ギュスターブ・カイユボット / Gustave Caillebotte
パリの上流階級の生活を描いた印象派画家
概要
生年月日 | 1848年8月19日 |
死没月日 | 1894年2月21日 |
国籍 | フランス |
表現媒体 | 絵画 |
ムーブメント | 印象派、写実主義 |
関連人物 | エドガー・ドガ、オーギュスト・ルノワール |
関連サイト | WikiArt(作品) |
ギュスターブ・カイユボット(1848年8月19日-1894年2月21日)はフランスの画家。印象派。グループ内では、ほかの印象派のメンバーより写実主義的傾向が強い。
カイユボット作品の多くは、自身の家庭内や家族の風景、屋内インテリア、肖像画を描いたものである。これらは当時のパリの上流階級の慎ましい生活を写実的に描いている。
代表作は《ヨーロッパ橋》や《パリ通り:雨の日》のようなパリの都会の風景を描いた作品である。《パリ通り:雨の日》は、彼の作品では独特なもので、特にフラットな色使いや、写真的な写実的効果のためよりモダニズム的な雰囲気となっている。
カイユボットは、もともと資産家の家庭に生まれ、絵画を売って生計を立てる必要がなかたっため、生前は印象派の画家の間以外では、その名前や作品が認知されておらず、評価されなかった。
死後70年経って、カイユボットの子孫たちがコレクションを売り払いはじめてから、再評価がされる。特にアメリカで再評価が高まり、シカゴ美術館が代表作《パリ通り:雨の日》を購入。また、2015年から2016年にかけてナショナル・ギャラリーとキンベル美術館が、カイユボットの大回顧展を開催した。
重要ポイント
- 写実主義傾向が強い印象派の画家
- パリの上流階級の日常生活を描いた
- 活動期間が短く、また絵を売らなかったため認知度が低かった
略歴
幼少期
ギュスターブ・カイユボットは、1848年8月19日、パリのフォーブール・サン=ドニ通りに住んでいた上流階級のパリジアン家庭で生まれた。
父マーシャル・カイユボットは軍隊の戦闘服ビジネスの継承者で、セーヌ県の商業裁判所の裁判官でもあった。母はセレスタ・ドロフェンで、カイユボットにはほかに弟ルネとマルティアルがいる。
カイユボット一家は、1866年までパリのフォーブール・サン=ドニ通りに住み、パリ8区にあるミロメニル通り77番地に一軒家を建て、移り住んだ。1860年のはじめ、夏の大半をパリから20キロほど離れた場所にあるエールで過ごした。このころにカイユボットはドローイングで絵を描き始めている。
1868年に法律の学位を取得して、1870年には弁護士免許を取得。また、エンジニアでもあった。卒業後、まもなくして普仏戦争が勃発して、カイユボットは徴兵されることになる。
印象派展に参加
普仏戦争後、カイユボットは画家レオン・ボナールのアトリエを訪れ、そこで絵を学びはじめる。カイユボットは比較的短時間で熟練した技術を習得し、自宅(実家)の一室をアトリエにして、本格的に絵画制作をはじめた。
1873年にカイユボットは、エコール・デ・ボザールに入学したが、学校ではあまり過ごすことがなかった。1874年に父の財産を譲り受け、1878年に母親が死去すると、兄弟たちで遺産の分配を行う。
1874年ころ、カイユボットは、エドガー・ドガやジュゼッペ・デ・ニッティスなど芸術アカデミーから外れた場所、絵画制作をする画家たちと親しくなるようになり、1874年の第一回印象派展を訪れる。
印象派の画家たちは独立派やタカ派とも呼ばれ、年に1度開催される芸術アカデミーの公募展パリ・サロンに反発して、独立した公募展を行うグループだった。カイユボットは印象派の画家たちと親しくなる。
1876年の第2回印象派展にカイユボットも参加する。この展示で《床削りの人々》を含め8作品を展示した。この作品は初期のマスターピースといってよいだろう。木製の床を整備している労働者(画家のアトリエと思われていた)を描写したもので、1875年のパリ・サロンに出品したが、批評家たちから内容が「低俗」であると見られ落選した作品である。
当時のアカデミーでは、粗野な農民や小作品、労働者階級を主題としたものだけが受け入れ可能と考えられていた。なお、本作品は現在、オルセー美術館が所蔵している。
また、同じ主題でドガのスタイルに似せて制作した作品も第2回印象派展で展示する。カイユボットの技術の高さや柔軟なスタイル変化を示す能力が証明された。
絵画のスタイル
作品の構図や絵画スタイルに関していえば、カイユボットは印象派運動後の最初の運動である新印象派の一部として評されることもある。印象派の第二期、点描時代の代表作家であるジョルジュ・スーラは、ジュヌヴィリエの田舎の家で描いたカイユボットの後期作品に影響を受けていると話している。
カイユボットの基本的な様式は写実主義といってもよいが、周囲に印象派の仲間たちが多かったことから、印象派からも強く影響を受けている。
写実主義の先駆者であるジャン=フランソワ・ミレーやギュスターブ・クールベ、そして同時代の仲間であるドガと共通しているのは、カイユボットも彼らと同じく現実の風景を率直に描くことを目指しており、それまでの絵画における演劇的な要素を無くすよう心がけていたことだろう。
また、カイユボットは自身に確固たるスタイルがなく、常に周囲の多くの同僚たちが使用していたスタイルやテクニックに影響を受けている。それは、あたかも「借りる」ように、さまざな実験的な描き方をしており、いずれのスタイルにも固執していない。
なかでも、カイユボットはドガと非常に親密だったため、ドガの豊かな色彩の写実主義(特に屋内シーンにおいて)に影響を受けていると思われる。また、ある時期は、ルノワールやピサロとよく似た印象派の「光の効果」やパステル風で緩やかなブラシストロークを採用している。
カイユボットの作品には傾斜した地面の描写がよく見られる。これは日本の浮世絵や当時新しく出はじめた写真の影響が強いかもしれない。実際に写真を参考にして描いた証拠はないものの、カイユボットの弟のマルシャルは写真を趣味としていたが、その写真がカイユボットの絵画と非常によく似ていることが判明している。カイユボットは「クロッピング」や「ズームイン」といった写真ならでは表現方法を絵画に取りいれている。
また、カイユボットの作品の多くは、非常に高い位置から俯瞰するような角度で描かれている。《屋上の眺め(雪)》や《上から見える大通り》や《交通島》などが代表的な作品といえる。
主題
カイユボット作品の多くは、自身の家庭内や家族の風景、屋内インテリア、肖像画を描いたものである。
《窓辺の若い男》は、ミロメニル通りにあった自宅の風景で、描かれており男性は弟のルネである。《オレンジの樹》は、イエールにあった家族の土地の庭で読書をする弟マルティアルやいとこのゾーイが描かれている。《田舎での肖像画》では、カイユボットの母やいとこ、おば、それに家族の友人たちなどが描かれている。
食事、カードあそび、ピアノ演奏、読書、裁縫などの風景で構成されており、これらは当時のパリの上流階級の慎ましい生活を控えめな方法で親密に描いている。
イエールの田舎の風景画では、ゆったりとした川の流れの上で舟遊びをしたり、また魚釣りや泳いだりして楽しんでいる場面に焦点を当てている。
フランスの田舎の穏やかな雰囲気を伝えるためにカイユボットは、都市画における平面的で滑らかなストロークとは対照的に、ルノワール作品を連想させるような印象主義的な技術を利用して描いた。
カイユボットの代表作は《ヨーロッパ橋》や《パリ通り:雨の日》のようなパリの都会の風景を描いた作品である。《パリ通り:雨の日》は、彼の作品では独特なもので、特にフラットな色使いや、写真的な写実的効果のためよりモダニズム的な雰囲気となっている。
大実業家の息子であり、経済的に裕福だったカイユボットは、都市改造で整備された大通りのアパートに住んでいて、ブルジョワジーの私的な生活視点を切り取って見せたのである。印象派の絵画にパリの上流ブルジョア社会の生活と慣習を深く刻印したのは、カイユボットならではの作風といえよう。
カイユボットの静物画はおもに食べ物に焦点を置いている。食事前であるかのようにテーブルに配置されたり、売り物のように配置された構図になっていることが多い。1890年代には花の静物画もいくつか制作している。
写実主義的男性ヌード画
カイユボットはヌード絵画も描いており、なかでも1884年の《風呂の男》は、写実主義の男性ヌード画という特異な作品である。
金属のバスタブがある部屋で、男性が後ろを向き、背中の中央部のみタオルで包まれ、お尻が露出している絵画である。男のブーツは側におかれ、服は折り畳まれて、近くにある木製の椅子の上に置かれている。
男性ヌード作品は、ダビデ像をはじめ古代から多く見られるが、カイユボットの男性ヌード画は、「男らしさ」を出そうとしていない部分であり、カイユボットが生きていた典型的な19世紀の男性像を写実的に描写したことにあるだろう。過激なエロティックも神話的男性でもない。
晩年
1881年、カイユボットはアルジャントゥイユ近郊のセーヌ川流域のジュヌヴィリエに土地を購入し、移り1888年まで住んだ。彼は34歳で仕事を辞めて、その後、ガーデニングや建築、ヨットレースに専念し、弟のマルティアルや友人のルノワールらと多くの時間を過ごした。
ルノワールはよくジュヌヴィリエに滞在しにやってきて、カイユボットと美術、政治、文学、哲学などの議論を行なった。カイユボットはルノワールの1881年の作品《舟遊びをする人々の昼食》のモデルとして、画面右手最前列に白い船乗りのシャツを着た麦わら帽子を被った男として描かれている。
カイユボットは生涯独身だったが、11歳年下で下流階級の女性シャルロット・ベルティエと深い関係を結んでおり、彼女にかなりの年金を残している。
カイユボットの絵画制作は、1890年代初頭に大キャンバスの制作を中止してから急速に減速していった。1894年45歳、肺水腫が原因で死去。遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
何年もの間、彼は自分の生活を支えるために作品を販売することは決してなかったので、一般的に知られることなく、画家としてのカイユボットの評判は影を潜めていた。死後70年たってから、美術史家たちがカイユボットを再評価しはじめるようになった。
カイユボットの親戚がコレクションを売却する1950年代まで、彼の作品は完全に忘れられていた。1964年にシカゴ美術館が《パリ通り:雨の日》を購入し、アメリカを中心に再評価が始まった。1970年代までに、彼の作品は再び展示され、再評価されるようになった。
ワシントンのナショナル・ギャラリーやテキサスのキンベル美術館が、2015年から2016年にかけてカイユボット作品の大回顧展を開催し、現在彼の作品はさらに評価が高まっている。