ジョルジュ・バタイユ / Georges Bataille
エロティシズムやポストモダン哲学に影響を与えた異端知識人
概要
ジョルジュ・アルベール・モリス・ヴィクトール・バタイユ(1897年9月10日-1962年7月9日)はフランスの知識人、作家。
文学、哲学、経済学、社会学、人類学、美術史など幅広い分野で執筆活動していたが、特にエロティシズムや神秘主義、シュルレアリスム、非倫理的なフィクションに関する著作で世界的に知られるようになった。
ニーチェ研究者として知られ、ナチスによるニーチェ思想の濫用を早い段階から非難し、ファシズムを批判する秘密結社「アセファル」をシュルレアリストたちと結成。著作において早くからハイデガーを批判もしていた。バタイユの作品は、ミシェル・フーコーやフィリップ・ソレルス、ジャック・デリダなどのポスト構造主義の知識人たちに多大な影響を与えた。
日本では哲学者よりも 『眼球譚』や『エロティシズム』の作者としてエロティシズムやアンチモラルの知識人としてよく知られ、また彼の本を翻訳した澁澤龍彦周辺らとともに異端作家のように扱われやすい。
重要ポイント
- フーコーやデリダなどポストモダン哲学者へ多大な影響を与えた
- 『眼球譚』でマルキ・ド・サドと並ぶ犯罪文学作家と知られている
- ニーチェの思想を誤用したファシズムやハイデガーを批判していた
略歴
若齢期
ジョルジュ・バタイユは、1897年9月10日、フランスのオーヴェルニュ地域圏のビヨムで、税務官だった父ジョルジュ・アリスティド・バタイユ(1851年生まれ)と母アントワネット・アグラエ・トゥルナルドとのあいだに生まれた。父はのちに盲目になり神経梅毒性麻痺になった。翌年の1898年に家族はランスへ移り、バタイユは洗礼を受けた。
バタイユはランスにある学校へ通い、その後エペルネーの学校へ通った。特に宗教的な厳しさのない家庭環境だったが、バタイユは自主的に1914年にカトリックに改宗し、約9年間敬虔なカトリック教徒の生活を送った。聖職者になると考えていたので、躊躇なくカトリック神学校へ入学する。
しかし、最終的には母親の生活を支援できるだけの職業に就く必要があったため聖職者になることをやめ、その後、1920年代初頭には哲学やニーチェの影響もあって、カトリック教徒であることさえもやめ無神論者になった。
バタイユはパリの国立古文書学校に入学し、1922年2月に卒業。その後、パリ国立図書館につとめていたため文献学者や司書として言及されることもあるが、当時彼がしていた仕事は貨幣に関するの蒐集と研究だった(彼はモンゴル、ベネチア、インドの貨幣に関する研究論文を発表もしている)。
また、国立古文書学校で時代に発表した論文では、中世の手書き写本『騎士団』に関する本文批評だった。バタイユは、韻文を再構成した8つの中世の写本を分類して本文批評作業を成し遂げた。卒業後、バタイユはマドリードにある上級スペイン語学校へ進み、そのころにロシアの実存主義者レフ・シェストフから影響を受ける。
後生の哲学者や知識人たちへの影響
さまざまな雑誌や文学グループの創設者であるバタイユは多岐の方面にわたって執筆活動していた作家であり、特に経済学、詩、哲学、芸術、エロティシズム、神秘主義を主題とした詩、エッセイ、朗読などなどの活動を行った。
ときどき匿名で出版活動を行い、刊行物のなかには出版禁止になったものも多数あった。生存中は世間から無視され、神秘主義思想家としてジャン・ポール・サルトルのような同時代の知識人から軽蔑されていた。
しかし、死後、ポスト構造主義思想の普及に貢献した文学雑誌『テル・ケル』に執筆していたミシェル・フーコーやフィリップ・ソレルス、ジャック・デリダなどのポスト構造主義の知識人たちに多大な影響を与えた。
フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーの現象学論においては、バタイユからの影響がはっきりとに見られる。ジャン・ボードリヤールの作品やジャック・ラカンやジュリア・クリステヴァの精神分析学においてもバタイユからの影響が見られる。
最近では人類学者のマイケル・タウシッグの理論にもバタイユからの影響が見られる。
シュルレアリスムと『眼球譚』
バタイユはシュルレアリスム運動に関心を持ったが、すぐにシュルレアリスム運動のリーダーのアンドレ・ブルトンと仲たがいになったが、第二次世界大戦後、バタイユはシュルレリストたちと慎重に関係を修復する。
バタイユは何人かの脱シュルレアリスト含む社会学大学における非常に影響力のある人物の1人となった。
日本でも彼の人気小説『眼球譚』は1928年にロード・オーシュ(便所神という意味)というペンネームで出版された。10代の男女カップルと二人に誘われた少女の気まぐれな性的倒錯の話である。
出版当初は純粋なポルノ娯楽小説として読まれていたが、一方で徐々にかなり哲学的であり、また人間の心理を深く研究した作品であると解釈されるようになり、バタイユはマルキ・ド・サドの著作物に匹敵するほど「犯罪文学」作家としてカテゴライズされるようになった。
物語は「目」「卵」「太陽」「地球」「睾丸」といったシンボルと連想の拡大に基づいて構築されており、そこにはバタイユが影響を受けたフロイトの精神分析学やシュルレアリスム表現が見られる。翌年、1929年にサルバドール・ダリとルイス・ブニュエルが制作した最初のシュルレアリム映画『アンダルシアの犬』は、眼球譚の影響が見られる。
秘密結社「アセファル」の創設
1936年、人身供犠に関心を持ったバタイユは、首なし男がシンボルの秘密結社「アセファル」を創設する。会員となったのは、ピエール・クロソウスキー、ロジェ・カイヨワ、ジャン・ローラン、ジュール・モネロネ、ジャン・ヴァール、そして日本人では岡本太郎がいた。
結社とともに雑誌『アセファル』も創刊された。アセファルのロゴはアンドレ・マッソンによって制作された。右手に燃える心臓、左手に刀、腹部に迷宮、性器にスカルをもつ無頭の怪人の絵である。
噂によれば、バタイユとアスフェルの会員たちは発足時にお互いに人身御供になることを誓い、バタイユはシャーマン役を希望したり、狂気の恍惚を目指して自ら供物となることを望んだという。
アスフェル活動意図の1つは、当時のファシズムに対する批判だった。創刊号に掲載されたグループのマニフィスト『聖なる陰謀』には「政治の顔をしていたもの、そしてみずからが政治的であると想像していたものは、いつの日にか仮面を脱いで宗教的運動であることを露呈するだろう」というキルケゴールの一節が引用されているが、これにはナチス・ドイツのファシズムに対する批判が含まれているという。
アスフェルではデリダが「反主権」と呼んで公理化しようとしたニーチェ哲学のエポニムを出版した。
バタイユはヘーゲル、フロイド、マルクス、マルセル・モース、マルキ・ド・サド、アレクサンドル・コジェーヴ、フリードリヒ・ニーチェから多大な影響を受けている。また、ムッソリーニやヒトラーらファシストたちのニーチェ思想の歪曲と政治的利用を批判した論文『ニーチェとファシストたち』を1937年 1月『アセファル』誌第2号に発表した。
この記事が発表された当時はファシズムという政治運動がある種の隆盛期だった。ニーチェ研究者としては、ナチスによるニーチェ思想の濫用を早い段階から非難し、著作においてマルティン・ハイデッガーを批判もしていた。
そのほかのバタイユの代表的な作品
ほかに有名な小説としては、死後に出版された『わが母』『マダム・エドワルダ』『空の青』などがあり、これらは近親相姦やネクロフィリア、政治、バタイユの自伝に基づいた出来事を扱ったもので、現代の歴史的現実の暗い部分を描いている。
第二次世界大戦中、バタイユは長文の哲学理論書で、トマス・アクィナスの『神学大全』と似せたタイトルの『無神学大全』を執筆する。本書は彼のこれまで書いてきた3つの哲学理論『内的体験』『有罪者』『ニーチェについて――好運への意志』を内包した構成で、エロティシズム、死、犠牲、笑い、涙といった感情表現を研究したものである。
戦後、バタイユは彼の約30年の仕事を集大成である著書『呪われた部分――有用性の限界』を編集する。この本で論じられている「主権」に対するバタイユ独自の概念は、のちにデリダ、ジョルジョ・アガンベン、ジャン=リュック・ナンシーに影響を与え、彼らの議論における重要なトピックの1つとなった。
プライベート
バタイユは1928年に女優のシルビア・マクレスと結婚。1930年に彼女とのあいだに娘ローレンス・バタイユをもうけるが、1934年に離婚。シルビアはのちにジャック・ラカンと再婚し、1993年に死去。
バタイユはもまた作家のコレット・ペニューと恋愛をはじめるが、彼女は1938年に亡くなってしまう。1946年にバタイユは娘ローレンスを連れてダリア・ド・ボアルネと再婚した。
1955年バタイユは大脳脳動脈硬化症と診断されたが、病気の末期まで知らされてなかったという。7年語の1962年7月9日に死去。バタイユは無神論者だったが、聖マドレーヌ教会堂裏の墓地に埋葬された。
おもな著作物
■参考文献
・https://en.wikipedia.org/wiki/Georges_Bataille 2018年12月14日アクセス
・http://www.rll.jp/hood/tee/rll12_acephale.php 2018年12月14日アクセス
■引用画像
※1:Story of the Eye Paperback – January 1, 2001
※2:https://en.wikipedia.org/wiki/Georges_Bataille