によって購入された。
モデルのマティス婦人と大画商ピエールの誕生
1894年にマティスは、モデルのカロリーヌ・ジョブロードとの間に非嫡出子の娘、マルグリットをもうけた。しかし、1898年にはアメリー・ノエリー・パレイルと結婚した。アメリーは《緑の筋のあるマティス婦人》のモデルとして知られている。
2人はマルグリットを育てると同時に、息子のジャン(1899年生まれ)とピエール(1900年生まれ)をもうけた。マルグリットとアメリーは、しばしばマティスの作品のモデルをつとめている。
次男のピエール・マティスはニューヨークで前衛美術の画廊であるピエール・マティス画廊を開き、シュルレアリストをはじめとする多くのアーティスト、そして後にアメリカ現代美術のパイオニアとなるジャクソン・ポロックなどを紹介した。ピエールは重要な画商としての地位を築いた。
フォーヴィスムメンバーとの出会い
1898年、マティスはカミーユ・ピサロの勧めで、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの絵を学ぶためロンドンへ移り、つその後、コルシカ島を旅行する。
1899年2月にパリに戻るとマティスは、アルベール・マルケのもとで働いた。この頃、彼は後にフォーヴィスムのメンバーとなるアンドレ・ドラン、ジャン・ピュイ、ジュール・フランドランと出会う。また、マティスは他の作家の作品、特にポスト印象派の作品に没頭し、借金をしてまで彼らの作品を購入し、蒐集するようになった。
マティスが購入し、家の中の壁に飾ったり展示した作品には、ロダンの石膏彫像、ポール・ゴーギャンの絵画、フィンセント・ファン・ゴッホのドローイング、そしてポール・セザンヌの『3人の水浴』などがある。特にセザンヌの絵画の構図、色彩、感覚から影響を受けた。
1898年から1901年までのマティスの作品の多くは、ポール・シニャックの著書『ウジェーヌ・ドラクロワ:新印象派』に影響を受けて、分割主義技法を取り入れている。
1902年5月、アメリーの両親が「ハンバート事件」と呼ばれる大規模な金融スキャンダルに巻き込まれた。彼女の母親は、ハンバート家の家政婦だったため、両親はスキャンダルのスケープゴートとなり、アメリーの家族は怒った詐欺被害者たちに脅かされた。
美術史家のヒラリー・スパーリングによると、「彼らが公然と晒され、義父が逮捕されたことで、マティスは7人家族の唯一の稼ぎ手となった」。
1902年から1903年にかけて、マティスは比較的地味で形式に関心のある画風を採用した。この変化は、当時の貧困な状況下で商業主義的な作品を制作することを意図していた可能性があり、マティスの暗黒時代と呼ばれている。代表的な作品として挙げられるのは『午後遅くにノートルダムを垣間見る』である。
また、この時期にマティスは彫刻に初めて挑戦した。彼はアントワーヌ=ルイ・バリーの作品を模写し、1899年には粘土を使った制作に多くのエネルギーを注ぎ込んだ。そして1903年には『The Slave』という彫刻作品を完成させた。
フォービスム
フォービスムは1900年ごろから現れ始め、1910年ごろまで続いたが、実際のムーブメントは1904年から1908年の数年間に限られており、フォーヴィスムの展覧会も3回しか行われなかった。この運動の指導者はアンリ・マティスとアンドレ・ドランだった。
1904年には、マティスはフランスのアンブロワーズ・ヴォラールで初個展を開催したが、残念ながら成功には至らなかった。
同じ年には、マティスは新印象派の画家ポール・シニャックやアンリ=エドモンド・クロスらとサントロペに滞在し、シニャックの影響を受けながら、荒い点描風のタッチで『豪奢、静寂、逸楽』を描いた。この作品は、いわばフォーヴスム宣言の一つとも言える画期的な作品だった。
1905年、マティスと彼を取り巻く芸術家グループは、パリの第二回サロン・ドートンヌ展に出品した。この展覧会でマティスグループの作品を見た批評家のルイ・ヴォークセルは、原色を多用した強烈な色彩と粗々しい筆使いに驚き、「この彫像の清らかさは、乱痴気騒ぎのような純粋色のさなかにあってひとつの驚きである。野獣(フォーヴ)たちに囲まれたドナテロ!」と叫び、これがフォーヴィスムの起源となった。このとき、マティスが展示した作品は『帽子を被った女性』と『開いた窓』である。
ルイ・ヴォークセルは1905年10月17日に新聞『Gil Blas』に批評文を発表したことで、“フォーヴィスム”という言葉が広がった。
展示では作品が非難を浴びたふぁ、マティスの『帽子の女性』はコレクターのガートルードによって購入され、他の大コレクターたちの支援もあり、マティスたちが四面楚歌の状況から立ち直る力を得ることができた。
フォーヴィスムの衰退
他のフォービスムのメンバーには、ジョルジュ・ブラック、ラウル・デュフィ、モーリス・ド・ヴラマンクなどが有名である。
フォーヴィスムの形成に影響を与えた重要な先駆者として、象徴主義画家のギュスターブ・モローを忘れてはいけない。モローはパリのエコール・デ・ボザールで彼らを教え、伝統的な美術様式を押し付けることはなく、むしろ各個の弟子の個性を自由に伸ばすことを重視していた。
もちろん、モローには近代的な芸術への理解があり、自然の単なる模写や規範の尊重よりも、画家の個性の「表現」こそが芸術の本質だと信じていた。
マティス自身も自身の芸術について次のように語っている。
「私たちは、アイデアと手段を単純化することで明晰さに向かっている。唯一の目標は全体性だ。線を手段として自己表現することを学ぶ必要がある。おそらく学び直すということだ。造形芸術は、最も単純な手段である『ダンス』の大きなキャンバスに描かれた青い空や肌のピンク、丘の緑などを通じて、最も直接的な感動を引き起こすことができるだろう」。
1907年、ギヨーム・ポアリネールは雑誌『La Falange』でマティスの作品について「マティスの作品は極めて合理的である。」と書いている。しかし、当時のマティスの作品は激しい批判にさらされていたため、フォービスムの画風で生活をすることは容易ではなかった。
マティスの1907年の作品『青い裸体』は、1913年にシカゴのアーモリー・ショーでも大きな批判を浴び、その主題に抗議する学生たちによって焼かれてしまった。
フォービスムの運動は、マティスにとってキャリアアップのメリットをほとんどもたらさず、1906年を境に衰退した。マティスの優れた作品の多くは1906年から1917年にかけて制作され、当時マティスはパリのモンパルナスの芸術家集団の一員として活動していた。
ピカソと社交サークル
1906年4月、マティスは11歳年下のパブロ・ピカソと出会う。その後、2人は終生の親友でありながら、同時にライバルでもあった。
マティスとピカソは、パリのサロンで出会ったガートルード・スタインやアリス.B.トクラスといった大手コレクターによって紹介された。20世紀始めの10年間、パリに住んでいたアメリカ人コレクターのガートルード・スタイン、彼女の弟レオ・スタイン、マイケル・スタイン、マイケルの妻サラ・スタインは、マティスの重要なコレクターだった。
ボルチモア出身のガートルード・スタインの友人だったコーン姉妹も、この時期からマティスとピカソの作品のコレクターとなり、数百点に及ぶ絵画や素描を蒐集した。
マティスやピカソを含む多くの芸術家たちは、ガートルード・スタインの社交サークルである「27 rue de Fleurus」に集まり、毎週土曜日に定期的な集会を開いていた。
ジョルジュ・ブラック、アンドレ・ドラン、フェルナンド・オリヴィエ(ピカソの妻)、マック・ジャコブ、ギヨーム・アポリネール、マリー・ローサンサン、アンリ・ルソーなどもこの集まりに参加していた。
フォーヴィスム運動以後のマティス
1906年にマティスはアルジェリアへ旅行し、アフリカ芸術やプリミティビスムに影響を受ける。この時期から、マティスの作品は海外旅行で出会った異文化や外国の美術からインスピレーションを受けるようになった。
1910年にはミュンヘンで開催されたイスラム美術の展覧会を鑑賞し、その後2ヶ月間をスペインで過ごしてムーア美術を学んだ。1912年と1913年にはモロッコを訪れ、タンジールに滞在しながら作品を制作し、画風の変化を遂げた。モロッコ人のおだやかなライフスタイルから影響を受けて制作した作品が『金魚』である。
この時期、マティスの親友たちはパリで個人的で商業的でない美術学校「アカデミー・マティス」を開くことを支援した。1907年から1911年の5年間、マティスは若手芸術家たちの美術学校を経営していた。
また、マティスはロシアの大コレクターであるセルゲイ・シチューキンと長期にわたってパトロン関係を築いた。シチューキンはマティスの主要な作品である『ダンス』や『ピンクのアトリエ』などを所有している。
1917年にマティスがコート・ダジュールのシミエからニース郊外に移住した後、彼の作品は古典回帰の傾向を示した。約10年間にわたる作品では、以前のフォービスムの激しい色彩と輪郭線に比べて、より柔らかい表現が見られるようになった。
この古典回帰の傾向は、第一次世界大戦後の芸術に広く見られる特徴であり、ピカソやイーゴリ・ストラヴィンスキーなどの「新古典主義」と比較されることもある。同じくフォービスムの画家であるアンドレ・ドランも古典への回帰を試みている。マティスのオリエンタル・オダリスクは、この古典回帰時代の代表的な作品とされている。
1920年代後半は、マティスは他の芸術家たちとのコラボレーションに積極的に取り組むようになった。フランス人、オランダ人、ドイツ人、スペイン人だけでなく、アメリカ人やアメリカ移民たちとも共同で制作を行った。
1930年になると、マティスの作品には変化が現れ、フォービスム時代以上の大胆な簡略化が行われるようになる。同時に、色彩は以前のような激しさはなくなり、古典回帰時代のように抑えられた色彩が採用されるようになった。
アメリカのコレクターのアルバート・C.バーンズは、マティスにバーンズ財団のための壁画制作を依頼した。260 cm ×391 cmの《ダンスⅡ》が1932年に完成した。バーンズ財団は他にも多数のマティス作品を所蔵しており、その中には代表的な作品である《大きくもたれかかったヌード》も含まれる。
第二次世界大戦とマティス
1940年6月。ナチスがフランスに侵入すると、マティスは当時滞在していたパリから南フランスのニースへ避難した。
彼はニューヨークでギャラリーを経営していた次男のピエール・マティスと米国亡命の相談をし、またブラジルへの亡命も考えたが、最終的にマティスはヴィシー政権下のフランスに残ることを決断した。1940年9月にはピエールが「亡命するかと思っていた」と記録している。
マティス自身はレジスタンス運動に参加することはなかったが、偉大な芸術家が国外に逃れずにフランスにとどまることを選んだことは、占領下のフランス人にとって大きな励みとなり、誇りとされた。マティスがユダヤ人ではなかったことも、彼がフランスに留まる理由の一つだった。
1940年から1944年までのヴィシー政権下のフランスでは、軍事独裁政権下のドイツ語圏と比較して、マティスのような前衛芸術はあまり攻撃対象にされなかった。パリは寛大であり、ドイツ語圏のように攻撃されることもほとんどなかった。
当時のフランスでは、ユダヤ系の芸術家を除いて、キュビストやフォーヴィスト、それ以前の近代美術家の作品の展示が許されていた。ただし、フランスの芸術家が作品を展示するためには、「アーリア人」であることを宣して署名を行う必要があった。
マティスは占領時代に絵画制作の他に、グラフィックアーティストたちとのイラストレーションの仕事もいくつか行った。また、パリのムルロ・スタジオで100点以上のオリジナルリトグラフの制作も行なった。
ニューヨークで画廊を経営している次男ピエールは、アメリカへ亡命してきたユダヤ系や反ナチスの芸術家たちの展示をニューヨークで積極的に行なうようになった。1942年には『亡命芸術家』というタイトルの展示会をニューヨークで開催し、これは大きな反響を呼び、歴史的な展示となった。
アメリー夫人はマティスと別れた後、フランスのアンダーグラウンドで交信係として活動していた。そのため、彼女は6ヶ月間投獄された。
マティスの娘であるマルグリットは戦争中にレジスタンス活動に参加した。彼女はゲシュタポに逮捕され、刑務所で激しい拷問を受けた後、ドイツのラーフェンスブリュック強制収容所へ送られた。しかし、マルグリットは連合軍の空爆に乗じて停車していた収容所行きの列車から逃げることに成功した。その後、戦争が終わり、レジスタンスの仲間が助けに来るまで森の中に隠れて、生き残びたという。
マティスの弟子だったルドルフ・レヴィは1944年にアウシュヴィッツ強制収容所で殺害された。彼はナチスの迫害の犠牲となった一人です。
新しい愛人たち
マティスは若いロシア移民の女性であるリディア・デレクターズカヤに興味を持つ。アメリー夫人は彼の関心に気づき、二人の関係は急速に悪化した。結局、1939年にマティス夫婦は離婚し、財産は公平に分割されました。
離婚の出来事に罪悪感を感じたデレクターズカヤは、自殺を試みて胸を撃ったが、重傷を負いながらも生き残った。
その後、彼女はマティスの元に戻り、残りの人生をマティスとともに過ごすことになった。デレクターズカヤはマティスの家族の一員としてだけでなく、作品の支払いやマティスとの連絡、手紙のやり取り、アトリエでのアシスタントやモデル、そしてマティスのビジネス上のあらゆる事務作業を行うマネージャーとして活躍した。
1941年、マティスは十二指腸癌にかかる。手術は成功したが、重篤な後遺症が現れ、3ヶ月間寝たきりの状態となった。この期間中、マティスは紙とハサミだけを使って新しい芸術スタイルの探求を始めた。これは後に彼のカットアウト作品へと繋がることになる。
同じ年、看護学生でマティスの介護をしていたモニーク・ブルジョアと間柄を築いた。彼は彼女に遠近法などの美術を教えた。1944年にモニークが修道院に入るため病院を去ってからも、マティスは時折彼女と連絡を取り合っていた。
モニークは1946年にドミニコ会修道女となった後、マティスは小さな町ヴァンスにあるドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザインや上祭服のデザインを手掛けた。
この礼拝堂はマティス芸術の集大成とされ、切り紙絵をモチーフにしたステンドグラスや、白タイルに黒の単純かつ大胆な線で描かれた聖母子像は、20世紀キリスト教美術の代表作と目されている。
晩年のカット・アウト作品
1941年、マティスは腹部のがんと診断され、手術を受けた後、ほぼベッドや椅子に拘束された生活を送ることになった。
身体的に制約があるため、マティスは絵画や彫刻の制作が困難になっていた。そこで彼は新しいメディウムを探し始め、カット・アウト(切り抜き)やデコパージュといった紙のコラージュ作品に興味を持つようになった。アシスタントの手助けを借りて、マティスは事前に準備されたガッシュ絵具で塗られた紙を自由な形状やサイズで切り抜き、好きな配置で組み合わせた。
体調の変化とともに、マティスの作品も変化した。彼は自然から受ける感覚や感触を直接的に表現することができるようになった。また、はさみを使うことで身体的な動きを表現することも可能になった。
最初のカット・アウト作品は比較的小さなサイズだったが、次第に大型化し、最終的には3メートル以上の壁画や部屋全体を覆うほどの作品になった。これにより、絵画や彫刻とは異なる芸術形態や、インスタレーションに近い作品が生まれた。代表作の一つである《かたつむり》は、現在テート・モダンが所蔵している。
ペーパー・カットアウトは、晩年におけるマティスの主要メディアになったが、彼が最初にこの技法を使用したのは、1919年のイーゴリ・ストラヴィンスキーによるオペラ『ナイチンゲールの歌』の舞台装置だった。
1943年、マティスはヴァンスの丘の上に移り住み、そこで彼は『Jazz』という最初の主要なカット・アウト作品集を制作した。
1952年、マティスはフランスのル・カトーにマティス美術館を設立した。この美術館はマティスの作品を収蔵するものであり、現在ではフランスで3番目に多くのマティス作品を所蔵する美術館となっている。
デビッド・ロックフェラーによれば、マティスの最後の作品は、ニューヨークの北にあるロックフェラー財団近くのポカンティコ・ヒルズのユニオン教会内のステンドグラス窓のデザインとされている。マティスがデザインした窓は、彼の死後の1956年に完成した。
マティスは1954年11月3日に心臓発作で亡くなった。享年84歳だった。彼はニース近くのノートルダム・ド・シミエ修道院の墓地に埋葬された。
現代美術への影響
アンリ・マティスの芸術スタイルやアイデアは、多くの現代美術家に影響を与え、現代美術の発展に大きな貢献をした。
・色彩の重要性
アンリ・マティスは、自然や現実を表現する際に、色彩の美しさに重点を置いた。彼は、単純で鮮やかな色彩を用い、色と色の関係性を大切にした。マーク・ロスコやケネス・ノーランドなどのカラー・フィールド・ペインターは、『赤いアトリエ』(1911年)のような、マティスの大胆な色使いに魅了された。
・抽象的な芸術スタイル
アンリ・マティスは、自然や現実を描写する際に、抽象的な手法を用いた。リズミカルな模様や形状、単純化された形態などを用いて、自分なりの表現を追求した。特に抽象表現主義者は、マティスの系譜をたどることになる。
・形式の自由
アンリ・マティスは、形式にとらわれることなく、自由な表現を追求した。彼は、描写された対象の形態や構図に囚われず、自由な形式を模索した。
・コンセプトやアイデアの重要性
アンリ・マティスは、自分なりのコンセプトやアイデアを表現することも大切だと考えていた。彼は、芸術作品にとどまらず、空間デザインや舞台美術など、様々な分野にアイデアを適用した。リチャード・ディーベンコーンは、マティスがどのように空間の錯覚を作り出し、彼の主題と平らなキャンバスの間の空間的な緊張に興味を持っていた。
アートペディア・マガジン01号「超初心者のためのマティス入門」: アンリ・マティスの教科書
アンリ・マティスは20世紀を代表する画家の1人であり、彼の芸術作品は多くの人々に愛されています。美術に興味を持っている方なら、アンリ・マティスの作品をご存知の方も多いでしょう。
しかし、アンリ・マティスが分類される近代美術は、美術初心者の方にとって難しく感じられます。そこで、本書はアンリ・マティスの作品を解説した入門書だけでなく、近代美術の初心者の方でも楽しめるように作られています。
アンリ・マティスは20世紀初頭のフランスの画家で、フォービスムと呼ばれる新しい芸術スタイルの一員でした。彼の作品は、カラフルで雑で下手な印象を与えるものが多く、それゆえに理解するのが難しく感じられることがあります。
本書では、アンリ・マティスの代表作品や彼の画家としてのキャリアを紹介しながら、作品の背景や解釈の仕方を詳しく解説しています。また、美術史や美術批評用語についても簡単に説明しています。
本書をきっちり読み込めば、アンリ・マティスの作品の魅力や背景を理解するだけでなく、近代美術をより深く楽しむことができます。初心者の方に限らず、アンリ・マティスの作品に興味のある方にとっても、参考になる一冊となっています。美術の世界に入りたいと思っている方は、ぜひ本書を手に取ってみてください。
年譜表
■1869年
12月31日の大晦日に北フランスのル・カトー・カンブレシスで生まれる。
■1887年
法律を学ぶためにパリに移る。
■1889年
法務事務官としてサンカンタンに移るが、虫垂炎を患い、数カ月間自宅で休む。このとき芸術家になる決心をする。
■1891年
プロの美術家になるためパリへ移り、パリ国立美術学校に入学する準備として、ジュリアン・アカデミーでウィリアム・アドルフ・ブグローのもとで学ぶ。
■1892年
保守的なアカデミー・ジュリアンを退学し、非公式でエコール・デ・ザール・デコラティフのギュスターブ・モローのアトリエで学ぶ。
■1894年
カロリーヌ・ジョブロードの間に第一子となるマルグリットという女の子が生まれる。
■1895年
モローに師事しつつ、エコール・デ・ボザールに入学する。アカデミックな静物画から印象派のゆったりとした筆致まで、さまざまなスタイルに触れることができる。
■1896年
サロン・ド・ラ・ソシエテ・ナショナル・デ・ボザールで作品を発表し、成功する。『読書をする女性』が政府に購入される。
■1898年
アメリー・パレールと結婚。二人は一年間パリを離れ、ロンドンとコルシカ島を訪れる。
■1899年
長男ジャンが生まれる。経済的危機に直面するが、セザンヌの『三人の浴女』など美術品収集を始める。
■1900年
次男ピエールが誕生。経済状況は悲惨なまま。妻アメリーは家計を助けるためブティックを開く。
■1901年
サロン・デ・アンデパンダンに初めて作品を発表する。
■1902年
ベルト・ヴァイルのギャラリーでグループ展で作品を発表。
■1904年
アンブロワーズ・ヴォラールのギャラリーで個展を開催するが、失敗に終わる。
■1905年
アンドレ・ドランとともにコリウールで夏を過ごし、そこでフォービスムを生み出し、秋のサロン・ドートンヌで『開いた窓』と『帽子をかぶった女性』を発表する。注目を集め、フォービスム運動が発生する。同年、ガートルード・スタインの家でピカソと出会う。
■1906年
ガートルード・スタインをはじめ、兄弟のレオとマイケル、そしてマイケルの妻などスタイン家の支援を得て、経済状況は改善。
■1907年
アルジェリア、モロッコ、スペインなどを旅行し、北アフリカ芸術作品やプリミティビスムに影響を受ける。
■1908年
マティスの名声が高まリ、ロシアの富豪コレクター、セルゲイ・シチューキンらをはじめ多くのパトロンの支援を得る。
■1912年
マティスの彫刻はニューヨークで、絵画はロンドンとケルンで公開展示され、国際的な名声を得るようになる。
■1913年
13点の絵画コレクションがニューヨークのアーモリーショーに展示される。コレクションがシカゴに運ばれる際、絵画『青い裸婦』がその主題に抗議する学生たちによって燃やされてしまう。
■1916年
ピカソのキュビスムの要素に関心を持ち始め、幾何学的な構造や平面性を探求しはじめる。
■1917年
マティスのニース時代が始まり、地中海に近いニースで寒い冬を過ごすようになる。
■1921年
ニースに定住する。この時期、マティスの作風は、それまでの暗く激しい筆致とは対照的に、明るく軽やかな色彩に変化する。自然光や幾何学模様を背景にしたオダリスクがおもな主題となる。また、版画の実験も盛んに行うようになる。
■1930年
創作の危機に直面し、制作した作品に満足感を得られないと感じる。新たなインスピレーションを求めて、最初はタヒチへ、その後3回にわたってアメリカへ旅に出る。この時期、ガラス彫刻、タペストリー、本の挿絵など、他の創作の道を模索する時間が増える。
■1931年
マティスは、画廊のコレクターでペンシルバニアのバーンズ財団のアルバート・バーンズ博士から、『ダンス(II)』と題する壁画の制作を依頼される。また、一連の詩集の挿絵をデザインする。
■1932年
マティスは、リディア・デレクトールスカヤをアトリエの助手として雇う。その後、家事手伝いをするようになり、3年後にはマティスのモデルを務める。二人の関係はプラトニックなものであったが、マティスの妻は二人の関係を快く思っておらず、裏切り行為とみなしてマティスと別れる。リディアはマティスが亡くなるまで、マティスのそばにいることになる。
■1939年
マティス、妻と別居。第二次世界大戦の勃発と健康状態の悪化、そして別居により、芸術に対する不安が作品に反映される。
■1941年
マティスは腸の病気のため手術を受け、寝たきりの状態になる。寝たきりの中、手軽さから切り絵の実験を行い、いくつかの壁画を制作する。カットアウトの時代に入る。
■1947年
マティス、切り絵のイメージとあいまって、人生と創作活動に関する彼の考えをまとめた限定版画集『ジャズ』を出版。
■1951年
最後の大規模プロジェクトとして、ニース近郊の町ヴァンスにあるロザリオ礼拝堂の装飾(1948-51年)を手がける。マティスは壁画、調度品、司祭の法衣をデザインする。ステンドグラスのデザインには切り絵の技法を用いる。
■1954年
11月3日、心臓発作で亡くなる(享年84歳)。娘のマルグリットとアシスタントのリディア・デレクトールスカヤが最後まで付き添っていた。その後、シミエの墓地に埋葬される。