グスタフ・クリムト / Gustav Klimt
ウィーン分離派の創設者
目次
1.概要
2.作品
3.略歴
3-1.若齢期
3-2.ウィーン分離派
3-3.ウィーン大学大講堂天井画事件
3-4.分離派からの分離
3-5.黄金時代
3-6.クリムトの日常
3-7.晩年
4.刊行物
5.映画
6.年譜表
概要
グスタフ・クリムト(1862年7月14日-1918年2月6日)はオーストリアを代表する画家、ウィーン分離派の創設者であり、代表的なメンバー。
装飾芸術、絵画、壁画、ドローイング、オブジェなどさまざまなメディアで、アレゴリーや肖像画など具象的な作品に加え、風景画も制作した。
中心となるモチーフは女性で、率直な愛や性愛表現が特徴である。最も影響を受けているのは日本画と日本画の手法である。
初期は古典技術を基盤とした建築装飾画家として成功する。その後、個人的なスタイルへ移行し、その官能的な作風はさまざまな問題を引き起こした。たとえば1900年前後に制作したウィーン大学の大講堂の天井装飾画はポルノグラフィティ的だとして大変な批判を浴びる。
その後、検閲嫌いで公的な仕事を受けなくなったものの、クリムトは多くの個人的な富裕層のパトロンを持つことに成功。《アデーレ=ブロッホ・バウアーの肖像》など金箔を使って描いたセレブたちの注文肖像画「黄金時代」で大成功し、まさにこの時代がクリムト全盛期だった。
ウィーン分離派のメンバーの中では、クリムトは日本画とその画法に最も影響を受けていたことで知られる。クリムト自身は特に弟子であった若手芸術家のエゴン・シーレに大きな影響を与えている。
重要ポイント
- ウィーン分離派の創設者
- 金箔を使って描いたオーストリアセレブたち注文肖像画
- おもにエロティシズムと女性が主題
作品解説
ユディト
《ユディト》は1901年にグスタフ・クリムトによって制作された油彩作品。ホロフェルネスの首をはね、手に持つヘブライ人寡婦ユディトの姿を描いたものである。
クリムトは切断されたホロフェルネスの首を手に持つユディトが恍惚状態になっている瞬間の表情を描こうとした。
本作でクリムトは意図的に聖書の物語への言及を無視し、ユディトの描写だけに集中している。そのため、ホロフェルネスの首は右下隅にちらりと見える程度で、これまでの美術史におけるユディトの絵画とは異なるものである。(続きを読む)
その他の作品
略歴
若齢期
グスタフ・クリムトは、1862年7月14日、オーストリア=ハンガリー二重帝国のウィーン近郊のバウムガルテン(ペンツィング)に生まれた。3男4女からなる7人兄弟の次男だった。
母のアンナ・クリムトはミュージカルパフォーマーとしての芸術的才能をもち、父のエルンスト・クリムトはボヘミアで、金彫刻師をしていた。
また3人の男兄弟は全員芸術的才能を早くから宿していた。弟はエルンスト・クリムトとゲオルク・クリムトである。
クリムトは貧しい生活をしながらウィーン応用美術工芸学校に通っていた。1876年から1883年まで建築美術を学び、当時はウィーンの最高の歴史画家であるハンス・マカルトを慕っていたという。入学から1年後の1877年に弟エルンストもウィーン応用美術工芸学校に入学している。7年間で油絵だけでなく、モザイクやフレスコ画の技法も学んだ。
二人は装飾画家で彫刻家のフェルディナンド・ラウフベルガーに師事し、いくつかのプロジェクトで彼のアシスタントを務めることになった。
クリムトは伝統的で保守的な美術教育を素直に受け入れていたので、彼の初期の作品はアカデミックな評価がされている。
1881年に、エルンストとその友人のフランツ・マッチらとともに共同で美術やデザインの仕事を始め、学校を卒業して1883年クリムトらは「芸術家集団」を立ち上げ、膨大な装飾建築の仕事をこなしはじめる。
ほかにリングシュトラーセの公共建築物の内装壁画や天井画、塗装などを制作し「アレゴリー・アンド・エンブレム」シリーズを成功させた。初期はこのように装飾芸術家としてのキャリアを積んでいた。
1888年、クリムトはウィーンに新しく建設されたブルク劇場で描いた壁画への貢献として、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から勲位を受賞する。またウィーン大学とルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンの名誉会員にもなった。
1890年のウィーンの美術史博物館の装飾の仕事などがクリムトのチームで受注した代表的な仕事として知られている。この仕事は師匠のラウフベルガーが未完成にしていたものを引き継いだものである。エルンストとグスタフの兄弟は助手の助手を雇う。
同年、最も初期の肖像画の1つである有名なウィーンのピアニスト、ヨーゼフ・ペンバウアーの肖像画を完成させる。自然主義的な肖像画と様式化された背景を組み合わせたもので、将来の肖像画の基礎となるものだった。
1892年、クリムトの父と弟のエルンストの両方が亡くなったため、クリムトはエルンストの家族を養うことになった。家族の悲劇はクリムトの芸術的ビジョンに影響を与え、新しい個人的なスタイルの方向へ向かうきっかけとなった。
19世紀末のクリムトのスタイルの特徴は、《裸体のベリタス》で見られるような象徴主義的な人物造形で、ほかには《古代ギリシャとエジプト》(1891年)、《パラス・アテナ》(1898年)、などが挙げられる。
《裸体のベリタス》でクリムトは、ハプスブルグの政治とオーストリア社会の両方を批判、その当時のすべての政治的・社会的問題に嫌気がさし、無視するかのように女性の裸体を描いた。
1890年初頭、クリムトはオーストリアのファッションデザイナーのエミーリエ・フレーゲと出会い、彼女とは生涯行動をともにするようになる。
クリムトの代表作《接吻》のモデルとなっているのはエミーリエであると言われている。彼女は弟エルンストの妻の妹であり、ブティック経営で成功した女性実業家でもあった。
この時代にまでにクリムトには少なくとも14人の子どもがいた。
ウィーン分離派
クリムトは1897年にウィーン分離派の創設メンバーとなり、また初代会長となった。分離派の機関紙『聖なる春』の発行も行った。
クリムトは1908年まで分離派のメンバーだった。
分離派の目的は型破りな若手アーティストの発掘と展示を開催することで、また最も素晴らしい海外のアーティストの作品をウィーンへ紹介しつつ、分離派の作品を紹介する独自の美術誌を発行した。
分離派は、クリムトの作風にみられるようにアール・ヌーヴォーと象徴主義の流れを組むスタイルが一般的であるが、ほかの芸術運動のようなマニフェスト宣言はしておらず、分離派独自のスタイルを奨励はしていなかった。自然主義、リアリズム、象徴主義などすべてのスタイルが共存していた。
オーストリア政府は当初、分離派の活動をサポートしている。彼らの展示活動を行うためのホールを建てるために、公共の土地を貸しあたえた。分離派を代表する作品は、ギリシャ神話の正義、知恵、芸術の女神で、クリムトが1898年に制作した《パラス・アテナ》だった。
ウィーン大学大講堂天井画事件
1894年にクリムトはウィーン大学の大講堂の天井装飾画の3作品の依頼を受ける。19世紀内の完成は間に合わなかったが、《医学》《哲学》《法学》の3作品が理性を司る大学の意向と全く正反対のポルノグラフィティ的だということで、大変な論争となった。
クリムトは伝統的なアレゴリーや象徴を新しい言語に変えたものは、明白に性的なもので、一部の人にとっては不快なものでしかなかった。大衆からの抗議は政治的、審美的、宗教的な点などすべての点で行われた。
クリムトは結局、この天井画3作品の契約を破棄して、報酬を返却する。しかし、この事件はクリムトの名を高めるきっかけとなった。
なお、この3作品は1945年5月にナチス・ドイツ軍が退却中にインメンドルフ城が焼却されたときにすべて破壊され、現存していない。
この事件以後、クリムトは公的な仕事に対して消極的になっていった。
クリムトの《裸のヴェリタス》(1899年)は確立された価値観を「揺るがす」ことへの奨励を定義したものである。
全裸の赤毛の女性が真実の鏡を持ち、彼女の上部には「あなたの行為や芸術があらゆる人を喜ばせることができないなら、少数者のために行為や芸術を行え。多くの人が喜ぶことは悪いことだ」というフリードリヒ・フォン・シラーの「歓喜に寄す」からの引用文が書かれている。
分離派からの分離
1902年、クリムトは第14回ウィーン分離派展示会で《ベートーベン・フリーズ》を発表する。この展示会はベートーベンを讃えた構成となっており、マックス・クリンガーの記念彫刻が目玉だった。
しかし、ウィーンはこの作品に対して許容しなかった。彼は本作品で国家の援護を失うことになり、その後二度と国から注文を受けることはなかった。
分離派の内部でさえ《ベートーヴェン・フリーズ》の不成功により、クリムトに追随するものと批判するものの間で争いが起こった。
クリムトは、カール・モル、ヨーゼフ・ホフマン、コロマン・モーザー、オットー・ヴァーグナーにど忠実な追随者に守られて、分離派を去ることになった。
分離派はこの痛手から二度と立ち上がることはできなくなり、分離派の最盛期は過ぎた。
世間的な失敗で、クリムトは社会問題に対して以前ほど反応しなくなり、政治的な出来事にも無関心になりはじめた。
しかし、霊的探求は相変わらず熱心で、本作品の世間的失敗のおかけで、彼の根本的な主題である「女」や「エロス」へと集中することになった。
幸い、クリムトは公的な仕事だけにとどまらなかった。1890年代後半にクリムトは年に一度アッターゼ湖岸辺でエミーリエ・フリーゲと夏のバカンスにでかけ、そこで多くの風景画を残している。
ほとんどが肖像画だったクリムト作品において、アッターゼ湖で描いた風景画は非常に珍しいものだった。
クリムトのアッターゼ湖の絵画は、ほかの作品と区別して鑑賞や批評するほど量的にも質的にも十分なものある。形式的には、肖像画作品と同じように、絵画的に洗練されたパターンと優雅なデザインで構成されている。
アッターゼ湖作品からうかがえる深みのある空間が非常に効率的に1つの平面上に平坦化され描かれており、クリムトは望遠鏡を使って風景を見ながら描いたと考えられている。
クリムト黄金時代
クリムトの「黄金時代」は1903年から始まる。公的な仕事には消極的だったものの、個人的なパトロンたちから好意的な批評と金銭的な援助を受け、クリムトは黄金時代を迎えるようになる。黄金時代のクリムトの絵画の多くは金箔が使われている。
以前からクリムトは1898年《パラス・アテナ》や1901年《ユディト》では金箔を使用していたが、1907年《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》や《接吻》などの黄金時代に制作した金箔作品がクリムトの代表作となる。
クリムトはほとんど旅行をしなかったが、美しいビザンツ・モザイク模様で有名な都市のヴェニスとラヴェンナへの旅行はクリムトに大きな影響を与え、黄金時代の作品の多くに反映されている。
1904年にクリムトはベルギーの金融業者で富豪のアドルフ・ストックレー邸の内装をフェルナン・クノップフをはじめ多くの芸術家たちと手がけた。
クリムトたちは、工房の中でシャンデリアから銀食器に至るまで内部を飾る多くの要素や家具をしつらえ、アール・ヌーヴォーを代表する壮大な記念碑の1つとなった。
食堂は大理石、ガラス、貴石などのモザイク画に覆われているが、それはクリムトの素描に基づいて構想され、レオポルト・フォルシュトナー(Leopold Forstner)によって制作された。
ストックレー邸は内装・外装、家具・日用品、庭園などを不可分のものと捉える「総合芸術」 (Gesamtkunstwerk) を体現した建物でもある。2009年6月の世界遺産委員会で、ユネスコの世界遺産リストに登録されたモダニズム建築である。
1905年、クリムトはルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの妹のマルガレーテ・ウィトゲンシュタインの結婚祝いに彼女のポートレイトを描いた。
その後、1907年から1909年の間、クリムトは5枚の毛皮に身を包んだソサエティ・ウーマンの作品を描いた。ファッションに対するクリムトの愛情は、彼がデザインした服をモデルとして身に付けたフリーゲの写真の多くで表れている。
クリムトの日常
普段のクリムトは制作やくつろいでいるときは、たいていサンダルを履いて裸で長いローブをまとったシンプルな格好だった。猫が好きで飼っていた。
ウィーン分離派の運動を除くと、クリムト自身が表だった行動をすることはほとんどなく、かなり質素で隠遁的な生活をしており、芸術と家族のために人生を捧げていたという。
ほかの同時代の芸術家たち、たとえばパリのモンパルナスに集まり、カフェで交流したり、社会的な活動に関わるということは一切なかった。
そうでなくても、当時のオーストリアではクリムトの名は知れ渡っており、毎日ようにクリムトの家の扉をたたくパトロンであふれかえり、非常に騒がしい日々を送っていたと思われる。
クリムトの絵の塗り方は、熟考された骨の折れる方法だったため、主題によっては彼はモデルにかなり長いポーズ時間を要求した。
クリムトは性的に奔放で、何十人と愛人がいたわりには、自身の行動に対してかなり慎重であり、個人的な女性スキャンダルを起こしたこともなかった。
クリムトの家には、多い時には15人もの女性が寝泊りしたこともあったという。何人もの女性が裸婦モデルをつとめ、妊娠した女性もいた。生涯結婚はしなかったものの、多くのモデルと愛人関係にあり、非嫡出子の存在も多数判明している。
クリムトは自身の芸術ビジョンの表明をしたり、美術理論や技術などを解説することはなく、日記を書くこともなかった。クリムトが何か書いたことといえばフレーゲへの手紙ぐらいだった。しかし、その手紙もクリムト死後にエミーリエ・フリーゲにより処分されており、残っていない。
「私の自画像はない。私は自分自身にまったく関心がなく、他人のことばかり、とくに女性、そして他の色々な現象ばかり興味があった。私に特別なものはない。私には、これといって見るべきところもない。私は毎日朝から夜まで絵を描いているただの絵描きだ。語られた言葉、書かれた言葉には、私にはなじまない。自分や自分の仕事について語る場合には特にそうである。簡単な手紙を書かなければならないときでさえ、まるで船酔いがしそうで、不安で恐ろしいのだ。こういうわけだから、私に関して絵画や文字による自画像を求めるのはやめてほしい」と話している。
1901年に作家ヘルマン・バールはクリムトに関して、「愛人だけがクリムトにとって意義のある人生であり、また彼の内面の意義性を発展させていたことは明らかで、私はクリムトの絵の発展に関しても同じように思える」と話している。
晩年
1911年、ローマで開催された世界博覧会で「死と生」が一等賞を受賞する。
1915年、母アンナが死去。クリムトは3年後の1918年2月6日にウィーンで死去。この年の世界的なインフルエンザの流行により、脳卒中と肺炎を患った。
ウィーンのヒーツィングにあるヒエットジンガー墓地に埋葬された。
彼の描いた数多くの絵画は未完成のまま残された。オーストリア・ウィーン市では、2012年にクリムト生誕150年を記念して多くの特別展が開催された。
クリムトの作品は現在最も高価格な作品の1つである。2003年11月にクリムトの風景画《アッターゼ湖の風景》は2,900万ドルで売却された。
2006年には1907年の代表作《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》はニューヨークのノイエ・ギャラリーのオーナーであるロナルド・ローダーが1億3500万ドルで購入。当時は2004年に1億400万ドルで売却されたピカソの《パイプをくわえた少年》を上回ったことで話題になった。
作品集
『グスタフ・クリムト作品集』
クリムトの生涯の間で唯一制作された作品集『グスタフ・クリムト作品集』は、クリムト自身による監修のもと、1908年から1914年にかけて限定300部でH・O・ミートケ(ミートケ・ギャラリー、ウィーンのクリムト専属ギャラリー)から出版されている。
初版の35部(I-XXXV) にはクリムトによるオリジナルのドローイングが特典として付随しており、第二版の35部(XXXVI-LXX)にはタイトルページに複写のサインが付いている。オーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世は、1908年に出版された初版を購入している。
1893年から1913年の間に制作されたクリムトの重要作品50点が、コロタイプ製版方法でくぼみのある濃クリーム色の網目紙に印刷されており、作品の31点はジン・コレ印刷形式で、残りの19点は高品質のハーフトーン印刷となっている。
各作品にはクリムトによるデザインの独自の印が付いており、金のメタリックインクで印刷されている。
50点の作品は5つのテーマで分類されている。
- アレゴリカル(1903年の《黄金騎士》や1912年の《処女》など)
- エロティック・シンボル(1908年の《接吻》や1907年から1908年の《水蛇》など
- 風景画(1907年の《牧場》や《ひまわり》など)
- 神話・聖書(1898年の《パラス・アテナ》、1901年の《ユディトとホロフェルネスの首》、1908年の《ダナエ》など)
- ポートレイト(1902年の《エミーレ・フレーゲ》など)
映画
■『クリムト』
『クリムト』は2006年に制作された伝記映画。ギルバート・アデアによる英語翻訳をもとラウル・ルイス監督によって制作された。撮影監督はリカルド・アロノヴィッチ。音楽はホルヘ・アリアガダ。
タイトル・ロールはジョン・マルコヴィッチがつとめ、ほかにスティーヴン・ディレインが出演している。130分のディレクターズ・カット版と96分のプロデューサーズ・カット版があり、どちらも2006年のベルリン映画祭で上映された。
友人のエゴン・シーレが訪れたウィーンの病院でクリムトは肺炎で亡くなっていた。クリムトの物語は彼の精神内でバラバラになった断片の順番で展開される。
作品内はエミーレ・フレーゲとのプラトニックな関係が語られるが、大部分は映画の開拓者のジョルジュ・メリエスに紹介されたダンサーのレアとの関係が中心となっている。
■『アデーレの願い』
2006年8月7日、クリスティーズ・オークションハウスは、マリア・アルトマンとその共同相続人がオーストリアとの長い訴訟の末に取り戻したクリムト作品の残り4点の売却を扱うと発表した(オーストリア共和国対アルトマン事件参照)。
アルトマンの家族の絵画を取り戻すための戦いは、『アデーレの願い』など、多くのドキュメンタリー映画の題材となった。
そのほか
マーケット
クリムト作品は、オークションで常に最高ランクに位置づけられている。2003年11月、クリムトの《ランドハウス・アム・アッターゼ》は2912万8000ドルで落札されたが、2006年に《アデーレ ブロック=バウアー I》が1億3500万ドルで、2013年に《水蛇Ⅱ》が1億8380億ドルで落札されている。
これまでで最も高額で落札されたドローイングは、1914年から1915年にかけて制作され、2008年にロンドンで505,250ポンドで落札された「Reclining Female Nude Facing Left」である。
しかし、美術品の取引の大部分は、伝統的にグスタフ・クリムトやエゴン・シーレのオリジナル作品を専門にし、単行本展や国際アートフェアに定期的に出品しているヴィーナーローザー&コールバッハーのようなギャラリーを通じて取引が行われる。
2006年8月7日、クリスティーズ・オークションハウスは、マリア・アルトマンとその共同相続人がオーストリアとの長い訴訟の末に取り戻したクリムト作品の残り4点の売却を扱うと発表した(オーストリア共和国対アルトマン事件参照)。
アルトマンの家族の絵画を取り戻すための戦いは、『アデーレの願い』など、多くのドキュメンタリー映画の題材となった。
年譜表
■1862年
7月14日、ウィーン近郊のバウムガルテンで7人兄妹の第2子として誕生。父は貴金属彫金師エルンスト・クリムト、母はアンネ・フィンスター。
■1876年
ウィーンの工芸学校に入学。1883年まで、フェルディナント・ラウフベルガーおよびユリウス・ヴィクトル・ベルガーの下で学ぶ。
■1877年
弟エルンストも同校に入学。二人は写真を基にした肖像画を描いて、1枚6グルデンで売りさばいていて収入を得ていた。これは、人物の正確なデッサンをする能力の向上に役立った。
■1879年
グスタフとエルンストは、友人のフランツ・マッチュとトリオを組んで、美術史館の中庭部分の装飾を担当する。
■1880年
3人は引き続き注文を受ける。ウィーンのストゥラーニ宮殿の天井画用の寓意画4点、カールスバートのクアハウスの天井画等。
■1885年
皇紀エリザベートのお気に入りの別荘、ヴィラ・ヘルメスを、ハンス・マカルトの構想に基いて内装。
■1886年
ブルク劇場の仕事、ブルク劇場の天井と階段を飾る作品で、弟エルンストともマッチュとも異なるクリムト独自の様式を確立、アカデミズムと一線を画する。装飾のテーマは、古代ギリシアからルネサンスまでの美術史であり、さまざまなスタイルを組み合わせた非常に注目に値する一連の肖像画と画像を生み出した。それぞれ独立して仕事をする。
■1888年
芸術的功績により、皇帝フランツ・ヨーゼフより黄金功労十字章を 授けられる。
■1890年
ウィーン美術史館の階段ホールの内装。<ウィーン旧ブルク劇場の観客席>という作品に対して皇帝賞(400グルデン)を受ける。最も初期の肖像画の1つである有名なウィーンのピアニスト、ヨーゼフ・ペンバウアーの肖像画を完成させる。自然主義的な肖像画と様式化された背景を組み合わせたもので、将来の肖像画の基礎となるものだった。
■1892年
クリムトの父死去。後のクリムトと同じく脳卒中の発作だった。弟エルンストも死亡。
■1893年
文化相、クリムトの美術アカデミー任命に対する認証を拒否する。
■1894年
マッチュとともに、大学講堂内装の注文を受ける。
■1895年
ハンガリー、トティスのエスタハーズィ宮廷劇場ホールの内装に関し、アントワープで大賞を授与される。
■1897年
芸術家の反乱が始まる。クリムトは「ウィーン分離派」グループに加わって、その会長に選ばれる。女友達のエミーリエ・フレーゲとともに、アッター湖畔のカンマー地方で夏を過ごすようになる。風景画第一号。
■1898年
第一回「分離派」展のポスターと「分離派」グループによる雑誌「ヴェル・サクルム」の創刊。
■1900年
「分離派」展で87人の教授たちから抗議を受けた絵画「哲学」は、パリ万国博覧会で金メダルを受ける。
■1901年
「分離派」展で新しいスキャンダル発生。今度は作品「医学」の件で帝国議会が文部省に質問状を出す。
■1902年
オーギュスト・ロダンとの出会い。彼はベートーヴェン・フリーズを賞賛する。
■1903年
ヴィネツィア、ラヴェンナ、フィレンツェへの旅。「黄金時代」が始まる。ウィーン大学講堂のパネルはオーストリア絵画館に持ち込まれる。クリムトは抗議する。「分離派」館でクリムト回顧展。
■1904年
ブリュッセルのストックレー邸の壁画モザイクの下絵デッサンを描く。この邸宅は「ウィーン工房」が設計施工した。
■1905年
内閣が大学講堂パネルを返却。クリムトとその仲間は「分離派」を去る。
■1907年
若きエゴン・シーレンと知り合う。ピカソが「アヴィニョンの女」を描く。
■1908年
ウィーン総合芸術展に絵画16点出品。ローマの近代美術館が「人生の三段階」を、オーストリア国立絵画館が「接吻」を買い上げる。
■1909年
ストックレー・フリーズの制作開始。パリへ旅行して、トゥルーズ=ロートレックの作品に大いに関心をそそられる。フォーヴィスムのことも聞き知る。ファン・ゴッホ、ムンク、トーロップ、ゴーギャン、ボナール、マチスなどが総合芸術展に出品。
■1910年
第9回ヴェネツィア・ビエンナーレ展に参加して成功を収める。
■1911年
「死と生」がローマ国際芸術展で一等賞を受ける。フィレンツェ、ローマ、ブリュッセル、ロンドン、マドリッドなど旅行。
■1912年
「死と生」の背景を青い色に塗り換える「マティス」の影響。
■1914年
表現主義の画家たちがクリムトの作品を批判。
■1915年
母の死、クリムトのパレットは暗くなり、風景画は単色に近い様子となる。
■1916年
エゴン・シーレ、ココシュカ、ファイスタウアーなどとともに、「ベルリン分離派」のオーストリア芸術家同盟展に参加。帝国解体の2年前に皇帝フランツ・ヨーゼフが死去。クリムトの死の2年前でもある。
■1917年
「花嫁」と「アダムとイブ」の制作に着手。ウィーンとミュンヘンの美術アカデミーの名誉会員に迎えられる。
■1918年
2月6日、脳卒中で死亡、多数の未完作品を残す。帝国の終焉と、ドイツ・オーストリア共和国およびオーストリア帝国より派生した6カ国の新国家成立。同年、エゴン・シーレ、オットー・ヴァーグナー、フェルナント・ホードラー、コロマン・モーザーも死去する。
■参考文献
・グスタフ・クリムト(TASCHEN)
・https://en.wikipedia.org/wiki/Gustav_Klimt 2019年1月15日
・https://en.wikipedia.org/wiki/Klimt_(film) 2019年1月17日
・https://www.youtube.com/watch?v=QjqjPNgf22U