ハンナ・ヘッヒ / Hannah Höch
モンタージュを発明した女性ダダイスト
概要
ハンナ・ヘッヒ(1889年11月1日-1978年5月31日)はドイツの女性ダダイスト。フォトモンタージュを発明者の一人であり、彼女のワイマール時代の作品が最もよく知られている。
ハンナ・ヘッヒはドイツのゴータで生まれた。母は絵描き、父は保険会社の経営者だった。1904年に妹の世話をするために高校を退学するが、1912年にガラスデザイナーのハロルド・ベルゲンの指導の下、ベルリン応用芸術学校で勉強をしなおす。彼女は、父が勧めたファインアートよりむしろガラスデザインとグラフィックアートの授業を選択した。
1914年、第一次世界大戦が始まると、学校をやめて国際赤十字で働くためにゴータに戻る。1915年に学校へ戻り、ベルリンのシャルロッテンブルク工芸学校でEmil Orlik指導のクラスに入学して版画を勉強する。
また1915年にヘッヒはベルリン・ダダムーブメントのメンバーであるラウル・ハウスマンと出会って、関係を深めるようになる。ハウスマンはヘッヒともにフォトモンタージュを発明したアーティストとしてよく知られている。
ベルリン・ダダイストとしてのヘッヒの活動は1919年初頭から始まる。学校を出たあと、彼女は通信社ウルシュタイン出版の工芸品部門で、『Die Dame』や『Die Praktische Berlinerin』といった女性ファッション誌でイラストの仕事をしていた。このころの仕事や職業訓練で養ったさまざまなイメージは、のちに彼女の芸術作品のドレスのパターンやテキスタイルに影響をされているようである。
ダダ以後
1921年にハウスマンとプラハへ移り住む。しかし1922年にハウスマンと別れベルリンで個展を開催。へーヒは1922年に7年続いたハウスマンと別れる。
1926年に彼女は、クルト・シュヴィッタースを通じてオランダの作家で言語学者のマチルダ・ブルグマンと関係を持ち始めた。(右写真:猫とへーヒとブルグマン)1926年の秋までに、へーヒはブルグマンと同棲するためにハーグへ移り住み、そこで彼女らは1929年まで生活した。
へーヒはこのオランダ時代にクルト・シュヴィッタースやピエト・モンドリアンなどさまざまな前衛芸術家と親交を深めた。その後彼女らはベルリンに移動。へーヒとブルグマンの関係は1935年の9年間続いた。彼女らはレズビアンの関係をはっきりと言わなかったが、個人的な恋愛関係にはあったという。
1935年に、ヒーへはカート・マチスと関係を深め結婚するが、42年に離婚。45年にベルリンとニューヨーク近代美術館で個展を開催。78年にベルリンで死去。
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Hannah_H%C3%B6ch、2020年5月12日アクセス