ハンス・ベルメール / Hans Bellmer
日本に衝撃を与えた球体関節人形
概要
生年月日 | 1902年3月13日 ドイツ帝国時代カトヴィツェ |
死去 | 1975年2月24日(72歳) |
国籍 | ドイツ |
表現媒体 | 人形、写真、彫刻、絵画、詩 |
代表的作品 | Die Puppe(1934年、書籍)、「Popee」(1935年、書籍) |
表現スタイル | シュルレアリスム、ベルリン・ダダ |
ハンス・ベルメール(1902年3月13日-1975年2月23日)はドイツの画家、版画家、オブジェ作家、写真家。1930年なかばに制作した等身大の少女人形作品が一般的には知られている。
それまでは絵描きだったが、ナチスへの反発をきっかけに1933年から人形制作を始める。グロテスクでエロティシズムな球体関節人形を制作し、それらを演劇仕立てにして野外撮影した自費出版の写真集としてが、パリのシュルレアリスム・グループから注目を集めるようになる。
ベルリンからパリへ亡命後、シュルレアリスム運動に参加したあと、積極的に自身に眠るエロティシズムを探求するようになる。
ベルメールの人形は、日本の球体関節人形の創生に大きな影響を及ぼしている。1965年に雑誌『新婦人』で澁澤龍彦がハンス・ベルメールの作品を誌面で紹介。その記事を見た四谷シモンが多大な影響を受け、本格的な球体関節人形の創作を始める。
以後、球体関節人形は少しずつ日本のアンダーグラウンドや幻想耽美系で球体関節人形作家は広まっていき、四谷シモンをはじめ、吉田良、天野可淡、恋月姫、清水真理などの現代人形作家シーンを生み出した。
なお美術史的には、ベルメールは人形作家ではなく、シュルレアリムの写真家、画家として位置づけられている。球体関節人形は、ベルメールの長い芸術活動の中の一部であり、スカルプチャーとして認識されている。
一般的にはファーストドールとセカンドドールのみ知られている(三体あるらしい)。特に晩年はウニカ・チュルンをモデルにしたドローイングの画家として評価を高めた。
重要ポイント
- 日本の球体関節人形の創生に多大な影響
- 人形作家ではなく、本業は画家、写真家
- 二体の人形作品(ファースト&セカンド)しか知られていない
作品解説
略歴
若齢期
ハンス・ベルメールは、1902年 、シュレジエン地方・カトヴィッツの裕福な技師の長男として生まれた。
父親はプロテスタントの優秀なエンジニアで、典型的なブルジョア道徳の体現者だった。性格は厳格で冷淡、家庭では独裁的な権力をふるっていたという。一方で母親は父親とは真逆で、少女のように優しく、可愛らしい外見で、ハンスと一緒に玩具を集めたりして遊んでいた。
このような極端な異なる性格の両親を持つ家庭環境はベルメールの大きな影響を与えた。ベルメールは恐ろしく厳格で厳しい外部の世界と、優しい小児的で少女的な内部の世界というアンビバレンツな感情を育てていった。この頃の環境が、のちに人形制作に反映される。
ベルメールは、1926年までに広告会社を設立し、ダダイストのヴィーラント・ヘルツフェルデが設立した出版社を中心に本の印刷やデザインの仕事をして生計をたてていた。
人形作りを始めたきっかけは、1933年のナチスの政権掌握。ベルメールはファシズムに抗議するため、また社会貢献の一貫として労働を放棄し、人形制作を始めたのだという。できあがった奇妙な形態のベルメールの人形は、当時ドイツで盛んだった行き過ぎた健康志向を批判したものであるという。
なお、ベルメールの人形作りには、1925年にオスカー・ココシュカがハーミー・ムーズに宛てた手紙に書かれていた等身大の人形の作り方を参考にしという。
ファースト・ドール
ファーストドールは1933年に制作された。ドール制作のきっかけとなるのはナチスですが、ベルメールの幼少期における父親に対する恨みや反抗心も大きく関わっている。
ベルメールの父親は厳しく、暴力的で、幼少の頃から実用的な仕事に就くようベルメールを教育してきた。こうした環境でベルメールは、父親に対して反抗心を持ち始める。
ベルメールのなかで、男性的(父親的)なものとは、とりも直さず、実用性や有用性であり、社会的なものとみなしました。それはもちろん厳格な父親の姿を結びつけたものだった。
その一方で、女性(母親)とは、子どもをむすぶ楽園であって優しく、それは父親と敵対する抑圧されたものだった。後年、彼がナチスに対して激しい憎悪を燃やしたのも、この父的なものに対する反発だった。
こうした心理的背景のもと、ベルメールは球体関節人形の制作に取り組み始めた。彼の人形制作の動機は父親への挑戦だったため、個人的な欲望の対象と同時に、社会的にも性的にも白無用な存在と見なされている「少女」を人形のモチーフとして選ぶことにした。
また「少女」というモチーフを選ぶにあたって、1932年に出会った従姉妹の10代の美しい少女ウルスラの影響が大きいといわれている。ベルメールは彼女に性的な関心を抱いていたという。ウルスラは彼の人形に非常に似ていることから、人形のモデルであると言われてる。ウルスラへの愛着と父親に対する憎悪がごちゃまぜになってできたのがグロテスクでエロティックな球体関節人形だった。
ウルスラとともに、マックス・ラインハルト演出のオペラ「ホフマン物語」を観劇して、人形師コッペリウスと自動人形オリンピアからインスピレーションを得る。ベルメールの作品が演劇仕立てになっているのはホフマン物語を基盤にしているためである。この話は主人公が自動人形に恋をする話であり、主人公ナタニエルの父親に眼球をとられるというエディプス・コンプレックス的な話でもあった。
制作する人形の腹の中には、ベルメールの夢想の「パノラマ」が設置された。へそにはめ込まれたガラスの球体から内部をのぞくと、エピナールの版画だの、少女の痰のついたハンカチだの、極地の氷山のなかに閉じ込められた船だのが見える。そして左乳首を押すと、パノラマの景色が変わるのだった。
へその孔からパノラマが見える人形くらい社会にとって無益なものはなかった。ナチスはこれを頽廃芸術と呼ぶに違いない。無用な少女人形によって、ベルメールは、有用性への反発、ナチスへの反発、社会への反発、ウルスラへの愛情、性的関心、そして父への復讐を紐付けるように果たしたのである。
シュルレアリスム運動に参加
1933年にファースト・ドールを制作。ベルメールは制作の様子を写真撮影していたおかげで、バラバラのパーツが組み上がっていく姿を正しく理解することができたという。
身長は約16インチで、亜麻繊維、接着剤、および石膏などの材料で作られた胴体と頭部、ガラスの眼球、長ほうきの柄か杖を使って作られた両脚、ボサボサのかつらを組み合わせて人形は作られた。また肘や膝と言った関節部分は石膏管で作られている。
翌年34年、モノクロの人形の写真10枚と短い序文をおさめた『The Doll(Die Puppe)』をカールスルーエのTh・エックシュタイン社より自費出版する。「活人画」シリーズといわれるもので、ベルメールのファースト・ドールの写真が収められています。ベルメールのクレジットはなく、匿名で出版されなかった。1人でこっそりと制作した本だったので、ドイツで知られることはなかった。
しかし、この自主制作本はソルボンヌ大学に入学したウルスラによって、パリのシュルレアリストたちのもとへわたり、それがシュルレアリストたちから熱狂的な支持を受けます。ついに、当時のシュルレアリム機関誌『ミノトール』でベルメールの作品が掲載されました。これをきっかけにベルメールとシュルレアリスム運動の公式な接触が始まり、その名声は世界中に広がっていった。
ベルメール掲載されたのは、『ミノトール』1935年の冬に出た6号。何よりも、ハンス・ベルメールの登場が、断然、異彩を放っている。見開き2ページに、あの、惨劇のあとを思わせるベルメールの人形たちが、ずらりと並べられている。
シュルレアリスム美術のなかで、もっとも生臭く、低俗すれすれのところであえて勝負したベルメールの人形は、シュルレアリスムの本質にある二流志向を、極端にまで実行してみせた。
マイナーな人形作家とシュルレアリストとの仲立ちをしたウルスラの存在がなくては、ベルメールはシュルレアリスムの歴史に存在しなかったかもしれない。なおファーストドールは、球体が使われているがパーツとしての役割だけで、実際には動かすことができないため不完全な「球体関節人形」だった。
セカンド・ドール
1935年、プリッツェルとともに訪れたカイザー・フリードリヒ美術館に展示されていたデューラー派の人形からヒントを得て、球体関節を採用したセカンド・ドールの制作を始まりである。
セカンド・ドールは腹部が球体関節であることが大きな変化となっている。またファーストは技術的にも理論的にもまだ未熟な面があったが、セカンド・ドールではそれらの面も大幅に進歩。
この人形作品は、身体の各パーツをバラバラにしたり、組み立てたりして台所、階段、庭など様々な環境の中で120点あまりの写真を残された。おそらく、一般的によく知られているベルメールの人形はセカンド・ドールのほうだろう。
ベルメールの球体関節の哲学とは、あらゆる角度から造形的に追求されたもの。人間のエロティックな解剖学的可能性を、快楽原則によって再構成することが、ともするとベルメールのひそかな野心だったのかもしれない。
そのために、ありとあらゆる肉体の変形に適応するような人形を創作した。ベルメールの人形哲学によれば、女体の各部分は転換可能である。身体の相互互換、入れ替えが可能になるので、奇妙な人形がたくさん作られた。
最も有名なのは、二セットの脚が胴体にくっついて頭部が存在しない蜘蛛のような不気味な球体関節人形だろう。
第二次世界大戦と戦後
第二次世界大戦が勃発すると、ベルメールは偽パスポートを作ってドイツからフランスにわたり、フランス・レジスタンスに参加し、ナチス・ドイツに抵抗sた。しかし、1939年9月から1940年のまやかし戦争が終戦するまで、ベルメールはフランス南部にあるエクス=アン=プロヴァンスのミルズ収容所に収監され、煉瓦工場で強制労働させられた。
戦後、ベルメールはパリで終生を過ごすことになる。人形制作はやめ、残りの数十年をおもにエロティックでシュルレアリスム風のドローイング画や版画の制作、それに加えて写真表現が中心になる。私たちが目にするファースト・ドールとセカンド・ドールは1930年代の一時的なものだった。
ベルメールは1951年に画家のウニカ・チェルンと出会う。彼女は1970年に自殺するまで愛人・モデルとなった。ベルメールの芸術制作は1960年代まで続いた。
1975年2月24日、膀胱がんで死去。ベルメールは「ベルメール-チュルン」と碑銘され、ペール・ラ・シェール墓地のウニカ・チュルンのそばに埋葬された。
ベルメールの影響
ニューヨークで活動するポスト・パンク・バンドの「ベルメール・ドールズ」はベルメールから名前を引用している。
2003年の映画『ラブ・ドール』にはベルメール作品の影響がはっきりと現れている。たとえば主人公のリサ・ベルメールという名前は、ベルメールから引用している。
2004年のアニメ映画『攻殻機動隊2:イノセンス』では、ベルメールのエロティックや不思議な人形の要素が見られる。さらに監督の押井守は映画製作の際にベルメールからインスピレーションを得たと発言している。
2001縁のビデオゲーム「サイレントヒル2」にはベルメールの人形と非常によく似たマネキンというキャラが現れる。しかし、イラストレーターの伊藤暢達は、マネキンのデザインはベルメールから影響を受けておらず、日本の伝統人形からインスピレーションを得ていると話している。
作品集
- Die Puppe, 1934.
- La Poupée, 1936. (Translated to French by Robert Valançay)
- Trois Tableaux, Sept Dessins, Un Texte, 1944.
- Les Jeux de la Poupée, 1944. (Text by Bellmer with Poems by Paul Eluard)
- "Post-scriptum," from Hexentexte by Unica Zürn, 1954.
- L'Anatomie de l'Image, 1957.
- "La Pére" in Le Surréalisme Même, No. 4, Spring 1958. (Translated to French by Robert Valançay in 1936)
- "Strip-tease" in Le Surréalisme Même, No. 4, Spring 1958.
- Friedrich Schröder-Sonnenstern, 1959.
- Die Puppe: Die Puppe, Die Spiele der Puppe, und Die Anatomie des Bildes, 1962. (Text by Bellmer with Poems by Eluard)
- Oracles et Spectacles, 1965.
- Mode d'Emploi, 1967.
- "88, Impasse de l'Espérance," 1975. (Originally written in 1960 for an uncompleted book by Gisèle Prassinos entitled L'Homme qui a Perdu son Squelette)