ギュスターヴ・クールベ / Gustave Courbet
現実に見たものを描く写実主義
概要
生年月日 | 1819年6月10日 |
死没月日 | 1877年12月31日 |
国籍 | フランス |
表現媒体 | 絵画、彫刻 |
ムーブメント | 写実主義 |
代表作 |
・《オルナンの埋葬》1849年 ・《世界の起源》1868年 |
関連サイト |
・The Art Story(概要) ・WikiArt(作品) |
ギュスターヴ・クールベ(1819年6月10日-1877年12月31日)は、フランスの画家。19世紀フランス絵画において、写実主義(レアリスム)運動を率いたことで知られる。
クールベは自分が実際に現実で見たものだけを描き、宗教的な伝統的な主題や前世代のロマン主義的幻想絵画を否定した。クールベの伝統的芸術からの自立は、のちの近代美術家、特に印象派やキュビズムへ大きな影響を与えた。
クールベは19世紀のフランス絵画の革新者として、また作品を通じて大胆な社会的声明を発する社会芸術家として、美術史において重用な位置を占めている。近代絵画の創始者の一人として見なされることもよくある。
1840年代後半から1850年初頭にかけての作品からクールベは注目されはじめた。貧しい農民や労働者の姿を描いてコンペに出品した。また、理想化されたものではない普通の女性のヌード絵画《世界の起源》を積極的に描き、当時、常識を逸脱した前衛的な画家とみなされた。
1855年のパリ万博で私費で個展を開く。当初クールベは、パリ万博に《画家のアトリエ》と《オルナンの埋葬》を出品しようとしたが展示を拒否されたため、博覧会場のすぐ近くに小屋を建て、自分の作品を公開し、戦闘的に写実主義を訴えた。この個展の目録に記されたクールベの文章は、のちに「レアリスム宣言」と呼ばれることになる。
また当時、画家が自分の作品だけを並べた「個展」を開催する習慣はなく、このクールベの作品展は、世界初の「個展」だとされている。
しかし、その後のクールベの作品はほとんど政治的特色は見られないようになり、風景画、裸体画、海洋風景画、狩猟画、静物画が中心となった。
左翼の社会活動家としてもクールベは積極的に活動する。1871年にはパリ・コミューンに関与して、ヴァンドーム広場の円柱の解体に関与した疑いで6ヶ月間投獄されたこともあった。釈放後、1873年からスイスへ移り、死ぬまでそこで過ごした。
重要ポイント
- 現実の世界で自分が見たものだけを描く写実主義運動の指導者
- 左翼の社会活動家としてパリ・コミューンに関与し投獄される
- 美術史上最初の「個展」を開催
略歴
若齢期
ギュスターブ・クールベは1819年にオルナンでレージスとシルヴィ・オドゥ・クールベのもとに生まれた。富裕農家だったので、家庭内に反君主的な感情がはびこっていた(クールベの祖父はフランス革命に参加もしていた)。
クールベには、ゾーイ、ゼリー、ジュリエットの3人の姉妹がいて、姉妹はクールベにとって最初のドローイングや絵画のモデルとなった。パリへ移ったあともクールベはよくオルナンへ帰省し、狩猟や釣りをしたり、インスピレーションの源としていた。
1839年にパリへ移り、スチューベンやヘッセのアトリエで絵を描きはじめる。しかし、独立精神旺盛だったクールベはすぐにアトリエに通うのをやめて、ルーブル美術館に通ってスペイン人やフラマン人やフランス人の古典巨匠たちの絵画を模倣し、また独自の自身のスタイルを発展させていくことを好んだ。
最初の作品《オダリスク》はヴィクトル・ユーゴーやジョルジュ・サンドなど作家から影響を受けて制作したものだが、その後、文学から制作の着想に入ることをやめ、現実世界をつぶさに観察し絵画制作をするようになった。1840年代初頭の作品にはいくつかのセルフ・ポートレイトがあるが、それはロマンチックな概念のもと、さまざまな役柄で自身を描いたものだった。
1846年から1847年にオランダやベルギーを旅行でレンブラント・ファン・レインやフランス・ハルスの生活や表現を学び、クールベの作品の方向性や人生観がより強化された。1848年までにクールベは若い評論家のあいだで評判がよかった。特に新古典主義や写実主義の批評家のシャンフルーリがクールベを支持していた。
1848年にクールベは初めてパリ・サロンに入選し、《オルナンの夕食後》が展示された。この作品は、ジャン・シメオン・シャルダンやル・ナン兄弟の作品を連想させる。クールベは金メダルを受賞し、国が作品を購入した。金メダルの受賞は、もはやパリ・サロンで彼が展示するための審査を必要しないことを意味しており、展示規律が変更される1857年までクールベの作品は審査なしで展示できた。
社会主義や共産主義が誕生した1848年
1849年から1850年に、クールベは《石割人夫》を制作。社会主義者で無政府主義者のピエール・ジョゼフ・プルードンはこの作品を農民たちの生活のアイコンとして称賛し、"クールベの作品の中でも最も良い作品"と呼んだ。
絵画はクールベが路傍で目撃した光景から影響して制作された。彼はのちにシャンフルーリやフランシス・ウェイにこのように説明している。「こんなに完璧な貧困表現に遭遇することはほとんどない。その瞬間その場で、私は絵画のアイデアを得て、彼らに翌朝アトリエへ来るように話しかけた」。
クールベが《石割人夫》において重労働にあえぐ下層民衆をなまなましく描いたことは、民衆の貧困や貧富の差が社会問題になっていたことも無関係ではない。プルードンはクールベの支持者で、クールベも後に《プルードンの肖像》を描いている。
また、本作が描かれた1848年にはマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が刊行されているが、当時は社会主義やより急進的な共産主義が誕生し、貧困や社会的不平等についての意識が先鋭化した時代であった。
写実主義
クールベの作品はロマン主義や新古典主義のどちらにも属していない。パリ・サロンにおいては歴史画が画家の最高の呼び名として称賛されるが、クールベは歴史画に関心がなく、彼は「一世紀だけの芸術家は基本的に過去、または未来の世紀の側面を再現することはできない」と話している。
そのかわりに、クールベは可能な限り自身が生きている間に自身が経験した事を、芸術の源泉にしようとした。クールベとジャン=フランソワ・ミレーは、現実の農民や労働者の生活から創作のインスピレーションを感じ、それら現実を描いた。
クールベは具象的な方法で、風景画、海洋画、静物画を描いた。また農村の中産階級、農民、貧しい労働状態など世俗的で卑しいとみなされる主題を描くことで、作品内に社会問題を取り入れ論争を引き起こした。
クールベの作品はオノレ・ドーミエやミレーらとともに「写実主義(レアリスム)」として知られるようになった。クールベにとって写実主義は線と形の完璧さではない。芸術家が自発的に、また荒めに、自然内の不規則な肖像を描き、直接見たものを描こうとすることが重要だった。
クールベは、同時代における現実の人生における過酷さを描き、同時に当時のアカデミック芸術の規範的な主題(歴史画や神話など)に挑戦していた。
オルナンの埋葬
1850−1851年のサロンで《石割人夫》や《フラジェージの農民》、《オルナンの埋葬》が大変な評判となった。
なかでも《オルナンの埋葬》はクールベ作品において最も重要な作品の1つで、1848年9月にクールベが出席した叔父の壮大な葬儀を描いたものである。伝統的な絵画で描かれるものは歴史物語の主人公や役者だったが、本作のモデルは葬儀に出席した一般の人々で、当時のオルナンの生活や現実の人々が表現されている。
この絵はクールベの生まれ故郷フランシュ=コンテ地方の町オルナンにおける埋葬場面で、町長、判事、司祭など町民たちが執り行う普通の儀式場面である。平凡な地方ブルジョワの姿を画面にいっぱいに描いたのである。
横長の広大な絵画で、大きさは315 cm × 660 cmある。このサイズは本来、歴史画を描くときに利用するキャンバスである。葬儀に関する絵画は以前からもあったが、描く対象は宗教もしくは王室であり、また控えめで単調で儀式的に描くのがならわしだった。そうした主題を広大なキャンバスに描いたことは、批評家と一般公衆の両方から賞賛と激しい非難の両方を浴びることになった。
さらに、描かれている人物を見ると、「悲劇性」などを強調する芝居がかったしぐさがまったく見当たらない点もこれまでと異なる。人物をただ横に並べる単調にならべ、動きや変化のない身振り、平俗な人物表現、これまでの伝統的な歴史画と正反対の構図だった。
美術史家のサラ・ファンスによれば、「パリにおいて、この葬儀絵画は、まるで汚れたブーツを履いた成金が貴族のパーティを破壊するように、歴史絵画の壮大な伝統をひっくり返す作品と判断された」と評している。
賛否両論が激しくおこなわれたが、これをきっかけに最終的に一般市民は、新しい写実主義スタイルに対して関心を持ちはじめ、これまでの主流だったロマン主義や退廃耽美主義などは人気を失っていった。
芸術家はこの絵画の重要性を十分に理解していた。クールベは「オルナンの埋葬は、ロマン主義の埋葬という現実だった」と話している。
クールベは有名になり天才と称賛される一方で、「恐ろしい社会主義者」「野蛮人」とも揶揄されるようになった。クールベは一般大衆に対して、学校教育を受けていない農民としてへの認知を植え付けた。
一方で、野心的であり、ジャーナリストに対して大胆な宣告を行い、作品内に彼自身の生活を描写するという自己主張は「乱暴な虚栄心の現れ」とも評された。
クールベは美術における写実主義の思想を政治におけるアナーキズムと結びつけ、聴衆の支持を得た。また彼は政治的に動機づけたエッセイや論文を執筆して民主主義や社会主義の思想を促進した。
パリ万国博覧会で世界初の個展を開催
1855年、クールベはパリ万国博覧会の展示で14点の絵画を出品。《オルナンの埋葬》やほかの記念的絵画《画家のアトリエ》は展示スペースの問題で展示が拒否される。
しかし、クールベは主催者からのこの展示拒否に不満を抱き、万国博覧会の会場のすぐ隣に「写実主義パビリオン」と名前のギャラリー会場を一時的に設立し、《画家のアトリエ》を含むいくつかの展示拒否された作品を展示した。これが現在の「個展」の起源と見なされている。
《画家のアトリエ》は画家としてのクールベの人生の比喩したもので、画面中央にクールベ自身と愛人、子ども、動物。画面の右側には友人や好意的な賞賛者を、画面の左側に挑戦者や批判者たちを配置することで、自身を英雄的な存在として見えるようにした。
画面の右側には美術批評家のシャンフルーリやシャルル・ボードレール、コレクターのアルフレッド・ブリュヤスなどが描かれている。画面の左側には司祭、売春婦、墓掘り業者、商人などが描かれている。
クールベはシャンフルーリへの手紙に「人々、悲惨、貧困、富、搾取される人々、悪用された人々、死者たちといった些細な人生の別の世界」と説明している。
左側の前景には犬を連れた男性がいる。シャンフルーリへの手紙にはこの男性についての言及はないが、この男性は当時のフランス皇帝ナポレオン3世の寓意であり、犬はナポレオン3世が飼っていた狩猟犬であるとみなされている。
男性の特徴的な口ひげもナポレオン3世の特徴といえる。彼を左側に配置することで、クールベは公的に皇帝を侮蔑し、犯罪者として描き、フランスの「所有に関する権利」が違法であることを示唆している。
ウジェーヌ・ドラクロワのような芸術家はクールベの熱烈な支持者だったけれども、この個展を見に行った一般大衆はほとんどこの個展を嘲笑した。来場者数や売り上げはかんばしくなかったものの、この個展と作品でフランスの前衛的英雄としてのクールベの地位は確固たるものとなった。
特にアメリカの画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーは絶賛し、エドゥアール・マネやのちの印象者の画家といった当時の若手芸術家にクールベの個展は多大な影響を与えた。
《画家のアトリエ》はドラクロワ、ボードレール、シャンフルーリなどからクールベのマスターピースと認識されたが、当時の一般大衆はこの作品をまったく理解できなかった。
レアリスム宣言
「レアリスム宣言」
ギュスターヴ・クールベ
1855年
「私は古今の巨匠達を模倣しようともなぞろうとも思わない。「芸術のための芸術」を目指すつもりもない。私はただ、伝統を熟知した上で私自身の個性という合理的で自由な感覚を獲得したかった。私が考えていたのは、そのための知識を得る事、私の生きる時代の風俗や思想や事件を見たままに表現する事、つまり「生きている芸術(アール・ヴィヴァン)」を作り上げる事、これこそが私の目的である。」
エロティックが中心の1860年代
1857年のパリ・サロンでクールベは6つの作品を展示した。これらの中には木の下にたたずむ2人の売春婦を描写した《セーヌ川岸の若い女性》やクールベの晩年期に描かれた多くの狩猟風景の初期作品が含まれていた。
1856年に描いた《セーヌ川岸の若い女性》はスキャンダルを巻き起こした。同時代の女性が自らの下着を着飾っている描写に、従来の時代を超越したヌードの女性絵画に見慣れた美術批評家たちはショックを受けた。
狩猟絵画と並べて展示するというセンセーショナル作品によって、クールベは「悪評と商売の両方」を自認するようになった。1860年代になるとクールベはおもに《リクライニングに寝そべる裸の女性》や《犬と裸の女性》のようなエロティックな作品の制作が増えていった。
ヌード絵画の最高潮ともいえる重要な作品は1866年の《世界の起源》であろう。これは足を開いてベッドで寝そべっている女性の女性器と腹をクローズアップした絵画である。腕、足、頭はフレームからはみ出て描かれていない。
モデルはジョアンナ・ヒファーナンで、アメリカ人画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの恋人だったが、フランス人画家ギュスターヴ・クールベとも関係があったのではないかといわれている。
本作品はもともとオスマン・トルコ帝国の外交官ハリル・ベイの依頼で制作されたものである。ハリルはクールベに個人的なエロティック絵画のコレクションに加えるための絵を注文した。そのコレクションには他にもクールベの別の絵である《眠る女たち》も含まれている。
1868年1月にハリル・ベイは借金返済の資金を得るために骨董商のアントワーヌ・デ・ラ・ナルドに売り払う。その後、さまざまな所有者に行き渡り、1955年に《世界の起源》はオークションで150万フランで競売にかけられ、精神分析学者のジャック・ラカンが落札した。彼はその絵をパリ郊外のギトランクールの村の別荘に飾っていたという。
ラカンは彼の義兄のアンドレ・マッソンに、これを隠すための別の絵と、二重構造の額縁の制作を依頼した。本作品は1988年まで一般公開されることはなかった。1988年、ブルックリン美術館でのクールベ回顧展で《世界の起源》が公開された。
ベッドに横たわった二人の裸の女性を描いたクールベの絵画《眠る女たち》のモデルも《世界の起源》と同じくジョアンナ・ヒファーナンとみなされている。この作品は画商によって展示されたときに警察沙汰になった。
1861年ころまで、ナポレオン政権は野党の拡張を妨害し、選挙を不正操作し、議会に自由な議論や権力を与えない権威主義的特徴があった。しかし、1860年代になると、ナポレオン3世はリベラルな野党を組み入れるために譲歩するようになった。
この変化で議会での自由議論を許し、議会で行われた議論を一般大衆へ報告することが可能になった。検閲も緩和され、また、1870年に以前にナポレオン体制の反対は指導者だったリベラル派のエミール・オリビエが事実上の首相に任命されたことで最高潮に達した。
クールベを賞賛したリベラル派たちに対する穏やかなあらわれとして、1870年にナポレオン3世はクールベにレジオンドヌール勲章を与えた。しかし、クールベは「それよりも私は自由がほしい」と言って公然と叙勲を拒否したため、権力側はこれを怒ったが、支配的な政権に反対する人々はクールベをこれまで以上に支持するようになった。
クールベとパリ・コミューン
1870年9月4日、普仏戦争の間、クールベはのちに人生で厄介となる提案をした。クールベは国防政府に対して、フランス軍の勝利を賞賛するためにナポレオン1世が建設したヴァンドーム広場にあるコラム(円柱)を解体して、再度立て直す提案を出す。クールベは次のように主張した。
「ヴァンドーム広場のコラムは記念碑であって芸術的価値に欠けること、過去の王朝の戦争と征服の認識を表現することが恒常化してゆくこと、そしてそれは共和国の感情として許容しがたいこと、これらをかんがみ市民クールベは、国防政府がこのコラムの解体を許可するよう希望する」
また、クールベは円柱を解体せずに軍病院のオテル・デ・ザンヴァリッドのような、より最適な場所へ移す提案もしている。ドイツ軍とドイツ芸術家に宛てた公開書簡を書き、ドイツとフランスの大砲が溶け、自由の帽子を戴冠すべきとし、ヴァンドーム広場にドイツとフランスの同盟を象徴する新しい記念碑を作るべきだと主張した。国防政府はコラムを解体するという意見について当時何も言わなかったが、解体という言葉を忘れることもなかった。
1871年3月18日、普仏戦争におけるフランスの敗北の余波が広まると、3月26日にパリ・コミューンと呼ばれる革命政府が蜂起し、短期間パリの街を占拠した。
クールベもパリ・コミューンに積極的に参加して、芸術連盟を組織し、4月5日に医科大学のグランド・アンフィシアターで初会合を行った。この会合に約300〜400人の画家、彫刻家、建築家、装飾家が出席した。連盟の名簿には、アンドレ・ジル、オノレ・ドーミエ、カミーユ・コロー、ウジェーヌ・ポティエ、ジュール・ダルー、エドゥアール・マネといった有名な芸術家も多数いた。
マネはパリ・コミューンが占拠している間、パリにいなかったので会合には参加しなかった。また、コローは75歳という高齢のためコミューン期にはカントリー・ハウスや自身のアトリエにおり、政治的なイベントには参加していなかった。
クールベは芸術連盟の会議の議長を務め、閉鎖状態にあったパリにあるルーブル美術館とルクセンブルグ宮殿美術館という2大美術館をできるだけ早く再開し、年に1度開催される伝統的な美術展覧会「パリ・サロン」も復活しようとしたが、急進派から反対された。クールベはサロンは政府の干渉を受けないようするか、または芸術家への報酬を優先すべきだと提案した。
4月12日、パリ・コミューンの執行委員会は、まだコミューンの正式なメンバーではなかったが、美術館の開設とパリ・サロンの再組織の任務をクールベに与えた。そして同会議で委員会は以下の令をクールベに発した。
「ヴァンドーム広場を解体する」
1871年4月12日、"帝権の象徴"を分解することが決議され、5月8日に円柱は倒された。
4月16日、辞任したパリ・コミューンの中等会員の代わりの席を埋めるため、特別選挙が開催され、クールベは第6区の代議員として選出された。クールベは美術代表員を務めることになり、4月21日には教育委員会の会員にもなった。
4月27日の委員会の議事録によれば、クールベはヴァンドーム広場の円柱を解体して、3月18日のパリ・コミューン権力奪取を記念する寓意的な像に置き換える提案を出しているという。
5月28日、フランス軍による最後のパリ・コミューンの鎮圧後、クールベは友人のアパートに隠れていたが、6月7日に逮捕された。8月14日の軍事裁判前の彼の裁判で、クールベは急進派をなだめるためにコミューンに参加したのみで、またクールベはコラムを違う場所へ移動させたいと思っていたが、破壊したいとは思っていなかった。
また、クールベは短期間しかパリ・コミューンに参加しておらず、議会にもほとんど出席していないと話した。クールベは有罪判決を受けたが、ほかのコミューンの指導者よりも刑は軽く、6ヶ月間の懲役および500フランの罰金刑だった。
パリにあるサン・ペラギー刑務所で服役中、イーゼルと絵具は許されたが、モデルを呼ぶことは許可されなかった。そこで彼は有名な果物と花の静物画シリーズをはじめた。
晩年
クールベは1872年3月2日に懲役刑を終えたが、ヴァンドーム広場の破壊による問題はまだ終わっていなかった。
1873年、新たに選出された共和国大統領パトリス・ド・マクマオンは、クールベによって支払われるべきコストで広場を再建する告知をおこなった。支払い不能なクールベは破産を避けるためにスイスへ亡命する。
その後、クールベはスイス国内のさまざまな展示会に参加。スイス諜報機関の監視下のもと、クールベスは小さなスイスの芸術市場で活躍し、「写実主義学校」の指導者として評判を高め、オーギュスト・ボード・ボビーやフェルディナント・ホドラーといったスイスの若い画家たちに多大な影響を与えた。
この時代の重要な作品には、いくつかのマス魚の絵画が含まれる。マスはスイスに亡命したクールベ自身の寓意的表現として解釈されている。最晩年の年にクールベは、フランスとスイスの国境に位置するジュラ山脈の大地の深い部分から神秘的に湧き上がる湖などの風景画を描いた。また、クールベは亡命中に彫刻制作もしている。
1877年5月4日、クールベはヴァンドーム広場の再建費用の見積額が伝えられた。その額は323,091フラン、68サンチームだった。クールベは91歳の誕生日までの33年間、毎年10,000フランを分割で支払う罰金刑が言いわたされた。1877年12月31日、大量の飲酒による肝臓病が原因で58歳で亡くなった。
キュビスムへの影響
2人の19世紀の芸術家が20世紀のキュビスムの出現の準備をした。クールベとポール・スザンヌである。スザンヌに関してはキュビスムに影響を与えたことがよく知られている。クールベの重要性はギヨーム・アポリネールにによって語られている。
彼の著書『キュビスム画家:芸術思索』(1913年)上で「クールベは新しい芸術家たちの父である」と記載されている。また、キュビスムの画家のジャン・メッツァンジェとアルベール・グレーズはよくクールベを「全近代美術の父」としてたとえていた。
クールベ、スザンヌともに自然描写方法を伝統的な方法を超えようと努めてきた。セザンヌを弁証法的な方法を通じて、自身が見ていたものを咀嚼したのに対し、クールベは唯物主義的方法を通じて自身が見ていたものを咀嚼した。キュビスムは美術上の革命を発展させる上で、クールベとセザンヌの2つのアプローチを組み合わせていたとされる。
正式なレベルでは、クールベは彼が描いていた物理的な特性、すなわち、質量や質感が重要である。美術批評家のジョン・バーガーは言った「クールベ以前にあれほど妥協を許さず自身が描いているものの密度や質量を強調していた作家はいなかった」と話している。物質的な現実性の強調は彼の主題に品位を与えることになった。
バーガーは「キュビストの画家たちは彼らが表現していたものを物理的な存在として確立するため大変な苦労をした。そしてこのプロセスにおいて、キュビストたちはクールベの後継である」と評している。
クールベは多くの若手芸術家に慕われた。クロード・モネは1865年から1866年にかけて制作した《草上の昼食》でクールベの肖像を描いている。ジェームズ・マクニール・ホイッスラーやポール・スザンヌ、またヴィルヘルム・ライブルを中心としたドイツの画家に特に影響を与えている。